第4話 剣
夜と、垂れ下がるように茂る木が作る闇の中、古ぼけた電灯の薄明かりの下。重く長く息を吐き、木刀をゆるゆると振る。スローモーションのようにゆっくりと、ただし決して止めることなく。
帰り道、誰もいない神社の境内。そこで僕は一人こうしている。いつものように。
舟の
刃筋はぶれていないか。手の内――柄の握り――は固すぎないか、自在に振るい的確に絞めるだけの遊びはあるか。正中線はつまり自らを天から地へと貫く軸はどこにあるか、常に意識しているか。重心の位置は
脚腰の力を、軸を中心に重心の重みを乗せて振り回し。背筋、腹、胸、肩から二の腕。前腕、手首から十指、握りを経て刀身へと伝える、それがすなわち、斬撃。
彼はそんな風に教えてくれた。この練習方法も。
一かけらも分からなかった、分からないままやっていたこの動作が、その意味が。
解りかけてきた、つい最近。
ゆるゆると振るう、その力の在りかがどこか解る。軸と重心とに、その重みがかかる。それをゆっくりと導いてやる。腕まで、刀身まで。その先の、想定する敵まで。それを斬り捨てた、その先まで。
つながっている。彼の言葉が、いや、教えが。いいや、彼の感じるものが。
彼の感じている世界、その一端が確かに、僕を貫いている。
――見たことがある、彼の居合を。それはまるで、ごく短い舞だった。
袴の帯に差した居合刀、歩を進める彼がその柄をいったいいつ握ったのか、分からぬ間にそれは抜き放たれていた。
その抜き打ちは速いというよりも、ごく小さな動きだった。おそらく何千回何万回と繰り返したその動きはあらゆる無駄を削ぎ落とされ、彼から目の前の空間まで――つまりはそこにいる仮想敵まで――最短距離を最小の動作で走った。
抜き打ちが仮想敵の右手を――おそらく柄に手をかけ、同じく抜き打とうとしていた敵の手を――斬った、そう僕が気づいたときには。
彼は刃を返して振り上げ、両手で柄を握り。一息に斬り下ろしていた。
そして片手で持った刀を額の前へ掲げ、斜め下へ孤を描いて振る。刀身についた血を払うように。
彼の動きは水の流れのように、居つく――止まる――ということがなく、どこにも重さがなく。斬撃を放つその瞬間にだけ、
それはまるで舞だった。普通の立ち姿から始まり、
今まさに敵を斬り殺した、美しい舞い手は。袴の裾を
そして多分照れ隠しに、全速力で走り出して。袴をはためかす音を立て、跳び蹴りをしかけてきた。――
そして今、僕は愛用の竹刀を取り出す。
重い木刀をゆるゆると振るった先ほどの感覚を、体に残したまま竹刀を握る。振るう――手の内は決まっているか――振るう――刃筋は立っているか――振るう――体の軸は、重心の位置は――。
振るう、その感覚を持ったまま。振るう、小さく、素早く。
やがてその動きは素振りから、中段に構えて、踏み込み、打つ、面打ちの動きに変わる。
剣術と剣道の動きは必ずしも同じではない――いや、はっきりと違う。同じ根から生まれたそれらは、もはや別々の枝に分かれている。
剣道の技は『
剣道はしばしば『その動きでは人を斬ることはできない。日本刀を使うための動きではない』と批判されるのだが。その批判は当たり前であり、同時にひどく的外れでもある。
剣道の動きは『最小限の動作で素早く人を叩くことができる動き、竹刀を使うための動き』だ。斬るための動きでも日本刀を扱うための技でもない。
逆に言えば、『剣術は、竹刀で戦うための動きではない』。
つまり。彼の動きや技は決して、剣道に最適化されたものではない。
現にその動きには無駄が見られる場合もある。手首のスナップを利かせて小さな動作で打てばいいところを、全身の動きを乗せて斬り込んだり。逆に竹刀を打ちながら流すような、
だから。彼が徹底して習得している、双方に共通した技術の
充分、勝ちの目はある――はず、だ。
僕はまた構え、踏み込み、竹刀を振るう。何度も、何度も、息が切れるまで何度も。
そうして息が切れ、わずかに揺らいだ意識の中で。
彼が居合刀を抜き打つ、あの時の姿が見えて。息を呑み、
僕は大きく息を吸い、長く息を吐いてまた深く息を吸い。かぶりを振ってその妄念を追い払う。再び、竹刀を振るい出す。
僕は忘れてはいない。腕に走る、焼けつく痛みを。
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