最終話 弘見鶴之進(2)

 僕は血眼になってタブレット画面をスクロールした。画面には僕の指の脂がべったりとついていて、それはパターンロックの形と同じだった。この跡を見るたびに三原さんに部屋に侵入されたことを思い出して苦い。あの後慌てて画面を拭いたが、どれだけ拭ってもこの脂の跡は消えなかった。思えば購入してから画面を拭いたことなど今まで一度もなかった。

 僕はマムの小説を必死になって読む。二千以上あるので全部はとても読み切れないが、どうしても三原さんに一矢報いなければという気持ちが僕を急き立てていた。僕のんのんを傷付け、嘲笑し、奪おうとした三原さんを僕は許すことはできない。僕の中にともっていたんのんという灯は三原さんに消されようとしている。あれから数日経つが僕はんのんになることができていなかった。衣装ケースの蓋を持ち上げても胸に大きなつかえがあってその先に進むことができないのだ。

 三原さんを打ち負かし何としてでもんのんを取り戻す。

 僕が知っているイカホロとはおおよそ違う、変わり果てたイカホロの姿が延々と続く。怪獣が次々と現れてはイカホロに暴力を振るい、イカホロを性で支配していくが、男性器に制圧されたイカホロは悲しむどころか歓喜に打ち震えている。男性器に溺れるイカホロの歓喜が延々と描かれるのに、書き手の意志はそれとは一体化せず、どこか突き放すかのようだ。人々に失望されるイカホロが何度も描かれ、イカホロの男性器の切断や乳首の肥大化が繰り返されるのは、書き手の快楽の表れではなく懲罰的な意味合いが強いのではないか。

 マムの世界を作る文字がひとつひとつほつれて真っ黒な糸となり、それが少しずつ刺繍されて三原杏奈の影になっていく。あの憎悪の炎に満ちた目、裁いてくるように向けられた冷たい切っ先、確かに向けられた嫌悪。歪んだイカホロの世界が現実の三原杏奈本人へと変貌するのを僕は感じた。

 つかんだ、と思った。

 僕は確信を胸にそっと抱き、興奮と不安でもつれる脚を奮い立て、ゆっくりと階段下へと向かった。三原さんは僕の気配を感じると真顔に戻り、僕の方をまっすぐに見た。

「三原さんは男の人が憎いってより怖いんだろ」

 僕がそう言うと三原さんの目が険しくなった。僕は怯みそうになったが何とか堪えて大きく息を吸った。

「前に僕に言ったこと、そのまま三原さんにお返しするよ。三原さんは男の人が怖いから、小説の中でイカホロを支配して克服しようとしてるんだ。でも三原さんは本当はそれで終わっていない」

 三原さんがノートパソコンを閉じた。僕は三原さんの口が開くよりも早く自分の声を押し込んだ。

「三原さんは本当はイカホロに欲情してるんだ。最初は男の身体を持つイカホロに罰を与えている気でいたのかもしれない。でも、本当はそうじゃなかったんだ。だんだん変わって来て、今はイカホロに性的な暴力を振るって快楽を得てるんだ。怪獣の身体を手に入れて、イカホロの身体を貪ってるだけなんだ。僕ら男と一緒だよ」

 そこで僕の声は止まった。三原さんが僕の顎を掴んでいた。僕の貧弱な顎からカクッとおもちゃみたいな音がした。三原さんの指が喰い込んで僕の視界は歪み、その歪んだ視界から三原さんの唇が静かに開くのが見えた。

「誰があなた達と一緒だって? 二度と言うなよ。私は卑怯なあなた達と絶対に違う。絶対に同じなんかじゃない」

 僕は勝利を確信し喘いだ。命と引き換えにするように必死に声を絞り出した。

「違わん、同じや。三原さんは僕らと同じ卑怯者や。三原さんは暴力で無理やりイカホロを押さえつけて、言うこと聞かせて、イカホロの身体を凌辱しとる最低で卑怯な女の子なんや。わからんのなら何度でも言ってあげるわ。三原さんは僕らと同じ。同じ、同じ、同じ、同じ」

 視界が白くぼやけた。僕の口から唾液が溢れ出て三原さんの手をとめどなく汚していた。三原さんは怯むどころか一層力を込めて僕の顎を砕こうとしたが、唾液がぬるぬると三原さんの指の間に入り込むためにできなかった。

