第5話 王妃が託したものは
「王女様、此処で少し休憩しましょうか?」
腰を下ろした木陰で、水筒から美味しそうに蜂蜜水を飲む彼女に目を細める。麓で言っていた通り、意外と体力があるのか、二時間程通して山道を登っても辛そうな様子はない。太い木の幹に触れたり、花や栗鼠を見て微笑んだりと、むしろ楽しそうに歩いてくれている為、ホッとしていた。
非常食を取り出すと、一粒彼女の手に置く。
「山での食事はこの非常食になります。味はしませんが、お腹は一杯になりますので」
こくりと頷き口に入れると、頬をカラコロと動かしながら、更にこくこくと頷く。
「お口直しに好きな色をどうぞ。こちらはちゃんと甘い、本物のキャンディですよ」
差し出した小瓶の中には、色とりどりの丸い粒が詰まっている。味のない非常食ばかりではつまらないだろうと、予め用意しておいたものだった。パッと顔を輝かせ、どれにしようかと指を彷徨わせる彼女に、買っておいてよかったと嬉しくなる。
選んだのは、非常食と同じオレンジ色の粒だった。笑顔で口に入れるも、頬が動く度に表情が消えていく。
……口に合わなかったのだろうか。
「何の味ですか?」
彼女はそれには答えず、同じ色をもう一粒摘まむと、俺の口元へ差し出した。
……食べろってことか?
少し躊躇うも、白い指から唇で直接キャンディを受け取る。ちょんと触れてしまった場所が熱くなり、正直味どころではない。でも、浮かされた意識の中で、柑橘系の甘みが確かに広がり出した。
「オレンジの……味ですね。とても甘い」
彼女は金色の瞳を見開くと、また一粒同じ色を摘まみ、パクリと口に入れる。頬を大きく動かしながら、他の色も次々に口に放り込んでいく。
一体どうしたのだろう。
「お口に合いませんでしたか?」
頬を膨らませたまま、どこかぼんやりする彼女を覗き込む。するとふるふると首を振り、石板で答えてくれた。
『美味しいです。でも、お腹が一杯になってしまいました』
非常食の効果が現れるにしては早いと思うが……体型によって個人差があるのかもしれない。
彼女の硬い表情に違和感がありつつも、再び山を登り始めた。
しばらく行くと、前を歩く彼女が不意に足を止める。辺りをキョロキョロと見回すと、突如足を踏み鳴らしたり、近くの低木をバサバサと揺らし始めた。
「……王女様?」
呼び掛けるも反応がない。聞こえているはずの右耳に向かいもう一度呼び掛けるも、怯えた
「王女様……私の声が……聞こえないのですか?」
目線を合わせ尋ねれば、金色の瞳から、どっと涙が溢れた。
幸い近くに山小屋を見つけ、項垂れる彼女を半分抱き抱えるようにしながら入った。
何故……何故自分ではなく、彼女の身体に異変が。……そうだ、あれを。預かっていたあれを。
震える手であの封筒を取り出し、口を破ろうと指をかけた時、ガンと王妃の言葉が響いた。
『王女の身に何か異変が生じた場合にのみ、これを開けて欲しい』
王女の身……自分ではなく王女の身。
王妃は初めからそう言っていたのだ。
呪いというのは……塔に閉じ込めていたのは……
裂くようにして開けた中に入っていたのは、護符ではなく一通の手紙だった。彼女を椅子に座らせると、少し離れた場所でそれを開く。
『この手紙を開いたなら、今すぐに王女と距離を取って欲しい。目を合わさず、話し掛けず、触れず。王女をおぞましいもの、もしくは命のないただの物だと思いながら、何とか神殿まで辿り着いて欲しい。さもなければ、王女は壊れてしまう』
“壊れてしまう”
その言葉に、手紙から顔を上げて彼女を見る。膝に手を重ね、背筋を伸ばし座る横顔は、白く、儚く。今にも消えてしまいそうだった。
『王女に残酷な呪いをかけたのは、国王陛下の元婚約者である。我が祖国ラヴェット国との先の大戦で、和平交渉の駒として私が嫁いだ為、元婚約者は妃になることが叶わなかった。それを逆恨みしてのことである。
彼女は陛下でも私でもなく、大切なお腹の子供を呪った。あの森で、彼女は自ら身体を深く傷付け、その血を使いながら強力な呪術を行った。それは、愛されると壊れていくという呪い。子供が愛を与えられ、それを感じてしまうと、五感から始まり、四肢、臓器、やがて全ての身体機能を失い死に至るという。
