全身マッサージ
何やら椅子を操作しながら、「倒しまーす」と告げると、彼の身体ごとフルフラットになった。
彼女は大きなタオルを持ち出しながら、彼に近付く。
「それでは、お次は全身のマッサージでーす。お兄さん、うつ伏せになってください。はい、ありがと。背中にタオル敷きますねー……。はい。では、お兄さんのガチガチに凝り固まった身体をほぐしていきましょう。大丈夫、痛くないようにするから。なるべく。できるだけ。やはは、痛かったら教えて」
女性は愉快そうに笑いながら、タオル越しに手を置いた。
そのまま、ゆっくりと手がタオルの上を滑っていく。
スッ……、スッ……、スッ……、と肌と布が擦れる音だけが静かに響いた。
「ん? いやこれもマッサージだよ。擦ってるだけのように感じる? まー、そう言われちゃうとそうなんだけど。これはね、軽擦法と言って、文字どおり身体を軽く擦っていくんだ。これで皮膚の温度を上昇させて新陳代謝を……、んーと、マッサージの準備体操みたいなもの。お兄さんの身体はガチガチだからね、急にぐっと押しちゃうと、身体がビックリしちゃう」
「でもさ、こうして擦ってるだけでも気持ちよくない? あったかくなってきてさ。やさしい刺激も感じられて。ん。気持ちい? よかった。うん、ゆっくりと温めて行こうねー……。気持ちいいね~……、あったかいね~……。こうやって、徐々に硬い身体をやわらかくしていきまーす……」
「いやね、お兄さんの身体、だいぶヤバいんですよ。すっごく疲れてる。こうして少しずつほぐしていかないと、とてもマッサージできる感じじゃないんですねね~。うん、そうそう。いや、いいですよ。大丈夫大丈夫。寝ちゃってもいいからね。お兄さんは何も考えずに、気持ちいいな~って思っててください。痛いときだけ言ってくれれば。そ。気持ちいいな~って顔してるんだもん、それだけでいいんですよ」
しばらくの間、彼女は丁寧に身体を擦り続けていた。
彼女の囁き声と、擦る音だけが重なる。
やがて彼女は、ぽんぽん、と背中をやさしく叩いた。
「うん、そろそろいいかな。良い感じにやわらかくなったよ。今度はしっかり指圧して行きます。それでは、いきますねー……」
彼女は慎重に声を掛けながら、ぐっと親指を入れる。
指を押し込む音が小さく浮いた。
ぐっ……ぐっ……、という音とともに、男の身体に刺激が走っていく。
それが伝わったのか、彼女は心配そうな声で囁いた。
「うーわ、ガチガチですよ。腰が特にひどいねー……。ここは、手のひらで押して行きますね。親指だと刺激が強過ぎちゃう。大きく広くして、押して行きます。ぐうーっと……、どう? あー、やっぱりここが痛いか。そうですよね。ここの痛みが取れるように頑張りますね……、はい、もう一度、ぐー……」
「うんうん、良い感じ? はは、お兄さんそんなでっかいため息吐かなくても。や、気持ちいいんでしょ? それはわかりますけどね。はい、もう一度、ぐー……。はは、お兄さん気持ちよさそ~」
「お兄さん、ここきゅーっとした痛みがあるでしょ。腰の、ここ。外側。ね、痛いよね。あぁうん、そうそう。きゅ~ってやつ。もっと押してほしい? はいはい……、きゅう~……。あは、痛いね、気持ちいいね。もっと押してあげよう。はーい……。よし」
しばらく腰を指圧したあと、今度は背中に手が降りる。
衣擦れの音が響き、彼女が背中を擦っているのがわかった。
「背中もねー……、だいぶキてますよ。かなり張ってます。ここ、わかりますか? 硬いの。うん。そうそう、今親指で押してるところ。ゆっ……くり、押して行きますね? はい……。どう? あー、痛い? じゃあやめておこうか……。ならこっちは? ここ、ここ。あ、気持ちいい? おっけー、なら、この辺りを重点的に押して行きまーす……。はい……。ここは? 痛い? あ、気持ちいいか。よし、ならちょっとぐりぐりしていきますねー……」
背中を十分にマッサージしたあと、今度は肩をぽんぽんと軽く叩かれた。
「よし。肩と首もいっておきましょうか。さてさて、こっちは……、っと。あぁやっぱり。首もガチガチだ。かったい。お兄さん、姿勢悪いでしょ。それに、スマホばっか見過ぎですよ。首が、だってもう、ほら。わかります? めちゃくちゃ硬いの。すごいよ、これ。実際、痛いでしょ。頭痛とかもあるんじゃない? だよねえ、それくらいひどいよ。はいはい、任せて。今からほぐしていくね」
