第3話 背中とぬいぐるみ

 

 呼吸いきが止まる。時間も止まる。


 その瞳は、確かに微笑んでいた。


 ……胸が苦しい。心臓がばくばくと暴走し、今にも胸を突き破りそうだ。それとも疲れきって、鼓動が止まってしまうか。どちらにしても、全く制御出来ないこの状態が続いたら、自分はきっと死んでしまう。


 瞳を見るなというのは……呪われるというのは……

 こういうことなのか?


 自分は相当酷い表情かおで彼女を見ていたらしい。金色の瞳からは、少しずつ笑みが消え、ただ美しいだけの硝子玉に戻ってしまった。


 それと共に、自分の胸もすうっと落ち着きを取り戻していく。

 死んでもいいからもっとあの笑顔を見ていたかった、寂しいという気持ちと、解き放たれたと安堵する気持ちが混在している。


 王女の手からオルゴールが滑り、床にゴンと落ちる。鈍い音に慌てて拾うと、状態を確認した。


 傷は……良かった、付いてなさそうだな。

 ネジを回し、耳に当てれば、さっきと同じ繊細なメロディが響き出した。

 ふと隣を見れば、王女は固く目を閉じうつむいている。その小さな左耳に音を当ててみるが、何の反応もない。膝に置かれた冷たい手を取り、そっと包み込むようにしてオルゴールを置いた。


 王女は目を瞑ったままそれを右耳に当てると、ぬいぐるみを腕に抱き、自分に背を向け壁側に縮こまる。

 その姿はあまりにも小さく、そして哀しかった。




 車輪がガタンと持ち上がる震動に瞼を開ける。懐中時計を確認すれば、馬車に乗り込んでから三時間は立っていた。

 いつのまにか寝ていたのか……一睡もせずに馬を走らせたとはいえ、こんなことは初めてだ。僅かな仮眠でも身体を保つ訓練をしてきた為、騎士になってからは熟睡などしたことがないのに。

 ……ん?

 違和感に見下ろした膝には黒い布が掛かっており、その中から天使のぬいぐるみが顔だけ出していた。


 ええと……この布は確か……王女の顔に巻いていたやつだよな。

 寝起きで頭が働かない。

 ……理解不能だ。やっぱり呪いの儀式か?


 ハッと隣を見れば、頬を少し膨らませながら、何かを口の中でカラコロと動かしている。白い手は、しわくちゃの赤い包み紙を弄んでいた。

 とりあえず、くたくたのぬいぐるみを丁重に掴むと、王女へ差し出し呼び掛ける。


「あの……こちらを……」


 王女は頷き天使を受け取ると、空になった俺の手を取り、白い指でまた何かを書き始めた。


『よ……く……ね……む……れ……ま……し……た……か』


 “よく眠れましたか?”


