CoCシナリオ「悪の諦観」前日譚 刑事と少年の話(本編・秘匿のネタバレなし)

 ひどい雨の夜だった。

 かんなぎけいが家の前でうずくまる黒い塊を見つけたのは、篠突く雨が耳にうるさい、春先の日のことだった。


 家というか、マンションの前である。オートロックつきで、エントランスすら住民以外は入れない仕様になっている、その扉の前。

 そこに、生きているのか死んでいるのかも分からない、真っ黒なフードを被った誰かが一人、ピクリとも動かずに座りこんで、雨に打たれていた。

 ぎりぎり監視カメラに映らない位置だ。当然のように屋根はない。


 慧は迷わなかった。フードの中から見えた顔が、まだかすかに幼いそれだったからでもあるし、彼女の職業が警察官だったからでもある。


「大丈夫?」


 地面に躊躇わず膝をつき、彼女はなるべくはっきりと声を出した。体格と顔つきからしておそらく男だろうが、まだ子供の可能性もある。成長期を迎えた子供は体の発達が早いのだ。

 どちらにせよ、彼女の中に見て見ぬふりをするという選択肢はなかった。自分の傘を差し出して、うずくまる人物に手を伸ばす。


「君、聞こえてる? 返事して……」


 そのときだった。伸ばした手をすさまじい速さで掴まれて、軽く息を呑む。ざらりとした砂嵐のような瞳が、暗い夜道で光った。


「……誰だ、あんた」

「警察官だよ」


 しかし素早さならば慧も負けていなかった。動揺を綺麗に収めて、彼女は懐から警察手帳を取り出し、渡す。


「いくらでも見てくれて構わない。どこか怪我は? 名前は?」

「……」


 写真と実物とを見比べながら、不信感の伴う表情で見上げてくる。慧はうん、と頷いた。見知らぬ人間への警戒心としては妥当なところだろう。


「名前を言いたくないなら、年だけでもいいよ。未成年なら、私は君を保護して親元に返してやれる」


 言ったときの、彼の表情の変化は如実だった。一瞬の動揺と、愕然とした表情。何かを考え込むような素振り。人差し指を軽く曲げて、第二関節の側面を唇に当てる。

 しかし、次の瞬間には、それらは全てかすかな安堵へと塗り変わっていた。冷静さを取り戻した瞳が、真っ直ぐに慧を見上げてくる。


「……未成年じゃない」

「なるほどね。家には帰りたくない?」


 彼は露骨に顔をしかめた。


「未成年じゃないって言ってるだろ」

「ああ、うん、信じるよ」


 あまりにもあっさりと頷いたからか、彼は拍子抜けした顔で慧を見上げた。


「嘘はついていないんだろう? 信じるよ」

「……どうしてそう思うんだ」

「言っていいの?」

「何も言わないままのつもりか? その方が信用できない」


 まあそうか、と思い、慧は口を開く。


「さっき、動揺しただろう?」


 怪訝そうな顔をした少年の前で、慧は数分前のことを思い出す。


「動揺したのは自分が、世間一般で言う『子供』であることを理解していたからだ。子供は保護されて、親元に返されなくてはならない。それが嫌で動揺した。でも、直後に自分が未成年ではないことを『思い出した』。最近、法改定が為されて、十八歳になれば皆、立派な成人ということになったからね。私はあれ、いいことだと思うよ。高校を卒業したのに二十歳になっていない子たちは、子供として守られることも、大人として権利を与えられることもなかった。保護もできないくせに自由も与えてやれなかった。それが、子供と大人の境界線が明確になって変わったのはいいことだ」


 で、と呟く。


「つまり、君は高校を卒業したばかりで、既に十八を超えている。何らかの理由があって親元には帰りたくない。違う?」


 少年は目を見開いて、そのときようやく、はっきりと二人の視線が交わった。彼の瞳が僅かに揺れる。


「あんた、その目……」

「え? ああ」


 かすかに苦笑して、慧は微笑む。夜明けのような薄青と、宵の口のような薄紫。互い違いの色をした瞳は、慧が持つ異質さのひとつだった。


「気にしないでほしい。先祖返りなんだ。曽祖父が外国人でね」

「見えてるのか、その目」


 切り込むような言葉だった。


「ヘテロクロミアは、視覚に異常が起こることも多いだろ」

「見えてるよ。私は警察官だからね」


 怪訝そうな顔をされて、慧は笑った。


「警察官になる要件には視力の項目がある。私は弱視と色覚異常が半々くらいだから、どちらも上手い具合に調整すればなんとかなるんだ。……君は、よく気がつくね」

「……」

「それで? 親元に帰りたくないとしても、このままここにいるわけにもいかないだろう。ホテルは取っている?」


 彼はふるふると首を横に振った。そのまましばらく黙りこむと、ぽつりと呟いた。


「あんたの言うことは当たってる。俺は、高校卒業した足で、そのまま家を出てきた。金もないし、そもそも身分証もない」

「え?」

「保険証だけ、かろうじて持ってきたが……通帳は、どこにあるのか分からなかった。学生証も、もう使えないだろ」

「……」


 絶句した。金がないのは分かる。でも、保険証以外に何も持ってこれなかった?

