2-8 生業
仏壇の置かれたクローゼットは、木枠の残る白い壁へと戻った。
現実世界はすっかり黄昏時だ。禍々しい気配は嘘のように消失している。
ただ、私の胸には決して小さくない痛みがあった。
セーラー服姿だったあの女の子は、今、どうしているのだろう。
目の前にタオルが差し出される。部屋に置いた私の荷物からはみ出していたものだ。
「
「……え?」
「泣かないで」
そう言われて顔に触れ、頬が濡れていることにようやく気付く。
……マジか。
受け取ったタオルを目元に押し当てながら、敢えて平坦なトーンで言う。
「ごめん、ありがとう。これをやると、お腹が痛くなりすぎるのが難点でね……」
「もう大丈夫すか」
「うん。念も全部消えたでしょ」
代わりに、鼻を衝くような
「ごめん、ひどい臭いで。離れた方がいいよ」
「別に気にならないっすよ、こんなの」
即答の後、一瞬の間があった。
「なんで……弐千佳さんはどうして、そんなキツい思いをしてまで、念を浄化するんすか」
涙を拭う手を止めて、視線を上げた。
千々に乱れていた気持ちが、すぅっと収束する。
今さら何を問うのか。
「だって、私はこれを
生きるための
生きながらの
どちらとも言える。きっと、生まれた時から定められていた。自分の在り方として、確固とした自負もある。
だからこそ、この痛みも受け入れるべきなのだ。
あぁ、痛みと言えば。
「あのさ、さっき有瀬くん、何かした?」
「へ? 何かって?」
「背中さすってくれたでしょ。あの時、急に痛みがなくなったから」
「あー、すんません勝手に触っちゃって。あんまり辛そうだったんで、つい」
考えてみたら前回の案件の時も、幻影を視たあと意識にモヤがかかったような状態だったのが、有瀬くんに触れられて急にクリアになったのだ。
そもそも彼自身、これほど精度の高い霊的感覚を持ちながら、一切の霊障を受けずに平然とここにいる。何かしらの特異性があることに間違いはないだろう。
「手、見せてくれる?」
「手?」
こちらへ向けられた両手を掴んで引き寄せる。
骨っぽくて指のしゅっと長い、大きな手だ。体温が高い。
でも、やたらと生命線が長いくらいで、特段変わったことは感じられない。
「うーん、気のせいじゃないと思うんだけどな」
「うん、気のせいとかじゃないっすね。もうガチなやつかもしんないです」
有瀬くんは逆に私の手を取って、ぎゅっと握り締めた。どことなく頬が紅潮しているようにも見える。
私は手を振り解き、目を眇めた。
「何の話なの。そうじゃなくて、有瀬くんに負の念を弱めるような能力があるんじゃないかって思ったんだよ」
「俺に? えー? いやいや、よく分かんねえっすけど……俺、明るいのだけが取り柄で、何もできないんで」
はは、と軽い笑み。
私はなぜだか苛立った。
そう、有瀬くんはいつでも明るい。何があっても明るい。だからきっと、自然のままで負の念にも克ち得るのだろう。
私のように、己の身を苛む術を使わなくとも。そんなものを、わざわざ身に付けなくとも。
羨ましい、と思う。マイルドな言い方をすれば。
何も知らずに九字切りの真似事をするような無邪気さが。
私はどうにか溜め息と共に吐き出した。
「ともかく……ありがとう。有瀬くんがいてくれて助かった」
「ふぇっ? いやっ、なんかほんと、俺の力かどうかぜんぜん分かんねえんすけど! とりあえず弐千佳さんの痛いのがなくなったんなら何よりでした! うんっ!」
八重歯が覗く。何の屈託もない笑顔だ。
あぁ、ひどく調子が狂う。
この子とは本当に噛み合わない。
やっぱり一人でこの部屋に篭ってやれば良かった。
今までだって、いつも一人で痛みに耐えていた。そういうものだと思っていたのに。
「なんか……お腹空いた」
「んじゃ俺、メシ作りますね!」
有瀬くんは元気よく部屋を出ていった。
私も続いて立ち上がる。最後に少しだけ残っていたらしい澱みが、こぽりと膣から吐き出される。
