第18話 三原里歩(1)

 稔くんが大好きな『宇宙虹人イカホロ』とやらをあたしはよく知らない。

 でもあたしは稔くんのことが大好きだ。だから稔くんが大好きなイカホロのこともちゃんと知りたい。そう思いこれまで幾度となくDVDを再生してきたのだが、格好いい男の人が一人も出て来ないのが退屈で最後まで観られた試しがない。イカホロはあたしが生まれる前の映像だから古臭いし、怪獣も戦闘機もヒーローもあたしにはどうでもいいことなので、まったく心が動かない。

 この家にはどの部屋にも所狭しとイカホロの人形やらグッズやらが置かれているが、あたしには何がどれなのかよくわからない。一度、稔くんが喜ぶと思ってイカホロのグッズを買って帰ったことがあった。しかし稔くんは喜ぶどころか怒り狂ってそれを床に叩きつけた。仲裁に入ってくれた杏奈によると、あたしが買って来たものはアニメ版のイカホロで稔くんの好きな特撮版のものではなかったらしい。どうやらイカホロにはアニメ版と特撮版の二種類があって、稔くんは特撮版のイカホロしか許せないらしいのだ。

 それ以降あたしはイカホロに歩み寄るのをやめた。

 稔くんはちょっと気難しいところがある。あたしは稔くんのことが大好きだが、一番好きなのは稔くんの顔だった。今は少し太ってしまったが、目がくりくりとしてとても可愛い顔立ちをしている。結婚してから二十年以上経つけれども、未だに稔くんの顔に見惚れてしまうことがある。だから稔くんの怒った顔を見るのがあたしは何よりも苦手だ。稔くんの声が不機嫌そうにきりりと尖るだけで身がすくんでしまう。

 杏奈が金沢の大学に進学してから、あたしはイカホロの家に稔くんと二人きりになってしまった。杏奈がいた頃は、食卓が少しでも険悪な空気になるとすぐさま杏奈が道化のように振舞って場を明るくしてくれた。それが二人きりだと稔くんが黙って食事をとっているだけでも、あたしは怖くて泣きそうになってしまう。稔くんの趣味で我が家のテレビは常にイカホロで、あたしはイカホロの顔と稔くんの顔を交互に見ながら、自分がいつ稔くんに嫌われるかと気が気でなかった。

 杏奈がいればこんなことにはならないのに。あたしはついそう思ってしまう。

 杏奈が金沢に行ってから三年が経とうとしている。夏休みだろうと年末だろうと杏奈は何かと理由を付けて秋田に帰ってこない。怒った稔くんが、帰ってこなければ学費を払わないと脅して去年やっと一度帰って来た。玄関先で杏奈の明るい声が響いたとき、あたしは家の中に温かな灯りが一斉にともったような心地になった。普段自分の部屋に引きこもって一日中パソコンとにらめっこしている稔くんも、このときばかりは大喜びで部屋を飛び出して杏奈を迎えた。

「おお、デイジー帰ってきたか。元気だったか」

「そのデイジーっていうのやめて。何度も言ってるでしょう」

 杏奈はスーツケースを引っ張りながら稔くんの軽口を遮った。稔くんはどういうわけかときどき杏奈のことをデイジーと呼ぶ。どうやら杏奈が幼い頃に履いていた靴下にデイジーと刺繍が入っていたのを稔くんが面白がって呼んでいるらしかった。幼少期の杏奈の衣服はすべてあたしが選んでいるはずだが、そんな靴下のことなんてあたしは記憶にない。取るに足らないことなのに、稔くんは細かいことまでよく覚えている。イカホロに出てくる怪獣や必殺技をすべて覚えている人なのだから、そういうのも全部覚えてしまうのだろう。あたしは物覚えが悪い方なので素直に感心してしまう。

 稔くんはデイジーの名をいたく気に入っているが、杏奈の方はその呼び名を忌み嫌っていた。稔くんは機嫌を損ねると手が付けられなくなるくらいに暴れる人だから、杏奈も表立ってはあまり強く言えないでいるが、あたしと二人きりになると憎々し気に稔くんの悪癖を罵った。

