1-8 死んでも苦しい

 私は女の亡霊の目を覗き込み、柔らかく囁きかける。


「ねぇ、少し話できるかな」

『えっ……?』

「名前、教えてくれる?」

『あ、あ、あの……ミホコ、です』

「ミホコさんか。可愛い名前だね」

『はっ、はい……』


 ミホコと名乗った彼女は、ぽぅっと頬を紅潮させた。


 有瀬ありせくんが声を上げる。


「ちょっ、無量むりょうさん! なんでいきなり口説いてるんすか」

「いや普通の会話でしょ」

「てか、そもそも触ったり喋ったりできるんすね」

「私の術中ならね」


 一方のミホコさんは熱に浮かされたような表情で、私と有瀬くんをきょろきょろ見比べている。


『タイプの違うイケメンが二人……?』

「厳密に言えばイケメンに該当する人間はこの場に一人も存在しない」

「ひどくないすか」


 まぁ、好みは人それぞれだけど。


「私は無量で、こっちは有瀬。大家さんから依頼を受けて、この部屋で起きる心霊現象を調べてるの」

『大家さんから?』

「ミホコさんの魂は、成仏できずにこの203号室に残ってしまっている。もし何か未練や無念があるのなら、断ち切る手伝いをさせてもらえるかな」

『えっ……』


 ミホコさんの視線が、私の背後にある彼女自身の部屋へと逸れた。

 すぅっと喜色が消える。夢から醒めた、そう形容するに相応しく。


『そっかぁ……』


 手に取るように分かる、ずぶずぶ沈んでいく彼女の情緒。再び湧き立ち始めた念を、私はもう一度軽く祓う。


「何か辛いことがあったの?」


 返答はない。


 有瀬くんが私と並んで腰を下ろした。


「ストーカーの話、俺も聞きました。相当怖かったっすよね」


 ミホコさんの瞳が揺れた。顔が蒼い。現実より彩度の低い霊体でも分かるほどに。


『ご、ごめんなさ……』

「ミホコさんが謝る必要なんてないっすよ。悪いのはストーカー野郎なんだから」

『いえ、あの……』


 あぁ、やっぱりそうか。


「『ごめんなさい』っていうあなたの声、何度か聞き取ったよ。強い罪悪感の念と一緒にね。あれは、大家さんに謝ってたんだよね?」

「ん? 大家さんとストーカー、なんか関係あるの?」


 百パーセントの無邪気や善意は、時に害となり得る。今の有瀬くんはまさにそうだ。

 案の定、ミホコさんは黙ってしまう。

 だから私は告げざるを得なくなる。


「ストーカーなんて、本当はいなかったんじゃない?」


 ミホコさんが弾かれたように顔を上げた。


「作り話、だったのかな?」


 長い髪が垂れ、ぼそりと呟きが漏れる。


『……はい』


 戸惑っているのは有瀬くん一人だ。


「えっ? なんで? どゆこと?」

「まず、玄関の鍵。ストーカーに怯えてたなら、わざわざ開くのはおかしいでしょ」

「あー確かに。引っかかってたんすよね、それ」

「部屋から出たいってことなのかと思ったんだけど。大家さんの話では、生前のミホコさんは引っ越す気がなさそうだった。死んで霊体となっても、ここに居座って『鍵が勝手に開く現象』を起こしていた。恐らく、『ストーカー被害に遭ってる』ように見せること自体に強い拘りがあるんじゃないかな」


 何が彼女をそうさせたのかは分からないけど。


「それから、有瀬くんが隣の部屋で感知した嫌な気配。ミホコさんがここから覗いてたんだよ。特別な執着を持った状態で」

「えっ……えぇっ?」

「あの壁の穴、向こう側からだと気付きにくいし、クローゼットに物があったら覗いたところで何も見えない。でもこっち側は、暗いクローゼットの中で光漏れしてたら比較的見つけやすい」


 穴のある箇所を気にする彼女の姿を視たことと、有瀬くんからの報告が発想の転換点だった。


「じゃあ逆にミホコさんがストーカーだったってこと?」

「うーん、どうなのかな。ミホコさん、お隣さんと何かあったの?」


 ミホコさんは今にも泣き出しそうに俯くばかりだ。


「私たちは部外者だから、誰かにこの話を漏らすメリットもない。話したくなければ無理しなくていい。でも、独りで抱え込み続けるのも辛いでしょ。もし話すことで気持ちが軽くなるなら、いくらでも聞くよ」


 どちらにせよ祓うわけだけど。

 敢えてさっぱりしたトーンで言ったのが良かったのか。


『あの、長くなるんですけど——』


 そうしてぽつぽつと、彼女の打ち明け話は始まった。



 ミホコさんが新卒で入った会社は、大手の損害保険会社だったそうだ。

 入社三年目、彼女は先輩からとある保険代理店の営業担当を引き継いだ。優秀さを見込まれての、大きな担当先だった。

 しかし先方からすれば、男の中堅社員の後任担当者が女の若手社員。軽んじていると取られたのか、すぐに既存の契約をいくつか切られてしまった。

 そこから上司のパワハラが始まったという。


『お前のせいで契約がめちゃくちゃになった、努力が足らない、給料泥棒だと……新規契約を取るまで帰ってくるなと言われたりしました』


 半期を過ぎるころには、心身ともにボロボロになっていたらしい。


『同期に愚痴ったりもしましたけど。他のみんなは、失敗しても先輩や上司がフォローしてくれる環境で。羨ましいを通り越して、ずるいと思えました』


 どうして自分だけが、と。


『体調もずっと悪くて。残業で終電近くなったある夜、ひどい眩暈を起こして、アパートの階段で動けなくなりました。その時たまたま助けてくれたのが、隣の部屋の男性だったんです』


