2-4 蹂躙の記憶
とん、とん、とん……
誰かの足音が近づいてくる。
私はぼんやり目を開ける。頼りない常夜灯が、白い天井を暗い橙色に染めている。
視界にノイズがチラつく。次の瞬間。
突然、誰かに馬乗りされ、押さえ付けられた。
着ているものを剥がれていく。指の先まで硬直していた。声一つ出せない。下手に抵抗したら、もっとひどいことになると知っているから。
いつものように、終わるまでじっと耐えるのが最良なのだと知っているから。
ごつごつした手が無遠慮に肌を這い回る。生温い息がかかる。気持ち悪い。背筋が凍る。
無理やり貫かれるだけの痛み。内側から裂かれる。身体だけじゃなく、何もかも。
頭の芯が痺れ始めていた。何も感じずいられたら、一番楽に違いない。
気が遠くなる。目の前が白く、黒く、明滅しながら塗り潰され——
窓から漏れる光もおぼろげな、闇の密度の濃い部屋の中。
白い天井を染める、照明器具の形も同じ。
そう、同じ部屋だった。
床には布団が敷かれている。幻影の残滓だ。寝袋に包まった私は、そこに埋まったような恰好になっている。
身体を横に向ければ、背の低いチェストが目に入る。
更に視線を動かして、どきりとした。
仏壇がある。
それほど大きくはない。
あの、潰されたクローゼットに嵌まり込むような形で。
線香の匂いを感じる。胸の奥がひどく苦しい。
とん、とん、とん……
扉の向こうから足音が聞こえる。先ほど聞いたのと同じ。ゆっくりで重い、たぶん男性のもの。
パチ、パチン!
ラップ音が爆ぜる。負の念が掻き回される。
寝転んだ私の顔の上に何かが落ちてきた。
霊符だ。昨日、壁に貼った。
気付けば、部屋は元通りのがらんどうに戻っている。空気の匂いも無機質。何もかも、嘘みたいに消えてしまった。
私は霊符を払いのけ、寝袋から這い出た。半身を起こすと背骨が軋む。
心臓が早鐘を打っていた。冷や汗が脇の下を伝っていく。
こめかみの圧迫感。下腹部の鈍痛。
誰かの記憶がフラッシュバックして、臓腑の縮む思いがしたけど、この痛みは私自身のものだ。
トイレへ行くと、月の障りが始まっていた。
洗面台の鏡に映った顔は血の気がなく、恐ろしく白い。
この期間は眠気が強くなる。頭の中がぼんやり麻痺したような感覚は、図らずもあの知らない記憶に繋がってしまう。
自我を、放棄していた。
圧倒的な力で捩じ伏せられた、どうしようもない女の身体。
冷たい水で顔を洗う。頬を軽く叩けば、多少の赤みが戻ってくる。
居室へ行き、キッチンの作業台に放ってあったピアニッシモの箱を掴んで、ベランダへ出る。
明けて幾ばくか経った空の色。肌に触れる空気は他人事みたいにひんやりしていた。
タバコに火を点ける。一口目を肺の奥深くまで吸い込んで、限界まで煙を吐き切れば、身の内に溜まった嫌なものが抜けた気がした。
シトラスのフレーバーが爽やかでホッとする。大丈夫、これは間違いなく私の身体だ。
室内へ戻ると、ちょうど有瀬くんも起き出したところらしかった。その大柄な体格に、一瞬ぎくりとする。
「あ、
「……おはよ。今起きたの?」
「そっすよー」
「明け方も? 途中で起きたりしなかった?」
「今日は大丈夫でした。あれを見てください。前回学んだんで、カーテン的な感じにしてみたんすよ」
有瀬くんが寝床にしている、居間と繋がる洋間へと促される。
南西向の窓には、上部のレールからハンガーで二枚の上着が吊るされていた。前回着ていたサイケデリックな総柄のものと、それとは別のサイケデリックな総柄のもの。カーテンだったら絶対に選ばない柄である。
なお、彼が今日着ているのはインクを散らしたような模様の派手なアロハシャツだ。昨日とは違う。
「どっすか! おかげで朝まで超ぐっすり」
輝くようなドヤ顔。昔うちの近所の家で飼われていたゴールデンレトリバーを思い出した。
「それは……いいアイデアだったね」
「へへっ」
二人して居間のフローリングに腰を下ろし、昨日のうちにコンビニで買っておいた菓子パンを齧りながら、気付いたことを報告し合う。
「俺Switcho持ってきてるんで、昨夜もポコモンやってたんすよ。そしたらマジビビりましたよ。途中で画面バグって、見たことねえ変なモンスターが一瞬映って。なんか人間の赤ちゃんみたいなやつ。すぐ電源落ちたんで、あんまりしっかり確認できなかったんすけどね」
「へぇ、赤ちゃんか。前はスマホに変な着信がある現象もあったみたいだよ」
「やべえ、Switchoにも対応してるんだ。幽霊の人とポコモン交換ワンチャンある? レアなやつ持ってるなら欲しいんだけど」
「何を言っている」
どんな世界線なの。
「ラップ音はそこそこあるよね」
「俺の寝てる部屋ではなかったんすけど、寝る前に水飲みにきた時、壁の方で鳴ってましたね。弐千佳さんのいる部屋もだけど、なんか全体的にこっちの方が空気重くないすか?」
有瀬くんが指すのは、隣の405号室との境目となる壁だ。
「確かに。私の部屋も、こっち側の壁に貼った霊符が剥がれた。念の偏りは気になるね。塞いであるクローゼットもこっち側だし、関係ありそう」
「弐千佳さんの方では、何か視えました?」
「……まぁ……」
「どんな?」
私の術や体質について、正式にアシスタントとなった有瀬くんには概要を説明してあった。すなわち霊の念に我が身を浸すことで、最も濃い負の記憶を覗けることを。
