第20話 弘見鶴之進(1)

 興隆ギオカーラーの如く三原杏奈がんのんの部屋を占拠してから一週間が経とうとしていた。

 興隆ギオカーラーは占拠した電波塔のてっぺんに自らの角が引っ掛かり、そこをイカホロに突かれて浄化されてしまった怪獣だが、三原さんは毎日朝九時頃にこの陰気な家の戸を明るくこじ開け、笑顔を振りまきながら階段下の部屋に直行し、そこに閉じこもって一心不乱にキーボードを叩く。そして夕方五時頃になると、また明るい声であいさつをしてこの家を出て行く。

「鶴ちゃん、あの女の子……」

 好奇心と不安の入り混じった顔でこちらの顔を覗き込む母さんに、僕は言った。

「友達ねん、あの子」

 友達という言葉の響きに母さんは歓喜の表情を浮かべた。「友達」という言葉を使えるほど僕は三原さんのことを知ってはいない。僕が知っているのは彼女の顔と名前とイカホロが好きということぐらいだ。

 よく知らない女の子が毎日朝から夕方まで家を占領するというのは異常なことなのだが、母さんは僕にちゃんと「友達」がいて世の中と繋がっているという安堵感にすっかり浸っている。

「島津さんといい、今回の子といい、鶴ちゃんはやっぱり女の子と仲良しなんやねえ。女の子の方がやっぱり気が合うがやね」

 母さんは心底嬉しそうに微笑んでから軽く片眼を瞑り僕の肘をおちゃめに突いた。

「そういえば島津さんの方は最近姿を見んわ。鶴ちゃんまさか、喧嘩しとらんやろね。お友達とは仲良くせんないかんよ」

 島津さんは三原さんと入れ替わるようにしてこの家にぱたりと来なくなっていた。まるで巧妙ヒタムロンみたいに怪獣一匹が分裂して行動しているようだ。巧妙ヒタムロンは人を騙すのが得意な怪獣なので気を付けないといけない。イカホロも苦戦した相手であるし事実三原さんと島津さんは僕を騙して部屋を荒らした。

 一週間前、三原さんが急にこの家にやって来たとき、僕は大慌てで島津さんに電話をかけた。相手が自分を騙した人間だということも忘れて縋るように尋ねた。

「島津さん、なんでかわからんけど今急に三原さんがうちに来とるげん。島津さん何か知らん?」

 三原さんはんのんの部屋に一直線に入ったまま出て来なかった。中で何をしているのかわからない。僕は階段下をちらちら窺いながら携帯電話を耳に当てた。

「え、三原さん、そっちにおるんか!」

 島津さんの素っ頓狂な声が響いた。

「わたし達ずっと三原さんのこと探しとってん! 三原さんずっと連絡が取れんかって、そんで困っとってんけど、弘見くんとこにおるんや! え、なんでやろ?」

「や、わからん。僕もそれがわからんから島津さんに電話しとるげん」

「弘見くんごめん、このまま三原さんに電話代わってもらっていいけ。わたしの携帯やと三原さん出てくれんかもしれん」

「えっ」

 僕は黙った。もしも僕がイカホロなら汗も油も出ないから携帯電話などいくらでも女の子に使わせることができる。しかし僕は汗っかきで皮膚は油でべたべた、しかもうっすらと豚肉が焼けるときの臭いが体中から立ち上っている男だ。今握っている携帯電話も手汗でぐっしょり濡れているし、耳だって当たってしまっているから耳の脂もついている。果たしてこんな携帯を女の子が使いたがるだろうか。きっとすごく嫌がって、顔中の皺を中央にぐっと寄せ集め拒絶を剥き出しにするに違いない。僕の身体は緊張で強張った。