トイレで確認すると、夜用羽つき四十センチが端から端までどす黒い経血で染まっていた。半分以上はナプキンに吸収しきらず、タール状の汚物が浮いている。
改めてゾッとした。
あんなに小さな魂が、いったいどれほどの念を背負わされていたのだろう。
あの女の子が、どれほどの痛みを抱えていたのだろう。
文字通り憑き物が落ち、月のものも早々に終わった。
もう一度シャワーを浴びながら、セーラー服の彼女を想う。
恐らく彼女が意図せずこの場に残してしまった呪い。場を離れても、呪いが本人の魂に紐付いて悪い運命から逃れられなくなってしまうことがある。
傷痕は消えずとも、今の彼女を取り巻く風向きが少しでも良い方へ変わればいい。私にはそれを祈ることしかできないけど。
下腹部にかすかな違和感が残っている。まるで幻肢痛のように。
身体を提供しただけで、私は私だ。線引きはできているつもりだった。
だけど、頬を流れ落ちていく温い湯に涙が混じっていたのかどうか、自分でもよく分からなかった。
さっぱりしたところで、あのクローゼット痕に封印の処置を施した。清浄な気を込めた霊符が、異界への扉を封じてくれる。この上から更に板で蓋をしてもらえば、目立たないはずだ。
リビングダイニングへ戻ると、有瀬くんがキッチンに立っていた。
「あっ、すんません、もうちょいかかります」
「今日の夕飯、何?」
「もうラストなんで、残りもん全部ぶっ込んだ炒め物です」
コンロの上のフライパンが、見事な手首のスナップで振られる。刻まれた肉や野菜が縁で跳ね上がり、フライパンの中央に着地する。
炊飯器からは蒸気が上がり、甘く優しいごはんの匂いが辺りに漂っている。
この部屋、こんなに暖かかっただろうか。頭の中がふわふわしてくる。
「弐千佳さん、顔色良くなったね。ほっぺたピンクい」
「……湯上がりだからね。ちょっと眠いし、気が抜けたかも」
「良かったー。ずーっと気ぃ張ってたでしょ。俺だったら保たねっすよ。やっぱ弐千佳さんすげえわ」
「まぁ、仕事だしね」
床に直置きで並べられたのは、豚肉と野菜の炒め物とお吸い物と白飯だ。
差し向かいで座って、同時に手を合わせる。
「いただきます」
玉ねぎとにんじんの香ばしさと、肉の脂の甘み。塩胡椒だけの味付けが、シンプルに食欲をそそる。汁もごはんも温かくて、お腹に沁みた。
「うん、美味しい」
「あざっす」
へらっと笑う有瀬くんの顔を見て、ふと思う。
「家って、本来こういうものなのかもね」
「というと?」
「リラックスして、あったかいごはん食べて……安心してゆっくりできる場所、みたいな」
だけどあの子はずっと、自分の部屋の片隅で震えて過ごしていた。
「そうだったら、良かったよね……」
「そっすね、次この部屋借りる人は絶対大丈夫っすよ!」
「え?」
「だって弐千佳さんが綺麗に浄化したし。もう絶対この部屋で危ないこととか起きないでしょ」
一瞬、呆気に取られてしまった。
「……ふふっ」
「えっ? 何?」
「何でもない」
ペースが狂い通しだ。沈み込む隙もない。こんなの不謹慎じゃないか。
「えー、教えてくださいよー」
「内緒」
でも、もしかすると。
これで良かったのかもしれない。一人だったら、抱え込むべきものを抱え切れないことに罪悪感を抱いただろうから。
くすぐったいものが鳩尾の辺りからこんこんと湧いてくる。それがなんとなく心地よかった。
手分けして片付けをしたら、部屋はすっきりと元通りだ。私たちが過ごした痕跡はもう影も形もない。
だけどまだ、炊き立てごはんの湯気の匂いがほんのり残っていた。きっとそれも、すぐに消えてしまうだろうけど。
「じゃあ、今回もお疲れさま」
「お疲れでーす!」
そうして私と有瀬くんは、エルミタージュⅡ 403号室を後にしたのだった。
—#2 集団自殺アパート・了—
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます