第70話 時の狭間

 クレアが魔術院でルークの無事を祈っていた頃。


 二人の魔術師は、現世うつしよとは隔絶された時の狭間で対峙していた。この広大な空間には物音ひとつせず、床も壁も天上も仄かに白く輝いている。その向こうには、暗く渦を巻く時の混沌が広がっていた。不穏に歪んだ大きな時計だけが、何も無いこの空間に音もなく浮かんでいる。


 サイラスは、ゆったりと辺りを見回してから、大仰に肩をすくめた。


「ほう。我が召喚獣は、強制的に帰還させられたか。あの非力な少年が、随分と危険な術を行使するようになったものだ。亡きミラー師匠もさぞ驚くことだろう。ひとまずは褒めてやらねばならないな、ルーク」


 サイラスが召喚した黄泉の番犬ケレヴは、既に3体とも姿を消している。転移している間に、術者の思念波が途切れたためだろう。あくまでも尊大な態度を崩さないサイラスを、ルークは鼻で笑った。


「負け惜しみも大概にしろよ、サイラス。素直に認めたらどうだ。僕の魔力が、最早お前に匹敵するほど……いやむしろ、凌駕りょうがしつつあるのだ、ということを!」


 その時初めて、これまで優雅に笑っていたサイラスの顔に、抑えきれない動揺と憎悪が浮かんだ。サイラスの黒い瞳が葡萄色に燃える。彼の体から、闇のオーラが噴き出しているかのようだ。


「弟分だと思って寛大にしていれば……調子に乗るなよ、小僧! お前程度の魔術師がこの私に挑むなど、全く以て愚かしいことだ! 私の不意を衝いたことで悦に入っているのだろうが、生憎と二度は無いぞ!」


「おっと! 待てよ、サイラス。この時の狭間で暴れたりしたら、貴様、二度と戻れなくなるぞ? そんなことも忘れるほど、頭に血が上ったのか?」


 時の狭間。二人の今いるこの広間……時の狭間にぽっかりと開いた広大な空間……の周りでは、ありとあらゆる時間が、なんの秩序もなく混沌と存在している。そこに吞み込まれたら最後、二度と現世に戻ることはできない。


 ルーク達が存在しているこの空間はひどくもろく、どんな小さな衝撃にさえ、寒い冬の朝に湖に張った薄氷を割るがごとく、はかなく崩れ去ってしまう。二人は、本来なら生物が存在してはいけない空間に、時空魔法という超自然的方法で、密やかに紛れ込んでいるのだ。サイラスが静かに目を閉じて息を吐いた。その口から、怒気を含んだ声が漏れた。


「貴様なぞに言われる筋合いはない……貴様には、やはり分からせねばなるまい、ルーク。私達二人の間に横たわる、超えられない壁をな!」


 その瞬間、サイラスが目を見開き、ルークの存在を捕らえた。時空が歪む。


(転移か! クソッ、このままクレアのところへ戻ろうとしていたのに、サイラスの奴、余計なことしやがって!)


 サイラスの術を跳ね返すことも出来るが、この場で術者同士の魔力をぶつけるなど、自殺行為だ。そんなことをすれば、二人とも時の渦に呑み込まれてしまう。ルークが反撃出来ないことを承知で、サイラスは術を仕掛けたのに違いない。だが。


(分かっているのか? サイラス。こちらにとっても、むしろこれは最大の好機チャンスであるってことを! お前はもう、僕にとって脅威の相手ではない……今こそ、決着をつけるべき時だ。僕こそお前に分からせてやるよ、サイラス。僕が今や、お前にとって恐れるべき相手である、ということをな! ……マイルズ、レイン、それに、テオ! 僕の可愛いクレアを頼むぞ!!)