「きったね」

 三原さんは小さな声でそう言うと僕の身体を顎から床に打ち捨てた。僕は床に歯を喰い込ませ床の埃とフローリングの感触を舌で味わいながら、さっきまで自分の皮膚に食い込んでいた三原さんの指のことを考えていた。三原さんはこんなにも暴力的で最低で卑怯なのに指は細くて白くてかわいくてちゃんと女の子だった。ずるい。こんなの不公平だ。ひどすぎる。

 僕はもう自分が何を考えているのかよくわからなくなっていた。三原さんは部屋を抜けて行った。多分手を洗いに行ったのだろう。僕はどっと疲れてその場で眠り、目が覚めた頃にはもう夜だったので三原さんも彼女の荷物もすべて消えて空っぽだった。僕の顔は唾液だけではなく涙でしとどに濡れていて、いつの間にか自分が泣いていたらしかったことを知った。

 その日、マムのブログは更新されなかった。次の日も、その次の日もされなかった。怒涛の勢いで更新されていたブログが突如止まったことによりインターネットの一部がざわめいた。マムが事故に遭ったのではないか、入院したのではないかと様々な憶測が飛び交い、このままマムが消えてほしいと願うイカホロファン達の声が上がる一方で、マムを心配する声も上がった。

 三原さんは毎日僕の家に来ていた。いつものように、んのんの部屋でノートパソコンを開いていた。しかし狂ったようにキーボードを叩いていた腕は今は深く膝を抱え込んでいた。

 三原さんは例の喜びの膜の張り方を忘れてしまったみたいだった。時々思い出したようにキーボードをぱちぱちと叩くが、すぐに手を止めて画面から目を逸らす。パソコンの画面の青白い光が三原さんの物憂げな顔を照らしていた。

 インターネットのざわめきは少しずつ大きくなり、マムを知らなかった人もこの騒ぎに参加し始めた。マムの正体だと言って三原さんの名前と顔写真が出回り始め、三原さんが現在大学に来ていないことまで関係者によって暴露された。三原さんに対しての冷やかしと揶揄が毎日大量にインターネットのどこかに書き込まれた。

 マムを研究しているブログはマムの安否を案じていたが、三原さんに対しての過剰な個人情報漏洩と中傷が白熱していくにつれ、「己の記事が個人の中傷に手を貸すことになる」と述べ更新を停止し、すべての記事を非公開にして沈黙してしまった。

 僕は三原さんに一矢報いたはずだった。三原さんを打ち負かせば僕はんのんを取り戻せると信じていた。なのに僕は未だにんのんになることはできないでいた。

 僕は毎日んのんの部屋に行き、んのんの衣装ケースの前に座った。ケースの蓋に手を掛けるものの開いてからその先が続かなかった。心にできたわだかまりはまだ消えていない。しかしそれが何なのかはわからない。

 僕の隣では三原さんが体育座りで項垂れていた。膝に顔を埋めた先から妙な音が漏れていると思ったら『宇宙虹人イカホロ』のオープニングテーマだった。あまりにも覇気のない呻き声だったからまさか歌だとは思わなかった。

 三原さんは一番目を歌いきり二番目に突入した。二番目のサビに差し掛かる頃、僕も何となくそれに重なるようにして歌い始めた。この曲は二番で終わりで、最後の部分はハモりがある。だから僕はそこは下のパートを歌うことにした。そしたら主旋律を歌う三原さんと綺麗にハモるだろうと思ったのだ。

 しかし三原さんは何故かそこを下のパートで歌った。したがって僕たちは二人して下のパートを歌い、結果として随分暗い宇宙虹人イカホロのオープニングテーマを仕上げた。

 僕たちはその後暫くよくわからない沈黙を共有した。

「んのんちゃん、なれないんだね」

 三原さんがぽつりと言った。三原さんの声を聞いたのは久し振りだったので、僕は少し嬉しくなった。しかし発言内容は腹の立つものだったので反撃するように言い返した。

「なれないわけないだろ。僕ね、これからホルモン注射を打つつもりなんだ。ちゃんとした女の子になろうと思ってるよ」

 僕はこう告げることで、今度こそ三原さんが島津さんや母親のように温かく慈愛に満ちた目を向けてくれると期待していた。しかし違った。

「魂は男の子なのに?」

 三原さんは数日前と同じことを言った。

 僕はかっとして、怒りに任せて強く拳を握り、そのまま三原さんの方に向き直った。しかし三原さんは数日前とは違って例の憎しみに燃え滾る目をしていなかった。彼女はまるで友達に向けるような、優しい、悲しい目を僕に向けていたのだった。僕は動揺し、握った拳をどこにも下ろせなくなってしまった。

「女装も悪くない趣味だよ。時々んのんちゃんになるくらいでいいじゃない。それじゃだめなの」

 三原さんの声は優しかった。僕は返事ができなかった。

 今のところ僕は何者にもなれない弱者で、そういう類の弱者は世間に存在を認めてもらえない。弱者は弱者なりに何かしら理由を持っていなくてはいけない。僕が学校に行けなくて、仕事にも行けなくて、社会のどこにも溶け込むことができない理由を、誰にもわかるように明確にして、父さんや母さんや世間の人に掲げて見せなくては生きていけない。僕にとってのんのんはそういう役割も担っていた。

「最後、切っちゃうの、あれ」

 しばしの沈黙の後、三原さんがぽつりと聞いた。僕は答えられなかった。

 その晩夢を見た。三原さんに男性器を切り落とされる夢だった。包丁を握った三原さんは物凄く怖い顔をして僕に迫り、僕は三原さんに切らないでほしいと何度も懇願し、三原さんは、どうして、女の子になりたいんでしょう、と何度も言い返して僕を責めた。三原さんの背後でノートパソコンの液晶が煌々として、そこに僕が所有している秘密の動画ファイルがいくつも再生されていた。いくつものウインドウからいろんな女の子があらゆる角度から辱められているので、僕の中心はふしだらなほど反応してしまい、それがますます三原さんの目を三角にさせた。三原さんは憎悪に燃える目で僕のそれを睨みつけると力いっぱい包丁を振った手を振り下ろした。

 朝起きて、僕は母さんにホルモン療法を受けたいということを静かに打ち明けた。母さんは何かに赦されたような安らかな表情を浮かべた。

「そうや、鶴ちゃんが生きづらいがは、それのせいや。鶴ちゃんは何も悪くないがや。鶴ちゃんはやっと、前に進めるんやね」

 母さんは僕の肩を優しく抱いて慰めたが、母さんは僕ではなく自分に言いかけているように見えた。自分の言葉が沁みたのか母さんは涙ぐんでいた。

「鶴ちゃん、お父さんにも、ちゃあんとお話しせんないかんよ」

 僕は黙って俯いた。んのんのスカートを切り刻んで捨てるような人間に話を聞いてもらえるとは思えなかった。昨日も衣装ケースからピンクのニーソックスが一組なくなっていた。しかし頷く以外の選択肢を僕は持っていなかった。

 三原さんは変わらず僕の家を訪ね、んのんの部屋に飛び込んでノートパソコンを開いた。しかし彼女の自慢のキーボード捌きが見られることはなく、例の喜びの膜が張られることもなかった。僕はバックライトの光の中に沈む三原さんを見つめた。

 薄暗い部屋で三原さんの瞳は何の色にも輝かなかった。かつて燃え滾る憎悪を僕に向けていたのが嘘のように、寒々として静かだった。三原さんはときどき腕を伸ばし何の色もない世界からの脱出を試みるが、その指先はむなしくキーボードをぱちぱちと鳴らすだけにとどまった。僕は三原さんがひどく脆く見え、今にも消えてしまいそうな気がした。

 僕が見つめていると三原さんがノートパソコンの電源を切った。時刻は夕方五時を迎えていた。

 荷物を持って家を出て行く三原さんの背中を僕はこっそりつけていった。三原さんの影は優等生らしくまっすぐ伸び、きびきびとした足取りで歩いていたが、その影からはどうしてか僕と同じ匂いが立ち上っていたのだった。それは僕が長年浸かってきた人生の落伍者の匂い、そして二度と這い上がれない敗者の匂いだった。それを優等生の三原さんがまとっているのは僕をひどく焦らせた。 

「弘見くん尾行するのやめてよ。そんなんじゃ変質者だと思われて通報されちゃう」

 急に三原さんが振り向いて声を張った。僕は小走りで三原さんのすぐ隣に立った。

「尾行をやめてってそういう意味じゃない、帰れって意味だよ」

 そうきつく言われるのを期待していたが、三原さんはそうは言わなかった。それどころか少しおどけてこう言った。

「こんな下手な尾行じゃ七色探偵団には入れそうにないね」

 三原さんは歩く速度を落として僕の歩調に合わせ、特に行き先のない僕は三原さんが歩くままそれに合わせた。僕は三原さんとこうして並んで歩くのは不思議な気がした。

 僕らの間に会話はひとつもなく、世界は夜に向かってさまざまな色を放棄し始めていた。木々も建物も人も持ちうる色を手放して闇に深く沈んでいくところだった。

「書けないんだね、イカホロ」

 さまざまな色が消えていく中で自然と僕の口からこの言葉がこぼれた。三原さんは静かに返事をした。

「うん」

「僕はねえ、今日親に、ホルモン療法をするってことを話したんだ。女の子になるのに近づいたってわけさ」

 僕はわざとこういう物言いをした。空はまだ薄く光を残していた。三原さんの目も鼻も口も辛うじて見えた。三原さんは静かに言った。

「身体を変えてしまったら取り返しがつかないことになるよ。もう一度、自分の魂とちゃんと向き合ってみて。本当になりたいの、女の子」

 夜は静かにしかし確かに迫って来ていて、ついに僕たちの身体にまで浸し色を奪いにかかった。僕は夜になりつつある空を見上げ、『宇宙虹人イカホロ』第一話のことを思い出していた。物語は、主人公の少年アカツキがやさか天文教室に参加し、このような空を見上げるところから始まる。

「本当は、僕は怪獣になりたいんだ」

 僕は静かに言った。

 僕は遅くにできた子供だったので、両親から与えられる玩具や遊びが少し古かった。その中にあったものが『宇宙虹人イカホロ』だった。やがて成長し生きづらさを感じて過ごすうちに、僕は自分が何かの手違いでやさか天文教室に行けなかった人間なのだと思うようになった。僕は本当は宇宙皇帝ダイダイに怪獣の種を植え付けられる予定だった人間なのだ。

 本来ならば僕の種は発芽して怪獣になり、アカツキ、もとい斜陽ヒタグロックのようにイカホロに浄化され笑顔で地球を去るはずだった。なのに、僕の種は発芽せずに未だ人間の姿のまま苦しんでいる。

 僕は怪獣になれず、人間にもなりきれず、板挟みのまま人間の暮らしに放り込まれて馴染むことができない中途半端な存在だった。

 どこにも居場所がなくどこにも行き場所がない自分の身体、異性に選んでもらえない焦燥感と屈辱感、周囲からの見下しへの反発、肥大化していく自意識、抑えきれない性衝動、さまざまな苦悩の中に僕が社会に馴染むことのできない明確な理由を見つけることはできなかった。

 例えば僕が学校で酷い苛めを受けていたのなら、親から酷い虐待を受けていたのなら、重い精神疾患を患っていたのなら、僕は社会に馴染むことのない明確な理由を手に入れ、普通の人間ではない「怪獣」として堂々と生きていくことができる。しかし僕には何もなかった。僕は特に大きな理由もなくただ社会に馴染めないだけなのだった。

 僕にとってのんのんは、僕が怪獣になるための大切な足掛かりなのだ。僕がんのんになることで、自分の性別に違和感を抱いていたために社会に上手く馴染めなかったという明確な理由が手に入り、この理由を掲げれば、僕はもう人間ではない怪獣にはなるけれども、親も社会の人たちも怪獣として扱えるし、僕も怪獣として生きていくことができるのだ。

 女の子への羨望と渇望は確かにある。女の子になっている間の幸福感も本当のことだ。三原さんが投げ掛けた辛辣な言葉すべてが合っているとは僕は思わない。しかしいくつか真実が混ざっているような気がする。どれが正解でどれが間違っているのかは、自分でもわからない。女の子になりたいという気持ちは不純かもしれないが本当だ。

「種が発芽しないのなら自力で発芽させるしかないんだ。だから僕はんのんになるしかないんだ」

 僕はこれらのことを三原さんに告げた。何度も言い間違えたし言い淀んだ。ここまで自分を曝け出したのは初めてで、羞恥と屈辱のあまり途中でみっともなくむせび泣いた。

 三原さんは長い長い僕の言葉を遮ることなく最後まで聞いた。

「そっか」

 最後まで聞くと三原さんはそう言った。三原さんが納得したのか呆れたのか、声からは判断することができなかった。僕は急に不安になった。自分の足元がぐらつき始めるのを、曝け出す選択肢しかなかったと言い聞かせることで持ちこたえた。泣きつかれた疲労感と高揚感で僕は冷静になっていなかった。

