1-7 浄化を始めよう

 ——ひどい、ひどいよ。

 ——どうしてあたしばっかり、こんな目に遭うの。


 ——みんなはいいよね、幸せそうで。

 ——ずるいよ……

 ——本当にずるい……


 終わることのない恨み言を、シャワーのように浴び続けていた。

 ストッキングに包まれた爪先がすぐそこにある。手を伸ばせば触れられる距離だ。

 身体が重くて動かない。昨日と同じ、誰かの部屋。私はローテーブルの脇に寝転がっている。


 視線を少し上げる。

 力なく垂れた指先から、御守りがこぼれ落ちる。ぽとん、と、私の目の前に。


 ——ごめんなさい。


 ひときわ強く波立ったのは、の念だった。


 一対の足が歩き出した。どうにか目だけでそれを追う。

 遠ざかるにつれ、全身が見えてくる。スカートにブラウス、背中にかかる長い髪。

 彼女は部屋のクローゼットへと向かっていた。たくさんの洋服を掻き分け、しゃがみ込む。

 あの場所。クローゼットのあそこには——


 朝の光が窓から鋭く差し込んできて、身体は自由を取り戻す。

 気付けば、部屋はすっかり元のがらんどうだ。

 ゆっくりと上体を起こす。指先は死人みたいに冷たい。脈打つような頭痛がして、視界が霞む。


 深呼吸で動悸を鎮めてから、己の輪郭を意識する。

 身の内に溜め込んだ念を逃さないように。

 不快感はあるけど、馴染んでくればどうということもない。


 窓の向こうの空から朝焼けの赤みがすっかり抜けた頃、インターホンが鳴った。

 玄関を開ければ、有瀬ありせくんが立っている。


「えええ⁈」


 突然、両肩を掴まれた。

 ノイズ混じりの視界が急にクリアになる。薄っすら続いていた頭痛も、なぜだかすぅっと治まった。


「あ、やっぱ無量むりょうさんか、焦ったー……」

「な、何?」

「今ね、なんでか無量さんが一瞬、髪の長い女の人に見えたんすよ。ちょっと危ういっていうか、今にもどっか行きそうな雰囲気の……」


 全身に血の巡る思いがした。どういうわけか霊障は綺麗に消えている。


「あっ、すんませんっ」


 有瀬くんの両手が離れた。大きくて体温の高い手だったな、と思った。


「なんか顔色悪くないすか」

「寝不足だからね」

「そっすか。とりあえず朝メシ食いましょ。今日は先にコンビニ行ってきました」


 フローリングに座り込み、渡されたメロンパンをもそもそ齧る。一口分を飲み下し、小さく息をつく。

 良かった、念はまだ私の中に留まったままだ。消えたのは身体の外側に纏わり付いていたものだけらしい。いったい何だったのか。


 ふと、有瀬くんがじっとこちらを見つめていることに気付いた。


「何?」

「あ、いえ……なんか、大丈夫なんすか?」

「いつも通りだよ」

「そうなの? いや俺、今まで幽霊とか怖いと思ったことなかったんすけど、さっき無量さんが霊と重なって視えて、さすがにちょっとビビったんで……」

「俺史上初?」


 昨日の有瀬くんのセリフを引用した。一ミリもウケなかった。

 私が闇に呑まれた場合は、元請けに連絡するように。そう言い付けたのは、他ならぬ私だ。


「ごめん、大丈夫だよ。子供の頃から訓練してるから、慣れてるんだ。これも除霊のためのプロセスの一つだし」

「そういうもん、なんすね」


 有瀬くんは珍しく、ぎこちなく笑った。

 何がどう大丈夫なのか、私だけが持つ感覚を上手く言語化できなかった。


「そういや、向こうの部屋もなんかあるんかな。寝てる時に一瞬すげえゾクッと来て」

「204号室で? いつ?」

「うーん、割と明け方? 嫌な気配がして起きた時、窓の外ちょっと明るかったんで」


 もしかして。

 これまで得た手がかりが、急速に繋がり始める。

 クローゼットの奥を気にする彼女の姿。隣の部屋の男性からの苦情の話。

 ストーカー。勝手に開く鍵。部屋の内側の念。

 そして彼女を案じていた大家さんの御守りと、罪悪感を伴った『ごめんなさい』の声——


「そっか、ありがとう。なんとなく分かってきた気がする」

「へっ? 何が?」

「この部屋に染み付いた念の正体」


 あとはを捕まえるだけだ。



 自分のテリトリーの中、昼過ぎまでうとうと仮眠を続けた。

 有瀬くんはどこかへ出かけており、不在だった。

 私はコンビニのカップ麺を食べ、タバコを吸い、コインランドリーで洗濯をする間に漫画喫茶でシャワーを浴びた。


 南東向きの窓からは、午後の日差しは入らない。空っぽの部屋に、この世ならざる者の気配がそろそろと濃さを増してくる。


 頃合いだ。


 ここからルーティンに入る。

 冷水シャワーでもう一度さっと身体を流し、洗ったばかりの服へと着替えた。いつも通りの黒い仕事着ツナギは、すなわち戦闘服でもある。

 洗面台の鏡に映った顔は、言われた通り血色があまり良くない。

 昨日もらったチーズおかきを一つ口に入れる。空腹状態は危険だ。へ引っ張られやすくなるから。


 黄昏時が近い。