 島津さんは黙り込んだ僕を察したのか矢継ぎ早に言った。

「わかった弘見くん。わたし今からそっち行くわ。だから三原さんがそこを動かんように見張っとってくれんけ。今行くから。ね、すぐやから。お願いね」

 島津さんはぶつりと携帯電話を切った。切れる直前にガコン、という大きな音がしたので肘か何かをぶつけたのかもしれなかった。

 安っぽいピンクのカーテンをいくつもいくつもめくって中に入ると、薄暗い闇の中で三原さんが一心不乱にキーボードを叩いているのが見えた。この部屋は電気が通っていないので七つのライトをつけないと中がよく見えない。ライトは全てついていたが、七つのライトよりも三原さんが持参したノートパソコンの方がよほど強い光を放っていた。カタカタという音は秒針よりもずっと早く、そしてリズムが不規則なためあまり心地よい音とはいえなかった。

 一体何の作業をしているのだろうかと僕は目を凝らして三原さんを見る。

 三原さんは、祝福するように、息をすることを思い出したように、夢中でキーボードを叩いている。三原さんの指先から生命のすべてが注ぎ込まれ、そこから彼女の世界が構築されていくのを僕は感じ取った。

 三原さんの表情は歓喜に溢れていたが、僕は人間の薄暗い欲望を見てしまったときのような後ろめたさと恐怖を覚え、怖くて声を掛けることができないでいた。三原さんのまっすぐ伸びた背筋は情念の迸る炎の柱のようで、僕はこの部屋がうす暗いのは三原さんにすべての光を吸われたせいだとすら思った。

「三原さん」

 僕は決死の覚悟で呼びかけた。喉の奥が掠れてきゅうと鳴った。

 途端に三原さんの身体中を覆っていた歓びの膜はぷつんと切れて穴が開いた。破れた穴から出てきた三原さんは輝きを失っていた。

 三原さんは白けた顔で僕の顔を見た。

「あの、今から島津さんが来るって。三原さんと話をしたいんだって」

「ああそう」

 三原さんは素早くファイルを保存して閉じた。僕はデスクトップにでかでかと現れたイカホロの壁紙を見るだけで、結局三原さんが何をやっていたのかを知ることはできなかった。

「もしかして弘見くん警戒してるの。でも大丈夫、もう前みたいなハッカーごっこだっけ、そういうのはやらないわ。もっとも、七色少年探偵団ごっこならやってみたいけどね。周りの友達は誰も宇宙虹人の方を知らないからできなかったの」

「ああ、UKの方だと七色少年探偵団じゃなくてイーリスだったからね」

 リメイクアニメ版では七色少年探偵団は中学生の動画配信グループ「イーリス」に大きく変更されていた。少し場が和んだので僕は笑顔を作り媚びるように言った。

「あの、この間のことだけど、怒ってないからね。勝手に部屋に入られてびっくりしたし、裏切られた気持ちがしてショックだったけど、でも、怒ってないから。だから、気にしないで。お互い忘れよう、ね」

 女の子に猫撫で声で話す自分は我ながら気色悪かった。本当は腸が煮えくり返るほど三原さんを憎んでいたし、彼女を許した日など一日だってなかったというのに、僕は例の動画のことを話題に持ち出されまいと必死だった。

 三原さんは返事をしなかった。顔色一つ変えず、悠々とそこに座っていた。僕はこうした三原さんの優等生にありがちな自信たっぷりの振舞いが苦手だった。強い光の前では僕の足はどうしてもすくんでしまう。

 そうこうしている内に、どたどたとやかましい音がして島津さんが転がり込んできた。

「三原さん、大学を休んでこんなところにいたのね。研究室の人たち、三原さんをずっと探しているのよ。みんな三原さんを心配してるわ。グループ発表も近いし、戻りましょう」

「わざわざ来てくれて申し訳ないんだけど、私は戻らないよ。みんなによろしくね」

「ひょっとして、例のイカホロ小説のことを気にしているの。そんなの気にしないわよ。ねえ聞いて。高山さん最近優しいのよ。わたしに気軽に話しかけてくれるようになったの。この間なんてみんなで駅にパンケーキを食べに行ったし、誕生日には花までくれたの。わたし、あの研究室の雰囲気がすごく良くなっているのを感じるわ。だから大丈夫よ!」

