2-5 仏壇の謎

 夢かうつつか。

 五感は休眠状態だったとしても、第六感は働き続けているらしい。

 キッチンの辺りで蠢く念の気配を、私はうたた寝しながら薄っすら感知していた。それが隣室との境の壁を出たり入ったりするのも。

 やはり、何かあるのだろう。


 いずれにせよ硬いフローリングの上では熟睡できるはずもなく、淡い微睡みは徐々に醒めていった。

 ぼんやりしたままスマホを手繰る。有瀬ありせくんから『昼メシは食べてきます』とメッセージが来ていた。時刻は既に昼過ぎだった。


 ベランダでタバコをふかしながら、見慣れない街並みを眺める。

 アパートや市営住宅、古い家に新しい家。私の知らない人々が、知らない生活を営んでいる。

 ほんの近所のことだって分かりはしない。隣の405号室にも、誰か住んでいるはずだけど。ベランダには間仕切りがあり、ここからでは洗濯物が出ているかどうかすら確認できない。

 あれだけ壁際でラップ音があって、隣室には影響ないのだろうか。


 コンビニのレジ袋に残っていたイチゴジャムのパンを一つ腹に納めてから、手荷物に常備している鎮痛剤をペットボトルの麦茶で流し込む。

 空腹より下腹部の鈍痛が厄介だ。集中力を欠く原因になる。

 肩と首とを軽くストレッチして、問題の部屋に足を踏み入れた。やはり昼間はまだ、場の空気が落ち着いている。


 もう一度、クローゼットだった場所を注意深く観察してみる。

 この洋間には不似合いな仏壇があった空間。今やすっかり塞がれて、綺麗にクロスが貼られている。木枠さえなければ、周りの壁と見分けが付かないくらいだっただろう。


 403号室と405号室。死の番号が避けられたことで、隣り合った二つの部屋。

 その境目にあたる場所に、仏壇はあったのだ。


 私はスマホの通話履歴から、一番上にあった『大黒だいこく不動産』の文字をタップした。

 三回目のコールの途中で回線が繋がる。


『はい、大黒不動産です』

無量むりょうです。お世話になります」

『お疲れ様です』


 事務的な男性の声。ジュニアだ。


「ちょっとお伺いしたいことがあってお電話しました。今お受けしている物件のことです」

『どういったことでしょう』

「玄関入ってすぐの洋間のクローゼット跡についてです。これは二年前の事件を機に塞がれたものですよね。当時どんな状態だったんですか?」

『あぁ、あそこ。どれだけ特殊清掃しても綺麗にならなかった箇所です。壁面も床もドス黒い汚れが染み付いて、ひどい臭いも消えなかったそうで』

「そこって、仏壇は置いてありました?」

『仏壇?』


 会話が途切れる。マウスをクリックする音がわずかに聞こえた。


『いや、そういった記録はないですね』

「え? そうなんですか?」

『えぇ、あのクローゼットには洋服がかかっていたようです。それが燃えた形跡もないのに、なぜか汚れと臭いが残っていた。ご遺体や練炭があったわけでもない。原因不明の不可解な物理的瑕疵です』

「クローゼット内の汚れは、事件前にはなかったってことですね。洋服かけてたくらいだから」

『少なくとも、当時の契約者——つまり亡くなった三人のうち最初に住んでいた方が入居される時には、なかった汚れでしたね』

「その人、入居の時は一人だったんですか? 家族と一緒ではなく?」

『そうです。お一人でのご入居でした』


 じゃあ、男に乱暴されていたあの幻影の視点の女性は、いったい誰なのか。間違いなくこの部屋だったと思うんだけど。


「えぇと、その人、入居中に仏壇置いてたかどうかとか……」

『入居中のことは分かりかねます』

「ですよね」

『なぜ仏壇?』

ので。クローゼットの中にあるのを」


 だから、この部屋の心霊現象の原因はあの仏壇の持ち主に関係あるはずなのだ。


「例の件より前には、この部屋での事件や事故や自殺はないんですよね?」

『えぇ、そういう記録はありません』

「事件と言わないまでも、何か妙な出来事とかは」

『私どもは入退居の管理がメインですので、細かいことまでは。ただ、強いて言えば……』


 カチカチと、クリック音。


『事件以前の入居者も、かなり頻繁に入れ替わっていますね。賃貸の契約期間の二年間すら保たないケースが多い。早ければ半年とか、驚くほど短い入居期間で出ていかれる方もいらっしゃったようです』

「なぜ?」

『例えば……体調を崩して失業し、家賃を払えなくなった。事故に遭って身体が不自由になったため、もっと便利なところに引っ越したい。鬱病になり、実家に戻ることにした……などなど、理由はさまざまです』

「どれも霊障の影響と考えられなくはないですね。そもそも負の念を集めやすい立地ではあるんですが、他の部屋ではそういったことはないんですか?」

『えぇ、403号室だけです』


 ううむ。


「ちなみに、隣の405号室って入居されてますよね。そちらでは心霊現象はないんですか? 念の偏りを見ると、405との壁際がんですけど」

『405号室の入居者は例の事件の後に入った方です。事故物件の告知義務は該当の部屋の前後左右まで発生しますので、403号室の事情もご納得の上で入居いただきました。時々ラップ音が漏れ聞こえることはあるそうですが、看過できるレベルだと』


