1-9 願いと成仏

 この結界内は、私の気を張り巡らせたテリトリーそのものだ。大抵のことは思い通りになる。

 そのはずだった。


「パスタを作る? 今? ここで? は? ごめん、ちょっと何言ってるか分かんないんだけど」

「電気コンロ使えますよね? あっ、もしかして今のこの感じだと無理だったりとか?」


 有瀬ありせくんが指した部屋は、過去の風景と重なった状態だ。


「ベースはあくまで現実だから、できなくはないけど」

「んじゃパパッと作っちゃいますんで。ミホコさん、台所借りまーす」

『えっ? は、はい、どうぞ……』


 手に提げたままだった大きな買い物袋と共に、能天気なチャラ男は台所に立つ。

 取り残された私とミホコさんは、思わず顔を見合わせる。


「なんかごめん、うちのアシスタントが」

『い、いえ……』


 彼女の涙はすっかり引っ込んでいた。


 そうして唐突に始まる有瀬'sキッチン。


「うーん、コンロ一個しかねえもんな」


 まず彼は新品の調理用具をざっと洗った。寸胴鍋には水を張り、電気コンロに乗せる。


「あれっ? 火が入らねえ」

『すいません、そのスイッチちょっと癖があって』


 ミホコさんは颯爽と台所まで進み出ると、コンロのスイッチを勢いよく回した。かちりと軽快な音がして、電熱線に通電する。


「あざっす!」

『いえ』


 その瞬間に室内の気が揺らいだので、私は軽く腹に力を入れて空間の接続を維持する必要があった。

 いや、何これ。


 鍋を火にかける間、有瀬くんはわずかな調理スペースにプラスチック製の薄いまな板を置き、大葉と玉ねぎとニンニク、豚肉を見事な手際で刻んでいった。

 沸騰した鍋に塩少々とパスタの乾麺を投入。茹で時間は五分ほどとやや短い。

 パスタを湯切りする一方で、空いたコンロにはフライパンを置き、先ほど刻んだ具材を炒め始める。

 ニンニクの良い香りが立つころ、茹でたパスタが加えられた。


『すごい、あっという間……えっ、醤油?』

「そう、ニンニクと醤油で豚肉に合うんすよー」

『えー、美味しそう』


 ミホコさんは興味津々で有瀬くんの手元を覗き込んでいる。何これ。ほんと何これ。

 最後に刻んだ大葉を和えると、有瀬くんは完成した和風パスタをの紙皿に分けた。


「はい、お待ちどおさま!」


 部屋の真ん中にあるローテーブルに、当然のごとく三人分のパスタとフォークが並べられる。

 困惑したのがミホコさんだ。


『えっと……さすがにあたし、食べられませんよね。もう死んじゃってるし』


 寺の三男坊は紙コップも三つ並べて、ペットボトルのお茶を注いでいく。


「食えるか食えないかは問題じゃないっすよ。ミホコさんがここにいるから、ミホコさんの分もごはん出すんです。ほら、仏さまにだって毎日朝晩お供えするでしょ。あれとおんなじで」


