2-3 封をする

「あそこ、クローゼットだったらしい。『事故』によって再生不能なくらい損傷して、塞ぐしかなくなったんだろうね。事故物件だとたまにあるよ」


 もらった間取りを見ても、ここはバツ印が付いている。


「再生不能な損傷って?」

「例えば練炭の煤で真っ黒になったとか、遺体からの漏出物が染み込んで内部までひどく腐ってたとか」

「うぇぇ……」


 今やすっかり封をされて、周囲の壁と同じクロスを貼られたその箇所は、特別な感覚を持たない人にとってはただ謎の木枠があるだけに見えるだろう。

 だけど、湧き出るような禍々しい負の念を、そこからはっきりと感じる。表面を取り繕ったくらいでは誤魔化しきれないほどの強い怨念が、今も色濃く染み付いている。


「原因は明らかにここにある。分かりやすくていいよ」

「まぁ確かに」


 室内には雑多な念が薄っすら滞留していた。それがさっきのラップ音によって掻き回された感じだ。


「この辺に漂ってる念は、事件とは無関係っぽいね。これを見て。玄関が鬼門向きだ」


 私はスマホの方位磁針アプリを起動し、有瀬ありせくんに見せた。

 予め間取り図で確認していたことだけど、実際に計測しても部屋の玄関はやはりぴたりとその方位——北東と重なる。


「鬼門って、やべえ方角なんだっけ?」

「名前の通り、鬼や邪気の出入りする方角のことだよ。このマンション全戸の玄関が鬼門を向いてることになるから、建物そのものが悪いものを集めやすいんだと思う。特に『事故』の起きたこの部屋には、建物内の悪いものが引き寄せられるんだろうね。ひとまず、ざっと祓うわ」