「りこちが島津さんに優しくなったの?」

「そう、そうよ三原さん! これまで三原さんがわたしに気を遣ってくれたこと、ちゃんとわかってるし感謝してるわ。でももうそんなことしなくていいのよ!」

 島津さんは頬を上気させて捲し立てた。僕は彼女たちの大学の事情はよく飲み込めなかったが、島津さんがやけに舞い上がっていることだけはよくわかった。

「そう。りこちが優しくなったの。じゃあ、研究室に私の居場所はもうないな」

 三原さんは自嘲気味な笑みをため息と一緒に吐き出した。

 島津さんは三原さんの言っていることを理解できないらしく、しつこく三原さんに話しかけた。島津さんは高山さん高山さんとうんざりするほどその名前を出し、部外者である僕ですら島津さんがその人物に入れ込み過ぎていることに気が付いた。島津さんは昔から入れ込むと猪のように突っ込んで他が疎かになるのだ。んのんのときそうだったように。

 僕は島津さんの心の中に今はもうんのんがいないことを悟った。今の島津さんの心は高山さんという人ではち切れんばかりでもうんのんの入る隙間はない。

 甘く苦い感傷が僕の心に生まれるのを誤魔化すのに似た動きで、僕は島津さんの腕を掴み階段下から連れ出した。

「島津さん、ちょっとこっちに来て。わからんこといっぱいあるから、順番に説明してほしいげん」

 島津さんはこれまで起こったことを滝のように僕に浴びせ始めた。二人は同じ授業を取っていて同じグループに属していたこと、三原さんが小説を書いていて、それが手違いで研究室中に広まってしまったこと、それ以降三原さんが大学に来なくなったこと。

 島津さんは携帯を取り出しスクリーンショットの画像を僕に見せた。これらが三原さんが大学に来なくなった原因、三原さんの小説の断片だと島津さんは言った。僕は目を凝らして島津さんの携帯を覗きこんだ。イカホロが怪獣に犯されるへんてこな文章の群れ、病的な話の展開、それは、僕らイカホロファンがよく知っているインターネットの怪文書と酷似していた。

「マムじゃん」

 僕の声は胃の底から押し出されたような響きを伴っていた。

「え、これ本当に三原さんが書いたが? コピペじゃなくて?」

「うん、文章の中には書きかけのファイルや没ファイルもいくつかあってん。だから、これを書いたがは正真正銘三原さんや」

 島津さんはどこか誇らしげだった。

 その後、島津さんは高山さんがどれだけ自分と仲が良いのかを僕に繰り返し訴え、午後の大学の講義が始まることを唐突に思い出して嵐のように去っていった。島津さんが一向に高山さんの説明をしないので僕は高山さんというのが誰なのか最後までわからなかった。

 僕は階段下に引き返し、震える指で幾重にも重なるピンクを捲った。ピンク色を捲る度に恐ろしい怪獣の影が濃くなっていく心地がして僕は恐怖と興奮で正常な意識を保つことができなかった。

 僕の身体は緊張していた。胸は高鳴り、そして下卑た笑みが自然と口の端に滲んだ。イカホロが蹂躙される品の無い文章を延々と書き続けるインターネットの化け物。僕たちイカホロファンに蛇蝎の如く嫌われている人物、マム。目の前でキーボードを叩く澄ました顔の女の子の正体がそれだったとは。キーボードを通してイカホロを慰み者にする三原さんが、動画を通して小さい女の子の慰み者にする僕をどうして裁くことができるだろうか。高揚感が僕の心の底から湧き上がって来た。

「島津さんから聞いたよ。三原さん、マムだったんだね。僕、三原さんのブログ知ってるよ。そりゃそうだよね、イカホロファンで知らない人の方が少ないくらい有名なブログだもの。こんな有名人に会えるだなんて光栄だよ。サイン貰わなくちゃな」

 三原さんは手を止めて顔を上げた。イカホロを辱める手を急に止められた彼女は、食らいついていた肉を急に取り上げられた獣のような表情をしていた。僕は好奇心と征服欲を抑えきれなかった。