 動揺する慧とは正反対に、彼の瞳が強く光った。そこには覚悟が宿っている。金も、身分を示すものもないとしても、それでも生きていくという覚悟だ。


「あそこに戻ったら、今度こそ飼い殺しだ。戻るくらいなら死んだほうがいい」


 慧は、掴まれたままの手を無言で握り返した。子供を卒業したばかりの彼に、こんなことを言わせている。それが、大人の罪でなくて、なんだというのだろう?


「分かった、私の家に来なさい」

「……え?」

「というか、ここが私の家だ。そして、今日から君の家にもなる」


 目の前のオートロックマンションを指さすと、彼は露骨に虚を衝かれた顔をした。


「……あんた、金持ちなのか?」

「まあ、少しね」


 握った手をそのまま引く。当たり前だが、いくつか年が離れているといっても、彼と自分では比べるべくもない力の差があった。引き上げられないだろうなと思っていたのだが、彼は存外、すんなりと立ち上がる。

 慧よりも頭一つぶんは高い背だ。少年と思ったのを訂正したくなって、慧は思わず笑った。


「いいね、それくらい体格が大きければ、そう簡単に負けやしないだろう」

「……何に負ける心配があるんだよ」

「色んなものにだよ。腕っ節が強いに越したことはないだろう」


 オートロックの暗証番号を入力すると、自動ドアが開く。


「私の名前は巫慧。君は?」


 彼は無言だった。見定めるような視線に苦笑する。

 まあ、まだそこまでの信頼値ではない自覚はある。今日でなくてもいいか、と思い、彼女はすたすたとマンションに入った。彼の手を離さなければ、特に問題はないだろう。

 エレベーターに乗って、目的の階を押す。慧が住んでいるのは突き当たりの角部屋だ。柔らかな浮遊感と共に高層階へ上がっていく箱の中で、彼はじっと、曲げた人差し指を口元に当てていた。


「……シュウ」

「ん?」


 部屋の扉の前に立ったところで、不意に小さな呟きが響いた。振り返ると、いつの間にか、彼は黒いフードを外していた。


「後藤、しゅうだ」


 ぐっ、と、強く手を握られる。慧は少しだけ固まって、なんだか野良猫みたいだな、と思い、笑みを零した。


「そうか。よろしく、柊」

「ああ……」


 扉を開けたところで、彼はゆっくりと頷いた。そして、そのまま、こちらに寄りかかってくる。

 ……寄りかかってくる?


「!? ちょっと、柊! ひどい熱……」


 火傷するかと思うほどの熱さに、慧は悲鳴じみた声を上げた。柊は荒い息をついて、慧を支えにするのがやっとの雰囲気で立っていたのだ。

 平気だ、と言う彼の頭に軽く手刀を入れる。まるで熱の塊だ。平気なわけがあるか。


「あんなところで傘も挿さずにいるからだ……! 早く入って! 靴は脱げる? 脱げないならそのままでも……」


 言って、彼がボロボロのサンダルひとつしか履いていないのを見て、思わず目眩がした。この子の親はどういう育て方をしているのだ……! 靴くらい与えろ!

 これほど、両親の遺した家が広くて良かったと思ったことはない。空いている部屋に引きずり込むように彼を入れ、ベッドに大きな図体を押し込む。まだ意識があるのが幸いだった。万が一昏倒でもされていたら、この非常識な時間に同僚を呼ばなくてはならなかったところだ。


「悪いけど、服を脱がすよ。上だけでも脱いでくれないと。このままじゃ熱が上がる一方だ」


 既に、年頃の異性であるという意識は頭の中から飛んでいた。床に膝をつき、ぐっしょりと濡れた黒いパーカーに手を伸ばす。こんなの、寒さに喘いでいる子猫となんの違いがあろうか。

 しかしその瞬間、彼がカッと目を見開き、勢いよく慧の肩を掴んだ。容赦のない力にかすかに顔をしかめる。


「さ、わる、な……!」


 慧は息を呑む。彼の言葉にあるのは、煮えたぎるような怒りと、焦りと、確かな恐怖だった。はだけた首元から、古い火傷の痕が覗いている。


「俺に、さわるな!」

「分かった、触らない」


 その瞬間、慧の目は、彼を守るべき存在として認識した。一切迷わず、えげつないほどの早さで頭を切り替える。彼女の即答に、柊のほうが目を丸くしたくらいだった。


「私は柊に触らない。分かったね? 私は、お前に、触らないよ」


 ゆっくり、はっきり、しかし苛立っているとは思われないように、一音一音を確実に発する。彼と繋いでいた手から力を抜いて、ぎりぎりと掴まれる肩の痛みは無視をした。


「でも、服は着替えたほうがいい。そのまま眠るのは気持ちが悪いだろう? 熱だって上がる」


 言って、細心の注意を払って視線を外した。近くにあったチェストを指さす。


「ここに、私の父親のものだった服が入ってる。私の父は大柄だったから、お前にも合う服があると思うよ。好きに選んで、着るといい。上二つは春物、下二つは冬物だ」


 そのまま、慧は黙って後ろを向き、その場にすとんと座り込んだ。手を解くことも、握り返すこともしなかった。全て彼の意志に委ねるべきだと思ったのだ。


「私はお前のほうを見ない。なんならこの家のことを説明してるから、その間に着替えたらいい。私がずっと喋っていれば、そっちを向いたら分かるだろう」

「……」


 彼が、無言でチェストに視線をやったのが気配で分かった。慧はそのまま話し出す。


「ここは私の家……というか、元は両親の家だ。両親は私が学生の頃に死んでしまって、その遺産でこの家を保っている。ここは余っている部屋だし、ちょうどいいから柊の部屋にしよう。元は父が使っていた部屋だから、服も物も、それなりに男物が揃っているはずだ」


