第16話 秋常勇作失踪事件⑤

 頼兼さんの家は、緑あふれる家だった。庭に一本の桜の木。玄関前には小さな花壇があって、黄色やオレンジをしたマリーゴールドが花を咲かせていた。庭に面した大窓には、グリーンカーテンとして朝顔が植えられている。

 そんな家のインフターフォンを、ぼくが押した。蓮成さんには、少し離れたところで待機してもらって、ぼくが呼び鈴を鳴らしたのだ。


 ピンポーンと呼び鈴が響いた後にガチャリと玄関扉が開く。中から顔を覗かせたのは、頼兼さんによく似た顔立ちの母親らしきひとだった。頼兼さんが年を重ねたら、こうなるのかな、だなんて一瞬思って、すぐにその浮かれた考えを打ち消して、頼兼さんの家族に挨拶をしてから聞いた。


「すみません、春佳さんはいらっしゃいますか?」

「あら、春佳のお友達? 行き違いになったのかしら……春佳、お友達に会いについさっき、家を出たわよ」

「そうなんですね、行き違いになったみたいです。ありがとうございます」

「花火大会に行くんでしょ? 気をつけてね、雨が降りそうだから。通り雨ならいいんだけど」


 そう言われて、空を見上げると、確かに雲行きが怪しくなっていた。いつの間にか黒い雲で覆われて、なにかきっかけがあればすぐにでも雨が落ちてきそうだった。

 ぼくは頼兼さんのお母さんに「お気遣いありがとうございます、失礼します」だなんて丁寧に伝えて、頼兼さん宅を後にした。すると、離れたところでやり取りを聞いていた蓮成さんがすぐに駆け寄ってきた。


「くそ、ここで手がかりが途絶えたな……。頼兼春佳はどこに行ったんだ? 母親の言う通り、誰かと花火を見ることにしたのか?」


 そう言って辺りを見渡す蓮成さんは、ぼくでもわかるほど苛ついていた。親指の爪をガジガジ齧るなんて、分かりやすくイライラしていたからだけれど。焦っている蓮成さんに、ぼくは深刻さを感じた。きっと、秋常くんが危ないのだ。どう危ないのかは、まだ、ぼくの頭が想像することを拒絶しているけれど。

 だからぼくは意を決して、先ほど見かけた女性について頼兼さんに告げることにしたのだ。


「蓮成さん、あの。ぼく、もしかしたら頼兼さんを見たかもしれない」

「なんだって? いつ。どっちへ向かった」

「えっと……さっきです。頼兼さん家を訪ねる前に。あっちの方向へ」


 ぼくはそう言いながら、頼兼さんによく似た浴衣姿の女性が向かった先を指差した。その指の直線上に、ひとつの目立った建物がある。緩やかな坂の上に立つその建物を見て、ぼくは思わず息を呑んだ。


「……もしかして、清良女学院?」




 頼兼さん宅から徒歩十三分の距離を、ぼくと蓮成さんはとにかく駆けた。

 清平三丁目付近は坂が多いけれど、幸いにも頼兼さんの家から清良女学院までの道のりに坂はひとつだけ。それも、緩やかな坂だ。暑さと湿気と噴き出る汗で張りつく服と髪の毛の存在を無視して、ぼくたちは走った。けれど、金魚の浴衣を着た女性はどこにも見当たらない。

 頼兼さんは、もう学内に入ってしまったのだろう。ぼくは清良女学院の閉ざされた門の前で、努めて冷静に提案をした。


「どうしますか、蓮成さん。柵、乗り越えますか」

「待て待て待て、ナツキ。いきなり積極的になるな、怖い。大丈夫だ、問題ない。俺が誰だが知ってるだろ?」


 蓮成さんはそんなことを言って、ニヤリと笑った。自信満々で老若男女を魅了するあの笑みだ。けれど、ぼくには効果はなかった。そんなことより、頼兼さんだ。という思いがあったから。だからぼくは、蓮成さんがなにをするのか冷静に見つめることができた。心の世界の中心に頼兼さんがいなかったら、今頃、カズ子さんや住職、カスミさんみたいに蓮成さんにメロメロになっていたかもしれない、危なかった。

 蓮成さんはというと、なんと、堂々と清良女学院の門に備え付けられているインターフォンを押していた。


「すみません、文化祭実行委員です」


 と、名乗っていくつか会話を交わした後、閉ざされた門がゆっくり開き出した。警備室からの遠隔操作で開くのか、だなんて他人事のように観察しながら、ぼくは門が開くのを待つ。そして、シノ君の武勇伝のひとつに、名霧市内の高校で催される文化祭を他校や地域を巻き込んだ地域交流会の形に改革した、というものがあることを思い出した。


 確かに、文化祭実行委員の活動は、夏休み頃から行われる。なんて大胆な言い訳だろう、と感心しながら、ぼくは蓮成さんと一緒に清良女学院の敷地内へ足を踏み入れたのだった。


 清良女学院の敷地への侵入が成功したとして、頼兼さんは、今、どこに?