「でも同時に少しがっかりしたかなあ。三原さんがイカホロをあんな目で見ていたなんてね。僕ら同じイカホロを見ているはずなのに、おかしな話だよね。三原さんがイカホロを大好きってそういう意味だったんだね? そういう後ろ暗い欲情をイカホロにぶつけてるなんてさ、イカホロファンとしてはかなり腹が立つっていうか、怖いっていうかさ、がっかりしてるんだよね。イカホロを汚されたっていうのかな、イカホロをそんな目で見ないでっていうか」

「どうしたの。急に強気になっちゃって。弘見くん、すべてを覆せるような強いカードでも手に入れた気でいるの? 皇帝ダイダイみたいな気持ちに近いの?」

 三原さんの声がすっと通って僕の頬を掠めた。三原さんは悠然と微笑み、僕の目を正面から見据えた。三原さんの目の奥は笑っておらずそれは底の見えない暗い穴に似ていた。

「や、僕はたださあ。三原さんみたいな澄ました顔の女の子がね、そういう、いやらしいことやってんだなって思ってさあ」

「弘見くんは女の子を憎み過ぎてるよね。だから急にそういうわけのわからないことふっかけるのよね。島津さんに大量に送ったメール、私忘れてないよ」

 三原さんが静かに刃を下ろしたのが見えた。切っ先がこちらに向き僕の背に冷たいものがつっと落ちる。

「でも弘見くん、女の子が憎いってよりは怖いのよね。私、男の人が女の子をどういう目で見ているかにとても敏感なの。私、すぐに当てることができるのよ。たくさん見てきたからわかるの。ね、弘見くんは女の子が怖い。怖いから、支配して克服しようと思ってる。そうよね?」

 三原さんは僕との会話を放棄し論点をずらしている。そう思うのに、三原さんの微笑みは優等生特有の圧迫感があり、僕は言い返すことができなかった。

 三原さんの言葉は僕の脆く柔らかな部分に無遠慮に入り、そして野蛮にも握り潰そうとしたのだった。僕はその野蛮な力にぎゅっと掴まれ、息を吸うことも吐くこともできなかった。圧し潰されそうになりながら、息も絶え絶えに僕の苦い気持ちが絞られて滴り落ちる。

 さらさらな髪の毛と柔らかな肌、独特の甘い体臭、特に女の子特有の丸み。僕ら男は己の意思とは別にこれらをひどく渇望するようにできている。僕らはいわば呪いつきで生まれた哀れな生物だ。僕らは女の子を欲しがるあまりに身体に大きな痛みを伴い、それを取り除くべく人生をかけて奮闘する。この呪いにのたうち回っている間、僕らの理性は吹き飛び滑稽な動物と化す。女の子を手に入れた男だけがこの呪いから解放されるが、世の中はそうでない男が大多数を占めている。そして僕もその一人なのだ。

 三原さんに何が分かるというのだろうか。可愛い女の子の姿に生まれ、微笑めば微笑み返してもらえるような人生を送り、それに何の疑問も抱かないという恵まれた環境にいる彼女。女の子は女の子でいるだけで男に選んでもらえる。そのことが彼女には分からない。女の子から選ばれなくてはいけない、しかし選んでもらえないという重圧感と焦燥感など思いつきもしないのだ。どれだけ渇望しても僕を選んでくれない、そして僕を値踏みするだけしてそっぽを向く女の子がどれだけ残酷で憎らしく、そして恐ろしい存在であるか。そしてどれだけ羨ましい存在であるか。三原さんは想像だにしないのだ。そして何より三原さんは女の子であるために、永遠にこの苦悩とは無関係なのだ。そのことが僕をどれだけ狂わせるか。

「うっさい、いじっかしいんじゃあ」

 僕はそれだけ言い残すとんのんの部屋を出て行き、そして自分の部屋に戻って声を押し殺して泣いた。ひどく惨めだった。薄暗い天井から知らない腕が伸びて僕の喉に手をかけることを祈って泣き続けた。しかし誰も僕を殺してはくれないし僕は惨めな僕の姿のままだった。

