第2話 付箋喪失事件①
普段ならチャイムと同時に現代文の教材を片付けて講義室を後にする東城先生は、講義を終わらせてもまだ教室の教壇に立っていた。何度も何度も教材をパラパラとめくり、なにかを探しているようだった。
ぼくが講義で使った教材や板書していたノートを愛用の帆布製の肩掛け鞄に片付け終わっても、まだ探している。だから、尚更気になって、ぼくは東城先生に声をかけた。好奇心を抑えた静かな声で。
「東城先生、なにを落とされたんですか?」
「日向くん……もしかして、聞こえてた?」
東城先生は目を細めて気まずそうに視線を泳がせる。教材をめくる手を止めて、いそいそと片付けはじめた東城先生に、ぼくはしっかりと、けれどにこやかに頷いた。
「ばっちり聞こえてましたね。ぼく、耳はいい方なので」
「そういえば東城せんせー、授業の終わりでパニクってたけど、どうしたの」
ぼくと同じく、教材やらノートやらを猫のキャラクターが描かれたトートバッグに詰め込み終わった頼兼さんも、会話に入る。彼女の目は東城先生を気遣ったり心配そうに見つめるような目じゃない。キラキラ輝く好奇心で満ちた目だった。
シノ君を追っかけていることといい、東城先生の不穏な発言に首を突っ込もうとするあたり、もしかしたら頼兼さんは謎が好きなのかもしれない。
その気持ちは、ちょっとわかる。
僕だってシノ君の大ファンなのだ。勉強漬けの毎日の中で伝え聞く刺激的な物語。もしかしたら気づいてないだけで、すれ違ったりしているかもしれない存在。そんな存在に、魅了されないわけがない。
だからぼくも、隠していた好奇心を覗かせて東城先生を見つめた。ぼくと頼兼さんのふたりにジッと見つめられることになった東城先生は、少しズレた眼鏡の蔓を両手で押さえて直しながら、ため息を吐いた。
「そっか、聞こえてたかー。あのね別に、たいしたことじゃないの。教材に貼っていた付箋がひとつ、消えただけだから」
「……付箋?」
「えっ、東城せんせー……その大量の付箋の一枚一枚を覚えてるの? すごい記憶力ですね」
頼兼さんが、東城先生の教材に貼られた何枚もの付箋を指差した。確かに頼兼さんの言う通り、教材には色とりどりの付箋が大量に貼られている。黄色が多くて次に多いのはピンク色。緑と青は少ないけれど、ところどころ顔を覗かせている。
どれも文房具店で購入できる一般的な付箋だ。一センチ幅の細い付箋が教材を彩っている。東城先生は、この付箋すべての配置を覚えているとでもいうのだろうか。けれど東城先生は笑いながら首を横へと振って、頼兼さんの言葉を否定した。
「違う違う、そんなの一枚一枚覚えてられないよ。消えた付箋が特別だったの。一枚だけ、正方形の大きな付箋だったから、そう簡単に剥がれ落ちないとは思うんだけど……」
確かにそれなら、剥がれ落ちればすぐわかる。粘着力が弱くなっていたのだろうか。だなんて考えながら、講義前の東城先生と教材を思い浮かべる。
あれ、そもそもそんなに大きくて目立つ付箋なんて、はじめから貼られていなかったのでは? それなら一体、いつ剥がれ落ちたのだろう。それとも、ページ内部にベタリと貼り付けてあったのだろうか。でも、それならそう簡単になくなったりはしないのでは?
湧水のように次から次へと出てくる疑問に、頭の中が埋め尽くされる。ぼくが目をぐるぐるさせて考えている間に、頼兼さんが東城先生に向かって「はい!」と言いながら、真っ直ぐ綺麗な挙手をしてみせた。
「それ、わたしが解決しましょうか?」
頼兼さんの目は、先ほどよりも輝きを増していた。白い蛍光灯の光を浴びて輝く目が、頬が、根拠もなしに自信で満ちてゆく。
「頼兼さん、なに言ってるの。……もしかして」
戸惑う東城先生に、頼兼さんがニヤリと笑った。
「こういうの、なんだかシノ君みたいでしょ。困っているひとの人助け。小さな事件も積み重ね。シノ君を見つけられないのなら、わたしがシノ君になればいいんじゃない?」
「それでは詳しい経緯を聞かせてください、東城せんせー!」
東城先生から事情を聞くために、ぼく達以外は帰宅して無人になった講義室の適当な席に三人は座っていた。
グループ学習をするときのように机を向かい合わせにして、ぼくと頼兼さんが東城先生と向かい合う。まるで逆面談みたいだ、だなんて思いながら、講義に続きまたも隣に座る頼兼さんを盗み見る。
ぼくは頼兼さんをチラチラ見るたびに、胸の内を見てはいけないものを見ているような、なにか悪いことでもしているような気持ちになる。
だって、仕方がないんだ。形のよい唇や、スッと通った鼻筋が。まあるく柔らかな弧を描く頬の輪郭が、艶めく黒髪が。シノ君について話す声が、好奇心に満ちた黒い目が。頼兼さんはいつだって、ぼくの胸をざわつかせる。
