第17話 頼兼春佳の胸のうち

 幸いにも部室の扉に鍵はかかっていなかった。

 清良女学院情報処理部の部室の中には、長机が二本、スチール製の折りたたみ椅子が四つ。そして、ぐったりして横たわる秋常くんと、彼を冷たく見下ろす浴衣姿の頼兼さんの姿があった。


 秋常くんは両手と両足を結束バンドのようなもので固定されて床に転がっている。意識はあるようで、秋常くんがぼくを見て、小さくうめく声が聞こえる。彼の近くには、足元に空になった百ミリリットルの小さなペットボトルも一緒になって転がっていた。


 ぼくに気づいた頼兼さんが、ゆっくりと振り返ってぼくを見た。頼兼さんの顔は白く、つぶらな瞳も今は険しく吊り上がり、鋭く突き刺すような目をしていた。


「頼兼さん」

「ヒナ君。来たんだ」


 抑揚のない声に、ぼくの腹の辺りがシクリと痛んだ。こんな頼兼さんは、知らない。見たことがない。けれど、それが、なんだというんだ。ぼくは伊達に頼兼さんを全肯定してきたわけじゃない。さすがにこれは、やりすぎだけれど。


 とうとう降り出した雨が窓に当たる音を聞きながら、ぼくは頼兼さんを刺激しないよう、ゆっくりと口を開いた。もちろん、喉を震わせて出た声の温度は冷たさを保っている。


「頼兼さん、秋常くんから離れて。それから、そんなに警戒しないで。大丈夫、だなんて言うつもりはないけれど、頼兼さんがなんでこんなことをしたのか、ぼくは知ってる」

「さすが名探偵ヒナ君だね。なんでもお見通しってこと? ……冗談言わないで。わたしの気持ちがわかるわけない!」


 頼兼さんは、こんな状況なのにいつもと変わらないぼくに苛立ったのか、それとも理解者気取りを責めたのか。低く地に響くような声で思いの丈を叫び出した。


「わたし、シノ君をずっとずっと推して推して追いかけてきたんだよ? シノ君がなにに興味を持っているのか知りたくてSNS中を探して回った。はじめはアカウントを見つけることができたけど、最近は全然ダメ。だからあの塾に通うことにしたの。シノ君の情報に詳しい秋常くんなら、わかるよね?」

「……名霧学舎に、シノ君の親戚がいる……って噂か」


 拘束されたまま倒れていた秋常くんが、掠れた声でそう言った。こんなときにまで、シノ君の細かい情報を入れてくるなんて、さすが秋常くんだ。ぼくは感心を通り越して呆れてしまう。頼兼さんを煽るようなことを、今、しないで欲しい。と思いながら、ぼくは秋常くんを睨みつけ、頼兼さんの様子を見守る。


 頼兼さんは案の定、秋常くんに煽られて、ますます声量を上げて両手を振り回し始めた。感情の赴くままに振り回すせいで、浴衣の袖が翻り、長机の上に雑に置かれていた電源が落ちたスマホやスタンガン、ケーブルやカッターなんかが次々に床へと落ちてゆく。


「そうだよ! でも、やっぱり全然ダメ。誰がシノ君の親戚なのか、全然わからないの! だってあそこ、生徒が使うエリアはめちゃくちゃデジタル化してるのに、講師が使うエリアはめちゃくちゃアナログでどうしたらいいのかわかんないの!」


 ひとしきり暴れて気が済んだのか。それとも単に、疲れただけか。頼兼さんはそう言うと、肩と胸を上下させて息をして、冷房の電源が落ちているせいで額に掻いた汗を拭った。


「そんなときにさ、わたしよりもシノ君の情報を持っていて、わたしよりもシノ君に近づこうとしてて、わたしができないシノ君の真似を簡単にできちゃってるひとがあらわれたら、どう思う? もしかしたらシノ君かも! ってときめいたのに、それがニセモノだったって知ったとき、どう思う?」