「島津さん、もう来んかもしれん。新しい友達ができたって言っとった」

 僕は母さんに言った。母さんはショックを隠し切れない表情で僕を見た後、新聞を開いてクロスワードパズルを埋め始めた。

「そっかそっか、女の子の友情って複雑やからね」

 僕に詳しいことを聞きもせず、物わかりの良い優しい笑顔を浮かべて言った。


 僕は台所を抜け出し階段下に向かった。ピンク色の布の扉をいくつもめくって中に入る。

 三原さんは顔を上げもしないで歓喜と狂喜の膜に包まれながらキーボードを叩いている。その横で僕は衣装ケースの蓋を静かに持ち上げる。

 箱の中ではフリルやリボンのたくさんついたワンピースやブラウスやスカートが七つのライトの下でうっすらと輝いていた。僕は宝物ひとつひとつを手に取り、ゆっくりと吟味してから、星の模様のついたふんわりしたワンピースを選んだ。ピンクと紫のグラデーションが夢の世界のようでとても綺麗だ。それからニーハイと靴を履き、長い髪のかつらをかぶって最後の仕上げにリボンを付ける。姿見に映る姿を見て、僕は心の中で声をかける。それは切実な祈りのような魔法の呪文だった。

「今日もかわいいよ、んのん」

 鏡の中のんのんがぽっと灯がともったように微笑んだ。

 僕が女の子になりたいと初めて打ち明けた相手は島津さんだった。

 僕はそのとき中学生で、学校は既に休みがちだった。近所に住んでいた島津さんは、担任の先生の言いつけで僕にプリントを届ける係になっていた。今の時代不登校は少なくなく、クラスにひとりはいるような状態だったので、僕のことを特別気に掛ける人は学校にはいなかった。自分の身に迫る複雑な重圧を言葉で表現するのは僕にはひどく難しくもどかしい。僕を気に掛ける人がいないことは却って僕を安堵させた。

 プリントを渡せば終わる役目なのに、母さんは島津さんを熱烈に歓迎して毎回僕の部屋に通した。母さんは僕と世間の唯一の接点である島津さんを逃すまいと必死で、島津さんは毎回ケーキや紅茶が出てくることに感動して無遠慮に貪り、そしてお礼に子供だましの飴やガムを置いて行った。

 部屋に島津さんの飴やガムが日に日に増えていった。こんな小さな飴やガムに僕の心はだんだんと追い詰められ、その圧迫感のために僕の神経はすっかり参ってしまった。

 よくわからない圧迫感は島津さん本人への苛立ちへと変化し、あるとき僕は島津さんに半ば八つ当たりのように言った。

「女の子って、本当に何の悩みもなさそうで羨ましいわ。僕、女の子やったら良かったんに。僕、女の子になりたい。そうしたら僕、自分らしく生きていける気がする」

 独り言に近い吐き捨ての言葉だった。しかしそんな僕の一言を、島津さんはやけにぴかぴかに輝く宝石みたいに大袈裟に両手で掬い掲げた。

「そうやったんや、弘見くん。わたし、知らんかった。つらかったんやね」

 それまで島津さんは僕を陰気でつまらなくて気持ち悪い男子だとしか思っていなかったように思う。僕は自分がその辺の石やごみのように見られることに敏感だった。島津さんはさっきまでビー玉みたいな目で僕を見ていたというのに、それが急に慈愛に満ちた目で僕を見始めたので驚いてしまった。

「そういう気持ち、絶対に大切にして。世間は冷たいかもしれんけど、負けんといて。自分の本当の気持ちを殺すようなこと、せんといてね。わたし、応援するから。わたし、弘見くんの味方やから。弘見くんは確かに変わっとるかもしれんけど、それは特別ってことやから、忘れんといて」

 島津さんは大切な宝物を見つけたように僕の両手を握った。島津さんの手は柔らかくて、僕はやっぱり断然男の子よりも女の子の方がいい、と思った。島津さんはそれから僕を抱きしめて背中をぽんぽんと叩いた。島津さんは垢抜けない子で自分の容姿に無頓着だった。それなのになぜかしっかりと女の子特有の甘い匂いがしたので僕は驚き、何故だか無性にずるい、というような憎々し気な気持ちを抱いた。

