第69話 無事を信じて

 魔術院の最上階。主のいない絢爛けんらんな部屋で、私はマイルズやレイン達と共に、メイルバードの伝言を聞いた。それによれば、ルークはウンブラ卿、つまりサイラスと共に、時の狭間はざまにいるという。私の全身から血の気が引いた。


「時の……狭間? それは、一体……」


「奥様、大丈夫、ご心配には及びません。長は何らかの理由があって、一時的に時空を歪めてウンブラ卿を隔離したのでしょう。長には稀にあるのです、危険な相手を一時的に隔離するために、時空魔法を使うことがね。時空魔法は確かに危険なものではありますが、大丈夫、我が長の強靭な精神力があれば、時の道を外れることはありません。すぐに、奥様のもとへお戻りになられますよ」


 私は冷たくなった指先を胸の前で組み合わせながら、マイルズに問いかける。


「でも……夫は、いつ、どこに戻って来るの? 私は……どうすれば」


「そうですね……テオ。どう思う。奥様を別邸にお連れした方がいいか?」


 これまで無言で立っていたテオが、胸を張って即答した。


「奥様は、ここ、魔術院で我が主をお待ち下さい。この場には、特に強い結界が張られております。また、もし何かあれば、マイルズやレインが奥様をお守りしますでしょう。別邸にお戻りになりましても、私とノラ以下、一般の者しかおりません。アゼルとかいう女が再びやってくるかもしれず、非常に危険です」


「そうだな、それがいい……奥様。テオの言う通りです。この場でお待ち下さい」


 マイルズも納得したように頷き、皆もさも当然、という顔をしている。だが。朝が来れば、私はまた化け物に変わってしまうのだ。ここには隠れる場所など無い、私の秘密を知りかくまってくれる者は、ここには一人としていないのだ……。


 けれど今。私は私のことなど、どうでも良かった。あの時……ルークが森で虎に襲われていた、あの時と同じように。私は目を閉じて覚悟を決め、ゆっくりと頷いた。


「分かったわ。私はここで、夫を待ちましょう。あの人の無事を信じて。……テオ」


 テオが微かに頷いて私を見つめる。


「お願いがあるの。別邸から私の身の回りの品を取って来てくれないかしら。いつも着ているマントと……普段の服を。ニコが知っていると思うから」


「畏まりました。すぐお届けに上がりましょう」


 ルークが仕立ててくれた大切なドレスを、怪物の姿で破ってしまうわけにはいかない。そんなことになったら、仕立屋のベルもがっかりするに違いない。


 テオは一礼すると、早速部屋を出て行った。マイルズが言う。


「奥様、少しお休みになりますか? もし舞踏会にお戻りになりたければ……」


「いいえ、戻らなくて結構よ。私はここにいます。夫が心配で舞踏会どころじゃないわ」


 私がきっぱり言うと、マイルズは微かに微笑み、頷いた。


「そうですか……ありがとうございます。では、ベッドのご用意をさせて頂きましょう、と言っても、長が多忙な時にお泊りになる時のちょっとしたもので、立派な寝室はございませんが。ですので、その……まあ何と申しますか、優雅な奥様には相応しくないものかもしれません。とはいえ、急なことで、他にご用意も出来ず……誠に申し訳ありません」


 マイルズは歯切れも悪くそう言った。魔術院の面々が、室内に置かれた豪華な衝立ついたての奥に消える。私はなんだか嫌な予感がしてきた。「うわ……」とか「どうする、これ捨てていいのか?」などと、ぼそぼそ言う声が聞こえて来たからだ。


 やがて衝立の向こうに案内された私は、予想通りの光景に無言で立ち尽くす。どこかで見たような、薄汚い空間……ルークはどうやらここでも、片付けの出来ない癖を存分に発揮しているらしい。レインが、同僚の持った籠に大量の紙くずを押し込めつつ言った。


「あっはは、ええと。奥様、一応、寝るスペースだけは確保出来ました! こんな感じで、いかがでしょうか?」


 と言った瞬間、床から山のように積まれた書物が雪崩を起こす。辺りに埃が舞い、背後に「うわわわ!」と焦った声が広がった。私の笑顔がひきつる。


「……どうして、あの人はいつもこうなのかしらね……」


 マイルズが、ゲホゲホと咳込みながら言う。


「長は、魔術のこと以外には無頓着ですからね……奥様もご苦労はございましょうが、どうか多めに見てやって下さい……と私が言うのもなんですが」


 そこへテオが戻って来た。振り返った私は目を見開く。


「……ニコ!」


 私の声に、皆も振り返った。ニコはぶひん、と鼻を鳴らして、テオに付いておどおどと室内に入って来る。レインが歓声を上げた。


「仔馬じゃないですか! なんでこんな所に仔馬が? テオ様、この子は?」


「ニコだ。ご主人様が大事にしている仔馬でね。この子は、辺境の屋敷からほとんど出たことが無い。ひどく神経が繊細なのだ。見知らぬ人間には絶対に近づかないのだが、奥様には非常に懐いているからな。別邸にぽつんと置いておくより、ここに連れて来てやったほうがいいだろうと思ってね」


