第2章 シノ君は二人いる
第5話 シノ君の七つの武勇伝①
「もしかしたらシノ君って、複数の人で構成されたユニットなんじゃない?」
花火大会を明日に控えた日の夕方。
普段通り集団学習用の講義室の一番前に座るぼくに向かって、頼兼さんがおかしな事を言い出した。ぼくは思わず、教材やノートなんかを肩掛け鞄から取り出して並べる手を止めた。
頼兼さんの思考は時々突飛だ。特にシノ君が絡むと頼兼さんの思考は飛躍する。今日もなにを考えていたのやら。
ぼくが頼兼さんをまじまじと見ても、彼女は照れることなくつぶらな瞳をキラキラ輝かせてぼくの反応を待っている。ぼくとしては充分反応してアピールしているつもりなのだけれど、頼兼さんには伝わっていないようだった。
仕方なくぼくはいつものように、はぁ、と息を吐き出して、冷たい言葉を返してしまう。こんなんじゃ、明日の花火大会に頼兼さんを誘うことなんて夢のまた夢だとわかっていても、ぼくにだって譲れないこともある。それがシノ君に関わる話題ならば、尚更だ。
「どうしてそんな発想になったのか聞いてもいいかな、頼兼さん」
「シノ君の武勇伝の内容に、バラツキがあるなって思って。屋上に野外映画館を作った話はやたらと具体的なのに、空を飛ぶだとか老人ホームを訪ねてお菓子を強奪してるとか、フワッとしすぎな話もあるじゃない」
「確かにそうだけど、そこがシノ君らしさなんじゃないかな」
「でもやっぱり、ヒナ君みたいに全肯定じゃなくて、疑っていった方がいいと思うの。というわけで、わたしはアキ君とお友達になってきました」
「えっ、あ……アキ君?」
頼兼さんの可憐な唇から、見知らぬ男の名前が飛び出したから、ぼくは思わず聞き返してしまった。ぼくは今、心底鏡を見たくない。だって今のぼくはきっと、嫉妬丸出しの間抜けな顔をしているに違いないから。
ぼくは頭をフル回転させて、頼兼さんが新たに友達になったというアキ君について考える。
頼兼さんのことだ、なんの脈絡もなくアキ君とやらと友達になったわけじゃないだろう。そして、それをわざわざぼくに話すだろうか。ぼくやシノ君にまったく関係がないならば、頼兼さんはこうして話題に上げないはず。
時間にして数秒。ぼくの頭が弾き出した答えはこうだ。
「アキ君……って、もしかして秋常くん? えっ、なんで?」
どうして頼兼さんが秋常くんと友達になる必要があったのだろう。ぼくだってまだ、昨日の付箋事件のことで秋常くんに釘を刺しに行けていないのに。行動力がありすぎる。
頼兼さんはいつも通りぼくの隣の席に座りながら、白く輝く歯をチカチカ覗かせて笑った。
「この前の付箋事件の真相が気になったから、本人に直接聞いてみたんだよね」
「……頼兼さんって、大胆だよね」
「だってシノ君だったら、そうするでしょ?」
やっぱり頼兼さんの大胆な行動原理は、シノ君だった。けれど、シノ君の実在を疑う発言と秋常くんと友達になった話は、いったいどう繋がるのだろう。
そもそもの話、頼兼さんはシノ君第一主義のシノ君信者であると言っても過言ではない。そんな頼兼さんが、シノ君の実在を疑っている。この場合は、シノ君が複数人いるのでは、と疑っているのだけれど。
確かに、シノ君が成してきた武勇伝は、たったひとりの高校生が実現したと考えるよりも複数人からなるユニット・シノ君が成してきたことだと言われた方が、納得できる。
けれど、ぼくは昨日、出会ってしまった。仮称シノ君に。
頼兼さんは昨日、ぼくがシノ君らしき人物と会話したことを知らない。頼兼さんは、一緒にシノ君の話ができる唯一のひとだ。だからぼくは少しだけ罪悪感で胸が軋んだ。いつもなら冷たく突き放す物言いしかできないぼくが、ぬるま湯くらいの暖かさを感じる声を出してしまうほどだった。
「頼兼さん。頼兼さんがシノ君を指標にして行動するのも、頼兼さんがプライベートで誰かと仲良くするのも、好きにしたらいいと思う。ぼくに報告する義務はないんじゃないかな」
「どうして? わたし、ヒナ君に報告する義務があるんだよ」
頼兼さんの言葉が、トスッと音を立てて胸に突き刺さる。
えっ、どういうこと? 義務があるなんて、どう取ればいいのか。それはいい意味なのか、悪い意味なのか。もしかして頼兼さんは秋常くんと友達以上の関係にでもなったのか。それじゃあ明日の花火大会には誘えないのか。頼兼さんとはもうシノ君の話をして盛り上がれないのだろうか。