 ぼくはぐるぐる頭を回しながら、なにか手掛かりはないかと昨日の会話を思い返し、そうしてあることが頭の中にプカリと浮き上がる。


「あっ、頼兼さんが言ってました。今週は自分が部室の鍵当番だって」

「じゃあ、部室だな。冷房、効いてるといいんだが……まあ、憎い人間のためにわざわざ冷房をつけておく人間じゃないだろ、頼兼春佳は」


 ぼくは蓮成さんが何気なく言った、憎い、という言葉がズシリと胸にきた。頼兼さんは、そんなに秋常くんのことが憎かったのだろうか。昨日の時点では、ぼくのように秋常くんと張り合うでもなく、楽しく話せていたと思うのに。それとも、嫉妬する心や疎ましいと思う気持ちを、キラキラ輝くような笑顔で上手に包んで隠していたのだろうか。


 ぼくは、過去何度か文化祭がらみで清良女学院を訪ねたことがある、という蓮成さんの案内で、校舎から少し離れたところにある部室棟と呼ばれるコンクリート造りの建物へ向かった。


 三階建ての部室棟は小さなアパートかマンションのような作りで、外側に廊下と扉が設置されている。それぞれの階に部室は五つ。合計十五の部活が、この建物を使っているようだった。扉には表札よろしく部活の名前が書いてあり、一階には、目指す情報処理部の部室はない。だからぼくは、ぼくたちは、一段飛ばしで階段を駆け上がる。ぼくの後には蓮成さんが。心臓をドキドキさせながら駆け上る。


 途中で誰か生徒とすれ違うか、という心配は、あまりしていなかった。

 すでに夏休みに突入していて、今日は雲行きが怪しいとはいえ、これから花火大会がある。そんな日の夕方まで部活をしているところはない。もう直ぐ交通規制がかかって帰宅が困難になる時間くるから。

 そして、部室棟の明かりも、二階の一番奥の部室しか電気がついていない。


「情報処理部の部室、見つけました」


 明かりがついている部屋の扉には、情報処理部と書かれたプレートが下がっていた。ここだ、ここに頼兼さんがいる。秋常くんの行方を知るかもしれない頼兼さんが。


 ぼくは扉の前で立ち止まる。呼吸を吸って、それから吐いた。奥歯を一度噛み締めて、蓮成さんを見る。蓮成さんは、ぼくがなにか言うより先に、場違いなほど柔らかな笑みを浮かべて首を横に振っていた。


「ナツキ。ここから先は、お前がひとりでいくんだ。お前も事件の真相に気づいてるだろ」

「それはそう、ですけど!」

「頼兼春佳の更生は、日向夏樹にしかできない。俺がやったら逆効果だ、余計に酷く悪化する」


 蓮成さんは、一体、ぼくのどこを見て信頼を寄せてくれるのだろう。ぼくは戸惑いに瞳を揺らしながら、蓮成さんに助けを求めた。けれど蓮成さんはぼくの縋るような目を、ニコリと笑ってあげると拒絶した。


「俺はお助けマンだからな、ナツキを助けるのはここまでだ」

「でも……ここまで辿り着けたのは、蓮成さんがいたからなのに」

「ナツキ、この事件がお前の気にいるような結末になったら、俺の武勇伝の中に入れてくれていいからさ。あ、老人ホームのおばあちゃん達からお菓子を貰ってるって、アレ。アレと差し替えてくれよ」


 蓮成さんがそんな事を言って、一歩だけ近づいた。そうして長い腕を伸ばしてぼくの肩を、トン、と叩く。蓮成さんの手のひらは大きかった。大きくてなんでも掴めそうな熱い手だ。

 ぼくはその手の大きさと熱さに勇気をもらったような気がした。


 友達のことは、友達が助けないと。

 そんな考えが自然とぼくの頭に浮かぶ。なんだ、ぼくが気づいていなかっただけで、ぼくは頼兼さんも秋常くんも友達だと思っていたんじゃないか。まあ、ちょっと危険な友達で、諸手を挙げて受け入れることはできないのだけれど。

 そうしてぼくは、蓮成さんを見た。蓮成さんはニコリと笑って、ぼくの肩を二度叩く。


「付箋事件で犯人が秋常勇作だと冬に告げなかったお前にしかできないことをしろ。大丈夫だ、ナツキ。俺はナツキを信頼してる」


 蓮成さんはそれだけ言うと、外廊下の腰壁に手をついた。そうして、ひらりと身を翻し、部室棟の二階から外側へと降りたのだ。


「れ、蓮成さん!?」


 ぼくは慌てて追いかけて、蓮成さんが降りた——あるいは落ちた外を覗き込む。蓮成さんは鮮やかな身のこなしで地上に降りて、どうやら無傷で手を振っていた。頑張れよ、だなんて口パクで伝える蓮成さんは、ぼくに向けて親指を一本立てたグッドサインを送って寄越して去っていった。


 今のは、ちょっと、心臓に悪い。右手で押さえたぼくの心臓は、今もバクバク鳴っている。その鼓動を聞きながら、シノ君が子猫を助けるために高い建物に登り、子猫を抱えたまま飛び降りて無傷だった話を思い出す。ああ、この武勇伝も実際にあったことなのだ。

 ぼくは再び、深呼吸をした。息を吐いて、それから吸う。

 ぼくは頼兼さんと話をするために、覚悟を決めて情報処理部と書かれた部屋の扉を開けた。



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