「そんなに嫌だべかその呼び方。あたしはめんけくて好きだけどな」

 あるとき宥めるように言うと、杏奈は物凄い目つきであたしを見た。憎悪に燃える目をしていた。杏奈の大きな目は稔くん譲りで大きく、くりくりとよく動く。その目でぎっと睨まれると、迫力のあまりあたしは恐怖で力が抜けてへたりこんでしまう。

 例の悪癖を除けば稔くんと杏奈の仲は良好だった。杏奈は子供の頃からずっと稔くんにべったりで、休みの日は稔くんに色んな所に連れまわされていた。人付き合いが苦手なあたしは外に出るということが大きな憂鬱で、遊び盛りの杏奈を外に出してあげることができないでいた。優しい稔くんはあたしに気を遣い、休みの日は朝から晩まで杏奈を遊びに連れて行った。平日はどこにも行けない杏奈は、大喜びで稔くんについていき、その鬱憤を晴らすかのようにくたくたになるまで遊び尽くして帰って来た。

 あたしと違ってよく遊んでくれる稔くんに杏奈はよく懐いた。稔くんが好きだというものは杏奈も好きになった。カリフラワー、クッキー、えびのしっぽ。そして稔くんがこよなく愛する『宇宙虹人イカホロ』も杏奈は大好きになり、毎日一緒になって観た。イカホロは子供番組だから、杏奈も成長するにしたがって卒業するのではないかと思っていたが、杏奈のイカホロ熱はむしろ加速していった。毎日食い入るようにDVDを視聴し、真面目な顔でイカホロのテーマソングや台詞を口ずさむ杏奈は少し怖い気がした。実在しないヒーローに傾倒する姿はどこか脆く見え、親として何か言ってやりたい気もしたが、稔くんの手前それは憚られた。

 稔くんは年中頭に花が咲いたようにイカホロを眺めているが、杏奈はまるで縋りつくようにイカホロを眺めている。稔くんはイカホロは己の人生だと日々口にし、杏奈もそれと同じことを言う。しかし稔くんと杏奈のそれは何か性質が違うような気がした。二人ともイカホロに対して真剣だが、しかし杏奈はときどきふっと空虚な顔になることがあり、あたしはそれが怖かった。それはすべての色が沈んでしまったような顔だった。あたしはそれを見るとひどく切なくなり、母親として寄り添ってやりたい心地になるのだった。しかし、人付き合いが苦手なあたしは動けないでいる。実の娘だというのに物怖じしてもじもじして立ち尽くしている。

 杏奈のことを考えると寂しい。遠く離れた土地で元気にやれているだろうか。あたしと違ってしっかりしているから大丈夫だろうが、親としてはやはり顔を見て声を聞きたくなるものだ。画面越しの文字のやり取りだけでは心もとない。

 あたしはふと冷蔵庫に貼ってある杏奈の写真を見て、そして台所の隅に大量につくねられたゴミ袋を見た。一気に現実に引き戻されたような気がした。

 外の世界が憂鬱なあたしにとってゴミ捨ては最大の苦痛だった。杏奈がいたころは杏奈がすべてやってくれていた。杏奈が金沢に行ってからゴミ捨てはあたしの仕事になった。あたしもそれはちゃんとわかっていて、いつも早く起きてそのための時間も用意しているのだが、いざ行こうとすると嫌な気持ちがまとわりついて脚が重く動かなくなってしまうのだ。両手にゴミ袋を持ったまま二時間玄関のドアを見つめていることもあった。行かなければ、と思いながらも時間は過ぎる。時間は過ぎて今もう一か月経った。

「明日、ゴミの日だね、里歩ちゃん。そろそろ投げに行かない?」

 振り向くと稔くんが立っていた。仕事を終えていつの間にか帰って来ていたのだった。冷蔵庫からエビフライを出して温めなくてはと思いすぐに背を向けたが、稔くんの目は心なしか笑っていないような気がした。

