1-2 メゾンソレイユ203号室

 事故物件を掴まされた人というのは、まさしくこういう感じなのではないだろうか。

 私は仕方なく、一回だけ有瀬くんをアシスタントとして起用してみることにした。というか、本人が乗り気ではそうせざるを得なかった。

 この縁を繋いでくれた同業の先輩には、今度何らかの形でお礼をしようと思う。



 面談から二日後の、春の日差しのうららかな昼下がり。学校帰りの高校生や外回り中の営業マンが行き交う、駅前のロータリーにて。

 この前とは違う柄のサイケなナイロンジャケットを着た長身のチャラ男は、私の姿を認めると満面の笑みで手を振ってきた。


無量むりょうさーん!」

「あぁ、うん……お疲れさま。元気だね」

「気合い入れてきましたんで!」


 声がデカい。


「車で現場に移動するから」

「はいっ」


 ロータリー脇にハザードランプ焚きっぱなしで駐めてある車まで案内する。

 何の変哲もない白のライトバンのフロントドアに書かれた文字に、有瀬くんは目を留めた。


「『ハウスクリーンサービス』? こう書いてあると普通のお掃除屋さんみたいっすね」

「賃貸の敷地内に駐めとくのに、普通の清掃業者に見えた方が何かとトラブルないからね」

「世を忍ぶ仮の姿っすか。カッケェっすね!」

「そうかな……」


 世を忍ぶ車の助手席に、やたらと目立つ男が乗り込む。

 出発するなり、有瀬くんはダッシュボードの物入れにあるタバコを目敏めざとく見つけた。私の愛用の、黄緑色のピアニッシモに。


「無量さん喫煙者なんだ」

「そうだよ。この車内も別に禁煙じゃないから、有瀬くんも吸いたかったら吸っていいよ」

「俺、吸わないんで大丈夫っす。あっ、でもタバコ吸う女性って良いっすよね。色っぽくて」


 私はタバコに伸びかけた手を引っ込めた。アクセルを踏みつつ、声のトーンをやや硬質なものに変える。


「……先に、基本的なことを説明しとく。そもそも『事故物件』っていうのは、何かしらの原因で住人が亡くなった経歴のある物件を指す。殺人みたいに事件性のあるものはもちろん、事故や自殺や孤独死なんかの事件性のない例もね」

「へぇ、孤独死とかもそうなんだ」

「住むには心理的な不安や抵抗感があるから、『心理的瑕疵物件』とも呼ばれたりする」

「まぁ確かに、何にしても人が死んだ部屋って、良い気分はしないっすねー」


 だからこそ告知義務がある。


「事故物件に該当する部屋は案外多いよ。全部が全部、心霊現象が起きるわけでもない。だけど中には賃貸の運営に障るほど問題のある部屋もある。そうした物件の所有者が仲介となる不動産屋に相談して、不動産屋は状況に応じて除霊作業を手配する。その下請けで実動する作業員が、私」