「えーと、ここは、手で包むようにして、指全体で押して行きますねー……。ぐうっと……。あ、痛い? ごめんね。でもここはなぁ、しょうがないと思いますよ。はい、ぐりぐり。あー、ほら、ゴリゴリ! って音鳴ってるでしょ。すごいよねえ、この音。これを少しずつ、削っていくわけですよ。うん、でもこれね、終わったらめちゃくちゃスッキリすると思うんで。目と頭がね。ほんとほんと。ここはちょっと時間かけよっか。はい、ぐりぐり~……。お、痛いけどマシになった? よかったよかった。うん、そうそう。よーし、わたし気合入れるね。あ、本当に痛かったら言ってね?」
呆れたような彼女の声が響く。
「肩もひどいなぁ~……。まぁ首がだいぶマシになってるから、まだいいほうだと思うんだけど。あ、ほら目はスッキリしたでしょ? うんうん。やはは、よかったよかった。こんな感じでね、マッサージは身体をどんどん普通の状態に戻して行くのを目指すわけですよ。肩が重いのも、楽になるようにしますね。スッキリさせるよ~。はい、ぐっぐっ。あぁここ、ゴリゴリ言ってるね。痛いよね、ごめんね。もうちょっと力弱めるか……、これならどう? 痛くない? おっけー……」
「この辺は特に気を付けないとねー……。あ、ここ痛気持ちいいよ。鎖骨の下~。ここはね、大きなリンパ節があるんだ。きゅう~~~っとした痛みがあるでしょ? やはは、そうそう。こうしてリンパを流して行くからね~。はい、きゅう~。気持ちいい? そっかそっか」
肩と首を十分に揉みほぐしたあと、今度は「ん~」と悩むような声が聞こえた。
「お兄さん、お尻触っていい? や、変な意味じゃなくて。お尻も凝るんですよ。お尻って、大きな筋肉の塊だから。座り仕事の人とかね、お尻が固くなっちゃったりするんです。あはは、そうそう。でもさすがに急に触われるとびっくりするかなって。いいですか? はいはい、じゃあここもマッサージしていきまーす」
「あ、ほら。お兄さん、わかります? お尻やっぱり硬くなってます。こういうときはね、手のひらでお尻を揺らすように……、ぐりぐり刺激していきます。あ、気持ちいいでしょ? そうなんですよ、お尻のマッサージって意外と気持ちよくて。だからやっておきたかったんですよね~、気に入ってくれてよかった。じゃあもっとぐりぐりしますねー……、はーい……。気持ちいいですか? よかった」
お尻のマッサージは、衣擦れの音と、小さく物を揺らす音が並行して聞こえていた。ぱたぱたぱた……、と規則的な小さな音が続いている。
背中、腰、肩、お尻と順繰りにマッサージされていく。
静かな部屋には、彼女の抑えめにした囁き声と、指が身体を押す音ばかりが浮かんでいた。
その時間に身を任せていると、女性は「よし」と声を上げる。
「では、今度は背中と腰を叩いていきますね」
叩く? と顔を上げると、彼女は手を手刀の形に変える。
手を動かしながら、笑みを含んだ声で彼女は言った。
「叩打法って言いましてね。こう、手をチョップみたいにしてパタパタ叩いたり、軽く握った両手でパコンパコンと叩く奴です。ほら、美容院とか床屋さんで肩や頭をパコパコ叩かれたりしません? あれです」
説明を受けて、あー……、と納得していると、ぽんぽん、と背中に触れられた。
「これは全然痛くないし、気持ちいいですよ」と女性は笑う。
その言葉を信じて、再び顔を伏せる。
するとすぐに、背中に軽い衝撃が走った。
手刀の形で叩いているらしく、かなり短い間隔で彼女の両手が背中を叩いていく。
パタタタタタタタタ、という音と、ペチペチペチペチ、という音が重なって響き、背中から腰、お尻に動かしながらも、彼女は口を開く。
「わたし、これ好きなんですよ。気持ちよくて。なーんで、これこんなに気持ちいいんですかねえ、不思議。でも音もなんか気持ちよくない? このペチペチペチって音。それを聴いてるだけでも、なんかいいな~って。だからこれは絶対やるようにしてて。そうそう。あ、お兄さんも好きですか? よかったよかった。それなら、特別に長くやってあげましょう。はいはい、いいですよ。どういたしまして。任せてくださいな」
「え? あぁこれ? いやまぁ疲れますよ。普通のマッサージと違って、こう……いっぱい動いてるからね。や、普通のマッサージも疲れるんだけどさ。身体の使ってる箇所が違う感じがするね。いやいや、お客さんが気持ちいいって言ってくれるんですから。いっぱいやってあげたいですよ。お兄さんも気持ちいいでしょ? そ。それでいいんです。気持ちよくさせるために頑張ってるんですから、大人しくマッサージを受けててくださいな。まぁまぁ。もうちょっとだけやってあげるよ。遠慮しなくていいよ」