ぼくの頭は知らず知らずのうちに、ぐるぐると回り出して、好き勝手な予想を立て始める。頼兼さんに助けを求めようにも、彼女はニコニコと嬉しそうに笑っているだけ。手柄を立てて誇るように、少しだけ得意げに胸を逸らせてもいる。
それを見たぼくの心臓が、急に激しく動悸しはじめた。もしかして、もしかするのか。頼兼さんの真意が読み取れずに体温だって不自然に急上昇する。講義室には冷房が効いているはずなのに、背中は汗でびっしょりだ。
そして、暴走するぼくの思考への断罪は、すぐに訪れた。満面の笑みを浮かべた頼兼さんが近づいてきて、内緒話をするように耳元でこう告げたのだ。
「だってアキ君もシノ君の大ファンだったんだから!」
頼兼さんと秋常くんと、それからぼく。
これは、学習塾名霧学舎内で確認が取れているシノ君の大ファン仲間だ。同じ空間に三人も。世間は意外と狭かった。
ぼくが通っている名霧高校でシノ君仲間を見つけようと頑張っても見つけられなかったのに、これは一体、どういうこと。
ぼくは少し混乱しながらも、塾終わりに頼兼さんと一緒に駅前の喫茶店に向かっていた。
明日が花火大会本番だからか、駅前大通のいくつかのお店の前には、明日に備えて空の什器がいくつか並んでいるのが見えた。枝豆だとかポテトだとか茹でるか焼くかしたトウモロコシだとかが並ぶんだろう、と思うと、夕方であることも相まって少し小腹が空いてきた。
くぅ、とお腹が勝手に鳴かないように片手で押さえながら大通りを行く。隣には頼兼さんが上機嫌で歩いている。余程、秋常くんとシノ君の話をすることが楽しみなのか。複雑に軋む胸の内を悟られないよう、ぼくは無言を貫き通した。
結果的にぼくと頼兼さんはしばらく無言で歩くことになった。郊外へ向かうバスや行き交う車の音を聞きながら、大通りに垂直に交差するはなみずき通りを北に向かう。
「着いたよ、ここ。こじか珈琲。水出し珈琲が美味しいの、おすすめだよ」
到着した喫茶店は頼兼さんがお気に入りの珈琲店らしい。店の雰囲気はレトロクラシックで、静かにジャズが流れている。カウンターの向こうには壁一面に美しいグラスや丁寧な装飾が施されたカップが並んでいた。
そんな雰囲気のある店内の一番奥、窓は遠く少し薄暗い四人掛けの席を頼兼さんは選んだ。頼兼さんがさっさと猫のキャラクターが描かれたトートバッグを彼女の隣の空席に置いてしまったから、ぼくは正面に座るしかなかった。
そうして、ぼくは素直に、頼兼さんがおすすめしてくれた水出し珈琲を頼んでから、秋常くんはどこだろう、と店内を見渡す。どうやらまだ来ていないらしい。
「頼兼さん、本当に秋常くんは来るの? 塾を出るときに一緒にくればよかったんじゃないの」
「大丈夫だよ、秋常くんのSNSアカウントに、こじか珈琲のマップURLを送ったから。秋常くんはここに来るしかないんだよ」
どうやら頼兼さんは、秋常くんとSNSアカウントを交換したらしい。ぼくでさえ、まだなのに。それほど秋常くんは特別なのか。
そんな風に悶々としていたから、ぼくは頼兼さんの言葉に込められた微妙な意味合いを感じることができなかった。向かい合わせで座る頼兼さんが楽しそうに椅子の下で足をぶらぶらしていたのも、原因かもしれない。
そういうわけで秋常くんが頼兼さんの呼び出しに応じて、こじか珈琲に姿を現したのは、ぼくが注文した水出し珈琲が来た頃だった。頼兼さんも同じ珈琲を頼んだようで、嬉しそうにストローの紙パッケージを破いている。
どうやらこじか珈琲の水出し珈琲は、頼兼さんの中では秋常くんが来たことよりも優先すべき事項らしかった。
「よ、頼兼さん……僕を脅してどうする気ですか」
「どうしてそうなるのかな……脅してないよ、アキ君。少しお話しようって誘っただけ」
にこやかに対応する頼兼さんとは真逆で、秋常くんはぼくが見てもわかるくらいビクついていた。胸の前で抱えたトートバッグを握る手が、上品に整えられた艶やかな黒い髪が、どうしようもなく震えている。
どう考えても頼兼さんと秋常くんの力関係は、頼兼さんが圧倒的に強かった。頼兼さんは余裕の笑みで震える秋常くんに、ぼくの隣の席に座るよう促した。