 手が離れて、チェストをごそごそといじっている音がする。服を引っ張り出した音が、やけに大きく響いた。


「キッチンや風呂は自由に使って構わない。保険証はあるみたいだから、多分、身分証の再発行……のようなこともできるだろう。まだ柊の事情をよく知らないから、あとでそれはおいおい聞かせてもらうとして……」


 衣擦れの音がしてしばらくのことだ。不意に、解かれていたはずの手を再び握られた。かすかに震えるそれに、小さく息を呑む。動揺を悟られないよう、そのまま話を進めた。


「……さっきも言った通り、私は警察官だ。お前がどんな環境で育ってきたにせよ、保護したからには、お前を守る義務と権利がある。仕事柄、家を空ける日も多くなるだろうけど……お前を勝手に親元に返したりしないから、安心していいよ」


 手を繋いだまま何をどうしているというのか、まだ衣擦れの音は聞こえていた。

 だが、唐突にそれが止まったかと思うと、強く肩を引かれる。驚く暇もなく、後ろに倒れ込むようにして、背をベッドの縁に強かに打ちつけた。

 反射で咳き込むと、頭上から息を呑む音が響く。

 どこか性急な動きで、繋いでいた手が離れた。そのまま両肩を掴まれ、くるりと柊のほうを向かされる。


「……悪い」


 どうやら顔を合わせたかったらしい。慧は苦笑して、柊の服がきちんと替えられていることを確認すると、ぐいと柊の肩を押した。


「焦点が合っていないよ。もう寝な」

「だけど、俺は」

「大丈夫、お前が心配することは何もないよ。私はリビングにいるから、何かあったら来て。風呂場はここを出て右に曲がって、突き当たりを左に曲がればあるから、シャワーを浴びたくなったら勝手に使っていい」


 柔く握られていた手を離す。彼は茫洋とした瞳で慧を見ていたが、やがて静かに頷いた。

 額を撫でると、やはり灼熱のように熱い。


「氷枕を持ってこよう。それなら、少なくとも寝苦しくはないだろうし……」

「……慧」

「うん?」

「明日、話す」

「……うん、でも、落ち着いたらでいい。私も明日は休みだから」

「……ああ……」


 ゆっくりと瞼が落ちていく。精悍な顔は、やはりどこか幼い。


「おやすみ、柊」


 彼の首が、少しだけ、頷くような動きをした。





「なんてことも最初はあったはずなんだけど……」


 目の前に広がる豪勢な食卓を見ながら、どうしてこんなことになっているのかと、慧は天を仰いだ。仕事から帰ってきて、リビングから何かいい匂いがするなと思って、嫌な予感と共に扉を開ければこれである。

 ビーフシチューに小さめのグラタン、やや少なめの量のパスタ。何をどうしたんだかよく分からないタイプのサラダに、焼きたてのパンと、コンソメスープ。どう考えてもビーフシチューだけでいいだろうと言わんばかりのメニューの多さだった。


「慧、何突っ立ってるんだ、早く着替えてこい」


 そのとき、キッチンから顔を出したのは柊だった。シンプルな黒いエプロンを身につけ、無表情のまま新たな皿を出してくる。いや、おかしいだろう。何品あるんだこれ。


「作りすぎじゃないのか、柊? こんなに作ってどうするんだ」

「あんたが食べきれなくても俺が食べるし、それでも余ったら明日の朝飯にすればいいだろ」

「いや、まあそれはそうだけど……」

「いいから食べろ。どうせあんた、朝にゼリー食ってから何も腹に入れてないんだろ」


 図星である。目を逸らした慧のそばにずかずかと近づくなり、柊は問答無用で彼女の口に何かを突っ込んだ。


「ん゛!?」


 それは一切れのハンバーグで、肉汁が口の中でぶわりと広がる。正気か? と思った。この食卓にメインを何品置くつもりなのだ。

 文句を言おうとした慧は、目の前の柊がじっとこちらを見ていることに気づいて、何も言えなくなった。彼は少しだけ口角を上げて笑う。


「上出来みたいだな」

「私の反応で遊ぶんじゃないよ……」

「遊んでない。確かめてるだけだ」

「似たようなものだよ、全く」


 仕方がないので部屋へと戻り、スーツから部屋着に着替えてリビングに戻る。今更何を言ったところで、湯気の立つ料理が消えることはないのだ。ああだこうだと言ったところで無駄である。


