第4話 優しい行為
翌朝は宿でゆっくりと朝食をとり、着替えや必要な物を雑貨屋で入手してから出発した。
……まさかあのまま朝まで熟睡してしまうとは。背中でもぞもぞされなかったら、昼まで寝ていたかもしれない。
眠りが深かった為か、悪夢を見ることもなく、頭も身体もスッキリとしている。いつもは眩しすぎる朝日も、今朝は柔らかく溶けていった。
目覚めてもしばらくは背中にくっついていた王女だが、「起きて朝食にしましょう」というと、頷き大人しく離れた。同じベッドで男が寝ていたというのに、特に動揺した様子は見られない。むしろこちらの方が……
床のぬいぐるみに気付くと慌てて拾い上げ、ごめんねという風に頭を撫でていたが、他は変わった様子はなかった。
ただ、あまり食欲がないのか、宿の女将お手製のチーズパンも、具沢山のスープも、ほんの一口食べたきりで残してしまった。昨日のパンは、むせる程美味しそうに食べていたのに。
今日も貸馬車を手配すると、昨日とは逆の、王女の右側へ並んで座った。少し思うところがあったからだ。
馬が軽快に走り出し風に乗ると、さっき買ったばかりの小さな石板と石筆を、王女へ渡す。
「会話する時にお使いください。繰り返し使えて便利ですから」
王女の口角がふわりと上がる。石筆を握るとサラサラと文字を書き始めた。
『ありがとう』
続けて、文字の横に何かの顔を描く。
「……あっ、ひょっとして、この子ですか?」
膝の上の天使を指すと、こくこくと頷いた。
「可愛いですね。私も何か描いてみていいですか?」
石筆を渡されある物を描いてみせると、王女はポシェットからキャンディを一つ、楽しそうに取り出す。
「そう、正解です。じゃあ……これは? 何か当てたら差し上げますよ」
上手く描けなかった丸い何かに、王女は首を傾げる。
「久しぶりに描くと難しいものですね。自分で描いたのに……ふっ、私も何だか分かりません」
王女は口を手で押さえ、肩を揺らした。
あ……笑っている。完全に笑っている。人形みたいだった彼女の、こんな姿を見られるなんて。それは、砂の中から砂金を一粒探し当てたような嬉しさだった。
「描いた本人も分からないなら仕方ないでしょう。キャンディは当てたので、こちらを差し上げます」
雑貨屋で会計する時、カウンターに置かれていた袋。ドライフラワーと空色のリボンが結んであるそれには、丸いクッキーの絵が描かれている。
手に乗せると、王女の口があっと開く。そのまま口角がはっきりと上がり、初めて白い歯が見えた。
「お好きですか?」
こくこくと頷けば、陽光を反射し、歯が真珠のように光る。
綺麗だな……
「良かった。中身を召し上がってもいいですし、お花とリボンだけをポシェットに入れても構いませんよ」
サラサラと石筆が動く。
『どちらも』
気付けば自分も、声を上げて笑っていた。
全部食べて欲しかったが、やはり彼女はクッキーを自分へ分けてくれた。華やかなラッピングとは真逆の、シンプルな丸いクッキー。けれど、今まで食べた菓子の中で、一番甘く特別な味に感じた。
長い道中、石板を使って、様々な会話をした。互いの名前とその綴りに始まり……好きな色、好きな物、好きなこと。訊くのも話すのも、軽く明るいことばかり。羽で撫でるように、慎重に言葉を選んだ。
お気に入りを一通り交換すると、今度は少し踏み込み、奥の物を交換する。彼女からは塔の天辺の一日を、自分からは塔の下の一日を。
塔の小窓から見上げる空に興味を抱くと、彼女は自分にその模様を詳しく教えてくれる。生まれたての雨や雪は宝石みたいだけど、手に取るとただの水になってしまう。それを知ってからは、眺めるだけにしていること。星はもっと綺麗だけど、どんなに頑張っても届かなくて、諦めたことを。
自分は彼女に、水溜まりに映る景色や、雪を踏んだ時の感触を教える。地上から見る星はもっと遠くて、手に取ろうなんて考えもしなかったことを。
彼女は一つ一つを大切に、心のポシェットへ仕舞うように聴いてくれた。
そういえば、昨日神殿の裏でパンを食べた後、草や土をいじったり、蝶々をずっと目で追いかけていたな……