秋常くんは断ることも逆らうこともなく、素直にぼくの隣に腰を下ろす。座りはしたものの、トートバッグは抱えたままだ。まるでなにかから身を守る盾のよう。一体、なにから身を守ろうというのだろう。ぼくが秋常くんをじっくり観察していると、彼は震えて上擦った声で話し出した。
「は、話なんて……もうあの話は終わったんじゃないんですか。東城先生には秘密にしてくれるって言ったのに……」
「うん。だから秋常くんが犯人だ、って、東城先生には言ってないよ。ヒナ君には言ったけど」
「待って、頼兼さん。ナチュラルにぼくを巻き込んでなんの話……あ、付箋の話か」
そうだ、すっかり頭の中から抜け落ちていたけれど、秋常くんといえば、昨日の付箋事件の容疑者だった。
ぼくとしては、限りなく黒に近いグレーくらいの意味合いだったのだけれど、頼兼さんは黒中の黒、容疑者ではなく犯人である、と断定した上で秋常くんに接触したのだろう。そして見事、正解したのだ。
頼兼さんが秋常くんと友達になった理由と全貌が明らかになって、ぼくは肩の力が一気に抜けたような気分だった。
そうかそうか、頼兼さんは別に秋常くんとは特別なお友達というわけじゃないのか。探偵と犯人の関係だ。どうしてそこからシノ君の話になって意気投合したのかはわからないけれど、行動力の塊のような頼兼さんならやりかねない。
あらゆる疑問と疑念が晴れて、すっかり心の空が晴れ渡ったぼくは、余裕の態度で机の下で足を組み替える。今まで手をつけていなかった水出し珈琲のグラスを手に取り、ひと口啜った。ああ、なんて美味しい珈琲だろう!
「あのさ、秋常くん。君もシノ君の大ファンって本当?」
「やめてください、ファンだなんて。僕はシノ君を研究しているだけです」
「それをファンって言うんでしょ。アキ君、大丈夫だよ心配しないで。わたしもヒナ君もシノ君の大ファンで、講義の前とか後にシノ君の話をする仲なんだよ」
「そのお仲間にぼくも入れってことですか」
「そうだよ、入ってよ。やっぱり少ないより多い方が楽しいから。わたしはヒナ君とふたりでシノ君の話をするのは楽しいけど、ヒナ君はそうじゃないかもしれないし」
なんということだ。ふたりでシノ君の話をするのを楽しんでくれていた上に、頼兼さんが秋常くんを呼び出したのは、ぼくのためだったらしい。ぼくはうっかり頼兼さんを見て破顔しないように堪えるので精一杯だ。
これは頼兼さんの気遣いか、それとも単なる暴走か。レトロクラシックな珈琲店という雰囲気は最高な場所で、ぼくが動揺するようなことを言わないで欲しい。
ぼくは精一杯平静を取り繕って秋常くんに向き合うと、社交的な一面を晒した。あくまでも平常通りを目指したから、唇だけで弧を描き笑ってみせただけだけど。
「ぼくとしては、仲間が増えるのは大歓迎だよ」
「本当にそう思ってる? 君でしょ。君が僕のしたことを暴いたのは。頼兼さんを使って真相を聞いておいて、今度は僕をそばに置いて監視でもする気なんですか」
「あっ、そういう禍根があるの、アキ君!? 違うんだよ、誤解だよ。ヒナ君は謎を解いただけ。真相を暴きたかったのは、わたし。わたしがアキ君と話してみたくて突撃しただけ。本当だよ、秋常くんと話したかったの!」
「なっ……! ……そ、そういうこと、なら。まあ、わかりました」
秋常くんはそう言うと、少しだけ頬を赤く染めて視線を落とした。眼鏡の幅があっていないのか、それとも緩んでいるだけか。秋常くんが俯くと黒縁眼鏡が少しずり下がる。盾のように構えていたトートバッグもいつの間にか膝の上。なんだよ、描かれている絵柄は違うけれど頼兼さんと同じトートバッグかよ。ぼくは態度を豹変させた秋常くんに、不信感を抱かざるを得なかった。
簡単に陥落しないで欲しい。シノ君の研究をしているとか誇らしげに言っていたくせに、頼兼さんがちょっと微笑んで、ちょっと秋常くんを立てるようなことを言ったからって、チョロすぎる。ぼくはチョロくて格好悪い自分が顔を出さないように冷たく接することもあるというのに。
ぼくがひとりで不貞腐れていると、気持ちを切り替えたらしい秋常くんが背筋を伸ばして頼兼さんに話しかけた。
「それで、頼兼さん。僕らはシノ君のなにを話すんですか」
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