「いただきます」

「いただきます」


 食器がガチャガチャと並べられたテーブルで、柊と向かい合わせになりながら料理を食べる。

 後藤柊がこの家に来てから、優に三ヶ月が経とうとしていた。


 最初は手負いの獣のようだった彼は、存外誠実な人間だったらしい。全快して開口一番、風邪の看病をしてくれた人間に反発するのは無理がある、と言われたときは、この子にも反抗期なんてものが来るのだろうかと驚いた。今まさに絶賛反抗期といえばそうかもしれないが、両親との因縁を聞く限り、全面的に親が悪いのでノーカンである。

 その後も、会話や行動の節々から、彼が善良な存在であることは分かった。電車に乗れば当然のように席は譲るし、子供の声を聞き咎めればさりげなくそちらに注意を払っている。


 加えて、彼はいつからか、常に慧の右側を歩くようになった。どちらの目が弱視なのかは言っていないのに、よく右目のほうが弱いと分かったものだ。それをわざわざ言わないところに、彼の徳の高さをひしひしと感じる。

 それに、今や彼は家の家事全般をほとんどやっているのだから頭が上がらない。確かに、生活の質がそれほど良くない自覚はあるが、キッチンの惨状を見て「……正気か、あんた」と言われた時点で雌雄は決していた。年上の威厳はその日のうちに消え失せた。

 今や、柊がいなくては水周りすら快適に保てないのだから、家事なんてしなくていいよと言うわけにもいかない。彼に「俺が不快だ」と言われてしまえば、慧に言えることなど何もなかったのだ。


 とはいえ、最近は度を越しているんじゃないだろうか? 掃除も料理もほとんど全てを自主的にやってもらっている上に、さらにもう一つ、頭の痛い出来事が増えている。


「慧、今月の分だ」


 夕飯を食べ終わった後に──当たり前のように柊がほとんどを平らげていた──彼が差し出してきた封筒に、慧は額を押さえた。

 頭の痛いこととは、まさにこれである。

 彼はいつからか、慧に金を払うようになってしまったのだ。目眩のする思いだった。援助交際じゃあるまいし、保護した男から金を貰う趣味などない。


「いらないって言ってるだろう、柊」

「中を見もせずに拒否するな」

「いいや、見たが最後『受け取って確認したんだからもうあんたのだ』って言われたのを忘れていないからね、私は」

「いいから受け取れ。食費だとでも思え」

「どこの世界に、食費に八万も渡す人間がいるんだ。これはお前が稼いだ金なんだから、お前が使うべきなんだよ。私はそこまで金に困っていない」

「知ってる」


 柊は平然と頷いた。


「そんなことは知ってる。ただ、俺が渡したいから渡してるだけだ」


 慧は思わず言葉を失い、小さく嘆息した。


「柊……こんなことしなくても、私はお前を追い出したりしないよ」

「それも知ってる。あんたがそこまで無責任な人間だとは思っていない」


 慧は眉を下げた。それがわかっているなら、どうして。

 少しだけ色素の薄い瞳が、まっすぐに慧を見た。引力のあるそれに、思わずどきりとする。


「……本当に分からないのか?」

「分からない。私は別に、柊から金を貰いたくて、ここにお前を置いたんじゃないよ」

「俺は、あんたに養ってもらいたくて、ここにいるんじゃない」

「そんなことは分かって……」

「いいや、分かってない」


 彼は強く言い切った。あの日の夜と同じように、強く光るまなざしで慧を見る。


「慧は何も分かってない。俺は……」


 彼の目が少しだけ苦しそうに歪んだ。そのまま首を横に振ると、不意に立ち上がる。


「柊?」


 彼は無言でテーブルを回りこみ、慧のそばに立った。俯く顔は影を帯びて、この世のものではないようにも見えた。

 体格の良い彼の影が、すっぽりと慧の体を覆い隠す。沈黙を保っていると、ふと、彼の腕が伸びてきた。

 咄嗟にその手を掴んだ。どうしてか分からないが、そうしなければならない気がしていた。

 彼がゆっくりと顔を上げる。瞳の奥が、ほの暗い。


「柊、どうしたんだ、急に」

「……慧」

「うん?」

「あんたは……」


 そう言ったきり、彼は無言で唇を噛んだ。何かをこらえるような表情だ。何故か、泣くんじゃないかと思ってしまって、途端に慧は慌てた。おろおろと彼の頬へ手を伸ばす。


「柊、どうした? そ……そんなに嫌だったのか? いや、お前の気持ちは嬉しいんだ。本当だよ。でも、いくらなんでもこれは食費としては高すぎる。柊にだって、欲しいもののひとつやふたつあるだろう。自分で稼いだ金は、本来そういうふうに使うものだ」

「欲しいもの……」

「そうだよ。何かないのか?」


 彼は、瞳の奥を揺らめかせて、じっ……と慧を見つめた。吸い込まれそうな瞳に、息が止まる。


「……ある」

「! それなら……」

「だから、やっぱり、あんたに渡したい」

「何故!?」


 話が一回転して元に戻った。思わず絶叫すると、彼はふと、繋いでいた手をするりと移動させて、手首を強く掴んできた。慎重に脈を測るときにも似た動きだった。


「あんた、やっぱり何も分かってないな」


 いつの間にか、柊はかすかに笑っていた。なのに、泣いているのと同じだ、と理性が叫んでいる。


「柊、大丈夫だ」


 咄嗟に慧は呟いた。


「柊、柊、泣くな。私はお前を捨てないよ。お前が子供だからじゃない。私はお前が好きだからだ」

「……」

「お前が好きで、大切だから、私はお前を守りたいと思ってる。お前が一人で生きていけるようになるまで、私がずっとそばにいる。だから、そんな、捨てられたみたいな顔で笑うんじゃない」


