第8話 シノ君の七つの武勇伝④
スウィングする伸びやかなリズムのジャズが流れるこじか珈琲店の天井には、空気を循環させるために取り付けられた木製のシーリングファンがゆったりと静かに回っている。店内はぼくらの他に、女子高校生グループが一つ、年配の女性グループが二つ、それぞれ少しずつ距離を取って座っていた。
ぼくら三人が座る席は、お店の奥の方で少し薄暗い。オレンジ色の店内照明がアンティーク調の木製テーブルの天板を照らし、その光を浴びているのは空になったグラス二つとカップ&ソーサーがひと組だ。ぼくらはそれぞれ水出し珈琲とホットコーヒーを追加で頼んだ。
珈琲を待つ間、ぼくらは秋常くんが書き取ってくれたノートを頭を突き合わせて覗き込んでいた。ノートには、シノ君の七武勇伝が九つ並んでいる。
一つ、屋上に野外映画館を設置して、仲間と一緒に映画鑑賞した。
二つ、老人ホームを訪れて、お菓子を山ほどもらっている。
三つ、猫を助けるために高所から飛び降りたが、怪我をしなかった。
四つ、学校の地下に遺跡があるなどと言って、校舎裏を発掘した。それは下々条の郷土資料館に展示されている。
五つ、文化祭を他校や地域を巻き込んだ地域交流会——文化交流祭に変えてしまった。変わったのは三年前。
六つ、図書館の本棚を一日一棚一ヶ月で全ての本を制覇した。制覇した図書館は、名霧市立図書館新保分館である。
七つ、初めて参加したオンラインゲーム大会のチーム戦で見事なリーダーシップを発揮して優勝に導いた。
八つ、盆踊り大会で飛び入り参加して太鼓を叩き、ついでに横笛も完璧に吹いてその場を多いに盛り上げた。
九つ、けれど、決してリーダーにはならない。
改めて眺めると、最後の一つを除いて、これをひとりの人間が行なった、なんて、ちょっと凄い。頼兼さんがシノ君複数人説を持ち出してしまうのも共感できる。そして、この八つの武勇伝の中に誤りがあるのではないか、と疑う心も。頼兼さんの言葉を借りるなら、ニセモノが流した武勇伝があるのではないか、だ。
シノ君の偽物がいるなんて、ぼくは考えもしなかった。
三人で上げた武勇伝が九つになってしまってショックを受けたのは、単純に情報収集能力で負けたからだ。ただ、武勇伝が九つ、というのはちょっと数字的に収まりが悪い気がする。やっぱり七不思議に因んで、七武勇伝くらいにまと待っていた方がスッキリするし。
けれど頼兼さんは、偽物が流したであろう武勇伝を炙り出したいらしい。きっと、偽武勇伝の排除もするつもりだろう。シノ君を強力に推している頼兼さんらしい動機だ。もしかしたら今日のこの場も、そのためにセッティングされたものなのかもしれない。
「この九つの中でヒナ君は、オンラインゲーム大会と盆踊り大会だけ知らなかったんだよね。ってことは、これが怪しいのかな……これが偽物?」
頼兼さんがノートの上の七番目と八番目を指差して唸った。多数決の理論を使えばそうなんだろう。そんな頼兼さんの疑問を聞いて、ぼくの頭の奥でカチリとスイッチが切り替わる音がするのと同時に、注文した珈琲たちがテーブルに届けられた。
ぼくはグラスやカップ&ソーサーを受け取りながら、偽物の存在を疑って眉を顰める頼兼さんに首を振った。盾ではなく、横へと。
「待って、頼兼さん。ぼくが知らなかったからって怪しい武勇伝ってことにはならないと思うし、知ってる知っていないで分類するのは危険だ。もっと違う視点で見た方がいい」
「あ、名探偵ヒナ君復活だ」
「ぼくは探偵なんかじゃない、茶化さないでよ頼兼さん」
「ごめんごめん。それで、違う視点って?」
追加でオーダーした水出し珈琲を受け取った頼兼さんが、新しくストローの紙袋を破いて冷たいグラスに差し入れた。ぼくもそれに倣ってストローをグラスに沈め、一口静かに珈琲を啜る。シロップもミルクも入れない珈琲の味が口の中に広がって、鼻の奥を通り抜ける。舌の上に残るのは、微かな苦味と酸味、それから冷たさだ。ぼくの隣の秋常くんは、黒い水面にミルクを落として白い渦を作っていた。
ぼくは背筋を伸ばして息を吐く。そうして指を組んだ手と肘をテーブルの上に乗せ、いつも通りの冷ややかさで、温度の違いはあれど珈琲を楽しむ頼兼さんと秋常くんに、こう要請した。
「各自、シノ君自身について知ってることを挙げて欲しい」