何人もの神官に相談したが、解呪方法が分からないまま、とうとう出産を迎えてしまった。
育てなければ、愛さなければ、どのみち赤子は死んでしまう。私達は悩みながらも、乳母と共に手元で育てた。
可愛くて、可愛くて。気をつけていても、どうしても笑いかけてしまう。どうしても抱き上げてしまう。愚かな私達のせいで、王女は僅か一歳で、幼い子供にとって一番大切な泣き声を失った。
もうこれ以上何も奪う訳にはいかないと、歩き始めたばかりの子を、ぬいぐるみと共に塔へ閉じ込めた。誰も王女を愛さないように、王女の瞳を見たり情をかければ呪われると偽りながら。王女自身にも、目を合わせば人を呪うと、そう認識させた。
下女も、召使も、家庭教師も、王女に情を抱かないように、出来る限り人を変えた。それでも誰かが王女に愛を与え、王女もそれを感じてしまう。
声に次いで、王女は徐々に左耳の聴力を失った。そして味覚も、甘味しか感じられなくなった。
どんなに愛から遠ざけても、きっといつかは五感を失い、命を落としてしまう。それならば塔から出し、思う存分愛を与えたい、その方が王女も幸せなのではと何度も葛藤した。でも、どうしても出来なかった。可愛い寝顔を見に行く度に、どうしてもこの子を失うことは出来ないと。
親が子を愛せない。子が愛を受け取れない。これ以上残酷な呪いがあるだろうか。何が私を一番苦しめるか、彼女はよく分かっていたのだ。
たとえこの国が滅んでも、娘には生きて欲しい。残った機能を大切に、出来る限り生きて欲しい。
だからどうか、娘を愛さないで。
そなたにこのような重い任務を課してしまったことを、心から申し訳なく思っています』
読み終わっても手紙を畳むことが出来ず、文字の羅列を視界に入れたまま、その場に立ち尽くしていた。
右耳の聴力と…………恐らく味覚も完全に。
俺のせいだ……俺が彼女を愛したせいで、大切な機能を二つも奪ってしまった。
荒い呼吸を整えようとすればする程力が入り、手紙がくしゃりと潰れた。
もう、どうすればいいかなんて分かっている。だけど……
“愚かな私達のせいで…………失った”
その言葉が、弱い自分を奮い立たせる。
つかつかと歩き、彼女の前へ立つと、傍らの石板を取り、冷たい文字を書いて見せた。
『もう私の目を見ないでください。一刻も早く、気味の悪い貴女と別れたい』
白い喉がこくりと動く。哀しげな瞳で見上げられる前に、石板を床に思い切り投げつけた。鈍い叫び声を上げ、それは真っ二つに割れる。彼女は咄嗟のことに目を丸くするも、スッと椅子から降り、欠片を必死に合わせる。元に戻そうと、華奢な手で必死に……
抱きしめたくなる衝動を抑え、更に石筆も投げつけると、彼女に背を向け外へ出た。
薄暗い小屋の裏で、まだ明るかったはずの空を見上げる。
葉のささやきも、鳥のさえずりも、彼女の耳にはもう何も届かない。甘いキャンディや菓子で笑うこともない。夕陽交じりの風が醜い目を刺し、涙が溢れる。湿った草にぐしゃぐしゃの顔を埋め、声を押し殺した。
目を合わさず、話し掛けず、触れず。
彼女をおぞましいものだとも、命のない物だとも到底思えなかったが、何とか王妃の言う通り、距離を取りながら山を登り続けた。
……それでも異変は止まらなかった。翌日には左目の視力を、その翌日には右目の視力も失われる。そんな彼女が一人で歩ける訳がなく、冷たい身体を背負うしかなかった。身体に触れると、更に異変は加速する。
もう、いつの間にか嗅覚まで失われていたらしい。きっと触覚も。五感を失った後は左手が動かせなくなる。次は右手。
国境を越え、残りの山を駆け下り、ラヴェット国の神殿に辿り着いた頃には、左足をも引きずり始める。
その姿は、愛で過ぎて壊してしまった人形のように、どこまでも哀しかった。
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