 彼の片手を、両手でぎゅっと握った。


「お前を一人になんかしないよ、柊」


 はは、と掠れた声で、柊が笑った。目の奥が暗い。ぞっとするような笑い声。

 なのに何故かふと、傷つけたな、ということだけが分かった。


「……そうしてくれ、慧」


 するりと腕を解かれる。そのまま両腕が伸びてきて、ぎゅうぎゅうと痛いくらいに抱きしめられた。


「しゅ……」


 一瞬ののち、ぱっと腕が離れた。そのまま、咄嗟に動けなかった慧を残して、彼はリビングの扉に向かう。


「ちゃんと寝ろよ、慧」

「……柊!」


 扉の閉まる音がする。最後に見せた彼の顔は、無理やり笑っているような、歪な表情だった。








「アッハッハッハッハッ!」


 事の次第を話すなり、隣に立っていた男が爆笑し始めた。ついでに柊の背をばしばしと叩くものだから、彼は静かに顔をしかめる。


「蓮さん、痛いです。それとうるさい」

「これが笑わずにいられるかよ。柊坊、お前、難しい女相手にしてんなぁ」


 眠らない町、歌舞伎町。繁華街の一角にある高級クラブで、柊はスーツ姿で立っていた。隣に立つ男も同じく黒いスーツに身を包み、酒の用意をしながらけらけらと笑っている。


「嬢たちにすら惚れられる男が、同棲してる女一人に型なしとはね」

「それとこれとは別でしょう」

「惚れられてることは否定しないあたり、お前もだいぶここの空気に染まってきたな」


 笑って、彼はほらよ、とグラスを渡してきた。柊はそれらの酒をトレーに乗せ、無言でフロアに出ていく。

 夜景の一部であり、蝶の集まる花園の一角。クラブの黒服として、柊は働いている。慧に拾われてからしばらくは風邪のこともあって大人しくしていたのだが、そのうち、自分がいわゆる「ヒモ」である事実に愕然としたのが始まりだ。


 つい最近まで学生であったことなど関係ない。年齢だけを見れば立派な成人なのだから、この状態は保護ではなくヒモである。最悪だった。どこの世界に、好き好んで恩人のヒモになる男がいるのだ。いや、いるかもしれないが、柊はそんな存在に甘んじるのはごめんだった。


 そんなこんなで職探しを始めたのち、辿り着いたのがこの高級クラブだったのだ。

 飲んだことのない酒の名前をそらで言えるようになったのだから、蓮の言う通り、だいぶこの店に馴染んできたのかもしれない。色と香りで酒の種類を判断しながら、グラスを次々にテーブルへと乗せていく。


 そのとき不意に、店の端から細い悲鳴が上がった。酒を運び終えた直後のことだった。


 咄嗟に振り向くと、一人の嬢の細い腕を、でっぷりとした男が掴んでいた。赤ら顔の男は支離滅裂な言葉を叫んでいて、嬢は必死に首を横に振っている。

 柊はすかさず、すぐそばのテーブルに座っている女を見た。彼女はこのクラブで常にトップを走っている女で、源氏名をイズミという。柊はとりあえず、分からないことがあれば蓮とイズミに聞くことにしていた。


 視線だけで問いかけた柊を一瞥すると、イズミはしめやかに息を吐いて、揉め事が起こっている一角を呆れたように見やった。美しく足を組みかえ、顎で示す。


「行きな、狂犬。男が黒だよ」

「はい、イズミさん」


 頷いて、柊は素早く立ち上がる。騒がしい店内を縫うように歩き、瞬く間に男女二人の元へと辿り着くと、誰かが何か言う前に、客の腕を掴みあげた。


「っ!? な、なんだ、おまえ……」

「当店のスタッフへの暴言、暴力はおやめください」


 静かな、しかし絶対零度の瞳である。慧はいつも笑ってくれるので自覚は薄いが、後藤柊という男は、存外眼力があるのだった。大抵の人間は、その瞳に睨まれると動けなくなるのが常である。

 だがその客は酒が異様に回っていたらしい。ぐわっと口を開け、今度は柊に噛み付いてくる。


「なんだいきなり! 俺はなあ、毎回毎回高い金をこの店につぎ込んでやってんだぞ! なのに最近の女どもはなんだ! 俺に舐めた態度ばっか取りやがって! 俺をATMだとでも思ってんのか!? 教育がなってねえ!」


 柊は全くその言い分を信じなかった。何故ならば、イズミが「男が黒」と言ったからである。

 彼女は他の嬢のことを特段仲間だとも思っていないし、誰かのサポートに入ることもない。だが、ただひとつ、誇りを持ってこの店を愛している。この店をここまで押し上げた自負が彼女にはあるのだ。