 部屋の四方に貼った霊符が有効に作用していることを確認する。


 翳りゆく部屋。

 小さく繰り返す呼吸。

 とざされた空間の中、私という容れ物の内側で、濃い気を練る。


 不意に、玄関が開いた。


「ただいま戻りましたー!」


 有瀬くんだった。場違いなほどの明るい大声と満面の笑みの。手には大きめのレジ袋を二つも提げている。


「おかえり。何それ?」

「鍋とかフライパンとか、あと食材っす」

「え? なんで?」

「パスタ作ろうと思って」

「パスタ」


 脳内がハテナマークだらけになった。


「いや、なんで?」

「だって、パスタなら簡単だし」

「そこじゃなくて。自炊するの? 調理用具とか、わざわざ買ってきたの? 外食で良くない?」

「鍋とかはまた次も使えますよね?」

「次……まぁ」

「それに外食やカップ麺ばっかじゃ栄養偏りますって。元気出ないっすよ」


 思わずムッとする。

 大きなお世話だ。いつものことだから問題ないのに。

 いよいよって時に、余計なことしないで。と、口を突いて出そうになったところで。


「俺、なんもできないんで。無量さん朝からダルそうだったし、あんまし出歩くのもキツいでしょ。ここであったかいもん食いましょ。料理はちょっと得意なんすよ」


 有瀬くんは、八重歯を見せてくしゃっと笑った。

 ……あぁ、もう。

 ひどく調子が狂う。


 その時だった。


 ——ずるい……ずるい……!


 キィンと、こめかみに突き刺さる痛み。

 途端に全身が粟立つ。前頭部が圧迫されて、視界がチカチカと瞬く。


「うっ……」


 怨念が直接、私に向けられている。


「えっ、えっ、無量さん何すかこれ!」


 息が詰まる。首を絞められているみたいに。

 悪寒が背筋を走り、ひどい吐き気に襲われる。


「えええ、どうすりゃいいの⁈」


 有瀬くんの目には、私がドス黒いモヤに包まれて見えているはずだ。

 慌てる彼に、問題ない、と視線を送る。


 私は狭い喉で小さく呪文を唱えながら、素早く印を結んでいく。臨、兵、闘、者、皆、陣、列、在、前。いわゆる九字切り。災いを退ける護身の術だ。

 最後の印で、周囲に清浄な気が湧き起こる。呼応して、我が身の内からよく練った気が膨れ上がる。

 纏わり付いていた念は一瞬にして綺麗さっぱり霧散した。


「はぁ……急に来たね。さすがにちょっとびっくりしたわ」

「はっ⁈ 何それ! 忍者すか!」

「私、伊賀出身なんだ。退魔を生業にしてた家系で」

「どういうことだってばよ!」


 部屋じゅうに充満する濃い気配。負の念の凝縮したところに、霊魂の存在を感じる。

 飽きずにこちらへ向かってくるモヤを、今度は片手で軽く追い払った。


「教えてあげるよ、有瀬くん。どうして私が事故物件専門の除霊師をやってるのか」


 部屋の中心で両手を水平に広げ、掌を壁へと向ける。前後左右の霊符が、私の気に反応する。正確に言えば、私の中に溜まった負の念を織り交ぜた気に。

 パチパチと小さく爆ぜる音。壁伝いにほとばしる気は、この部屋を改めて境界線で切り取っていく。

 私は再び、両手を胸の前で組み合わせた。

 ぱちん。空気が弾ける。


コウ


 刹那。

 殺風景な四角い空間が、たちまちのうちに一変する。

 ピンクの掛け布団がぐちゃぐちゃになったベッド。たくさんのものが雑然と置かれたローテーブル。小さなテレビ。洋服の詰まったクローゼット。きっちり引かれたカーテン。床に散らかったゴミ袋。

 夢うつつの中で視た、あの部屋だ。


「へっ……何この部屋!」

「さすが、視えるんだね」

「もう何が何だか……うわぁっ⁈」


 ぐるりと一周見回した有瀬くんが、急に飛び退いた。

 その視線の先。


「捕まえたよ」


 ドアノブに引っかけたタオルで首を吊った、髪の長い女性の姿がある。


でなら、私が掴んだ念の発信者本人を手繰り寄せることができる。その霊の、最も色濃く染み付いた負の記憶と一緒にね。霊的な感覚の鋭い人なら、その光景は現実の階層に重なって視える」

「つまり、室内だから有効な術」

「その通り」


 女が、顔を持ち上げた。血走った目が私を捉える。


『ひどい……どうして……ずるい……ずるい……』


 終わらない恨み言。三たび襲い来る念。だけど私の纏った気は、それを難なく弾き返す。


「無駄だよ。今この場の主導権は、完全に私が掌握した」


 私は女の幽霊のそばで膝をつき、首にかかったタオルを解いてやる。

 彼女の腹の辺りに手を当て、清浄な気を送り込む。

 急速に害意を失って虚ろになった彼女の顔を、正面から見据えた。


「こんにちは。聞こえるかな」

『……あ……』


 だんだんと、彼女の目の焦点が合ってくる。


『あれ……あたし……?』


 私は小さく口角を上げた。


「さて、浄化を始めようか」

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