自分が何気なく歩いていた街並みは、彼女にとっては特別なものだったのに。そんなことにも気付かず、目を合わせるな、下を向けと残酷なことを言い、冷たい石畳ばかりを見させてしまった。
十七歳。成人を迎え一年が経つ歳。貴族の令嬢であればとっくに社交界デビューを果たし、縁談が舞い込む、或いはもう結婚している年頃だ。
容姿も内面もこんなに美しい王女であれば、他国の王族からも上級貴族の令息からも、求婚の嵐だったろうに。
狭い塔に閉じ込め、人との接触を極力禁じ、人生で最も華やかな年月を奪った。本来なら、彼女がときめくのは草や土なんかじゃなく、鮮やかなドレスや夜会の煌めき、恋人や夫の優しい抱擁のはずだ。
……呪われているのは彼女ではなく、こんな残酷なことを強いる周りではないだろうか。
水溜まりの絵を描いて欲しいと石筆を差し出されるも、手が震えて上手く受け取れない。カタリと床に落ちても拾うことさえ出来ず、ただ彼女の顔を見つめた。
顎……口……鼻……徐々に目線を上げ、ぶつかった瞳。穏やかなその金色は、次第に困惑に変わり、固く閉じる。下を向こうとするも、顎に手を掛けそれを阻んだ。
「開けても大丈夫ですよ。私は呪われませんから」
ふるふると激しく首を振り、両手で目を覆ってしまう。ついには石板も彼女の膝から滑り落ちた。
両手を伸ばし、目を覆い続ける冷たい手を握ると、その甲を親指で優しく撫でる。ふっと緊張が緩んだのに気付き、ゆっくり……ゆっくり剥がしていった。
現れたのは、それでもまだ閉ざされた瞳。シルバーブロンドの睫毛の生え際を指で撫で続けると、ゆっくり……ゆっくり開いていった。眩しい金色に胸がときめく。
「……綺麗な色ですね。顔を上げて、もっとよく見せてください」
彼女は目を伏せたまま、俺の手を取り指で問う。
『あ……な……た……は……だ……い……じょ……う……ぶ……な……の』
“貴方は大丈夫なの?”
「ええ。大丈夫ですよ。呪われるどころか、とても気分がいい」
『ほ……ん……と……う……に』
“本当に?”
「ええ。この馬車と並んで、走り続けられる位元気です。ご心配でしたら試してみましょうか?」
泣き笑いとはこういう
昨日と同じ……ばくばくと暴走する心臓。だけど今は、この苦しみが、呪いなんかではないと分かっていた。
自分はどんな
「……窓の景色を一緒に見ませんか?」
さっきまで晴れていた空は、いつの間にか霞がかっている。彼女の涙に誘われたのか、窓ガラスにも細かい雫が伝い始めた。
「これが地上の雨模様です。本物の水溜まりが見れるかもしれませんよ」
ふわあと声にならない叫びを漏らしながら、遠慮がちに窓に寄る彼女。もっと近くへとその華奢な肩を引き寄せると、ガラスに鼻をピタリとくっつけながら、飽きることなく眺めていた。
傘もないのに、宿泊予定の村よりも大分手前でわざわざ馬車を降りた。辺りに誰も居ないのを確認し布をほどけば、顔を空を向け、心地好さそうに雨を受け止めている。
舗装されていないぬかるんだ田舎道。わざと蹴り上げながら歩けば、彼女もそれに続く。白いワンピースの裾に、黒い泥水が跳ねては染みていくのを、楽しそうに見ながら繰り返している。
不快なはずの湿った空気も、髪を濡らす冷たい雫も、彼女の瞳を見れば、全てがときめきに変わった。
遊びながらしばらく行けば、丸く窪んだ場所に、見事な水溜まりが出来ていた。彼女はペシャリと泥に膝を突きながら、湖みたいなそこを覗き込む。指を入れて波紋が広がる様を観察したり、空と水面を忙しなく交互に見つめたり。葉っぱを浮かべ、石を投げ……幸せだった幼い日にやった遊びを伝授すると、笑いながら真似してくれる。
真っ直ぐな道の先は、雨霧に包まれよく見えない。リズムを変えては歌い続ける雨音と、自分の声だけが、二人の間に響いていた。
すっかり日が暮れた頃辿り着いたのは、昨日と違い、いかにも田舎といった風情の古めかしい宿。それでも女将はずぶ濡れの自分達に嫌な顔一つせず、温かなタオルと茶でもてなしてくれた。
風呂は一応付いているが、浴槽というよりは大きな桶といった造りだ。温まるのではなく身体の汚れを落とすだけの、本当の簡易風呂だろう。タオルで髪を拭きながら、昨日と同じく魔石で沸かす。