 だからこそ、彼女が「黒」と言った存在はすなわち、この店に対しての害悪だ。


 それはそれとして、嬢たちがごく一部の客層を覗いて、彼らをATMだと思っていることは否定しないが。


「おいお前、なんだぁその目はっ! 俺のことを馬鹿にしてんのか!」


 今度は柊に掴みかかってきたその男を見て、今の今まで怒鳴られていた嬢が小さく悲鳴を上げる。見ない顔だ。新入りなのだろう。


 それならば、知らなくても仕方がない。

 柊は瞳をすうと細めた。瞬間、動く。

 身をかがめて男の手を避け、掴みかかろうと前のめりになった男の足を素早く払った。「あっ?」という間抜けな声と共に男がバランスを崩したところで、腕を強く引く。同時にくるりと後ろを向くと、自分の肩越しに、男を背負うような体勢になった。


 一瞬だけ、男の体が浮いた。「へぁっ……?」という間抜けな声が再び聞こえて、次の瞬間にはもう、男の体は床に叩きつけられていた。

 実に見事な背負い投げである。


「……当店での暴力行為はおやめください」


 呟いたときにはもう、男の意識はなかった。

 ついでに、その場にいた全員が「お前が言うか?」という目で柊を見ていたが、イズミが「その客、外に放り出して」と命じたので、彼が責められることはなかったのだった。


「遅くなりました、蓮さん」

「謝んなよ、全部見てたんだから俺にも事情くらい分かるって」


 カウンターに戻るころには、すっかり時間も経っていた。残りの酒を運ばせてしまったことを謝るが、黒服の先輩である男はけらけらと笑って手を振る。


「お前、本当にああいう客が得意だよな」

「? 背負い投げ、教えますか」

「そういうこと言ってんじゃねえよ。つーかお前、俺のことより自分のこと心配しろ。ありゃまた嬢に惚れられんぞ」


 見てみろ、と指さされた先、先ほど助けた嬢がちらちらとこちらに注意を向けているのが分かった。柊は嘆息する。


「あの人は大丈夫ですよ。まだちゃんと客の相手してるでしょう」

「本当にヤバい奴に目をつけられたことのある男は言うことが違うな」


 蓮はにやっと笑った。

 柊はうんざりと顔をしかめる。確かに、結果的に柊に助けられた嬢の中には、柊に執着しきって、オーナー直々にクビにされた女もいないではない。柊にとっては不可解極まりない行動だった。生活のために働いているのではないのか。客ではなく黒服に執着してどうする。


「やめてくださいよ。俺は慧にしか興味がない」

「そのケイさんって人だけどよ、お前、ちゃんと迫ってんのか? 聞いた感じじゃ、お前の態度が曖昧なのもよくねぇだろ」

「……そうなんですかね。俺は、大分直球にしてるつもりですけど」

「キスはしたのかよ」

「は? するわけないじゃないですか。馬鹿言わないでください」

「お前、多分そういうとこだぞ」


 思わず怪訝な顔をした。どんなところだ。


「まあでも、出会いが出会いだからな……しかもケーサツの人なんだろ? 倫理観ガチガチじゃねえか。ギリ成人してて良かったな。本当に学生だったら、恋愛対象として見られる可能性なんかゼロに近いだろ」


 柊はきょとんと目を丸くした。


「恋愛? 俺が? 慧と?」

「は?」


 蓮の瞳がぐるんと柊を見る。


「そういう話だっただろ、ずっと」

「いや、俺のこれは……」


 柊は思わず口ごもった。不意に慧の笑顔を思い出して、顔をしかめる。

 怪訝そうな顔の蓮に見つめられて、言葉を絞り出した。


「そんな、綺麗な感情じゃなくて……」


 彼女が自分を愛してくれていることは知っている。自分を大切にしてくれていることも。だが、柊はいつも何かを渇望していて、その渇きが癒えることなどないのだ。


 欲しいものがある。ずっと、ずっと、あの雨の日からずっと、喉から手が出るほどに欲しいものがある。

 大切にしたい。優しくしたい。与えられたぶんだけ、返してやりたい。それだけのはずなのに。

 それだけしか、自分には許されていないはずなのに。

 柊は唇を噛む。心の奥にずっと、どろどろとした何かが蠢いている。直視するのも気色悪い何かだ。


 ふとしたときにそれを視界に認めてしまうと、もう駄目だった。慧の、あの小さな体をどうにかしてやりたくなる。どうにか、というのが何なのか、具体的には思い浮かばないから一層怖い。自分は一体、彼女をどうしたいというのだろう?