 頼兼さんは、別に、なにも変わっていなかった。狂ってもいないし、いつも通りだ。ただ、頼兼さんが持つ独特な価値観が彼女の行動を正当化して、普段ならかかるはずのブレーキがかからなかったのだろう。


「誰だって、こうするでしょ?」


 頼兼さんは、ぼくを見て、綺麗に笑った。まあるい頬には汗の玉が浮かんで輝いていた。それを見て、ぼくは純粋に綺麗だな、だなんて思う。頼兼さんを綺麗だな、と思ったからこそ、ぼくは彼女の突飛な思考を否定しなければならない。


「頼兼さん、誰も彼もが頼兼さんのようにはしないよ」


 ぼくはそう言うと、怠そうに横たわる秋常くんの側まで行って、秋常くんを拘束している結束バンドを、床に転がっていたカッターで切った。それから、持っていたお菓子袋のひとつから、同封されていた氷のおかげで冷えたままの未開封ペットボトルを二本取り出して、秋常くんの両脇に挟む。まずは、熱中症の恐れがある秋常くんの体温を下げなければ。


 頼兼さんは、秋常くんを介抱するぼくに一瞥をくれると、すぐに秋常くんを憎々しげに睨んで告げた。


「秋常くん、あなた邪魔なの。お願いだから、このまま干からびて」

「頼兼さん、それは駄目だ。そこまでやったら、本当に駄目だ」


 ぼくは冷静で冷徹に頼兼さんを否定して、彼女のことは敢えて見ずに、袋からもう一本のボトルと、うす塩味のポテトチップスを取り出して、秋常くんに渡した。渡したボトルはスポーツドリンクで、これなら身体から失われた電解質を補ってくれることだろう。


 そんなぼくに、頼兼さんが眉をキリリと吊り上げてカラコロと下駄の音を鳴らしながら、足早に近付いてきた。そして、秋常くんに渡したポテトチップスの袋を取り上げたのだ。


「ヒナ君。そんなヤツ、介抱しなくていいよ。……ってお願いしても、ヒナ君は助けちゃうよね。付箋事件のときも間接的に助けてたし。ねえ、秋常くん。わかってる? 君、何度もヒナ君に救われてんだよ。なんでお前なの。わたしにも少しくらい譲ってよぉ」


 そんなことを嘆きながら、頼兼さんが床にへたりと座り込んだ。顔はもうくちゃくちゃで、綺麗にセットされていた髪も乱れている。ゆらゆらと揺れる魚の髪飾りは取れかけているし、いつもキラキラ輝いている目からは、とめどなく涙が溢れていた。


「……頼兼さん、秋常くんが羨ましかったの?」

「そうだよ。でもそれだけなら、こんなこと、しなかった。秋常くんが悪いの。わたしの前で、シノ君みたいな髪を晒すから。わたしが一番シノ君を好きなのに! わたしだけがシノ君みたいになれればいいのに!」


 相変わらず、頼兼さんの思考は独特だった。ぼくに頼兼さんの理屈なんて、理解できない。けれど、頼兼さんが秋常くんに嫉妬した心の重さや痛みは、ぼくにだって共感できる。

 きっと、ぼくが理解できない理屈の差分が、頼兼さんを強行に走らせた要因なんだろう。

 シノ君という存在を、情報を、独占したい気持ちが、秋常くんを排除しようとして事件となった。事件といっても、これが事件だって知っているのは、この場にいる三人と蓮成さんだけ。


 蓮成さんがどうしてぼくに解決を託したのか。それを必死になって考える。ぼくは頭を回した。ぐるぐるぐると回転させて、この事件をどうやって締めるのか、どうすれば頼兼さんを犯人にせずいられるのかを考える。

 蓮成さんは言っていた。付箋事件で東城先生に犯人が秋常くんであることを教えなかったから、ぼくを信頼したのだ、と。


 ぼくにしかできない解決策。そう考えて、ぼくは勢いよく立ち上がった。ポカンとする頼兼さんと、少し回復して動けるようになった秋常くんの両方に手を差し伸べる。


「頼兼さん、秋常くん。屋上に行こう。せっかくだから花火観よう」



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る