「なるほど、そういう流れで仕事が来るんだ」


 カーナビの指示に従って国道から住宅街へ入り、こまごました道を走ること十数分。

 車は、とあるアパートに到着する。

 『メゾンソレイユ』。敷地の端に立つ館銘板も間違いない。


「ここすか。だいぶ古いっぽい感じ」

「築三十五年らしいよ」


 有瀬くんの言う通り、見るからに草臥くたびれた雰囲気のアパートだった。

 外壁は洋風。元は真っ白だったと思われるが、表面の凸凹に汚れが溜まっている。共有部分の階段や手すりは塗装が剥げて錆びが目立つ。太陽ソレイユとは名ばかりだ。


「トランクに荷物あるから」

「はいっ」


 元気のよい返事。やたらと楽しそうである。

 なんだか彼だけ異次元の存在に思える。目の前の物件が重く暗い空気を纏っているだけに。

 そう、特に、問題の部屋のある箇所。二階の——


「あの二階にある右から二番目の部屋っすよね」


 私は思わず彼を見上げる。


「分かるの?」

「合ってました? あそこの部屋、変な感じしますもん。俺、昔から霊感はあるんで。親父みたいにすげえ法力とかは使えませんけど」


 あっけらかんと言った有瀬くんは、トランクの荷物を軽々と抱え上げる。


「これ、あの部屋に運べばいっすか」

「あぁ、うん」


 アパートの外階段を躊躇いなく昇っていく長身の背中を、慌てて追った。

 不動産屋から借りた鍵で玄関を開けると、ギィ、と景気の悪い音が鳴る。

 同時に、立ち込めていた埃と湿気の饐えた匂いと、肌をぞっと粟立たせる嫌な空気が漏れ出してくる。


「うぉぉっ、今ゾクっと来たぁ」

「慣れてね」

「なんかぞわぞわしますね、へへっ」

「うん……」


 中はリフォームをしているのか、築年数の割に綺麗だ。

 タイル張りの狭い三和土たたきを上がれば、すぐに一帖半のキッチンと、対面にユニットバスのドア。その先は六帖の洋室。小さなクローゼットが一つ。

 典型的な1Kの間取りである。なおキッチンは作り付けの電気コンロ。調理台はなく使い勝手が悪そうだ。


 有瀬くんは荷物を下ろすと、ぐるりと洋間を見回した。


「俺のアパートも似たようなワンルームなんすけど、こうして見るとだいぶ狭いっすよねー」

「何もないから余計にね」


 狭い部屋でも、家具さえ入れれば途端に居住空間に見えるものである。がらんどうの部屋は、まるで何かの抜け殻みたいだ。


「この203号室は、一年半くらい前に二十代の会社員の女性が自殺した部屋だよ。時々ラップ音が鳴ったり、知らない人の足が見えたり、勝手に玄関の鍵が開いたりするらしい」

「えー、鍵が勝手に開くとかキツいな」

「ポルターガイストの一種だね。そのせいで、事故後に入居した人が三人続けて短期間で退去してる」

「そりゃあ落ち着いて住んでられないっすよね」


 心理的瑕疵どころか、物理的な問題の起きる部屋なのだ。


「てか、事故物件て分かっても入居したい人いるんだ」

「家賃が安いんだよ。特にここ、駅もショッピングセンターもそこそこ近くて便利だし。だけど最近は変な噂が立って、他の部屋までぽつぽつ空いてきてるらしい。さすがにこのままじゃマズいからって、大家さんが不動産屋を通じて除霊を依頼してきた」


 私は部屋のドアを指さす。


「問題の女性は、洋間とキッチンを隔てるこのドアのノブにフェイスタオルを引っかけて、首吊り自殺を図った」

「その首吊り方法って、たまに聞くんすけど、ほんとに死ねるもんなの? こんな足どころか尻も床に着くようなとこで」

「死ねるんだよ。重力に身を委ねて、助かるための動きを一つもしなければね」

「へぇ、想像もできないっすね。俺、絶対助かっちゃう」


 多くの人はそうかもしれない。

 だけど。


「死は救いになり得る。そこまでの思いを抱えた人が死を選ぶ。何も特別なことじゃない。ちょっとしたはずみで一線を越える人だっている。日常の中で蓄積した闇がそうさせるんだよ。だから念が遺る」


 私はドアの近くにしゃがみ込んだ。例の彼女が命を絶った場所に。


「一人暮らしの人間が死ぬと発見が遅れやすい。時間が経てば遺体の腐敗や腐乱が進む。そうなるとうじが湧いたり、臭いや染みによって室内にダメージが及ぶ。それを復旧させる業務を『特殊清掃』と呼ぶ。ここも今、見た目には綺麗になってるでしょ」

「うん、床とか割と新しいっぽい」

「だけど部屋という『場』に染み付いた『負の念』は、物理的な清掃じゃどうにもならない。そういうのを祓うのが、私の仕事」

「あぁ、だから『霊的特殊清掃』っていうんだ」

「そう」


 表には出せない汚れ仕事だ。


「彼女、ストーカーに遭ってたって話だよ。事前に警察に相談があったみたいで」

「それで自殺っすか。ストーカーに殺されたとかじゃなく?」

「うん、玄関には鍵がかかってて、他人が侵入した形跡は何もなかったらしい。そもそもストーカーの存在自体も確認できなかったみたい。警察は実被害がないとなかなか動いてくれないからね」

「だから悩みに悩んで……?」


 別の場所に移るなど他の対策もありそうな気がするけど、この部屋の主はストーカーに悩んだ末に自殺という手段を取った……ということになっている。

 そんな彼女の亡霊が、不可思議な現象を引き起こしているのだ。

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