「うん、んだな、そうするべ」

 あたしの神経はぴんと尖り、稔くんの一挙手一投足に集中していた。稔くんの方から僅かな物音がしただけでもあたしの心臓がばくばくと音を立て暴れ狂う。明日の朝のゴミ捨ては何が何でも成し遂げなくてはならない。


 次の日あたしは誰にも会いませんようにと強く神様に祈りながらゴミを捨てに行った。一か月も溜めていたゴミが一度で捨てきれるはずもなく、あたしは背中に冷や汗をかきながら家とゴミステーションを何度も往復しなくてはならなくなった。大して時間はかからないはずなのに、永遠のように長く感じられた。そしてどうやらあたしの神様は飽き性で意地悪らしかった。これで最後だというところで、町内の人に遭遇してしまった。心臓を一突きされたような気持ちになった。

「あら三原さん、おはようございます」

 ゴミステーションの前で一人の主婦が言った。いつの間にか三人が集まって立ち話をしていた。あたしは顔をゆっくりとあげ、すぐに俯いた。

「……ようございま……」

「ねえ三原さん。あなた前回のゴミ当番やるの忘れましたよね。困るんですよ、みんなでやってることなんだから守ってくれないと、みんなに迷惑がかかるんですよ」

 きつい声がかんと響いた。自分の母親ぐらいの年代の人の声は特に苦手だ。この世代の人たちはやたらあたしに厳しいのだ。

「……はあ」

「今までやってくれていた杏奈ちゃんが金沢に行ってしまったのは知っていますよ。けどねえ、母親のあなたがやらないと」

 あたしはうんともすんとも言えずに足元の影を見つめた。ゴミ捨てだけでなくゴミ当番もずっと杏奈がやってくれていた。自分でも甘えていると思う。

「あーあ、杏奈ちゃん戻って来ないべか」

「戻って来たくねえべ、きっと一人暮らしでせいせいしてるべ」

「ねえ三原さん、あのねえ、これを機に言っておきますよ。あのねえ、あなた達ちょっとしっかりしないとねえ、杏奈ちゃんが可哀想ですよ」

 あたしは影に沈むアスファルトの模様をじっと見つめて耐えた。今聞いているのは風の音、そして川の音、流れていくだけの音。だから、ちゃんと聞かなくていい。

「三原さん、ちゃんと話聞いていますか? いつだって、はあ、はあって気のない返事をして。あきた元気公園の件だって、みんなあんなに言ったのに、少しも聞き入れやしなくて結局旦那さんしょっちゅう杏奈ちゃんを連れてったじゃないですか」

 あきた元気公園は近所にある公園だ。大きな公園だが、木々が多く昼でも夏でも鬱蒼としており、また大きく立派な公共トイレがあるので、変質者のたまり場になっているという噂が流れていた。その昔、多くの女の子が被害に遭ったと言って、近所の人たちは子供たちにそこで遊ぶことを禁じていた。

「そんな昔のこと言われたって……。そ、それに、連れて行ったのは稔くんです、あたしじゃありません」

「旦那がやったから自分は関係ないとでも言いたいんですか?」

「でも、ただの噂ですし。被害に遭った子がたくさんいたってのも、昔の話なんでしょう。それに、杏奈はあの公園が本当に好きで、自分から行きたいって言っていたんです」

「旦那が知らなくても杏奈ちゃんが行きたいと言っても、あなたが止めるべきだったんですよ。あなた、杏奈ちゃんが心配じゃなかったんですか?」

「それ、どういう意味ですか。あなた達、杏奈が被害に遭ったとでも言いたいんですか」

 あたしが声を振り絞ってそう言うと、主婦たちは一斉に口を噤んだ。まだ朝の気配も始まらないしんと静まった空気が満ちていた。あたしはいつの間にか泣き出していた。その場で顔を押さえ、うっ、うっ、とみっともない呻き声を出し続けた。