しかし今回は内容が内容だけに、どう伝えるべきか迷った。実体験ではないものの、そうと錯覚するほどの感情の揺らぎがまだ色濃く残っている。
「なんていうか……誰かから無理やり乱暴される記憶を、ちょっとね」
「え」
有瀬くんの表情が強張る。
「えっと……自殺した人が、そういう被害に遭ったってことすか」
「日常的にやられてたような感じだったと思う。廊下を歩く足音も聞いた。たぶん男の人の」
「俺、廊下には出てないすよ」
「じゃあやっぱり心霊現象か」
「どゆこと? 自殺したのは女の人が三人でしたよね? なんで男の幽霊がいるの?」
「幽霊とは限らないかも。住人の持つトラウマが念となって、現象が起こることもある。特にこの物件、玄関の方位的にも悪い気を引き込みがちだから、住人の抱え込んだ負の感情も増幅しやすい」
「じゃあ、死んだ三人のうちの誰かの過去の記憶ってこと?」
「可能性はある。三人とも家庭に問題を抱えてたって話だったし」
一つ、息をつく。
「それから、仏壇があった。あのクローゼットのあった場所に」
「へぇ、仏壇かぁ。もしかして、自殺した人たちが宗教にハマってたとか」
「あり得なくはないね」
社会的に弱い女性を取り込むカルト団体も、世の中には存在する。
おかしな考えを吹聴されて、死による解脱を促された可能性はなきにしもあらずだ。
「実は男も一緒に住んでた説あります? 前あったじゃないすか。何人も女の人集めて監禁して、ハーレム作ってた野郎の事件。今回のも、三人を集団自殺に見せかけて殺して、犯人はどっかに逃げてるのかも」
「いや、さすがにそんなことがあったら警察も何か男の痕跡を掴んでるでしょ。仮にもニュースになった件だし、その手の話が何もないってことはやっぱり自殺なんだと思うよ」
「そっかあ」
「でも」
宗教やハーレムという言葉から、連想した。
「何かしら異常な力関係はあったのかも。もし三人が対等な間柄だったら、仮に揉めて上手くいかなくなったとしても『じゃあみんなで自殺しよう』とはならないでしょ」
「そっすね。イジメが起きたり誰か出て行ったりとかはあるかもだけど」
「誰かが他の人を支配してたとか。マインドコントロールみたいに」
とはいえ、『最も濃い負の記憶』にこの部屋で男からレイプされるシーンがあったのは引っかかるところではある。
パチン。
キッチンの端、つまり隣室との境の壁際で、またラップ音が鳴った。こめかみを貫くような頭痛に響く。同時に、下腹部がずしんと痛んだ。
「弐千佳さん、顔色悪いっすよ。大丈夫すか」
「いつもこんなもんだよ。念を身に馴染ませるのに、どうしても眠りが浅くなるし」
生理も来たし。
「良かったら、俺の方の部屋で横んなっててください。こっちならまだマシっすよね。俺、もうちょっとしたら買い物とか行ってくるんで。ゆっくり休んで」
「ありがとう、そうする」
「あっ、そだ、良かったら夜も交代しましょっか。俺たぶん平気なんで」
「……それは」
一瞬、ムッとした。
別に、私自身に何かあったわけじゃないのに。
これは仕事なのだ。私がそんなにヤワに見えるのか。余計なお世話では。
「……自分で仕掛けた術なんだし、責任持って手がかりを回収するのは当然のことだよ。要はさっさと解決すればいいだけの話でしょ」
「んー、そっすか、分かりました。でもあんまり無理しないでくださいね」
有瀬くんはいつも通り、へらっと笑った。
そうして一人きりになった403号室。南東の洋間で寝袋に包まって、もう何度目かも分からない溜め息をついた。
胸の中に嫌なわだかまりが居座っている。
私は何をこんなに苛立っているのだろう。
有瀬くんには素っ気ない態度を取ってしまった。嫌な気分にさせてしまったかもしれない。なぜ私はあんな言い方しかできなかったのか。彼はただ気遣ってくれただけなのに。
だけど、そういう気遣いさえも煩わしいと思えてしまう。
無理なんかしていない。
無理しているように見えてしまったのなら堪らない。
心がささくれ立っていた。
初めから一人で何もかも完結させられるのであれば、こんなふうに他人との距離感のことでモヤモヤしたりしないのに、と。
一人の方がずっと楽だ。
生きている限り、誰かと関わらなければならない。なんて面倒なんだろう。
考えれば考えるほど目の前が暗くなる。
暗くて重い気持ちが、際限なく溢れ出てくる。
生きる気力も湧いてこない。この先も生き続ける意味とは——……
……いや。
ちょっと待て。
私は起き上がると、玄関扉を開け放ち、外へ向けて九字を切った。いつの間にか溜まっていた雑多な念が、残らず散る。
荷物の中から予備の霊符を一枚掴み、例の部屋の壁に気合いを込めて貼り直す。
「うらぁッ」
私はバカか。しっかりしろ。
あの幻影は思った以上にショックだったらしい。生理の時は精神がちょっと不安定になるし、場の性質の影響もある。
だけど、それしきでペースを乱すのはプロ失格だ。今はきちんと心身を落ち着けるべきだろう。
南東の洋間に戻る。この部屋は平穏だ。
カーテンレールに吊るされた派手な上着が、うたた寝には強すぎる日差しを遮ってくれていた。
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