「えっと……私服通学校に通う高校三年生の男子高校生。高身長で体格がいい。受験生だけど模試は一度も受けたことはないんだよね」
「髪の毛の色と髪型がすぐ変わる。今は枯れたススキのような色の短い髪で、バイトをいくつも掛け持ちしていて忙しくしている、と聞きました」
「ありがとう。全然参考にならないことだけがわかった」
偽物探しの参考にはならないけれど、ぼくと頼兼さんと秋常くんのシノ君像にそれほど違いがないことがわかった。
ぼくらはそれぞれ違う高校に通っている。
頼兼さんは、清良女学院。秋常くんは大手台高校。ぼくは名霧高校。日常生活で交差するのは学習塾名霧学者で過ごすわずかな時間だけ。ぼくと頼兼さんは顔を合わせるたびにシノ君の話で盛り上がっているけれど、秋常くんと話すのは今日がはじめてだ。
なにが言いたいのかというと、三人のシノ君像がここまでブレずに一致するなんて、なにかしらの情報統制が行われているんじゃないか、ということだ。六次の隔たりのように、狭い範囲で繋がっているような。
ぼくは気持ちを切り替えて、さらに質問を重ねた。
「ところで、頼兼さんも秋常くんも、シノ君の基本情報はどこから入手してるの」
「わたしはクラスの人たちとか通学バスでの雑談から拾ったり……あとは処理部の活動で、ちょっと。あとは、ときどきお母さんが話を振ってくるんだよね。最近のシノ君はこうだとか、ああだとか」
「僕も同じです。母や祖母が世間話として話しているのを聞きますね。あとは……ほら、耳を澄ませてください。こういう飲食店などでもシノ君は話題に上がっているんです」
秋常くんに言われて耳を澄ませると、カラカラとグラスの氷を掻き混ぜる音や、カチャリとカップをソーサーの上に置く音に混じって、シノ君の話で花を咲かせている声が聞こえてきた。
女子高校生のグループは、主にシノ君の格好よさについて。容姿じゃなくて、その行動や武勇伝を褒め称えている。年配の女性グループ二つは、それぞれシノ君がどれほどよくできた息子さんなのか、子供や孫に見習わせたい、なんていう話をしていた。シノ君の話は、名霧市内であれば、いつでもどこでも誰だってしている、ということだ。
「シノ君、凄いよね。まあ、娯楽の少ない地方都市に彗星のように現れたスーパースター! って感じだから、仕方がないのかな」
頼兼さんが感心したように頷いた。まるで自分のことのように頬を綻ばせて、グラスの中の水出し珈琲を啜っている。
けれど、ぼくは彼女たちの話に耳を寄せて、気がついた。
誰も彼もがシノ君の話をしてシノ君を褒めるのに、その中には必ずあることがないことに。
「みんなはさ、不思議に思ったことないの。これだけの人が絶えず話題に上げているのに、誰もシノ君の顔を知らない。特定しようともしないことに」
ぼくがそう告げると、頼兼さんも秋常くんもピタリと動きを止めた。それぞれ持っていたグラスやカップを置くと、わずかばかり憤慨したような面持ちで言い返してきたのだ。
「あるよ。当然あるよ! でも上手くいかないんだよ。シノ君の話をするのはいいのに、シノ君がどこの誰なのか知ろうとすると、必ず邪魔が入るの」
「確かに、誰かが意図的にシノ君の情報を絞って近づけないようにしている節はありますね。なので、どこに住んでいるのか、通学している高校はどこか、SNSは使っているのか……少しも手に入りません」
「わかる、わかるよアキ君! ほんと、わたしも使える手段はすべて使って頑張ってるんだけど手に入らないんだよね、シノ君の個人情報!」
「えっ、ふたりとも
軽い気持ちで振った問いに返ってきた答えがあまりにも衝撃的で、ぼくは思わず感情を露わにして目を見開いた。
Aランク個人情報というのは、名霧学舎の個人情報取扱い基準で住所氏名、電話番号、学校名などを指す。その上にSランク個人情報という括りがあるけれど、これは他人には絶対に知られたくない機微な情報を指すという。そういう意味では、シノ君に取っての住所氏名や学校名、電話番号、SNSアカウントはSランク個人情報に該当するのかもしれない。
とにもかくにも、そういう情報を探った経験があるとは、どういうことだろう。秋常くんならともかく、頼経さんまでも。ぼくは冷たいふりをするのも忘れて、思い切りドン引きして頬を引き攣らせていた。