 だが、これだけは分かる。

 こんなものが、恋であるはずがない。

 こんな獰猛な感情が、愛であるはずがない。

 こんな感情を、受け入れてもらえるはずがない。


「は? 恋愛が綺麗なもののはずねえだろうが」


 不意に、蓮がそう言い放った。


「恋愛が綺麗だってんなら、お前に執着してる嬢たちはなんだっていうんだよ」

「……あれは、恋じゃないでしょう」

「恋だよ。古今東西、人ってのは恋に狂うようにできてんの。いいか? 取り違えるな。きちんと学べ」


 けらけらと笑い、蓮はカウンターに肘をついた。


「それもお前の感情だよ。理解しとけ、坊主」

「……はあ」

「おっ前、人生の先輩がわざわざ助言してやってんのに……」

「狂犬」


 そのときだった。不意に、二人の体に影が落ちる。

 振り向けば、そこにはイズミが立っていた。彼女は無言で蓮を一瞥すると、柊に向き直る。


「送って。そろそろ上がる」

「あれ、姐さん早いな」

「あんたには何も言ってない」


 ぴしゃりと言い捨て、顎で入口を指し示す。本当に客以外にはガラ悪いな……という蓮の言葉を耳聡く拾って、彼女はぎろりとそちらを睨んだ。


「分かりました」


 柊は内心ため息をついて、イズミの言葉に頷く。この二人も大概、素直じゃない。







「あんた、最近は進展あったの」

「……慧とのことですか?」


 夜の繁華街を蝶と歩きながら、柊は首を傾げた。イズミは浅く頷く。


「バックヤードで知れ渡ってる」

「……」


 誠に遺憾である。口が軽い黒服の先輩のことを思って、軽く頭を抱えた。


「まあ、あんたはそれより自分のこと、心配したほうがいいと思うけどね。先月辞めさせられた子、まだあんたに付きまとってるんでしょ」

「蓮さんと同じことを言いますね」

「は?」


 じろりと見上げられる。本当に、あの先輩と相性がいいんだか悪いんだか分からないな、と思った。


「なんでもありません」

「ならいい。最近は? 家に押しかけられたりはしないの」

「尾けられてるときは気づきますから、撒いてます。慧に迷惑をかけるわけにはいかない」

「そう、ならいい」


 この人も案外、面倒見がいい。嬢たちのことなど気にしない素振りを見せているし、実際本人もそう思っているのだろうが、その実、だいぶ嬢や黒服たちに甘いのだ。だからこそ、トップの座に君臨し続けているのかもしれないが。


 そのときだった。


 何故そう思ったのか、どうしてその瞬間だったのか、柊は結局最後まで分からなかったが、その日その時その瞬間、何か勘のようなものが働いたのかもしれない。

 導かれるように視線を向けた先。

 通りの向こうで、巫慧が歩いていた。


 瞬間的に呼吸が止まったのは、彼女の姿を見たからではない。もちろん、自分がイズミと二人で歩いていることへの後ろめたさからでもない。

 彼女の隣に、平然と並んで歩いている男がいたからだ。


「……狂犬?」


 急に立ち止まった柊に怪訝な顔をして、イズミが彼の視線の先を見やる。しばらくして、ああ、と頷いた。


「あれが、あんたの言ってた人?」


 辛うじて頷くと、彼女は鋭い瞳で道行く二人を見て、言った。


「一応聞くけど、あれ、彼氏だったりするわけ?」

「……いや、そんなはずは、ないです」

「言い切るね」

「彼氏ができたら、あの家出てくって、言ってるんで。隠そうとしても、慧は嘘をつけないから、できたら分かる」

「……あんた、意外と悪いことしてるね」


 呆れたように笑われて、そうだろうな、と思う。自分は彼女を縛っている。ずっと、あの平穏な庭園のような家で暮らしていたいから、わざと彼女を困らせるような方法を取って、彼女に酷いことをしている。

 そんなことは分かっている。そんな方法しか取れない愚かな自分も。慧とどうなりたいかも分からないのに、彼女の優しさに甘んじて、あらゆることを利用して、彼女の隣に居座っている。


「まあでも、それでいいんじゃない」


 イズミがふと言った。


「手段なんて選んでられないのが恋でしょ。若いうちは特にそう」

「……年に甘んじて、慧を縛っている俺が、俺は一番嫌いですけどね」

「堅物だよね、あんたも。もう少し肩の力抜いたら……」


 かすかに苦笑して、イズミが柊のほうを向いた、そのときだった。


「……っ、狂犬!」


 焦燥の滲む声。その珍しさに、狭まっていた視界が瞬間的に広がるのを感じた。激高した客に酒をかけられても顔色ひとつ変えなかったイズミの叫びだ。気にしないほうがおかしい。

 それでも、一瞬だけ、遅かった。


「どうして、その人と一緒にいるの、柊くん」


 ぶわっと額から冷や汗が流れたのと、えげつないほど近距離で暗い声が聞こえたのは同時だった。手のひらに鋭い痛みが走って、思わず上げかけた悲鳴を飲み込む。

 手元を見る。鈍色に光る刃が、柊の手に食いこんでいた。咄嗟に手で防がなければ、間違いなく内臓を貫通していただろう。今まで培ってきた勘が総動員された結果の、紙一重の所業だった。


 だが、痛いものは痛い。肉を切られるすさまじい痛みに顔をしかめながら、ナイフを持っている女を見つめた。

 がりがりの体に扇情的なワンピースドレスを纏って、ゆらゆらと小刻みに体を揺らしている。それは、いつぞやに柊が助けた、あのクラブで働いていた嬢の一人だった。頬は痩せこけ、落ちくぼんだ瞳の下には濃い隈があるが、おそらく間違いないだろう。何故なら、柊が恨みを買うとしたらその関係しかないからである。


 ぱたぱたっとアスファルトに血が落ちる。ナイフが上手く柊の手で隠れているせいで、周りの人間は何が起こっているのか分かっていないようだった。陽気な集団が通りすぎるのを横目で見ながら、どこか冷静に「集団パニックになったらまずいな」と思う。


