第6話 たとえ壊れても
「……申し訳ありません。私のせいでこのようなことに」
「いや、いつかはこうなる運命だったのだろう。君は途中で任務を放棄することなく、ここまで王女様を連れて来てくれた。礼を言わなければならないよ」
王妃の叔父であり、王女の大叔父にあたる神官は、自分を一言も責めなかった。どこか王妃に似た優しい
湯気を立てる白いミルク。少しだけ口に含めば、ほんのりと蜂蜜の甘さが広がり、それ以上はどうしても飲むことが出来なかった。白い水面には、ただ波紋が広がっていく。
「……解呪方法は分からないのですか?」
「ああ。私を含め何人もの神官が調べたが、結局分からずじまいだった。呪術というものは、必ず解呪と対で行わなければ効果が現れない。だから絶対に方法があるはずなんだが。何しろ自分自身を生贄にしてまでかけた、強力な呪術だ。きっと解呪方法も、人の命に関わるような、残酷なものなのだろう」
絶望と怒りにどす黒いものが沸き、手が一層震え出す。
「それにしてもこんなに急激に……王女様はきっと、君から沢山の愛を受け取ったのだろうね」
いっそ責めて欲しい。お前のせいで彼女は壊れてしまったのだと。優しい言葉が今は刀となり、心を抉る。もう、上手く泣くことも出来ずに、熱を失っていくカップに彼女を重ねていた。
「たとえこのままお亡くなりになったとしても、王女様自身は幸せかもしれない。あの冷たい塔から、愛の中へと解放されたのだから。身体の機能は失っても、心は満たされているはずだ。……王妃様のお気持ちを思うと、進言することは憚られたが」
「……殺してやりたい。あの森へ行って、彼女を呪った女の魂を探し出して、この手でもう一度殺してやりたい」
カップから、大きな波となったミルクが溢れる。
「右目をあげたい。鼓膜をあげたい。舌をあげたい。手足も、心臓も! 呪いも、哀しみも、全部引き受けられたらいいのに……」
何より憎いのは自分だ。彼女を壊した自分が……何よりも。
「……やっぱり、あの子は幸せだな」
拳に優しい手を添えられ、哀しみが決壊した。
「本当に会わないで行くのか?」
「ええ……もうこれ以上は。どうか、王女様をよろしくお願い致します」
「王妃様からはまだ何の連絡もない。戦況が全く分からないのに、帰国するのは危険だ」
「私は王室の騎士ですので、王族方の為に戦うのは当然のことです。……王女様の護衛の任は終えましたので」
頭を深く下げると、神殿に背を向け歩き出した。
戦って命を落とせるなら本望だ。もし王妃様がご無事なら……直接この首を刎ねてもらおう。
何も見たくないのに、今夜はやけに明るい。見上げれば、暗いはずの夜空を、無数の星の光が隙間なく埋め尽くしていた。
『星はもっと綺麗だけど、どんなに頑張っても届かなくて、諦めてしまいました』
手を伸ばしてみるも、やはり
その内ユラユラと光が歪み、バランスを崩して倒れ込んだ。
何をやっているのだろう……たとえ取れたって、彼女はもう見えないじゃないか。
こんなに綺麗な光を……もう……何も。
熱い目を伏せ、膝を抱えた時だった。
スルスルと草の上を滑るような音が聞こえ、耳をすませる。
神官様か? いや、足音にしては……小動物?
ゆっくり顔を上げ、音の方へ顔を向ける。
……幻だろうか。
ごしごしと涙を擦り、目を凝らした先には────
左足を引きずりながら、残った右足で懸命に歩く彼女が居た。
何も見えないはずなのに、聞こえないはずなのに、ちゃんとこちらへやって来る。
両手はダラリと垂れ、焦点の合わない金色の瞳からは涙が溢れている。白い頬を濡らすそれは、頭上のどの星よりも眩しかった。
あと少しという所で、よろけて倒れそうになった身体を受け止める。
華奢で冷たくて柔らかい身体。抱いた腕から心へと、一気に愛しさが波打つ。でも、こうして俺が腕に抱いていることを、君は気付いていないかもしれない。あの日君がそうしてくれたように、濡れた頬に唇を寄せていることも。
「……イラ様……レイラ様」
ずっと呼びたかった美しい名前。君が聞こえる内に、呼べばよかった。
「……うっ……ううっ……う」
誰の泣き声だろう。
鼓膜を震わせる、高い泣き声。
辺りを見回すも、二人の他には誰も居ない。……まさかとローズレッドの唇に耳を当てれば、確かにそれは、その愛らしい喉の奥から響いている。
「うう……うっ……」
……なんて綺麗な音なんだろう。
風のささやきよりも、鳥のさえずりよりも、そしてあのオルゴールよりも、もっと、もっと。
澄んでいて、キラキラして。星が降ったら、もしかしたらこんな音がするのかもしれない。
「ご……ばれでも……いい」
たどたどしい発音。だけど彼女は、確かに喋っている。聞き逃すまいと、耳をぐっと近付ければ、もう一度唇を動かしてくれた。
「ごばれでも……いい…………そばじ……いで……」
“壊れてもいい。傍に居て”
……君は気付いていたんだね。俺が君を壊してしまうことを。だから君から離れたことを。
もし、それが本当に君の幸せならば……
「傍に居る……ずっと、君の傍に居るよ」
「うれ……じい」
…………え?
