第4話 付箋喪失事件③
「ちょっと思ってたのと違ったなー、現実は思う通りには行かないよね」
東城先生に追い立てられるように名霧学舎を出た頼兼さんは、感じた不満を隠しもせずに口にした。頼兼さんのそういう正直なところは、とても、いい。好感が持てる、という意味だ。ぼくはわかりやすいものが好きなのだ。
「頼兼さん、付箋消失の謎を解いてヒーローにでもなりたかったの?」
名霧駅に向かって歩く頼兼さんにぼくは聞いた。本当は聞くまでもないことなのだけれど、人にはわかっていても聞いて欲しいことがあるものだ。
駅へ向かう大通りの沿道は幅広い歩道になっていて、雨でも雪でも歩けるようにと
けれど名霧市を東西に隔てる一級河川である
そんな寂れた大通りにオレンジ色のオレンジ色の日が差している。明後日の花火大会に備えてアーケードを支える柱に飾られた花飾りや幕が、夕日を受けて輝いている。なんともいえない哀愁漂うその光が頼兼さんを照らす様は、ぼくにほんの少し後悔を胸に抱かせた。もう少し、柔らかく聞けばよかったかな、と。
そんなぼくの不安や心配など頼兼さんには届かなかったようだ。それどころか、はじめからそんなものはなかったかのように、頼兼さんは頷いた。大きく頷いて、僕の地雷を踏み抜いていく。
「うん。だって、それってシノ君みたいじゃない。あーあ、シノ君だったらもっと鮮やかに解決してたのかなー。どう思う、ヒナ君?」
「どう思うもなにも……多分あの付箋、誰かが一時的に失敬して、東城先生が講義している間に資材の発注書に貼り付けて戻したんだと思うよ」
頼兼さんが悪意なく踏み抜いた地雷によって、ぼくの反省は跡形もなく吹き飛んだ。無愛想で暖かみのない声が喉の奥から飛び出していったのだ。
東城先生が何度も言っていた。あの付箋は教材の中に貼り付けてあった、と。そう簡単に剥がれるはずがないのだ、と。
発注書に貼り付けられていた付箋は、大きさといい粘着力といい、確かに簡単に剥がれそうになかった。ということは、誰かが付箋を一度剥がして、後から発注書に貼ったとしか考えられない。そして、その誰かというのは、東城先生の脅威の書類タワーを片付けるのを手伝った三人——原待くんと秋常くん、そして水落さんしかいないのだ。
「えっ、……え? なんで。なんでそんなことするの」
「あの付箋、QRコードが印刷されていたから。コードのその先にあるデータが欲しかったんじゃない?」
「なにそれ、犯人がいるってこと? 名霧学舎に?」
頼兼さんは目を白黒させながらそう言った。だからぼくは簡潔に答える。
「そういうこと。ぼくとしては犯人というよりは、容疑者レベルだけれど」
「ヒナ君はそれが誰かわかってそうだね」
「まあ、多分。……説明欲しい?」
「欲しい!」
素直な要求をぶつけてくる頼兼さんに、ぼくは大きく頷いた。そうして、今まで得た情報を整理するように丁寧に話してゆく。
「わかった。えっと……あの付箋の動きだけ見ると、一コマ目の講義の間に貼られて、二コマ目の講義終わりに消えてたわけなんだけど、ぼくが見る限り、講義中に付箋が剥がれたわけじゃなかった」
「確かに。わたしもヒナ君も一番前に座ってたから、付箋が剥がれたら気づくもんね」
「だから付箋が消えたのは十五分の休憩時間中。講師待機室に出入りした講師も生徒も多くいるけど、東城先生の教材に触れたのは三人の学生だけ」
「原待くんと秋常くんと水落さんね。……待って、わかった。原待くんが犯人でしょ! せんせーは偶然、書類タワーに手が当たったって言ってたけど、本当は付箋が欲しかったんだよ!」
頼兼さんの閃きは、残念ながら正解ではない。ひとつ見落としていることがある。ぼくは彼女を否定するように大きく首を横へと振った。
「違うよ。確かに原待くんは教材タワーを崩した張本人かもしれないけど、犯人じゃない。犯人はわざわざ付箋を返しに来てる」
「付箋を返せる生徒が一番怪しいってこと?」
「そう。二コマ目の講義は、ぼくらが取ってる通常の六十分コースの他に、八十分の特別コースがあるでしょ。講師待機室にあった監視モニターに、原待くんと水落さんが講義を受けてる姿が映ってた」
ぼくは頼兼さんに最大級のヒントを与えた。もうほとんど答えを告げたようなものだ。ぼくは頼兼さんに冷たい態度を取りがちな一方で、こうして最後の最後で爪が甘くなるような人間だ。一環とした態度が取れない中途半端な人間なのだ。
頼兼さんが腕を組んで唸りながら考える姿を、整った輪郭を、揺れる黒髪を眺めながら、ぼくは彼女が自分で答えを出すまで口を閉じて待つ。
あとひとつ横断歩道を渡ってしまえば、もう駅だ。ぼくは歩行者専用信号の青い光がチカチカと点滅するのを見ながら、歩みを遅める。ちょうど信号が赤に変わり、最後の横断歩道の前で立ち止まったところで、ようやく頼兼さんが答えを出した。
「……犯人は秋常くん」
「消去法で行けばね」