 主婦三人はあたしの呻き声を聞きながら暫く黙っていたが、そのうち一人が静かに言った。

「んだばわからね、三原さん。杏奈ちゃんしか……」

 鈍い足音がして三人が去ったのが分かった。あたしはそれでもずっと泣き続けた。


 重い足取りで啜り泣きながら家に帰ると稔くんが待っていた

「里歩ちゃん、ちゃんとゴミ投げてこれたんだね、めんこいめんこい」

 稔くんは怪獣の人形をあたしの頭と肩に乗せた。稔くんはあたしのゴミ捨ての一部始終を見ていたらしく、あたしの動作を真似して演じて見せた。稔くんはご機嫌で、泣き出すところなんて怪獣なんたらにそっくりだった、とまで言った。あたしは孤独なゴミ捨ての戦いの間、ずっと自分の背中に稔くんのくりくりよく動く大きな目がじっと張りついていたのを思ってぞっとした。

「今日、花を買って来るよ。ゴミ投げれたご褒美。店で一番綺麗なやつをけでやる。里歩ちゃんは可愛い上にゴミも投げれてえらいね。本当にめんこちゃんだね」

 稔くんはにっこり笑った。それはきっとあたしの大好きな稔くんの顔だと思ったが、涙で肥大した瞼ではよく見えないのだった。

「稔くん、あきた元気公園って覚えてるべか……」

 稔くんは幼い杏奈を朝から晩までいろんな場所に連れて行ってくれたが、気まぐれで飽き性なところがあり、杏奈を置いてゲームセンターや玩具屋に行ってしまうことがあった。杏奈を連れて行けばいいのに、杏奈が夢中で遊んでいるのを邪魔するのは悪いからと言って一人で車に乗ってふらっと行ってしまう。杏奈は賢いので置いて行かれた後もじっとその場に留まって稔くんを待っていた。おかげで迷子になることはなかったが、あたしがそれを咎めると、稔くんは激昂して手が付けられないほど暴れた。あまりにもひどいので床を這うあたしを幼い杏奈が泣いて庇うほどであった。杏奈の小さな身体の下であたしは呻いた。

「あきた元気公園だけは行かねでって、あれほど言ってるじゃない。なしてそこばかり行くのよ、あそこは危ねってご近所さんも口を酸っぱくして言ってるべ。なしてそれが聞けねえの?」

 フローリングはあたしの涙と唾液と抜けた髪の毛で汚れていた。

「木っこ、いっぺ生えでて緑が綺麗なんだ。お気に入りの場所なんだぁ」

「でも、その割にはすぐに飽きて別の場所に行くべ。なして最後まで杏奈を見ね? なして杏奈を一人にするの」

 稔くんが口を閉ざした。くりくりした目が吊り上がってあたしを睨みつける。すると幼い杏奈が舌足らずに叫んだ。

「ちがう、私が行きたいって言ったから。ねえお父さん、んだよね」

 途端に稔くんの顔は灯りがともったようにぱっと明るくなった。甘い猫なで声で杏奈を抱き上げ、天井に向かって高く高く腕を伸ばす。

「おおんだなんだな、杏奈が行きたいんだよなあ。杏奈はあの公園がしったげ好きだから」

 はしゃぐ稔くんの手の中で杏奈の顔は強張っていた。あたしは床に這いつくばってその小さな顔を眺めることしかできなかった。

「杏奈が行きてって言ってたんだよなあ。杏奈はあの公園がしったげ好きだったから」

 稔くんはあたしの頭に乗った怪獣を回収しながら、甘美な思い出を愛でるようにゆっくりと目を細めた。稔くんは間もなく出勤し、あたしは鈍い身体を引きずって家のことを済ませた。

 洗濯機から洗濯物を取り出しているとき、あたしの携帯電話が鳴った。稔くんからメールが届いた音だった。「めんこい」と一言だけ添えられていた動画を再生するとあたしが震えながらゴミ捨てに行く後ろ姿が映っていた。稔くんはカーテンの隙間からじっとあたしを見つめて、息を潜めてその姿を動画に収めていたのだった。

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