唇を彼女の耳に当て、しっかりと尋ねる。
「俺の声が、聞こえているのか?」
こくりと顎を下に傾けるその仕草は、何度も何度も見てきた、言葉代わりの可愛い返事。
「ほじ……きれ……」
“星きれい”
さっきまで虚ろだった金色の瞳は、焦点が合い、真っ直ぐ空へ向かっている。左手で一番大きな星を指差したかと思うと、今度は右手で、俺の頬を優しく撫でた。
連鎖していく信じられない奇跡。これはどういうことなのだろうか。
細い左足を踏ん張り、自分の力で身体を起こした瞬間、彼女にまた別の変化が表れた。金色の瞳は、王妃と同じ栗色へ、シルバーブロンドの髪は、王と同じ焦げ茶色へと変化していったのだ。彼女を縛っていた、重い何かがほどけていくように。
もう、あの神秘的な美しさはない。けれど、優しく愛らしいその色は、彼女によく合っていた。
「可愛い……すごく可愛い」
雪のようだった白い肌が、血色の良いピンク色に染まっていく。変わらない華奢な身体を力一杯抱きしめ、その肩に顔を埋めた。
自分の足でしっかりと歩く彼女を見て、神官は驚き、呪術が完全に解けたのだと言った。
解呪方法は……推測だが、彼女が誰かを愛し、それを愛だときちんと認識することだったのではないかと。
それが本当ならば、この呪術は、受動的な愛と能動的な愛を天秤にかけた、非常に残酷なものだと言える。
誰からも愛されないのに、誰かを愛さなければ永遠に呪いを解くことが出来ない。しかも与えられる愛が重すぎれば、愛を与える間もなく、命を落としてしまう。
長い間愛を教わらなかった彼女が、たった二週間余りで自分を愛し、それに気付いてくれた。それは本当に奇跡としか言いようがなかった。
その夜は二人、キャンディを一粒ずつ、ゆっくり味わいながら話をした。甘いだけじゃない。酸味や苦味、色々な味を受け入れながら。
やがて星が朝靄に溶けていく頃、微睡む視界には、新しい光の道が差していた。
その後やって来た使者によると、自分達が隣国との国境を越えた二日後に敵国が攻め込み、必死の防戦も虚しく首都と王宮が陥落したらしい。だが、敵国の属国となることで合意した為、王族は皆無事であるという知らせだった。
帰国は危険だと判断し、しばらく彼女と共に神殿で世話になることになった。
この先のことは全く分からない。だけど……
何があっても、決して彼女の傍を離れない。どんなに困難でも、二人で選んだ確かな道を歩いて行こう。
◇◇◇
────二年後。
ラヴェット国の田舎に建つ小さな家で、妻になったレイラと二人、ささやかに暮らしていた。
ラヴェット国王にとっては孫に当たるレイラ。彼女を守り、呪いを解いたことで、俺はこの国の永住権と爵位を賜った。
首都に屋敷を用意してくれるという申し出を断り、この田舎の領地を望んだのは、自然が好きな彼女の為。辛い思いをした今までの人生を取り戻すことは出来ないが、これからは好きなものに囲まれ、好きなことをして、自由に暮らして欲しかった。彼女が笑顔でいてくれることが、自分の幸せなのだから。
毎朝こうして、小さな彼女の手が、左目に眼帯を着けてくれる。もう厚い前髪で隠すことはない。
「風が気持ちいいから、外で朝食にしよう」
テラスのテーブルに並ぶのは、蜂蜜入りのホットミルクに、かぼちゃのパイ。それと林檎。甘味以外の味覚を感じられるようになっても、彼女は甘い物が好きだった。美味しいと感じている時の、この膨らんだピンク色の頬は、何度見ても愛おしい。
柔らかい朝日を乗せた風が、そよそよと頬を撫でる。こんな時は眼帯を外し、ありのままの顔で受け止めてみれば、もっと心地好い。
恐れるものはもう何もない。たとえ醜くても、彼女は自分を愛してくれたのだから。
父と母を殺し、自分の左目を奪ったラヴェット国。子供心に、いつか滅ぼしてやりたいと思った国の自然は豊かで、人々は皆親切だった。ずっと憎んでいたラヴェット国王でさえも、王妃やレイラとよく似た、優しい栗色の眼差しの老人だった。
愛は元々呪術のようなものだ。重みを増せば増す程、ほんの少しの傾きで憎しみに変わる。
あの寂しい森で一人きり、自分を深く傷付けてまで、レイラに呪いをかけた女。その凄まじい憎しみの裏にあったのは、きっと純粋すぎる愛だったのかもしれない。
こんな風に考えることが出来るのは、今、自分が、傾きのない真っ直ぐな愛の中に居るからなのだろう。
「あっ……」
キラキラした彼女の声に顔を上げれば、太陽はそのままに小雨が舞っていた。
「お天気雨だね」
「きれい」
うっとりと眺める彼女の肩を抱けば、手を優しく重ねてくれる。
水溜まりが出来たら、もしそこに虹が映ったら、彼女はどんなに喜ぶだろうか。
もっと降って欲しいと、空に願った。
愛さないで。壊れてしまうから 木山花名美 @eisi0922
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