「弘見くん、スカート履いたことある?」

 島津さんは素っ頓狂な声で尋ねた。僕がない、と言うと島津さんは制服のスカートをすぽんと脱いで僕に手渡した。島津さんは下にトレパンを履いていたが、僕は度肝を抜かれてその場に固まった。

「履いてみようよ。はい」

 島津さんは屈託なく笑った。その笑顔を見た瞬間、僕の心の奥にあった暗くて重い扉がほんのわずかに開いた。

 それから僕の中にんのんという女の子が生まれた。僕は捻くれ絡まりどうしようもなくなったどす黒い己の心から、どうにか美しく可憐な色だけを選んで丁寧に抽出し、一人の女の子を思い思いに描いた。最初は躊躇いつつやがて自由にのびのびと、いつしか圧迫された僕の心は少しずつやわらかく広がっていった。それは一輪の花がゆっくりと開くのに似ていた。

 んのんは僕が想像しうる中で一番可愛い女の子だった。

 僕は有り金すべてを財布に突っ込み、島津さんとリボンやスカートを買いに行った。今まで生きてきた中で最高に胸の躍る日だった。

「人は誰しも魂に灯(ひ)をともしている。その灯が七色に輝くとき、人は勇者に選ばれるのだ」

『宇宙虹人イカホロ』の冒頭ナレーションを聞くたびに僕は悲しい気持ちになっていた。僕の魂はきっと何色にも輝かないからだ。僕の魂の灯は決して美しい色とはいえず、くすんで冴えない光を辛うじて保っているだけに過ぎない。でも、んのんは違う。

 んのんの魂は常に輝いている。それは炎よりも激しく、宝石よりも多彩で、そして幸福に満ちた光だ。僕が信じている限りんのんは世界一可愛い女の子であり、誰よりも強い女の子だった。んのんはきっとイカホロよりも強い。

 僕は三原さんの前にゆっくりと立った。んのんの影が三原さんの身体を覆い、三原さんの身体を包んでいた喜びの膜にぶつんと穴が開き瞬時に消えた。

「ああ、今日はんのんちゃんなのね。久し振り」

「あのね、杏奈ちゃんにお願いがあるの。杏奈ちゃんがお兄ちゃんのこと、嫌いかもっていうのは、知ってる。でも」

 微笑んではいるが底の見えない暗い穴がんのんをとらえた。

「でもね、んのんとは仲良くしてほしいの。んのん、杏奈ちゃんとはお友達になれると思う。だって女の子同士だから」

「は」

 三原さんの身体が急にぐにゃりと曲がって折れた。

 驚いたんのんが覗き込むと三原さんが腹を抱えて笑っていた。三原さんの笑った顔が思いがけず残酷だったので、んのんは怯んだ。気を取り直すために静かに深呼吸し、自分を励ましながら息を吸う。

「確かに、んのんは笑っちゃうくらいおかしいかもしれないけど。確かに、普通の女の子とはちょっと違うって自分でわかってるけど。でもんのん、ちゃんと女の子だから。本当に女の子だと思っているから。それって、笑うようなことじゃないでしょう?」

「魂は男の子なのに?」

 三原さんが意地悪く笑った。

「弘見くんはね、別に女になりたいわけじゃないでしょ。大嫌いな自分じゃなくて、別の何かになりたいって思ってるだけ。それで、女の子の身体が好きで好きでしょうがないから、女の子を選んだってわけ。弘見くんは、おばさんやお婆さんになった自分を想像できる? 違うんじゃない? 思い描いているのは若くてかわいい女の子の自分だけだよね。弘見くんは、んのんちゃんっていう理想の可愛い女の子になってちやほやされたいな、って思ってるだけなの」

 僕の頬がかっと熱くなるのがわかった。怒りのあまり拳に力が入りそれは砕けそうなほどだったが、これは僕の手ではなく、白く柔らかなんのんの手であることを思い出し、そっとほどいた。

