第3話 付箋喪失事件②

 そういうわけでぼくたちは集団学習用の講義室を後にして、講師待機室へと向かった。もちろん、向かい合わせにした机は元に戻したし、この後は使われないから鍵も締めた。

 講師待機室へ向かう途中、廊下を挟んで向かい側にある講義室には、八十分の特別講義コースの講義がまだ行われているのが見えた。煌々と輝く蛍光灯の白さに浮かれた気持ちを漂白されたような気分になって、いくらか冷静さを取り戻すことができたのだけれど。


 たどり着いた先の講師待機室は、とても狭かった。講師用の机が向かい合わせに並んで四つ、その後ろ、壁際にはスチール棚が二台ほど。棚の向かい側の壁には何台もの小さなモニターが並べられている。ちょうど席を外しているのか、役目を終えて帰宅したのか。待機室の中に講師は誰もいなかった。


 机は綺麗に整頓されているものが二つ、適度に教材が平積みされているものが一つ、整理整頓の概念が消失しているのでは? と思いたくなるような机が一つだ。そうしてぼくらはなんと、最後の一つ、壊滅的に散らかった机に案内されたのである。


「東城せんせー、って……もしかして、整理整頓が苦手なひと、ですか?」


 ぼくは、頼兼さんの最大限に東城先生を気遣った発言に、隠すことなく大きく頷いて同意した。

 机の上はぐちゃぐちゃで、山積みの教材や書類、ファイルのタワーが絶妙なバランスで立っている。重ねられた教材や発注書、提出物の日付は前後していてバラバラだ。


 これじゃあ、必要なものを探すのに手間取るし、探すたびに状況は酷くなるだろう。ぼくは整理が得意な方だから、こんな状態になるまで放置する人の気持ちはわからない。

 ぼくと頼兼さんが東城先生を白い目で見つめていると、先生は慌てて首と両手を振り出した。


「あっ、これは……お願い、言い訳させて!」


 東城先生はズレた眼鏡を直すこともせず、懸命に説明し出した。


「一コマ目の後の十五分休憩のときに、講義内容の質問を受けたのよ。原待はらまちくんと秋常あきつねくんと、それから水落みずおちさんの三人ね。そのとき、原待くんの手が教材タワーに当たって崩れたんだよね。三人にも手伝ってもらったんだけど……二コマ目の講義まで時間がなかったのもあって、そのままに……」

「あー……絶妙なバランスで積まれてたんですね、わかります」

「えっ、頼兼さん……わかるの?」


 ぼくは思わず、頼兼さんを見た。東城先生も意外だ、と目をまるくして頼兼さんを見ている。

 頼兼さんはぐちゃぐちゃに積まれた書類やファイルのタワーが、かつてはバランスを伴い聳え立っていた過去を理解できるらしい。

 それは想像力が豊かであることの証明か。それとも実体験だろうか。ぼくが決めかねていると、東城先生がほんの少しだけ眼鏡の奥の目を潤ませて頼兼さんの両手を握っていた。


「わかってくれるの、頼兼さん! ……と、とにかく、そういうことだから。ちょっと時々、従姉弟からもらった栞とか絵葉書がなくなる机だけど……いつもこんなに汚いわけじゃないってところだけ、しっかり覚えて帰ってください」


 東城先生は頼兼さんの手をそっと離して、講義終わりに必ずいう先生の決め台詞で誤魔化した。そういえば付箋消失事件が発生したからか、今日は先生の決め台詞を聞いていない。それだけ先生が動揺していたことが窺える。

 もしかして、QRコードの先にある親戚の写真とやらは、重大な秘密か、身内以外には晒せないような場面が隠されているんじゃないかな。


 例えば、宴席で浮かれた親戚の失態だとか、あるいはお祝いを盛り上げるために先生が仮装した姿とか。もしかしたら、先生の家だとかスマートフォンの画面だとか、ちょっと考えれば住所やIDなんかを割り出せるようなものとか。