 私は玄関の三和土たたきに降り、扉を開けた。右手の人差し指と中指を立てて刀印を結び、小さく九字を唱えながら格子状に空間を切る。

 するとこの403号室に蔓延っていた念が一瞬のうちに払拭され、外へと出ていった。


「えっ、なんか急にスッキリした! 弐千佳にちかさん何したんすか!」

「簡易的な九字切り。あれくらいのを祓うだけなら、これで十分だよ」

「九字切りって、こないだやってたのもそうっすよね。臨、兵、闘、者……っていう。あれから俺もYourTube見てめちゃ練習したんすよ。臨、兵——」

「ちょっと」


 ぎこちなく印を結ぼうとする有瀬くんの手を、私は素早く押さえた。


「素人が安易に九字を切らない方がいい」


 有瀬くんの視線を、真正面から。すると私よりずっと大柄で力もあるはずの彼が、縛り付けられたようにぴたりと動きを止めた。


「え……なん、で?」

「九字によって神霊の波動を起こすには、ちゃんと鍛錬を積んで自分の気を操る力が必要なんだよ。そうでないと、低級の霊を呼び寄せて己の身に災いをもたらすだけだ」

「う……」

「練習中、気分悪くなったりしなかった?」

「あ……そ、それは、大丈夫……」

「そう。なら良かった」


 する。有瀬くんは弾かれたように身を震わせ、胸元を押さえて大きく息を吐き出した。


「っ……はぁっ……な、何すか今の……写輪が——?」

「まぁ、ちょっとね」


 少し大袈裟だったかもしれない。でも本当に冗談抜きで危険なことだから、お調子者の彼にはきちんと釘を刺しておいた方がいい。なまじ天然で霊感が強いだけに。

 これで多少は懲りるはず、と思ったのだけど。


「ふおおっ……やべえ、超ゾクゾクしたぁ……」


 有瀬くんは惚けたような目でこちらを見つめている。


「もっかいやってください弐千佳さん」

「ドMか」


 更なる責め句が口をついて出そうになったけど、これ以上に悦ばせても癪なのでやめておいた。


 私は荷物から霊符を四枚取り出し、そのうち二枚を有瀬くんに渡す。


「居間の掃き出し窓の上と、その隣の部屋のサイドの壁に貼ってきて」

「はいっ」


 私の方では一枚を自殺現場の部屋の壁に、そしてもう一枚を鬼門の玄関扉に貼る。いずれも強めに気を込めた。


 その後、手分けして部屋の掃除をした。フローリングワイパーと吸着モップで埃を払って、ベランダから掃き出して空気を入れ替える。

 トイレや風呂も綺麗だ。やはり独立した浴室がいい。方位的なことや事故物件であることを差し置けば、間取りも立地も良い部屋だと思える。

 それだけに、オーナーもおかしな評判で入居者を減らしたくないのだろう。


「あぁっ⁈」


 玄関の方で有瀬くんが声を上げたので、私は廊下に顔を出した。


「どうしたの」

「今、三和土んとこ掃除してたんすけど、靴持ち上げた瞬間に下駄箱の扉が開いたんすよ! 勝手に!」

「あぁ、心霊現象の一つかも。これだけ霊の通り道みたいになってると、いろいろあるだろうね」

「やべえ、わざわざ開けてくれたんだ……超親切じゃん幽霊の人」

「ポジティブすぎる」


 こういう人がここに住んだら良いんじゃないだろうか。



 夕飯は、マンションから車で十分ほどのところにある回転寿司チェーンで摂ることにした。

 今回もカウンター席に横並びである。


「明日は俺、食材調達してきて何か作りますね。今日はキッチンの感じも分かんなかったんで」


 有瀬くんは開幕から良いペースで寿司を食べている。

 レーンを回ってくる寿司のカバーを外して皿を取り、二貫を次々口へと運び、空になった皿を返却口へ入れるまでの流れが実にスムーズだ。

 投入した皿があっという間に五枚に達し、目の前のタッチパネルではゲームが始まる。女の子のキャラクターが射的を失敗し、『はずれ』の文字が表示された。当たればガチャポンが出てくるシステムだ。


「あー残念ー」


 私は一皿目に注文した炙りチーズサーモンがやっと届いたところだった。最初はこれと決めている。


 平日の夕方で、店内は空いていた。レーンを挟んだ向こう側のボックス席には幼児を連れた家族がおり、せわしない様子で食事をしている。あちこちでタッチパネルの音声が上がり、適度なざわめきだ。


「弐千佳さんがやってるみたいなすげえ術って、俺も忍者の里で修行したら使えるようになるんかな」

「忍者の里とは」

「弐千佳さんの故郷」

「いや、あのね、たぶん想像してるのとはだいぶ違うと思う。表から見たら一般家庭と変わらないし、隠れても忍んでもないし。家系的に異能者が多いから、力の使い方を間違えないように小さいころから日常の中で訓練させられてたってだけで」

「家系って、忍者の?」

「ご先祖はね。陰陽師系統の秘術を使う一派だったらしい。除霊関係の仕事をしてる親戚も多いよ。うちもそうだったし」

「何にしてもカッケェ」


 注文したカリフォルニアロールが私の目の前にやってくる。シャリにまぶされたとびこが色鮮やかだ。


「有瀬くんさ、お父さんに弟子入りしたら良いんじゃないの。すごい法力使いなんでしょ?」

「いやー……」


 有瀬くんの席のモニターがまたゲームの画面になった。お殿さまみたいなキャラが競走に負けて、『はずれ』の文字が出る。「あーダメかぁ」と、彼は頭を掻く。


「うちの兄貴たち、超優秀なんすよね。親父も昔から二人にはすげえ期待かけてて。一番上の兄貴は寺の後継ぎに決まってるし、二番目の兄貴は超大手企業のエリートだし。俺は昔からバカで何も期待されてなかったから、頑張っても頑張らなくても一緒だったんすよ。だから、なんかもう今さらっつーか」

「そんなことないでしょ。バカとは思わないけど」

「そんなことあるんです。なんつーかね、兄貴たちに対するのとおんなじノリで来られても、もう絶対無理なんで」


 シャープな輪郭の横顔には、普段と変わりない緩い笑みが浮かんでいる。


「あっ、でもおかげで弐千佳さんに出会えたから、結果オーライかな!」


 にぃっと、八重歯が覗く。


 私は返事の代わりに口角を上げてみた。こういう時の表情筋の動かし方がよく分からない。

 なんとなく手持ち無沙汰で、溜まっていた皿を返却口へ入れた。モニターで展開されたゲームの結果は、やはり『はずれ』だった。


「弐千佳さんは、きょうだいとかいるの?」

「あぁ、うん。兄が一人」

「へぇ、奇遇っすね。弐千佳さんのお兄さんなら、やべえイケメンだろうな」

「うーん……どうだろうね」


 意図したわけでもなかったけど、トーンがやや下がった。そのおかげか、有瀬くんはそれ以上に詳しいことを訊いてこなかった。

 私たちはただ肩を並べて寿司を食べ、皿五枚で一回できるゲームで『はずれ』を出し続けた。

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