 だが、頭の半分は「痛い」で埋め尽くされていた。

 まさか、往来で刺されるとは思っていなかった。当たり前だが、刺されたことも初めてだ。脂汗の滲む額が熱を発する。手のひらが第二の心臓になったようだ。

 痛い。それよりも熱い。灼熱の火箸を当てられたらこんな痛みになるだろうか。痛くて、熱い。


「どうして。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」

「っ……」

「どうして! あたしを捨ててそんな女と一緒にいるの!」


 すさまじい強さでナイフが押される。目眩がしてきた。手のひらで防いでいるというより、刃を握る形で押し留めているのだ。血で刃が滑るたび、激痛が手のひらを伝った。

 だが、このままだと腹を刺されて終わりだ。太ももを刺されただけでも失血死する可能性があるというのに、腹など致命傷にも程がある。


 後ろで「狂犬!」と叫ぶ声がする。今更だが、そのあだ名を往来で叫ぶのはやめてほしい。どちらが危険人物なのか分からない。

 現実逃避に任せてそんなことを思う。痛みで目の前が発光してきた。白い光に視界が覆われていく。今どれくらい経っただろう? どれほど、この痛みは続くのだろう?


 痛い。痛くて痛くて痛くて痛くて、もう手を離してしまいたかった。ああ、でもこの手を離したら、きっと、もっと……


「私の柊に何してるんだ、この痴れ者が!」


 唐突に、ドッ、と鈍い音がした。

 ぎゃあっ! という悲鳴と共に、女が人混みの中に吹っ飛ぶ。周囲のざわめきが瞬間的に大きくなった。


 拮抗していた力が急になくなって、思わずナイフを取り落とした。

 はっとする。視界が、先ほどとは別の煌めきで埋まっていた。

 黒い流星のように飛び込んできた慧が、女の腹を蹴り飛ばしたのだ。


「柊! 無事!?」


 そのときようやく、限界まで息を止めていたことに気がついた。はっ、はっ、と小刻みに呼吸して、ずたずたに切り裂かれた両手を見る。痛い。ものすごく痛い。赤い。血が。


「柊、返事しろ。こっち見てくれ、頼む」


 頬を挟まれてぐいっと顔の向きを変えられる。泣きそうなほどに顔を歪めた慧と視線が合った。星のように煌めくヘテロクロミア。この世で最も美しい色。


「け、い?」

「そうだよ、慧だ」


 引き絞るような声だった。焦点の合った柊を見ると、ほっと彼女は息を吐く。


「もう大丈夫だ。刺されたのは手だけか? 腹とか胸は?」

「さ、されて、ない……」

「そうか。それならひとまずは止血でいいな。大丈夫だ、柊。これくらいの怪我なら痕も残らずに治る。大丈夫だ。お前は死なない。大丈夫だからな」

「……けい」

「うん?」


 血まみれの手で、慧の頬に触れた。当たり前のように血で汚れた顔を見て、はっと手を引っ込めようとする。だが、彼女は笑って、優しく、傷に響かない程度の力で手首を掴んできた。


「いいよ、柊。お前が私の体に触っちゃいけないときなんてない。私はここにいるから、存分に触るといいよ」


 柊が冷静であれば、このときものすごいことを言われている事実に気づいたかもしれない。だが、残念ながら柊はこの場で一番冷静ではなかったので、慧の発言の凄まじさに気づいたのは、後方で全てを聞いていたイズミだけだった。


「……なんだそれ……」


 呆然とした顔で、イズミは立ち尽くす二人を見た。


「何が『縛ってる』だよ……嘘つきめ……」


 当たり前だが、そんなぼやきも、柊の耳には届かない。

 一方、戦犯である女は、先ほど慧が並んで歩いていた男に手錠を掛けられていた。朦朧とした視界でそれを見ていた柊は、ああなんだ、同僚か……と思う。こんなときまで頭の中には慧のことしかなかった。


 彼女は、自分の持っていたハンカチか何かで柊の傷を止血している。手際が良かった。人命救助を当たり前のものとして過ごしてきた人間の素早さだ。

 そんなこと、しなくてもいいのに。

 彼女が来てくれたのだから、自分はもう、何も怖くないのに。


「慧……」

「うん、ここにいるよ、柊」


 自分を安堵に導く声が聞こえる。それだけで、柊は泣きそうなほどに嬉しかった。「お前、急に飛び出していくなよ」と慧に悪態をつく、同僚らしき男を睨む余裕さえあった。

 だが、慧が同僚のほうを一瞥すらせずにこちらを見ているから、次第にその男のことすらどうでもよくなってしまった。


 このまま、世界が閉じてしまえばいいのにな、と柊は思う。


 救急車のサイレンの音を聞きながら、柊は慧に寄りかかった。彼女に振り払われない事実だけで、この先いくらでも生きていけそうだった。

 それくらい、後藤柊は巫慧のことが好きだったのだ。
















 だから、もう少し早く、彼女に告白しておけば良かったのかもしれない。

































 そうすれば、何かが変わっていただろうか?




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悪の諦観 刑事と少年の話 七星 @sichisei

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