……小柄な彼女なら、この桶の中にも入れそうだな。
膝を抱えてすっぽりとこれに収まっているのを想像すると、可愛くて何となく可笑しくなった。
準備を終えて部屋に戻ると、彼女はポシェットの中身を全てテーブルに並べていた。
「ああ……宝物が少し濡れてしまいましたね。私が拭いておくので、王女様はどうぞお風呂にお入りください」
こくりと頷き、こちらを向いた金色の瞳が、みるみる見開いていく。何をそんなに驚いているのだろうと一瞬考えるも、すぐに気付き手で覆った。
普段は長い前髪で隠している左目には、額から目を通り、小鼻にまで及ぶ深い刀傷。タオルで拭いたまま、隠すのをすっかり忘れていたのだ。
「……申し訳ありません。醜いものをお見せして」
まだ湿っている前髪を下ろすと、目を瞑り下を向いた。
一夜を共にした女性が、この傷を見て顔をしかめたり、露骨に目を逸らすのにはもう慣れている。でも……彼女には見られたくない。彼女にだけは見られたくなかった。怖くて怖くて、冷たいシャツが身体から熱を奪う。
ギイ……ギイ……と、傷んだ床を踏む足音。目を開ければ、白く華奢な素足が前にあった。
額に張り付く前髪を優しく分け、温かい何かが傷に触れる。……これは彼女の手だろうか。目線を上げて確かめたいが、怖くて動けない。すると彼女は俺の手を取り、温かい指を滑らせた。
『い……た……い……の』
“痛いの?”
「いいえ……子供の頃の……古い傷ですから。もう全」
偽りの言葉は、喉に絡んで上手く出てこない。彼女の温もりに誘われ、絡んだ隙間から、本当の言葉が溢れた。
「……少し。本当は少し、こんな雨の日は傷口がちくちくします」
一言口にしてしまえば、情けない程に楽で。もっと温もりが欲しくなり、文字を書いたまま留まる彼女の指に、震える手を重ねて包み込む。
「傷を見る度に……母を守れなかったことを思い出します。自分だけが助かってしまって」
言葉になれなかった欠片は、熱い雫になり、目からも溢れる。霞む視界の向こうで、白い足がつま先立ちになったと思うと、傷に何かが触れた。さっきよりも熱く、湿っぽく、そして何やら甘い香りのするもの。
これは…………!
見開いた右目のすぐ前には彼女の美しい顔があり、ローズレッドの唇からは、更に鮮やかな舌が覗いていた。一粒ずつ涙を掬いとるように、優しく、優しく、醜い傷痕に添う。
厭らしさなど微塵もない。それはただ、母猫が仔猫を愛でるかの、どこまでも優しい行為だった。
ふと馬車の中での会話を思い出した。好きな本を尋ねた時、彼女は動物の図鑑だと答えた。今の自分達みたいなこんな絵を、繰り返し観ていたのかもしれない。
止めさせたいのに、余計に汚い涙が溢れてしまう。何とか手を動かし、彼女の綺麗な唇を覆った。
「もう……痛くない。どうもありがとう」
自分がどんな
その夜も、狭いベッドで彼女に背中を預けて眠った。翌日の馬車でも石板を使って会話し、時折人気のない場所で自然に触れ、宿ではまた同じように過ごす。
何度も目を合わせ、身体に触れても、自分は至って元気で、何の異常も現れなかった。
こうして繰り返した六日目の昼頃、ついにラヴェット国との国境へ向かう為の、山の麓へ到着した。傾斜は比較的緩やかとはいえ、塔に籠っていた彼女に登山など出来るのだろうか。
「此処からは、山小屋に泊まりながら、数日掛けて山を越えます。長い散歩になりますが……辛くなったらおんぶしますので、遠慮なく仰ってくださいね」
すると彼女は手をぶんぶんと振り、歩くジェスチャーをしながら、石板で答えた。
『塔の階段で毎日運動していました』
「……あの急な階段を!? それは頼もしいですね。では、もし私が辛くなったら、王女様がおんぶしてください」
パチリと目を合わせくすくすと笑い合った。
今ではもう、手を差し出せば、すっとそれに重ねてくれる彼女。
守りたい……彼女のこの笑顔を。無事に神殿へ着くまでは、それまではどうか、どうかこのままで。
────異変が現れたのは、山に入ってから僅か数時間後のことだった。
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