「ニコ! 来てくれたのね!」


 私が嬉しくて両腕を広げると、ニコは言葉を発さず駆け寄って来た。私はニコの滑らかな首を抱きしめて撫でてやる。レインが感心したように言った。


「へえー、本当だ! 奥様と仲が良いんですね。それにしても、なんて綺麗な白い毛並みでしょう! 可愛いなあ。私も触ってみたいけど」


「やめておけ、レイン。ニコを怯えさせたら可哀想だろう。ご主人様の大切な仔馬だ」


 テオが厳しい声でレインを制する。遠目には、ニコの折れたツノはたてがみに埋もれて見えない。だが、頭を撫でたりなどしたら、きっと気付かれてしまう。テオはそれを恐れて、誰も近づけないつもりのようだ。ニコが一角獣であることは、誰にも知られるわけにはいかない。


 テオの言葉に、レインはあっさり引き下がった。


「はあーい。じゃあ、遠くから眺めるだけにします。にしても、綺麗だなあ。あまりこの辺じゃ、見かけない毛並みですね! 辺境にはこういう馬がいるのかあ」


 話しているうちに、魔術院の皆が辺りをすっかり片付けてくれていた。マイルズが軽く腰を折って言う。


「では奥様。我々は、一旦下がらせて頂きます。長がお戻りになりましたらすぐにお知らせしますから、どうか奥様はゆったりした気持ちでお待ち下さい」


 そう言って、マイルズは魔術院の皆と出て行った。扉が閉まると、室内はテオとニコ、私、それに回復球に守られて浮かんでいるフロガーだけになった。緊張の解けたらしいニコが、フロガーの真下で興奮して飛び跳ねた。


「フロガーだ!! ねえ、テオ! フロガー、いつ起きる? もうすぐ?」


「そうだな。ご主人様は少し前に、もうあと二、三日で、と言っていたから……明日には目が覚めるかもしれないな。ほら、回復球が淡くなってきただろう。これが消滅した時、フロガーは目覚めると聞いているが」


 テオの答えに、ニコと私は歓声を上げた。


「早く起きないかな! ボク、毎日一人で遊ぶの、もう飽きちゃったよ」


「そうね! 私も、早くフロガーの声が聞きたいわ。なんだか、もう随分会っていない気がするもの」


 私はニコと共に、ふわふわ浮かぶフロガーを暫く見守り……テオを振り向いた。


「……ねえ、テオ。ルークは、いつ戻って来ると思う……?」


「分かりません。が、坊ちゃんが言うには、時空魔法での転移時間は、通常の時間を過ごしている我々から見ればほんの一瞬だ、とのこと。術者は時の道を通り、もといた時空に戻って来る、と。私には魔術の心得がないので、さっぱり分かりませんが」


「危険はないのかしら……」


「危険……という意味では、どの魔術もそうでしょう。特に坊ちゃんの扱う術は、精霊の召喚しかり、光魔法しかり、普通の者にはとても手を出せるものではありません。それでもああして平気な顔をしているのですから、時空魔法だけが特別危険、というわけでもありますまい。大丈夫ですよ、あの方なら」


 テオに自信満々でそう言われると、妙に安心する。私は、ほっと息を吐いて言った。


「ええ、そうね……そうよね。心配していても、仕方がないわね。ごめんなさい。……ありがとう、テオ」


「礼には及びません。奥様がご心配なさるのは当然のこと。さ、奥様。夜も更けて参りました。そろそろお休みになりますか? 落ち着かなければ、お茶でもお淹れしましょうか」


「いいえ、大丈夫よ。このまま休ませてもらうわ。ね、ニコ」


「うん。ボク、クレアと一緒にここで寝る。あーあ、早く朝にならないかな! そしたら、ご主人様も帰って来てるかもしれないし、フロガーも目を覚ますかもしれないもん!」


「そうだな。皆で、ご主人様の無事を信じて待とう。……奥様。私も、一旦使用人室に下がらせて頂きます。何かあれば、そこのベルでお呼び下さい。魔術院には強い結界が張られているので大丈夫だとは思いますが……くれぐれも、お気を付けて。ニコ。奥様を頼んだぞ」


「うん! ボクがクレアを守る!」


 ニコの言葉に、テオが微笑んだ。私はニコの頭を優しく撫でてやる。逆だ。何かあれば、私が絶対にこの子を守ってみせる。朝陽がこの身を照らせば……あのアゼルにだって、私は負けたりするものか。テオが出て行き、ニコがベッドの足元に寝そべった。私は大きな窓から外を見る。月に照らされた別邸が遠く見えた。ルークは、どうしているのだろう。どうか早く……無事に戻って来てくれますように。

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