 まるで運命のように感じたという。

 しかし仕事のことで手一杯の彼女には、積極的にアプローチする心の余裕はなかった。


『……壁の穴を見つけたのは、ただの偶然でした。覗きが良くないなんて百も承知でしたけど、魔が差しちゃったんですよね』


 甘い毒。

 気付かれることなく意中の相手を観察できる。背徳感は興奮を煽り、仕事のストレスを忘れさせた。


『でもね、彼女いたんですよ、その人』


 当然、見たくないものまで見えてしまう。


『ひどい運命の巡り合わせだと思いました。あれだけ仕事でサンドバッグにされた上、ささやかな楽しみすら台無しにされるなんて。だから隣に女が来てる時にわざと騒がしくしたんです』


 既にマトモな精神状態ではなかったのだろう。その後、騒音の注意喚起の文書がポストインされたことで、彼女は更に苛立ちを募らせた。


『たかだか騒音くらいで、苦情を訴えて対処してもらおうなんてずるい。彼女いるくせに。あたしなんか、あんなに責められても独りで耐えてるのに。あたしの方がずっとずっと不幸なのに』

「それでストーカーの騒ぎを?」

『……誰が見ても疑いようのないくらい不幸にならなきゃって思ったんです。あわよくば隣の彼に容疑がかかれば、いい気味だなって』


 不幸のマウント。とんでもなく不毛に思えるけど、そうでもしなければ自意識を保てなかったのだろう。毒どころか、心を麻痺させる劇薬だ。

 『ストーカー』という発想は、彼女自身がストーカーめいた行為をしていたからこそ出てきたものかもしれない。穴のことを言わなかったのは、塞がれたら彼女自身が困るからだ。


『鍵を開けられたって話を作って、警察に行きました。でも証拠も痕跡もないし、大した問題にはなりませんでしたけど。念のため鍵を交換しようということになって……その時、大家さんと顔を合わせたんです。親身に話を聞いてくれて、ストーカーのことも真剣に心配してくれて。後日、鍵の交換が終わって様子を見に来てくれた時に、これをもらったんです』


 ミホコさんがポケットからあるものを取り出す。例の御守りだ。


『「戸締まりしっかりしてね、ごはんもちゃんと食べるのよ」って。実家の母親を思い出しました……』


 ——ちょうどうちの娘と同じくらいのお嬢さんでねぇ。


 それまで淡々としていた彼女の声が揺らぐ。


『急に目が覚めました。他のみんなが周りから優しくされるのを、ずるいって思ってたのに。大家さんが優しくしてくれて、すごく苦しくなりました。あたし、何してるんだろう。こんな親切な人に……お母さんみたいな人に嘘の話をしてまで、って』


 透けた頬を、一筋の涙が伝っていく。


『いっそのこと、ストーカーが本当だったら良かったのに』


 勝手に鍵が開くという現象は、その歪んだ願いの表れだった。


『そんなどん底の時に、お隣から楽しそうな声が聞こえてきて。あたし、次の日は仕事で。なんか、全部虚しくなっちゃって。あぁ、もういいかなって……』


 死は救いになり得る。危ういラインの上に立つ人は、ちょっとしたはずみで生から死へと境界線を踏み越えてしまう。


『……後からこの部屋に入居した人たち、みんなあたしより幸せそうでした。ずるいと思いました。ここはあたしがストーカーに遭うべき部屋なのに』


 その捻れた想いこそが、彼女の魂をこの部屋に繋ぎ留める鎖なのだ。


「話してくれてありがとう。大変だったんだね」

『……はい』


 だけど彼女は一つ勘違いをしている。


「大家さん、言ってたよ。あなたには厄介なことから逃げる気力もなかったのかもしれない、って。それは何もストーカーの件に限ったことじゃない。この部屋で被害に遭ったのに、出勤しやすいからって引っ越しも選べないほどに擦り切れて、身動きも取れない……そんなあなたのことを、心配してた」


 ミホコさんは小さく目を瞠り、手にした御守りへと視線を下げる。そこへ、ぱたぱたと雫が落ちた。


『そっか、そうですよね……仕事、すっぱり辞めたら良かったのにね。あたしほんと何やってたんだろう。馬鹿みたい……』


 自嘲めいた泣き笑いがこぼれる。

 彼女の様子に、意図せず胸が詰まった。


「でもミホコさん、そんなの、言うほど簡単じゃないよね。逃げるのだって、ものすごい勇気と体力が要る」

『……大手の企業に就職して、母親がすごく喜んでくれたんです。女の子なのにすごいって。うち、ド田舎だから』

「そっか……がっかりさせちゃうかもって思うとね。次の仕事がすぐ見つかるとも限らないし」

『大きな担当先を任された時、嬉しかった。ちゃんと期待に応えなきゃ、頑張らなきゃって……』


 抱えた膝に突っ伏した霊体は、押し殺した嗚咽を漏らしている。

 やるせなさを感じた。だけど、もう過ぎてしまったことだった。

 今や彼女のはかなり薄れていた。

 冷静な思考が戻る。そろそろだ。


『死んだら楽になれると思ったんです。でも、死んだって良いことなんか何もなかった』

「ミホコさんは十分苦しんだよ。今、解放してあげるから」


 介錯を。

 私は改めて気を練った。そして未練を断ち切るための印を結——


 ぐーぎゅるぎゅるぎゅるぎゅる!


 何か、ものすごい音に邪魔された。


「あー……すんません、俺の腹っすね」


 見れば、それまで静かに話を聞いていた有瀬くんが頭を掻いている。

 おい。


 更に彼の口からは、信じられない発言が飛び出した。


「どうぞ、気にせず続けてください。俺ちょっとそこでパスタ作ってていっすか?」

「……は?」

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