 何一つ屈託のない、まっすぐの言葉だった。


『……ありがとう』


 先ほどまでこんがらがって澱んでいたミホコさんの気が、すっと自然に解けていくのが分かった。


 かくして三人でテーブルを囲み、手と声を合わせる。


「いただきます」


 フォークでパスタを巻いて、一口。

 最初にニンニクがふわっと香る。続いて、醤油と大葉の風味が豚肉の甘みを引き立てる。麺も程よくアルデンテで、良い歯応えだ。


「あ、美味しい」

「マジすか、やった!」


 五臓六腑に染みる。意識の外に追いやっていただけで、実は私も空腹だった。

 食べることは、生きることだ。生きている身体が、ほっと優しい熱を抱く。


「あーこれ、もうちょいニンニク効かせても良かったかなー」

「そう? 私このくらいが好きだよ」

「覚えときますっ」


 ミホコさんが控えめにそっと微笑んだ。


『いいな、美味しそう。すごくいい匂いがします。有瀬くんがお料理してるとこも、見てるだけで楽しかった。あたしも食べたい。羨ましい』


 ずるい、ではなく。

 羨ましい、と。


『あたしも、もう一度ちゃんと生きたいな。生まれ変わったら、美味しいものも食べられるかな……』

「食えます! 絶対に!」


 即座に迎え撃った百パーセントの善意が、今度は彼女の笑顔を大きく弾けさせる。それはそのまま、くしゃくしゃの泣き顔に変わった。


『ありがとう……あたし、死ぬ前も死んだ後も、楽しいことなんて一つも考えられなかったけど……もしかしたらに幸せが待ってるかもって、初めて思えました』


 ミホコさんの頬を、大粒の涙がいくつもぽろぽろ零れ落ちる。

 その身体が、透け始めていた。

 輪郭の端からきらきらと光の粒が立ち昇っていく。


 思いも寄らないことが起きている。いつもなら思いのままのテリトリー内で。

 それは思いのほか、私の胸を温めた。


 視界の端で、何かが光った。あの御守りの、縫い取りの銀糸だ。大家さんが彼女に渡した。厄介ごとから彼女を守ってくれますようにと、想いを込めた。

 私はそれを拾い上げ、持ち主に返す。


「ミホコさん、きっと来世は良いことがあるよ」


 確証なんて何もないのに、気付けば自然にそう口にしていた。

 ただの、私の願いだった。


 ミホコさんは御守りをしっかり抱いた。

 ありがとう。消えゆく唇がそう動く。

 だけどもう、声は聞こえない。


 私は改めて印を結んだ。従来ならば、場に染み付いて離れない霊の負の念を断ち切るためのものだ。

 だけど今日切ったのは、私自身がこの部屋に張った結界の境界線だけだった。


 知らなかった。

 自ら望んで昇っていく魂が、これほど美しいなんて。



 ミホコさんの姿がすっかり見えなくなると同時に、部屋の様子も元に戻った。


「おわっ!」


 有瀬くんはローテーブルに載っていたパスタの紙皿のうち、私とミホコさんの分を見事にキャッチした。既に空になっていた有瀬くん自身の皿だけが、からりとフローリングに落ちる。


「マジか、急に何もなくなった……あっ、これが成仏ってこと?」

「そうだよ」


 私らしくない。

 いつもは消化しきれない負の念の残骸を浴びながら引導を渡すのに。

 あぁ、本当に調子が狂う。

 でも——


 有瀬くんがにぃっと笑った。


「お疲れさまでーす! 無量むりょうさん超カッコ良かったっす!」


 ……でも、悪くない。


 その後、残ったパスタを二人で分けて平らげ、後片付けをした。

 四方の壁から霊符を剥がして荷物やゴミを纏め、フローリングワイパーをかければ、完全に元通り空っぽの部屋となる。もう霊の気配は微塵もない。


「終わったぁ!」

「お疲れさま」


 私は隣で大きく伸びをする有瀬くんを見上げた。


「体調は? どこかおかしいとこない?」

「ぜんぜんっすよ。腹も膨れて元気いっぱい」

「そう」


 最初に採用したアシスタントは、私のテリトリー内で上手く霊の姿を捉えられなかった。

 先々月辞めた二人目は、悪霊と同じ場にいるだけで強い霊障を受けて、常に具合悪そうにしていた。

 だけどこの子は平然と自由に動き回った上、霊に対して正の気をもたらし、結果スムーズな浄化を促した。

 もしかして、かなりの逸材なのでは。


「今回はありがとう。おかげでずいぶん楽に終われた」

「すんません、俺ほとんど何もやってないっす」

「そんなことないよ。本当に助かった。次もまたお願いしていいかな、有瀬 安吾あんごくん」

「……うえぇっ?!」


 突然の素っ頓狂な声。


「名前っ! 最初に一回言っただけなのに覚えててくれたんすね!」

「え? 先輩から紹介の話受けた時点で聞いてたし」

「あのっ、無量さんの『無量』って苗字っすよね? 下の名前はなんていうんすか?」


 名乗る必要性はあるのか。だけど名乗らない理由もない。


「……弐千佳にちか。無量 弐千佳。それが私の名前。これからよろしく、有瀬くん」


 正式に私のアシスタントとなった彼は、みるみる目を見開いた。


「む、無量さんが、笑った……?」

「いや私だって笑うくらいするわ」

「えっ、まぁ、そうなんすけど……やべえ、なんか、予想外っつーか」

「失礼な」

「いやっ! 違うっ、違うんすよ、そうじゃなくって、えっと……」


 有瀬くんの頬がかぁっと紅潮していく。次の瞬間、金髪頭が勢いよく下がった。


「こっ……こちらこそっ! よろしくお願いしますっ!」


 鼓膜を直撃する声量。そのうちに脳震盪でも起こしそうだ。


「近所迷惑になるから静かにね」

「はいっ」


 パァァァァ……!

 効果音を付けるとしたら、やはりそうとしか考えられない満面の笑みである。


「弐千佳さんかぁ、名前かわいっすね。弐千佳さんって呼んでいっすか?」

「は? なんで? 別に苗字で良くない?」

「えー」


 悪くはない。悪くはないけど、一緒にいて疲れる相手であることに違いもない。

 少々先が思いやられつつ、私は有瀬くんと共にメゾンソレイユ203号室を後にしたのだった。



—#1 首吊りアパート・了—

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