「怪獣になれたらさ、来るといいね、イカホロ。厭世ハルバッティみたいになるのは嫌でしょ」

 慰めみたいなことを三原さんが言った。僕は大きく洟をすすり、自分の失態を帳消しにしようと無理に冗談を言った。

「そうだね、僕が怪獣になったら、そのときは三原さんがイカホロを呼んでよ」

 僕は三原さんの首からぶら下がった鎖の方をわざとらしく見やった。僕の動作は冴えない道化の真似事で、そしてそれは少しも愛嬌がなく笑えないのだった。

 三原さんは細い首筋に手をやって、鎖を手繰り寄せた。取り出された笛は七色の美しいメッキに覆われていたが、それが彼女の手のひらの上で光を放つことはなかった。

「私は弘見くんのことが嫌いだし許せないから、弘見くんなんかのために笛を吹いてあげないよ」

 三原さんの拒絶の言葉に僕は虚をつかれた。しかしわざと落ち着き払ってにやにやと笑ってみせた。

「三原さんらしいや」

 本当は正気を保ってはいられない状態だった。僕がこれだけ傷口を晒しているというのに三原さんは少しも僕に歩み寄ることをしない。僕は羞恥心と怒りに顔を大きく歪め叫んだ。

「言っておくけど、三原さんも怪獣だからね。インターネットでは有名な大怪獣じゃないか。あんな気持ち悪い物を狂ったように書いて、三原さんだってこっち寄りなんだからな」

 僕は精いっぱいの言葉を三原さんに投げつけた。これは泣かされた子供ががむしゃらに腕を振り回して相手を追い回すのに似ていた。

「大体ね、そんな笛、吹いて貰わなくたって結構だよ。だってレプリカだもんな。イカホロが三原さんのところに来るわけないだろ。三原さんはアカツキじゃないし、七色に輝く魂だって持っていない。三原さんは斜陽ヒタグロックにはなれない。三原さんはいいとこ厭世ハルバッティだ。今ネットで叩かれてるみたいに、皆から嫌われて疎まれて、骨になった後も呪われ続ける厭世ハルバッティだよ!」

 三原さんの背筋がすっと伸びて僕の方に向いた。僕は咄嗟に両手で自分の顎を覆い、三原さんの指が力強く喰い込み離さない例の感触を思い出し震えた。

 しかし三原さんは僕の方を向いたまま何も動かなかった。僕は三原さんの背後に黒く悲しい影がいくつも連なっているのを見た。僕は、それらの影が来ないイカホロを呼び続ける三原さんや、アカツキに近づこうと明るい笑顔を無理に纏う三原さんの姿になっていく幻を見た。

「厭世ハルバッティみたいに私が骨になったら、花束を捧げに来てね」

 三原さんはぽつりと言った。底の知れない暗い穴に小石が転がっていくような儚い音だった。

 僕は咄嗟に、誰が三原さんなんかに、と吐き捨てようかと思った。イカホロとアカツキが厭世ハルバッティに捧げる花束は、花屋にあった中で一番美しい花という設定だった。イカホロは救えなかったハルバッティの死を心から悼み、この怪獣に寄り添おうとしてせめて一番美しい花をと求めたのだ。

 僕は少し考えてから彼女が一番嫌がるであろう花を選んだ。

「ああ、そうするよ。マムの花、抱えきれないほどたくさん持って、三原さんに捧げに行く!」

 僕は底意地の悪い笑みを浮かべて言い放った。これ以上にない皮肉だった。三原さんはきっと嫌がるか怒るかすると思っていたが、とてもきれいに微笑んだ。

「うん、そうして」

 そのときの三原さんの瞳はきらきらと輝いていた。幸福と祝福を一度に手に入れたような高揚感が迸って眩しいほどだった。

 その後一瞬で辺りは闇に沈んだ。夜が来た。僕ははっと顔を上げたが空は雲で覆われて月も星も出てはいなかった。僕の身体も三原さんの輝く瞳も木々も建物も闇の洪水にすべて呑まれ、何の色もつかない闇の色に沈められた。世界は闇に閉じた。



(了)


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