「なんでドン引きするのよ、ヒナ君! 聞いたのはヒナ君だよ!? 逆にどうしてヒナ君はそんなにお行儀良くしてられるの!?」
「いや、だって……シノ君のファンだから? それに、ぼくだって特定しようと思ったときはあるし、実際にやってみたけど……頼兼さんが言うように必ず邪魔が入るんだよね。地域のおばちゃん達の。だからぼくはその一回で諦めた」
「おばちゃん
「その件だけど……多分シノ君はお寺さんの関係者なんだと思います。名霧市は人口二十七万人の地方都市ですが、市区町村合併によって大きくなった市です。お寺さんの影響が強い地区は当然ありますし、おばちゃん達がシノ君を守ってるのは、将来の住職だからだと」
「だから東城先生の親戚の写真データが欲しかったんだ、秋常くん。東城先生の親戚はお寺さんの関係者だから」
秋常くんが無言で視線を逸らした。つまりそれが付箋消失事件の動機であった。
秋常くんはその執念深さによって、おばちゃん防御壁を掻い潜り、シノ君がお寺さんの関係者であることを突き止めたのだ。そうして、東城先生が然穹寺の関係者であることを知り、親戚の集まりで写真撮影されたデータをアナログなQRコードを印刷した付箋でやりとりしていることを知ったから。
知りたかったのは、シノ君の外見だろう。話で聞く容姿の特徴ではなく、本物のシノ君の姿を知りたかったのだ。
その気持ちは、とてもよく、わかる。わかるのだけれど、やっていいことと悪いことは確かにあるのだ。ぼくは身体の向きを変えて秋常くんと向かい合う。ぼくがまだ秋常くんにできていなかった忠告やら抑制だとかを、今、ここでやってしまおうと覚悟を決めたところで、秋常くんが先に動いた。
秋常くんは仮面を被ったかのように涼やかな顔で、よりにもよって頼兼さんに話を振ったのだ。
「あの、話を戻しませんか。頼兼さんがシノ君が複数人いると思ったきっかけってなんですか。内容にバラツキがあるというのは聞きましたが、それだけではないのでは?」
「えっ、えー? きっかけ……きっかけかあ……。シノ君の武勇伝をノートに書いて薄目で眺めてたら、閃いたんだよね。なんだか違和感があるな、って。武勇伝の締めのさ、リーダーにはならないっていうのを素数の一に例えると、それ以外の武勇伝の中に、実は割り切れる数字が紛れ込んでいた! でも桁数が大きくてパッと計算できない! みたいな違和感というか……。数字だったらすぐに計算できるのに」
「さすが
「そういえば、アキ君は大手台高校だよね。ふふっ、わたし達、制服通学仲間だね!」
ぼくを置き去りにして盛り上がる秋常くんと頼兼さん。話はいつの間にか学校の制服の話に推移していた。
ぼくが通う名霧高校は、私服通学校である。名霧市の私服校は名霧高校の他に、名霧商業高校、名霧科学技術高専、私立千菊高等学園の四つある。制服通学校は、というと、頼兼さんが通う清良女学院と秋常くんが通う大手大高校、他に、名霧工業高校、名霧農業高校の四つである。
頼兼さんは秋常くんと同じ制服通学仲間だなんて言ってはしゃいでいるけれど、そっちがその気ならぼくにだって切り札があるのだ。この時のぼくは、完全に理性が消失していた。恥ずかしいことに、子供みたいに頼兼さんと秋常くんに張り合う意地悪な気持ちしかなかった。
「頼兼さん。ふたりが制服通学仲間なら、ぼくはシノ君と私服通学仲間ってことになるわけだけど、そ」
「待って待って、今のナシ! ヒナ君だけシノ君と仲間になるのはダメです!」
頼兼さんが慌てふためいてぼくの言葉を遮った。どれくらい慌てていたかというと、うっかりテーブルに身を乗り出して手を伸ばし、ぼくの口を塞ごうとしてくるくらいだ。
ほんの少し涙が滲んだ目も、興奮して赤くなった頬も、それがぼくだけに向けられているというのは、なんとも素敵だ。素敵で胸がドキドキして、どうしようもなく罪悪感が刺激される。これじゃあまるでぼくが頼兼さんを独占したくて子供染みた態度を取ったようじゃないか。
ぼくは深呼吸をひとつした。息を深く吐いて、それから吸う。そうやって気持ちを整えて、ぼくは逃げた。
「……頼兼さん、どうして清良女学院にしたの。やっぱり制服がワンピースタイプで可愛いから?」
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