パタパタパタ、ペチペチペチ、という音が浮かび、やがてゆっくりと静かに消えていく。
気持ちいい時間は続いていたが、どうやら終わりらしい。
彼女は「はーい」と言いながら、背中を大きく擦った。
「全身のマッサージはこのくらいにしておきましょう。どう? だいぶ楽になったでしょ?」
女性はやさしい声色で問いかけ、ぽんぽんぽん、と身体を軽く触れる。
そのあと、彼女は男の肩に手を置いた。
「では、お兄さん。今度は座ってもらえます? はいはい、そうです。起きてくーださい。あぁ、起こしてあげよっか? やはは、冗談冗談。さ、次は肩を叩いていきますからね~」
起きるよう促されたので、男はゆっくりと身体を起こす。
すると、彼女はぺたぺたぺた、と足音を鳴らしながら彼の背後に回った。
タオルがふぁさり、と肩に敷かれる。
妙に嬉しそうな声で、彼女は肩を擦っている。
「では、叩いていきますよ~。最初はゆっくりいきますね」
ぽん、ぽん、ぽん、ぽん、とリズミカルに叩かれていく。
その力はかなり弱かった。
「肩はさっきしっかり揉んだけど、叩くのも気持ちいいんですよね。特にお兄さんの肩はめちゃくちゃ硬かったから。でもこれで痛めちゃうと元も子もないんで、最初はゆっくり、力は弱めでいきますよ。徐々に力も速度も上げていきますからね。はい、とんとん」
やわらかく静かな口調だが、女性の手は止まるどころか、徐々に速度が上がっていく。
ぽんぽん、ぽんぽん、ぽんぽん、と間隔も狭くなっていった。
「いやまぁ、最初に比べたらだいぶ肩もマシになってるよ。最初は痛かったでしょ? うんうん、そうですよね。ね~、軽擦法はまだいいんですけど、実際に揉んだりするとね~、そうなるんだよね~。多分、何もせずにいきなりこうして肩叩きしたら、やっぱり痛かったと思いますよ。今、だいぶやわらかくなってますもん。ふわっとしてる。こうして叩いていても、弾むようになってるし。わかる? あぁうん、さっきまで岩みたいだったから。そ、岩。そこまでじゃない? やはは、お兄さんは実際に触ってないからな~。うん。うん。気持ちいい? そうだよね。よかった」
「や~、肩こりの原因か~。まぁいろいろあるけど、ずっと同じ姿勢のままだったり、身体を冷やしたり? だから湯船に浸かってね、って言ってるんですよ。そのあとにストレッチしたら最高ですね。やっぱり身体を動かさないと、肩はどんどん固まっちゃうから。そんな何時間もかけろって話じゃないんですよ。まぁ毎回じゃなくてもいいし。できるだけ意識してみてくださいな。ほら、肩もこうしてやわらかく、ぽんぽん、と弾むようになってるんで。ね、痛くないっしょ。気持ちいいね。うんうん。これをできるだけ維持しようっていう話だよ」
彼女は話し込みながらも、とんとんとんとん、と肩を叩いていく。
すっかり速度は早くなり、力も強くなっているのだが、彼女の声色は変わらないままだ。
その気持ちよさに身を任せていると、「は~い」とやわらかな声が降ってきた。
「それでは次は、頭を叩いていきますね~。そうそう、床屋さんでよくやるやつ。頭触るね~、びっくりしないでね~」
早速、女性は手を重ねた。しっかり握るわけではなく、ちょっと隙間を作るように軽く握られている。
その手の形で、頭を叩いた。
ぱこん、ぱこん、と間抜けな音が響き始める。
しかし、叩かれているほうは気持ちがいい。
「これ、なんだか音が間抜けですよね、でも気持ちいいんですよね~。お兄さんも気持ちいい? そうだよね。妙な魔力があるというか。この音がいいんですけどね。もうわたし、音だけで気持ちよくなっちゃうし。え? いや、今はさすがにないけどさ。あー、でも、するのもされるのも好き。もしかして、気持ちよくなっちゃってるのかな。まま、わたしのことはいいんですよ。今はお兄さんが気持ちよくなってください。ほら、リラックスして、力抜いて」
しばらくそうして頭をマッサージしたあと、ふふ、と笑い声をこぼした。
肩をさすりながら、「それでは、こちらもおしまいです」と囁く。
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