「杏奈ちゃんは思い違いをしてるよ。んのん、ちゃんと魂も女の子だよ。だって、お、男の人の身体に興味があるもの」

「それ、男の人とセックスしたいってこと?」

 三原さんが露骨に顔を顰めた。僕は勇気をもって強く頷いた。僕はこれが三原さんに勝てる強いカードだと確信した。

 これはんのんを無理やりこじ開けて秘部を晒すような粗野な振る舞いではあるけれども、僕は勝利のために、んのんがしばしば秘密に耽っていることを三原さんに告げた。んのんが熱を上げているのは男のそれであり、その欲望が愛らしいフリルやレースの隙間から滲み出て隠せないほどだということまでも、僕はつまびらかにした。

 しかし三原さんはこれを冷たく突き放した。

「ああそれ、女装趣味の人にはよくあるらしいよね。女装した自分に欲情して、その姿で快楽を得て、そのうち道具じゃ飽き足りなくて本物が欲しくなっちゃうってこと。それって男の人が好きなんじゃなくて、男の人のあれを挿れてみたいっていうただの好奇心なんだよね。そういえば弘見くんのお部屋、そういうのいっぱい転がってたね」

 三原さんは嘲るように口の端をふっと上げた。そして汚れを拭った後のように真顔に戻り、潔癖さと不快さを顔に刻み付けて僕をまっすぐに睨んだ。

「弘見くんの魂はちゃんと男の子だよ。んのんちゃんの中身も男の子だよ。んのんちゃんは、女の子の身体を手に入れて女の子の身体を貪りたいと思っているだけ。あなたは女の子の身体が堪らなく好きなだけ。あなたは女の子に欲情しているのをごまかすためにんのんちゃんの姿になっているだけ」

 三原さんの声が刀の切っ先のように薄闇の中で冷たく光った。

「島津さんの身体もそうやって貪ってきたよね」

 三原さんは声だけでなく爪の先に至るまで全身が冷えきっていて、その冷たさで僕を貫こうとじりじりしていた。そのくせ瞳だけは憎悪に満ちて、激しく燃え滾っているのだ。

 僕が女の子になりたいと打ち明けたとき、島津さんも母さんも柔らかく微笑んで僕を温かく包んでくれた。重く苦しい毎日に傷つき、圧し潰され、千切れそうになっている僕に彼女たちはこれまで歩み寄ろうとしなかったのが、まるで嘘みたいに豹変して僕の弱さを肯定し繕いにかかったのだった。

 しかし三原さんは僕の弱さに寄り添う素振りはまるで見せなかった。三原さんは異常なほど言葉を鋭く研ぎ、僕に冷たい切っ先を向け、燃えるような目を向けている。そして僕はその三原さんの憎悪に燃え滾る炎の背後に、学校や社会で出会った人たちや父親の姿を見た。

 僕はいつの間にかくずおれて泣いていた。

「なんで。なんでなん。なんで、優しくしてくれんが」

 僕の声帯から男の情けない声が漏れた。僕のごつごつとした拳に涙の塊がぼとぼとと汚らしく落ちて何かの死骸のようだった。

「なあ、誰かに可愛いって言ってもらって、優しくされて、大事にされたいっていうがは、そんなにだめなことなんか。誰かが僕の傍におってくれてもいいやろ。誰かが僕を抱きしめてくれたっていいやろ」

「それを私に求めないで。私以外の誰かに言って。私は絶対にあなたには同情しない」

 僕はおいおいと声をあげて泣き始めた。繕う余裕がなかった。こんな風に泣いたのは生まれて初めてだった。

「誰もおらん。僕には誰もおらん。島津さんも高山さんて人に夢中や。一体誰が僕を抱きしめてくれるが」

「イカホロ」

「イカホロは無理やろ。巨大すぎるやろ。あんたそればっかや」

 僕はワンピースのピンクと紫の夢のようなグラデーションに顔を埋めた。僕の涙と汗と臭いの染みが夢のようなグラデーションを悪夢に塗り替えていくが、僕は涙を止めることができずひたすら声をあげて泣き続けた。

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