囚われた牢獄の中を彷徨う不知火

穏水

古びるだけのはしご

 悍ましい程の暗闇で統べられた世界の中に、私はひとり立っていた。


 辺りを見渡してみる。けれどいくら先を凝視しても、目が狂ってしまいそうになるくらいに同じ風景しか映らなかった。それだけに収まらず、天も地も同様に、暗闇の渦に引き込まれるような錯覚を思わせるまでには同一で見分けがつかない。平衡感覚が崩れてしまいそうで、恐ろしくなる。

 ただし、足の裏の感触だけはしっかりと機能していた。一歩踏み出してみると、音は何もないが、地面を踏んでいるという感触だけは味わえた。終わりの見えない闇の地に落ちることはないのだと、少しだけ安心する。

 そうして、ほんの少しずつ足を動かしていった。どこに向かえばよいのかはわからなかったので、とりあえず私が元々向いていた方向へと足を運ぶ。早く、この禍々しい空間から出たい。


 何歩か進んだところで、私の両隣に淡く光る不知火のようなものが現れた。正体が気になって、その不知火のようなものに目を向けると、私は身震いをしてしまった。

 不知火が照らしていたもの、それは人形だった。しかしただの人形ではない。頭のない人形、腕のない人形、足のない人形、また体が引き裂かれた人形、焼け焦げた人形……。様々な数えきれない程の人形が、淡い光によって照らしだされていた。

 視界に映る、今度はただならぬ量の人形。闇をまた上から覆い尽くす程の、常軌を逸した世界。

 闇に鎮座する人形たちは、一本の道を作っていた。終わりの見えない闇へと、いざなうかのような道だ。私は恐ろしくなって、ここから出たいという願いでその道を走った。


 程なく走っていると、道の中央に幼い子供のような大きさの人形が落ちてあるのを見て、足を止めた。何故この人形だけ集団から外れているのだろうか。

 私はその人形をじっくりと眺めてみた。よく見ると、うさぎの耳を持った人形だった。けれどやっぱり黒くくすんだ色をしている。

 ずっと見ていると、余計に気味が悪くなってきて、目を瞑り無視しようと人形の横を速足で通った。


『なんで、無視をするの?』


 頭の中から、声が聞こえた。気のせいだと、そう信じて足を進める。一向に終わりは見えないけど、その場にとどまっているよりか断然良いと思った。


『またそうやって、逃げようとする』


 気持ち悪い。一体この声は何?


『ほら、認めようとしない』


「もう何なの!?」


 私は脳内に響く声を振り払おうと叫ぶ。すると、元からそこにあったかのように、私の目の前に先程見たうさぎの人形が現れた。驚いて、後退ってしまう。

 私はその人形を見て、薄々感じていたことを口に出してしまう。


「あなたなんでしょう? ここはどこ? 早く出たいんだけど」


 表情の変わらない人形。抑揚のない目で、こちらを見つめられているような気がする。


『結局、忘れてしまうんだね』


 またもや頭の中で声がした。今度ははっきりとわかった。この声の正体は、目の前にあるうさぎの人形の声だと、そう理解させられている。


「だから、一体何のことを言っているの?」


 私はそう訴える。けれど答えようとしない人形。


『わかっているくせに。来て』


 人形は何かを呼んだ。それが私じゃないことは分かっている。

 そしてその呼びかけに応じるように、大量の人形の中から、何体かの人形が足を動かして出てきた。人形が、動いているのだ。それに呼応するかのようにうさぎの人形も立ち上がる。現れた人形は、やっぱりどれも黒くくすんでいた。人間の赤子ほどのくまの人形、ひつじの人形、パンダの人形。そして私を囲むかのように立つ。


『忘れられた命。捨てられた命。これを見て、何も思わないの?』


 感情を見せない人形に、恐ろしくなって、目を背けようとする。


「知らない……。知らない! あなたたちは一体何なの!? 早くここから出してよ!」


 私の声の響きも、闇へと吸い込まれるように消えてなくなる。

 この夢のような世界を信じたくなくて、私はしゃがみ込んでしまった。縮こまる私を見下すように、人形たちは私を囲む。


『思い出してよ。守ってよ。愛してよ。昔みたいに、変わらずに』


 耳を手で押さえる。だけど直接語り掛けてくる声は何も変わらない。


『無駄だよ。皆そうする。だけど変わらない』

「近寄らないで!」


 気持ち悪くて、手を振りその場から立ち上がった。

 その時、闇の中で光るものが天から降ってきた。それは私の足元に音もせずに落ちて、ただ輝いていた。

 私は反射的にそれを拾った。今欲しかったものだった。刃先が光っている。柄をしっかりと握りなおして、うさぎの人形へと向けた。


「それ以上喋ると、刺すから。出口はどこ? 自分で行くから教えなさい」


 当然ながら人形の表情は変わらない。もとより感情などないのだ。


『そんなのないよ。ここに来た以上、思い出してくれるまで、出ることは叶わない』

「わかった」


 罪悪感など何もなかった。ただの人形相手に、何を抱くのだろうか。私はうさぎの人形の腹をえぐるように、手にあるナイフでただ突き続けた。刺して、刺して、刺して、刺して、刺し続けて。