 ……ああ! もしかして、

「私に貸してくださったんですか?」


 天使の頭を撫でながら、王女はこくりと頷く。

 きっと大切なものだろうに、昨日会ったばかりの自分へ……

 温かいものが広がっていく。


「……とてもよく眠れました。ありがとうございます」


 王女の口角がほんの少しだけ、嬉しそうに上がった。

 きっと瞳も笑っているんだろうな。


「王女様はお休みになりましたか?」


 ふるふると首を振り、元通りに膨らんでいるポシェットから赤いキャンディを出すと、俺の手のひらに置いてくれた。


「ありがとうございます。……ああ、もうお昼ですし、お腹も空かれましたよね? 外へ出て休憩しましょう」


 ギュッと握り締め、大切にポケットへしまう。このキャンディは、一体どんな味がするのだろう。




 休憩を終えて馬車に戻ると、王女はぬいぐるみを抱いて忽ち寝てしまった。壁に凭れた頭が、振動でゴンゴンとぶつかる度に、顔を歪めている。


 まただ……勝手に身体が動き、王女の頭を自分の肩へと誘導してしまう。もう完全に呪われているな。


 心地好いのか、赤子のように緩む愛らしい寝顔に、自分の醜い顔も緩んでしまう。

 この先自分の身体にどんな異変が起こるかは分からない。最悪死んでしまうとしても、彼女を神殿へ送り届けるまでは無事でいたい。そう思った。




 日が沈む前に馬車を降り、宿へ入る。部屋数を訊かれ少し躊躇うも、一部屋だけ頼んだ。男女で、ましてや王族と同じ部屋で一晩過ごすことなどあり得ないが、護衛の為には致し方ない。ドアの外に立つことも考えたが、安全の為に王女の身分は伏せている。出来るだけ目立つ行動は避けたかった。


 そこそこ上等な宿の一番良い部屋だけあって、清潔で居心地が良い。簡易風呂も不浄も備え付けられている為、きっと王女も過ごしやすいだろう。


「入浴されるなら、準備致します」


 きっと温め方など分からないだろうから、自分がやるしかない。水の張られている浴槽に、発熱作用のある魔石を入れ沸かし始めた。

 ……二週間も掛かるのだから、明日何処かで王女の着替えを調達しないと。確か宿に来る途中に雑貨屋の看板があったな。既製服なら、少し置いてあるかもしれない。小柄だから、最悪子供服でもいけるか?

 そんなことを考えている内に適温になった為、魔石を取り出し王女を呼んだ。


「準備が終わりましたので、どうぞお入りください。もし気になるようでしたら、私は入浴の間、外で待機しておりますので」


 風呂場にやってきた王女は、何故か息が荒く、顔が真っ赤になっている。


「……どうされました? どこかご気分でも」


 ふるふると首を振り、くるりと後ろを向くと、ある物を指差す。

 これと格闘していたのか。白いワンピースの背中には、小さなボタンが幾つも。布の結び目さえほどけないのだから、確かに難易度が高い。だけど……


「私がお外ししてよろしいのですか?」


 こくこくと頷く。……仕方がない。このままじゃ永遠に風呂に入れないだろう。なるべく目を逸らしながら、全てのボタンを外すも、今度は袖から腕を抜くのに苦戦している。おい……嘘だろ。どこまで手伝えと?


 真っ白な背中に困惑しながらも、結局はほとんどの脱衣を手伝う羽目になった。石鹸の使い方から浴槽の浸かり方、更には身体の拭き方まで説明し、逃げるようにして部屋を出る。

 ドアの前に座り込むと、残像を払うように、わしわしと頭を掻いた。


 ……もうさすがに出た頃か?

 三十分程経った頃、警戒しながら部屋に入ると、なんとか下着と服を半分着て、椅子に行儀良く座る王女の姿があった。


 髪の毛からポタポタと垂れる雫で、濡れた肌と下着が張り付いている。後ろ前は逆で、もちろんボタンも開けっ放しだ。

 ……そりゃそうだろうな。

 ほとんど濡れていないタオルを手に、王女の元へ向かった。


 髪を拭く時、身体を拭く時……美しい顔からも、白い肌からも、目と意識を逸らすのに必死だった。

 何とか整えた時には自分は汗だくになっており、すっかり冷めた湯で、簡単に身体を清めた。


 馬で森を移動するよりも、固い馬車の椅子よりも、ずっと疲れた……



 夕飯用に買ったパンとオレンジを食べさせると、王女に早く寝るよう指示する。ぬいぐるみを手に大人しくベッドに入ったのを確認すると、自分は離れた椅子に背を向けて座った。


 こんな生活をあと何日……考えただけでため息が出る。王室の騎士という花形職業だけあって、こんな見た目でも女に不自由することはなかった。それなりに手慣れている方だと思うのに、まさか四つも年下の女に翻弄されるとは。