 考えがまた飛躍した。ほんの少しだと感じていた思考時間は思いの外ぼくを現実時間から置き去りにしてくれていた。

 気がつけば頼兼さんが、腕を組んで顎に手を当てて眉間に皺を寄せながら、東城先生に質問していたからだ。


「東城せんせー、付箋ですけど……教材タワーが崩れたときになくなった、と考えられませんか?」

「……頼兼さん、付箋は教材の内側に貼ってあったって、先生が言ってたけど」

「あっ、そうだった」


 頼兼さんの記憶から抜け落ちていた事項をぼくが指摘すると、彼女はぺろりと舌を出しておどけてみせた。なんて、あざとさだろう。平静を保つので精一杯だ。

 ぼくは頼兼さんにバレないように、ぐちゃぐちゃになった東城先生の机上へ視線を走らせる。この無秩序な書類タワーが、かつては秩序と意味のあるタワーであったなんて、やっぱり信じられない。


 呆れてしまったぼくは、講師待機室をゆっくり見渡した。スチール製の本棚には教材たちが理路整然と並んでいる。東城先生が担当の国語、現代文、古文のエリアは少し乱れていたけれど。

 次に見たのは、本棚とは反対側にある小さなモニターが並ぶエリアだ。モニターは八台ほどあって、上下に四台ずつ、綺麗に並んでいる。上の段には、無人の講義室を映したものが二台、満員御礼の講義室を写したものが二台で、下の段には、人がまばらな自習スペースを写したものが一台、個別指導用のスペースを映したものが二台、受付を映したものが一台あった。


 あれは監視カメラのモニターだ。待機室ここで見られるのか、とぼくがしばらく眺めていると、頼兼さんは東城先生に無邪気な質問を再開していた。


「せんせー、本当に現代文の教材に貼ってあったんですか? 古典とか、別の教材じゃなかったの?」

「現代文の教材です、間違いないわ。それに、従姉弟は私が確実に目を通す対象に付箋をつけてくるヤツなのよ」

「凄いですね、その従姉弟のひと!」


 東城先生の従姉弟とやらが、ひと癖ある人物らしいということがわかったところで、ぼくは監視カメラのモニターを見ていて気づいたことを聞くことにした。


「先生、この待機室に監視カメラはついていないんですか?」

「ひ、ヒナ君……なんか凄いこと聞くね!? か、監視カメラ!?」

「いや、講義室には監視カメラが数台設置されてるから、この部屋にもあるのかなって。ログが残っているなら、それを見たほうが早いですよ」

「残念だけど、講師待機室に監視カメラは設置されていないの」


 東城先生は首を力なく横へと振った。頼兼さんは綺麗に並んだモニターを興味深そうに眺めると、首を傾げて疑問を口にした。


「そういえば、原待くんと秋常くん、それから水落さんは特別講義を受けているんですか? それとも、もう帰っちゃいました?」

「特別講義を受けているのは、原待くんと水落さんよ。秋常くんは……あっ、自習スペースにまだいるみたい」


 東城先生が、特別講義が行われている講義室のモニターを指差した。原待くんと水落さんは私服通学校なのか、私服であった。二人はこの塾生徒の中でも比較的進学に熱心な部類なんだろう。彼らが受けているのは、八十分の特別講義なのだ。

 秋常くんの方はというと、閑散とした自習スペースでひとり黙々と勉強をしている姿がモニターに映っていた。彼の他には誰もいない。秋常くんは大手台高校の制服である学ランを着ていた。


 先ほどの東城先生の講義に秋常くんらしき人物の出入りはなかった。講義室の扉は前方に一つだけ。一番前に座るぼくにだって、人の出入りはよくわかる。秋常くんもまた、進学派なんだろうか。一コマ目の講義が終わって先生に質問した後からずっと自習しているなんて、なんて集中力か。


「監視カメラは、生徒が学習するスペースと受付だけについているの。二部屋ある講義室と、受付、個別指導用のオープンスペース、それから自習スペースにしか設置されていないから、従姉弟は私の目を盗んで付箋を貼ったりできるのよ」