 人形の体に一切の抵抗はなく、刺す感触など全く味わえなかった。刺した布の切れ目から、何故か赤く染まった綿が出てきた。気持ち悪くて、一層強く刺し続けた。

 人形は、段々と見るも無惨な形へと変貌していく。元々あった面影はとっくになくなって、赤く染まった綿だけが闇へと零れ落ちるだけだった。


『そんなことしても、意味がないのは分かっているのでしょう? 周りのお友達たちを見てよ。ほら、身体に傷がいっぱいついている。自分たちでは直せないことを、知っているの』

「もう、いや! 喋らないで! なんで、なんで私が……」

『忘れるあなたがいけないんでしょう? わたしたちを忘れる、あなたがいけないのでしょう? ねえ、聞いてる? ねえ、ねえ』

「違う! ちがうちがうちがう! 忘れたんじゃない! 壊されたのよ!」


 漏れてしまった。思い出したくもないことが、なんで。強く握っていた手に、力が入らなくなって、ナイフが滑り落ちてしまった。


『やっと、向き合ってくれる気になった?』


 思い出したくなかった。忘れたかった。ずっと知らないままでいたかった。

 本当は、知っていたんだ。この子たちの事。でも、私は知らないふりを続けていた。


「向き合うなんて、今更何を」

『夢。あの頃みた夢を、なんで忘れたの?』

「言ったじゃない。忘れたんじゃなくて、壊されたのよ」

『誰から?』

「それは……いろいろな人からよ」

『いろいろな人って? なんでそれを受け入れるの? なんで信じてくれないの?』


 頭の中に、記憶が渦を巻いて流れてくる。それは、私の記憶。ずっと見ていた記憶。


「受け入れないと、いけなかったのよ。あなたたちには関係ないじゃない。なんでそれを今になって!」

『あの頃は信じていたのに? あの時の想いはどうしたの? あの時の、あなたはどこにいったの?』

「私だって! 私だって……ずっと子供のままでいたかった。ずっとあなたたちと遊んでいたかった。ずっとそのまま夢の世界で暮らしていたかった。だけど、それじゃいけなかったのよ」


 思い出したくなくて、でも忘れたくない記憶が、脳内に流れてくる。胸が痛くなって、唇を嚙みしめた。


『わからない。人間が考えること、わたしたちには何もわからない。どうして? どうしていつも逃げる?』


「私たち人間は、成長するのよ。あなたたちと違って、成長して生きていくものなの。人間が住む世界があって、そこで生きるためには、順応しなくちゃいけない。逃げているわけじゃない、道を探しているの。道を歩く生き物が、人間なの」


『わからないわからないわからないわからないじゃあわたしたちの役目は何? 人間が勝手に生み出して、勝手に捨てて、勝手に悪者にして。わたしたちはなに? 無責任じゃないの?』


「あなたたち人形は、人間と違って、変わることができないの。未来永劫、ずっと固定観念に囚われて、ただただ古びていくだけ。でも、人間は変わっていく。それをあなたたちが理解できないのは、当たり前の事」


『夢は? 夢はどうしたの?』


「夢は……成長するためのはしごなの。あなたたちは、そのはしごになってもらった。だから、私は感謝している。だけど、今更、そのはしごを下るわけにはいかないでしょ」


『そう……』


 どことなく、悲しそうな、寂しそうな返事だった。実際に口や表情が動いているわけでもない。感情もあるはずがない。私が勝手にそう思い込んでいるだけで。

 ズタズタに切り裂かれたうさぎの人形を、私は両手に抱きあげた。そして横にいた、くまの人形へと預けた。律儀にくまの人形は腕を前に出して受け取ってくれた。


「思い出させてくれて、ありがとう。もう、これ以上関わらないであげて。私にも、私以外にも」


 私は空いた手で、先程落としたナイフをもう一度拾った。


「人間は、そういう生き物なの。受け入れるしかない。そうやって生きていく、弱い生き物なんだ」


 道を作っていたたくさんの捨てられた人形たちは、私を囲むように、円を成した。そしてその人形たちを淡く照らしていた不知火は、私の周りにまとわりついてくる。この子たちも、捨てられた夢の片鱗なのだろう。


『気付いたのね。全てを』


「うん」


『…………』


「ごめん」


 私は手に持ったナイフを、思い切り自らの胸に刺した。予想通り、痛みは感じなかった。音もせず、血も滲まず、自分の一部に戻るかのように、胸に収まっていく。

 同時に、私の身体が、足の先から徐々に光の粒子となって消えていった。不知火も、同じように消えていく。それを、ただただ人形は虚ろな目で眺めているだけだった。

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