 何度瞬きしても、あの金色の瞳と、白い肌が脳裏から離れない。……明日は絶対に風呂無しの宿にしよう。


 背後のベッドでは、がさごそと寝返りを打つ気配がする。

 困ったな……とっとと眠って欲しいんだが。



 それから一時間程経っても、まだ寝る気配のない王女。

 馬車で散々寝たから……仮眠しろだなんて言わなきゃよかった。

 次第に自分の方がうとうとしてきた頃、すっとシーツの擦れる音と、パタリと床に足を下ろす音が聞こえた。そろそろと遠慮がちに自分の背後へ近づく。


「……眠れないのですか?」


 頷くでも首を振るでもなく、手を取られた。


『こ……わ……い』


 白い指が小刻みに震えている。

 そうだろうな。ずっと塔に籠っていたのに、いきなり外へ連れ出されて、知らない場所で寝かされたのだから。


「大丈夫ですよ。怖いものが来ないよう、こうして私が見張っていますから」


『あ……な……た……は……ね……な……い……の』


 “貴方は寝ないの?”


「ええ。馬車で沢山寝たので眠くありません。その子のお陰でね」


 腕の中の天使を指差せば、王女の口角がふわりと上がった。


『こ……こ……に……い……て……も……い……い』


 “此処に居てもいい?”


「……風邪を引いてしまいますよ」


 ふるふると首を振り、床に座るとギュッと膝を抱える。

 此処を動かないという意思表示か……王女様は、意外と頑固なんだな。


 今日の色々な姿が浮かび、笑みがこぼれる。

 “呪われた王女”という先入観がなければ、彼女は美しく愛らしい。十七歳という年齢よりも、ずっと純粋な少女だった。


 立ち上がり、綺麗なままの自分のベッドから毛布を取ると、王女の肩へ掛ける。


「どうぞ、椅子へお座りください」


 チラリと椅子の足を見て、王女は首を振る。

 床がいいのか……仕方ないな。王族より高い場所に座る訳にはいかない。

 自分も王女の隣に腰を下ろすと、何故かペタペタと這い出し、背中に回られる。


 後ろがいいんですか? そう訊こうとした瞬間、背中にピトリとくっつかれた。


 ……あまりの衝撃に言葉を失う。

 冷たくて、でも息は温かくて。馬上でくっついていた時と同じだが、一つ違うのは生々しい石鹸の香りだった。


「あの……どうかされましたか?」


 やっと絞り出した問いに、反応はない。腰に回された手をつついてみると、ほどかれると思ったのか、余計に強くしがみつかれる。

 瞳を見ている訳でもないのに、またばくばくと暴走する心臓。こんなにくっつかれているのだから、きっとこの鼓動も聞こえているに違いない。

 対処法が見つからず、しばらくそのまま固まっていると、次第に王女の身体から力が抜けてきた。


 すう……すう…………


 寝て……いる? この姿勢で?


「王女様、王女様」


 やはり返事はない。昨日のようにペシペシと叩くことはせず、早々に諦めた。王女の身体に後ろ手を回すと、よいしょと背負い、ベッドへ向かう。

 ところがシーツの上に下ろした途端、怯えるようにしがみつかれ、危うくよろけて潰しそうになる。何とか踏ん張り体勢を整えるも、背中にしがつかれたままの状態で、横向きに寝る形になってしまった。


 ……さっきよりも遥かに状況が悪化している。こんなところを誰かに見られたら!

 寝たのを見計らい何度もほどこうと試みるが、余計にしがみつかれてしまう。その内抵抗する気力が失せて、ダラリと脱力した。


 あんなに冷たかった王女の身体は、布団の中でほかほかと温まり、自分の熱と溶けていく。裸で交わるでもないのに、一つになったような、そんな不思議な心地好さを背中に感じていた。


 気持ちいいな……これも呪いだとしたら……もう、二度と起きられないかもしれない……


 引力と戦い続けるも、瞼は抗うことが出来ない。

 狭まる視界に映ったのは、床に転がるぬいぐるみだった。

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