 そうなると、問題はやはりこの403号室なのだ。


「ありがとうございます。もう少し調べてみます」

『一応そのマンションのオーナーさんに訊いてみましょうか。403号室に関して、これまでで気になることはなかったか』

「ぜひお願いします。さすが、頼りになります」

『いえ……では、また何か分かりましたらご連絡します』


 接客態度はともかくとして、事実を端的に捉える合理性において、私はジュニアを信用している。

 「失礼します」と言い合って、通話を終えた。部屋に静寂が戻る。


 整理してみる。

 403号室は、『二年前の集団自殺事件』以前から、短いスパンで次々と入居者が入れ替わっていた。いずれも不幸や心身の不調が原因にある。

 このことから導き出されるのは。

 三人の女性による集団自殺は、代々の住人を苛んできた不可解現象の延長線上にある可能性がある、ということだ。

 類が友を呼び、念が念を引き寄せて増幅した結果、ついに取り返しのつかない悲劇が起きてしまったのかもしれない。

 私自身も体感したばかりだ。ちょっとしたネガティブ思考から、ずぶずぶと深い負の沼に落ちかけた。あれが希死念慮へ変わってもおかしくない。


 クローゼットの汚れや臭いは、二年前の事件で三人同時に命を落としたことがきっかけで、融合した負の念がに焼き付いて具現化されたものだろう。

 その場所に設置されていた仏壇に関わる出来事は、二年前の事件よりももっと前ということになる。

 ただしそれ以前には、表立った事故や事件はなかった。


 残念ながら、私の能力は万能じゃない。

 場に蔓延る念と自分の気を馴染ませて過去の幻影を視たとしても、それが何を意味するのか自然には理解できない。

 事実関係を正確に掴み、物事の時系列や因果を理解した上で、ようやく異能による幻影が重要なピースとして活きてくる。

 そのどちらも、まだ足らない。

 まだ、断ち切り方を掴めない。

 焦りは禁物だ。もう一夜ここで過ごしたら、きっとまた視えてくるものがある。



 有瀬くんが帰ってきたのは、午後三時すぎだった。


「いやー、マジ焦りましたよ!」


 両手に買い物荷物を抱えた彼は、部屋に上がるなり興奮した面持ちで話し始めた。


「駅前のビルの横を歩いてたら、上から鉄筋が落ちてきたんすよ! 直前になんか嫌な予感がして上見たら、ちょうど鉄筋がクレーンから外れるとこで。すぐ横にいたおばあちゃんの手ぇ引っ張ってギリギリで避けたんすけど、その時おばあちゃん転んじゃって。病院連れてったりしたら遅くなりました」

「え……それは無事で良かったね、おばあちゃんも。偉いな有瀬くん」

「いやっ咄嗟のことだったんで! ほんと冗談抜きで危なかったっすよ。直撃してたら完全に死ぬとこだったわー」


 有瀬くんの身体には念が薄っすらと纏わり付いている。彼自身は平気そうだし悪運も強そうだけど、いつ周囲に波及してもおかしくない。霊的なポテンシャルが高い分、キャリアとして念を媒介してしまう。


 私は新たに得た情報を掻い摘んで説明した。


「へぇ……そうなると、俺もあんまり出歩かない方が良さげっすね」

「そうだね。また危ない目に遭わないとも限らないし」

「俺、食料買い込んできたんで、メシも全部ここで作りますよ」


 有瀬くんはまた見事な手際で夕飯を作ってくれた。

 今日のメニューは、寸胴鍋いっぱいの肉じゃがと、きんぴらとお吸い物、そして持参した炊飯器で炊いたごはんだ。


 肉じゃがは、大きめのじゃがいもに薄切り肉と糸こんにゃく、彩りに絹さやが添えてある。沁みるようなコクがあって、炊き立てごはんが進む。

 きんぴらはごぼうとにんじんで、ごま油と醤油が香ばしい。お吸い物はわかめと麩。温かくて、優しい風味だ。


「うん、美味しい」

「マジすか! やった!」


 床に座り込んでの食事だけど、食べにくさも行儀の悪さも気にならない。

 お腹がほっこり温まり、肩の力が抜ける。知らず知らず、身体が強張っていたことに気付いた。空腹だったことにも。


 そして、私はようやく思い出す。


「あの……有瀬くん、今朝はごめん」

「へ? 何が?」


 明るい髪色の頭がこてんと傾げられる。


「私、ちょっとキツい言い方したかも」

「そっすか? どの辺が?」

「朝の私、態度悪かったでしょ」

「えー? でも弐千佳さん、めちゃダルそうでしたし、そーゆー時って仕方ないっすよ。今は体調どっすか」

「あぁ、うん、だいぶマシになったと思う。おかげさまで。ごはんも……ありがとう」

「いやいやいや! 俺、こんくらいしかできないんで! でも弐千佳さんがちょっとでも調子良くなったんなら良かったですっ」


 にぃっと八重歯が覗く。嬉しくて堪らないというふうに。

 未だかつて職務中に感じたことのない柔らかな気持ちが、胸の奥から湧いてくる。

 ……早くこの部屋祓おう。さっさと終わろう。うん。

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