第70話 時の狭間
クレアが魔術院でルークの無事を祈っていた頃。
二人の魔術師は、
サイラスは、ゆったりと辺りを見回してから、大仰に肩をすくめた。
「ほう。我が召喚獣は、強制的に帰還させられたか。あの非力な少年が、随分と危険な術を行使するようになったものだ。亡きミラー師匠もさぞ驚くことだろう。ひとまずは褒めてやらねばならないな、ルーク」
サイラスが召喚した
「負け惜しみも大概にしろよ、サイラス。素直に認めたらどうだ。僕の魔力が、最早お前に匹敵するほど……いやむしろ、
その時初めて、これまで優雅に笑っていたサイラスの顔に、抑えきれない動揺と憎悪が浮かんだ。サイラスの黒い瞳が葡萄色に燃える。彼の体から、闇のオーラが噴き出しているかのようだ。
「弟分だと思って寛大にしていれば……調子に乗るなよ、小僧! お前程度の魔術師がこの私に挑むなど、全く以て愚かしいことだ! 私の不意を衝いたことで悦に入っているのだろうが、生憎と二度は無いぞ!」
「おっと! 待てよ、サイラス。この時の狭間で暴れたりしたら、貴様、二度と戻れなくなるぞ? そんなことも忘れるほど、頭に血が上ったのか?」
時の狭間。二人の今いるこの広間……時の狭間にぽっかりと開いた広大な空間……の周りでは、ありとあらゆる時間が、なんの秩序もなく混沌と存在している。そこに吞み込まれたら最後、二度と現世に戻ることはできない。
ルーク達が存在しているこの空間はひどく
「貴様なぞに言われる筋合いはない……貴様には、やはり分からせねばなるまい、ルーク。私達二人の間に横たわる、超えられない壁をな!」
その瞬間、サイラスが目を見開き、ルークの存在を捕らえた。時空が歪む。
(転移か! クソッ、このままクレアのところへ戻ろうとしていたのに、サイラスの奴、余計なことしやがって!)
サイラスの術を跳ね返すことも出来るが、この場で術者同士の魔力をぶつけるなど、自殺行為だ。そんなことをすれば、二人とも時の渦に呑み込まれてしまう。ルークが反撃出来ないことを承知で、サイラスは術を仕掛けたのに違いない。だが。
(分かっているのか? サイラス。こちらにとっても、むしろこれは最大の
メイルバードが魔術院に自分の伝言を届けていれば、クレアは間違いなく、魔術院で保護されているはず。魔術院には強い結界が張られ、ルークの腹心であるマイルズ以下、優秀な魔術師たちが揃っている。ただ一つの心配は、クレアが、その姿を気にして魔術院に留まらない可能性だが……。
(……大丈夫。あの娘は、聡明だ。きっと、魔術院で僕の帰りを待っていてくれるさ。魔術院でも僕のベッドが汚いことに、ちょっとは怒っているかもしれないけど)
クレアの可愛い怒り顔が目に浮かび、ルークは我知らず微笑んでいた。辺境の屋敷の私室を片付けていた時と同じように、魔術院の長の部屋でも、彼女はきっと怒っているに違いない……。ルークにとっては、可愛いとしか言えない顔つきで。
永遠とも刹那とも思える時の道が終わり、光が先に見えて来た。現世への出口だ。出た先がどこかは、サイラスにしか分からない。ルークは不敵に笑った。
(さて。サイラスの奴、怒り心頭だからな。せいぜい、全力でねじ伏せてやるよ!)
早々にサイラスと決着をつけて、クレアの元に戻ってみせる。ルークはそう決意して、前方を見据える。現世の光が、ルークの体を包み込んだ……。
その頃。花冠の祭りの舞踏会で賑やかなロマ王城のテラスに、一人佇む人影があった。北の端のこのテラスは淋しい程に静かで、遠く、人々の喧騒が聞こえている。一陣の夜風が、その場に放り出されていた魔術師の仮面を転がした。その人物は、滑らかな動作で仮面を拾い上げる。彼は、琥珀色の瞳でしげしげと仮面を眺めて、言った。
「ふうん。サイラスがどこに行ったのかと思ったら……ルークと逢引ってわけね。ふうん。俺じゃなくて、ルークとね。ふうん」
アゼルだ。アゼルは不機嫌にそう呟いて、拾い上げた仮面をくるくる回す。
彼はもう、女性の姿をしてはいなかった。いつも通り、腰に布を巻き付けただけの精霊の姿で、その背には二対の美しい銀の翼が輝いている。アゼルは翼をはためかせ、テラスの欄干に風のように腰かけた。そして優雅に足を組み、テラスを眺める。彼の琥珀の瞳が怪しく光った。すると、過去にこの場で起きたことが、目の前で影となって再生される。アゼルは一部始終を見終えると、魔力を解いた。影があっさり雲散霧消していく。
「へえ! この場で、そんなことがあったわけね。兄弟弟子の、因縁の再会か。サイラスってば、ケレヴなんか召喚しないで、俺を呼んでくれれば良かったのに! あーあ。せっかく、サイラスが執着してるルークって奴を八つ裂きにしてやる機会だったのに、惜しい事しちゃったな!」
アゼルは暫く退屈そうに指先で仮面をくるくると回していたが、やがてそれをぽいっと谷底に放り捨てて立ち上がった。
「そうだ! よく考えたら、これは、あのクレアちゃんのところに遊びに行く絶好の機会じゃないか! サイラスがルークって奴といちゃいちゃしてる間、俺は、そのルークの可愛がってる女といちゃいちゃする、と。うん、間違いない。最高の退屈しのぎ、最高の遊びだね!」
琥珀の瞳が残忍に光った。地底の精霊の言う『遊び』は、大概、人間にとっては災厄以外の何物でもない。アゼルは、たった一掻きで人間の心臓を
「待っててね、クレアちゃん! 君の魂は、一体どんな味だろう! 可愛いクレアちゃんの白くて柔らかな肌を引き裂くのが、今から楽しみでたまらないね。あー、ゾクゾクする! そういえば、あの山猫ちゃんもまだいるかなー。ついでにあの子とも遊んじゃおっかな。たまにはゲテモノもいいもんね!」
アゼルは上機嫌に笑いながら、テラスを飛び立った。銀の翼がバサバサと音を立てる。東の空は既に白み、夜明けの鳥が啼いている。ロマに夜明けが訪れるのも、もう間もなくだ。
辺境の魔術師と月下の花嫁 愛崎アリサ @arisa_aisaki
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