「……その従姉弟のひと、エンターテイナーかなにかなんですか? それとも単に、サプライズ好き?」


 頼兼さんは怪訝な顔で東城先生を見る。不信感が滲む視線に気づいた先生は、長く長く息を吐き出して、従姉弟の話をしてくれた。


「普通の高校生よ。まあ、受験生で塾に入ってるのに、バイトのかけ持ちばかりして一度も講義を受けたことはない……ということを考えると、少し普通じゃないのかもしれないけれど。サプライズ好きと言われれば、きっとそうなんでしょう。時々フラッとあらわれて、自作の栞や絵葉書を教材に挟んで帰っていくから」

「そんな従姉弟さんがいたら、楽しそうですね」

「そうかなー、大変なだけよ。本人は好きにしてるけど、周りが心配ばかりして」

「その従姉弟さんって、イケメンですか!? 身長は? 塾の講義を受けたことがないって言ってましたけど、頭はいいんですか?」

「うーん、どうかな。身内の贔屓目だと……」


 そんな話を聞きながらぼくがなにをしていたかというと、黙々と東城先生の机の上を整理していた。頼兼さんと先生は、見知らぬ従姉弟の話で盛り上がっている。

 そんなに顔立ちが重要だろうか。そんなに背の高さが重要だろうか。頼兼さんが求めるハードルは思った以上に高かった。うっかりショックを受けないように、ぼくはただただ整理整頓マシーンになる。


 なんでそんなことをしているか、だなんて愚問だ。この無秩序に積み上げられた山に、例の付箋が本当に紛れ込んでいないか探すため。あちこち探した果てに、やっぱり紛れていました、なんてことは、よくあるものだ。

 ぼくはその可能性を潰すために、ひたすら書類を、ファイルを、教材を整理する。紙類と教材類、それからファイル類に分類した。紙類にいたっては、教材プリントかそれ以外にわけて、日付のあるものは日付順に並べ直した。


 やがてぐちゃぐちゃに積まれた書類タワーは秩序だったタワーに生まれ変わり、そしてぼくは一枚の資材発注書を見つけ出したのだ。


「東城先生、すみません。ちょっとこれ、見てもらってもいいですか」


 ぼくが東城先生に差し出した発注書には、ピンク色をした正方形の付箋が一枚。ペタリと貼られている。付箋には専用ガジェットで印刷したらしきQRコードが印刷されていた。


「あっ、こんなところにあった!」

「あー、凄いヒナ君! 見つけたの? よかったですね、せんせー。きっと、教材タワーが崩れたときに剥がれたかなにかして、原待くんか秋常くんか水落さんの誰かが、それに貼ってくれたんですよ」

「そう、なのかな……、でも、うーん……」

「せんせー、探してた付箋は見つかったんだし、なにが引っ掛かるんですか?」

従姉弟アイツが教材を落としたくらいで剥がれるようなページに付箋をつけるとは思えなくて……」


 なくした付箋が見つかったというのに、東城先生は首を傾げて唸り出してしまった。

 どうやら、なくしたものをただ見つければいいというわけじゃないらしい。東城先生は余程その従姉弟を信用しているんだろう。だからこうして悩むのだ。従姉弟はこんなことしない、と。


 ぼくは東城先生の気持ちが少しだけわかる。頼兼さんがシノ君を真似しようとするときなんかは、特に。

 自分の頭の中に棲みつかせてしまうほど思い入れのある人物像が第三者によって穢されたなら、誰だってそう思うだろう。その人物の名誉を回復したいと思うだろう。

 けれどそれがわかっていてもぼくは、東城先生に冷たく言った。ある意味ぼくは先生に犯人探しのような真似をして傷ついて欲しくなかったから。


「でも、見つかったわけだし、気にしすぎじゃないですか?」

「うーん……まあ、そうだよね。見つけてくれてありがとう、日向くん。それじゃあ、今日はもう解散しましょう」


 東城先生はあまり納得していなかったようだったけれど、大人としての分別を発揮したのか、それとも容疑者を見つけ出すことを恐れたのか、ぼくと頼兼さんに解散を促したのだった。



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