もしかしたら頼兼さんは、名前しか知らない同塾生が悪意を持って付箋を盗んだことを認めたくなかっただけなのかもしれない。秋常くんの名前を告げたその声は重く掠れていたからだ。
ぼくは頼兼さんが出した答えに応える義務がある。だから普段通り冷たく喉を震わせて、答え合わせをしてみせた。こういうとき、自分の感情や矛盾に自覚があると、自分の感情とは裏腹な行動ができてしまうのだ。
ぼくが認めたことで、頼兼さんは安堵したのかもしれない。いつも通りの明るく響く声で、付箋消失事件の動機をあれこれ上げ始めた。
「どうして付箋が欲しかったんだろう……あ、東城せんせーの親戚の集まりの写真が欲しかったのか。せんせーの親戚に好きな子でもいるのかな。それとも……せんせーが好きなのかな!? どう思う、ヒナ君。ラブの予感だと思う!?」
「秋常くんの心なんて、ぼくは興味ないよ。シノ君以上に興味をそそられるひとなんて、いないから」
「それもそっか。ヒナ君、いつもブレないよね。そういうところ、格好いいよ」
頼兼さんの意外な一言に、ぼくは一瞬、心臓が止まってしまったのではないかと錯覚した。咄嗟に返す言葉もなく、頬を赤く染めることしかできないなんて。今、この時間が夕方でよかった。オレンジ色の光、万歳。もっとも、夕日はぼくの背中を照らしているから、ぼくの赤く染まった頬が夕日で隠れているかは自信がないのだけれど。
そうこうしていると、頼兼さんといつも別れている場所までやってきてしまった。名霧駅は新幹線も止まる駅だからか、駅を出てすぐの場所に待ち合わせ用の小さな広場があるのだ。節水のためか、それとも水道代の節約か。ちょろちょろと流れるやる気のない滝の前で、頼兼さんが立ち止まる。
頼兼さんは、ぼくに『格好いいよ』だなんて言ったことを忘れたように、普段通りに「またね、ヒナ君」と告げて手を振った。だからぼくも釣られていつも通りに手を振って彼女を見送る。ワンピースタイプの制服のスカートを翻しながら、頼兼さんが六番バス停へと向かって走る。
小さくなってゆく頼兼さんの背中を見つめるのも、いつものこと。彼女がバスに乗り込むところまで見送ることはないけれど、ぼくはざわざわと落ち着かない心を落ち着けるためにしばらくその場に立ち尽くしていた。
耳をすませば街は普段よりもざわめいている。川西区域の再開発によって人通りが少なくなったとはいえ、明後日に
花火。花火大会か。
いつも冷たい態度しか取っていないぼくなんかが、シノ君の話をする仲間であるという理由だけで頼兼さんを花火大会に誘ってもいいものか。
花火大会当日の午前は、塾の集団学習のコマを取っている。頼兼さんも同じコマを取っていたら、誘ってもいいだろうか。もう誰か友達と行くことになっているだろうか。
そんなことを考えて、脳内お花畑で苦悶するぼくに、誰かが後ろから声をかけてきた。
「君、ありがとな。
足音は聞こえず、気配はまるでなかった。ぼくに声をかけてきたそのひとは、ぼくよりも背が高く、体格が良くて手足が長かった。髪は枯れた
ぼくにはこんなに怪しい年上の知り合いはいない。警戒心丸出しで、ぼくは一歩後退る。
「あの、……誰ですか?」
「データとコードは差し替えたから問題ないよ。前からちょくちょくデータが抜かれててさ。今回はトラップデータだったから、本当に問題ない。……君が気にしていると思ってね、声をかけたんだ」
怪しいその男は、一方的にぼくに話しかけてきた。気にしているって、一体になにを。トウ先生って、誰なんだ。もしかして東城先生のことだろうか。それならこのひとが言っているのは、もしかして付箋消失事件のことか。
ぼくの頭の中がぐるぐると回り出す。
確かにぼくが東城先生の前で容疑者を告げずにうやむやにしたのは、塾の生徒に先生の持ち物を盗む生徒がいるかもしれない、という事実をストレートに伝えることが
けれど、生徒であれば、あとでぼくの方からそれとなく告げて、秋常くんを牽制したり抑制したりできるんじゃないか、と考えたからだ。
そういうぼくのどうしようもないエゴを、見ず知らずの人間に言い当てられるなんて。
どう返していいのかわからず放心しているぼくに、彼はもう用事は済んだとばかりに背を向けた。
「はぁ……この塾も安全地帯じゃないなぁ……」
謎の人物はそんなことを呟きながら去って行く。
年上で背が高く、体格も良くて手足が長い。枯れた薄のような色の髪と髪型。それから特徴的な声。どこかで聞いたことのあるような人物像に、ぼくはハッとした。
「あっ……!」
もしかしたら、もしかするのかもしれない。
ぼくはシノ君に話しかけられたのかもしれなかった。
人もまばらな雑踏に消えゆく背中はピンと伸びていて、どうしようもなく人目を惹くのに、景色に溶けてしまったかのように見失ってしまった。
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