 メイルバードが魔術院に自分の伝言を届けていれば、クレアは間違いなく、魔術院で保護されているはず。魔術院には強い結界が張られ、ルークの腹心であるマイルズ以下、優秀な魔術師たちが揃っている。ただ一つの心配は、クレアが、その姿を気にして魔術院に留まらない可能性だが……。


(……大丈夫。あの娘は、聡明だ。きっと、魔術院で僕の帰りを待っていてくれるさ。魔術院でも僕のベッドが汚いことに、ちょっとは怒っているかもしれないけど)


 クレアの可愛い怒り顔が目に浮かび、ルークは我知らず微笑んでいた。辺境の屋敷の私室を片付けていた時と同じように、魔術院の長の部屋でも、彼女はきっと怒っているに違いない……。ルークにとっては、可愛いとしか言えない顔つきで。


 永遠とも刹那とも思える時の道が終わり、光が先に見えて来た。現世への出口だ。出た先がどこかは、サイラスにしか分からない。ルークは不敵に笑った。


(さて。サイラスの奴、怒り心頭だからな。せいぜい、全力でねじ伏せてやるよ!)


 早々にサイラスと決着をつけて、クレアの元に戻ってみせる。ルークはそう決意して、前方を見据える。現世の光が、ルークの体を包み込んだ……。



 その頃。花冠の祭りの舞踏会で賑やかなロマ王城のテラスに、一人佇む人影があった。北の端のこのテラスは淋しい程に静かで、遠く、人々の喧騒が聞こえている。一陣の夜風が、その場に放り出されていた魔術師の仮面を転がした。その人物は、滑らかな動作で仮面を拾い上げる。彼は、琥珀色の瞳でしげしげと仮面を眺めて、言った。


「ふうん。サイラスがどこに行ったのかと思ったら……ルークと逢引ってわけね。ふうん。俺じゃなくて、ルークとね。ふうん」


 アゼルだ。アゼルは不機嫌にそう呟いて、拾い上げた仮面をくるくる回す。


 彼はもう、女性の姿をしてはいなかった。いつも通り、腰に布を巻き付けただけの精霊の姿で、その背には二対の美しい銀の翼が輝いている。アゼルは翼をはためかせ、テラスの欄干に風のように腰かけた。そして優雅に足を組み、テラスを眺める。彼の琥珀の瞳が怪しく光った。すると、過去にこの場で起きたことが、目の前で影となって再生される。アゼルは一部始終を見終えると、魔力を解いた。影があっさり雲散霧消していく。


「へえ! この場で、そんなことがあったわけね。兄弟弟子の、因縁の再会か。サイラスってば、ケレヴなんか召喚しないで、俺を呼んでくれれば良かったのに! あーあ。せっかく、サイラスが執着してるルークって奴を八つ裂きにしてやる機会だったのに、惜しい事しちゃったな!」


 アゼルは暫く退屈そうに指先で仮面をくるくると回していたが、やがてそれをぽいっと谷底に放り捨てて立ち上がった。


「そうだ! よく考えたら、これは、あのクレアちゃんのところに遊びに行く絶好の機会じゃないか! サイラスがルークって奴といちゃいちゃしてる間、俺は、そのルークの可愛がってる女といちゃいちゃする、と。うん、間違いない。最高の退屈しのぎ、最高の遊びだね!」


 琥珀の瞳が残忍に光った。地底の精霊の言う『遊び』は、大概、人間にとっては災厄以外の何物でもない。アゼルは、たった一掻きで人間の心臓をえぐり取れる鋭利な爪をぺろりと舐め、はしゃいで言った。


「待っててね、クレアちゃん! 君の魂は、一体どんな味だろう! 可愛いクレアちゃんの白くて柔らかな肌を引き裂くのが、今から楽しみでたまらないね。あー、ゾクゾクする! そういえば、あの山猫ちゃんもまだいるかなー。ついでにあの子とも遊んじゃおっかな。たまにはもいいもんね!」


 アゼルは上機嫌に笑いながら、テラスを飛び立った。銀の翼がバサバサと音を立てる。東の空は既に白み、夜明けの鳥が啼いている。ロマに夜明けが訪れるのも、もう間もなくだ。

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辺境の魔術師と月下の花嫁 愛崎アリサ @arisa_aisaki

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