第19話 三原里歩(2)

 一通りの家事を終え、あたしはソファに寝転び天井を眺めた。憂鬱なことがあるとそればかり考えてしまうのがあたしの悪い癖だ。天井は殺風景なベージュ一色であるのに、稔くんで溢れてうるさく感じられるほどだった。

 稔くんが杏奈を連れて行きたがったのはあきた元気公園だけではなかった。稔くんは銭湯に杏奈をよく連れて行った。

 稔くんは、杏奈と一緒に遊んでいたら汗をかいたので、ひと風呂浴びてさっぱりしたかったのだと悪びれずに言い、あたしはなんだか嫌な感じがしてそれとなく言った。

「でも、お風呂なら、家にあるから、わざわざそんなところ行かなくてもいいんでねえの。連絡くれたらあたし、お風呂用意して待ってたよ」

 あたしがそう言っても稔くんはにこにこ笑っているだけだった。にこにこ笑ってあたしの言うことを無視し、執拗に杏奈を銭湯に連れて行った。稔くんは家でも杏奈を風呂に入れたがったが、あたしは稔くんが仕事から帰ってくる前にさっさと杏奈と一緒に風呂に入った。ささやかな抵抗だった。

「ねえ杏奈、お父さんとお外のお風呂行くことあるよね、あれね、いやって言って断って」

 湯舟で杏奈の頬を撫でながらあたしが言うと、杏奈は強張った顔で答えた。

「んだけど、いやって言うとお父さんしつこいから嫌なんだよね」

「しつけって、どういうことなの」

 杏奈は答えなかった。

 稔くんの叔父が亡くなったとき、あたし達は稔くんの実家へ行った。人が亡くなったというのに同窓会とお祭りが混ざったような騒々しさで、あたし達女は狭い田舎の台所をかいがいしく動き回り、男たちはだだっ広い座敷で酒を飲んだりご馳走を喰らったりしてげらげら笑っていた。稔くんももちろん客間に混ざり、赤い顔をして上機嫌に笑っていた。稔くんは幼い杏奈を膝に乗せ、男たちに自慢げに見せびらかしていた。

 人付き合いが苦手なあたしは女たちの台所でうまく立ち回ることができず、叱責されたり優しい声で嫌味を言われたりして息ができないでいた。杏奈のことまで気が回らず、稔くんに預けっぱなしだった。

 ばっけの天ぷらを座敷まで持ってゆけ、と言われた際、あたしはふらふらとした足取りで大皿三つをお盆に乗せて襖までたどり着いた。お盆を一旦畳に乗せ、襖にそっと手をかけたとき、稔くんのかんと明るい声が響いた。

「そういえば大阪の子供は南無阿弥陀仏のことを、まんまんちゃんあん、て言うらしいですね。ほら、杏奈言ってごらん。まんまんちゃん、あん。あん、だよ」

 少しの沈黙があり、男たちの野太いどっとした笑い声が大きな音の塊になってさく裂した。

「いやか。いやなのか、杏奈。なあ、何がいやだ。おじさん達にわかるようにちゃんと大きな声で説明しないとみんな納得できね」

「稔くん、そりゃしょしいからだよ。だって幼くても女の子だべや」

 子供でもちゃんとついているから、と誰かが言うとまた野太い笑い声がどっと鳴り響いた。

「そんなにいやか杏奈、なしていやなんだ。口にするのが恥ずかしい言葉なのか。なして恥ずかしいんだ。何がどう恥ずかしいのかしっかり口に出して説明しろ」

 あたしが襖に手を掛けたそのときだった。あさつきの天ぷらの乗った大皿はがちゃんと崩れて引っ繰り返り、また間の悪いことに台所にいたはずの女たちが通りかかった。女たちは声と眉をぎんと釣り上げてあたしに詰め寄った。

 あたしはひっと声を漏らしてその場にへたり込んでしまった。女の尖った声はまた次の女を呼び、あたしは囲まれて次々に詰られ台無しになった料理の責任を問われた。

 すみません、すみませんと泣いていると、襖の向こうで幼い女の子声が、あん、というか細い声が聞こえた。あん、あん、という幼い声は続いたが、野太い下卑た笑い声と神経質な女の叱責の向こうに消えていった。


 夕方頃、家のインターホンが鳴った。窓から玄関先をちらりと盗み見ると、橙色の中で切り取られた影は複数あった。皆まるくふくよかだった。ソファに戻って微動だにしないでいると、女性特有の神経質な囁き声が聞こえた。その後まもなくまたインターホンが鳴った。繰り返し鳴るインターホンを聞きながらあたしは天井の素っ気ないベージュを眺めていた。強張る身体に包まれた心臓の音がばくばくとうるさかった。

 夜になると稔くんが帰って来た。イカホロのスリッパを履いた稔くんは宣言通りちゃんと小さな花束を持っていた。そしてそれ以外にA4サイズの紙を一枚持っていた。そこには黒マジックの太字で大きく、三原さんにお話があります、と書いてあった。かすれたインクから書き手の怒りが滲み出ている気がした。

「なんかね、ドアに貼ってあったよ」

 稔くんが興味なさそうに言ってぽいとフローリングの上に落とした。

「ねえ里歩ちゃん、杏奈がいたら代わりに応対してもらえるのにって思ってるべ」

「そんなこと……」

 今朝出したゴミに不備があっただろうか、それともさぼってしまったゴミ当番の話だろうか、それとももっと他に問題があるのかもしれない。問題だらけなのだ、あたしは。

 あたしの身体が強張り始めたのに気付き、稔くんが意地悪くにやにやと笑った。

「近所の人と話すのを想像して怖がってるんだね、可哀想な里歩ちゃん。唇に歯が喰い込んでるよ。遭遇チャルチャルニに似てる。でも、そんな里歩ちゃんに良い知らせがあります」

 稔くんが買って来た花を飾って二人で夕食をとった後、あたしは杏奈に電話をした。杏奈のもしもし、という声に割り込むようにしてあたしは言った。あたしの声は靄が晴れたかのように爽やかだった。


「もしもし杏奈、いい知らせだ。稔くんがね、金沢に転勤が決まった。ねえ、あたし達、また三人で暮らせるのよ!」

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