それでもこうして見てしまう。惹きつけられる。まるで引力みたいに。もしかしたら頼兼さんが隣にいるときだけは、ぼくの世界は頼兼さんを中心にして回っているのかもしれない。
頼兼さんの引力に逆らえないぼくは、見た。頼兼さんは今までで一番イキイキとしている。
「こういう台詞、一度でいいから言ってみたかったの! シノ君もこんな台詞で人助けをしてるのかな、どう思うヒナ君?」
頼兼さんは、全然ぶれない。頼兼さんの世界は、相変わらずシノ君を中心に回っているらしい。今日に限らず頼兼さんは、シノ君のように行動したり、シノ君のように思考したりしているからだ。その点について、ぼくはちょっと受け入れられないでいる。憧れのひとに成り代わりたい、という気持ちが、よく理解できないからだ。
ぼくのシノ君ファンとしてのスタンスは、三つある。正体を突き止めようとはしない、日常生活を侵害しない、お触り厳禁。ぼくは、実在するかもあやふやなシノ君に、迷惑をかけるようなことはしたくないのだ。
もしかしてぼくは、中途半端なファンなのだろうか。頼兼さんのように、シノ君を行動規範にするべきか。と、ぼんやり考えて、ぼくは首を振った。
違う、違う。ぼくのシノ君への興味関心は誰かに影響されて揺らぐようなものじゃない。この春から名霧学舎に通うようになった頼兼さんに、影響を受けて流されている場合じゃなのだ。
初心を思い出せ。ぼくは自分を奮い立たせるように心の中で三回呟いて、キリッと眉を吊り上げて言った。
「シノ君は、そんなこと言わない」
「なにそれ、ヒナ君……もしかして、わたしに嫉妬でもしてるの? わたしがシノ君のポジションを奪っちゃったから?」
別にぼくは頼兼さんのように、シノ君になりたいわけじゃない。ぼくがシノ君に惹かれるのは、シノ君が自由で強いから。圧倒的な強者に、ぼくのような貧弱な人間の手が届くなんて思えない。
けれど頼兼さんにそういうことを言っても、理解されるだろうか。ぼくは頼兼さんがたまに見せる冷たい眼差しを思い出して、首を横へ振った。
「違うけど……そういうことで、もういいよ。……それで、東城先生。問題の付箋はいつ貼り付けたものですか?」
「あっ、わたしの台詞、取らないでよ!」
「頼兼さんに任せていると、話が進まないから」
「は、反論できない……! 東城せんせー、どうですか? 付箋はいつ貼り付けたんですか?」
「……そうね、そもそもあの付箋は、私が教材に貼り付けたものではないの」
東城先生の言葉に、ぼくと頼兼さんはまるでおなじ反応を返した。
「えっ、……え?」
戸惑うぼくと頼兼さん。頭の中にはいくつもの可能性がぐるぐる回る。
誰が付箋を貼り付けたのか。その付箋に価値があるのか。もしかして東城先生は脅されているのか。いや、誰かが先生を呼び出したのかも。
時間経過に比例して膨れ上がる可能性は、だんだんと悲観的になっていく。けれどそれも、東城先生の次の言葉によってあっさり解消された。
「私の
「待ってください、それって……自宅で? まさか塾の中で? いや、それはありえない。だってこの塾、受付で専用アプリの顔認証を使ってチェックインしないと、中まで入れなかったですよね」
「そうよ。でも従姉弟は名霧学舎の塾生だから。一度も講義を受けたことはないけれどね」
「そんなひと、いたんだ……。ということは、その従姉弟さんは塾内が営業していれば、いつでも入れるってことですか」
「今日も私に隠れて講師待機室に忍び込んだみたい。私が一コマ目の講義をしているときに貼り付けて、従姉弟は出て行ったのかな。一コマ目が終わってから待機室へ戻ったときに、二コマ目の……さっきの講義の教材に付箋が貼ってあったから」
名霧学舎に幽霊部員ならぬ幽霊塾生徒がいたとは驚きだ。しかも東城先生の隙をついて付箋でメッセージを残すような愉快な生徒だ。それが東城先生の従姉弟というのも相待って、ぼくは返す言葉で喉を詰まらせた。
その隙を狙ったのか、どうか。頼兼さんが身を乗り出して質問を重ねた。
「その付箋って、表紙に貼ってあった……わけじゃないですよね。ページのどこかに貼ってあったんですか、せんせー」
「凄いわね、頼兼さん。どうしてわかったの? 頼兼さんの言う通り、付箋は教材の中に貼ってあったの。それがわかったのは……ほら、付箋って少し頭を出して貼るでしょう?」
「あ、なるほど。東城せんせーが教材に貼ってる付箋は、細身のタイプだけだから、だから面積の大きい付箋が目立ってわかったんですね」
「その付箋、なにか重要な伝言でも書いてありましたか?」
「本当にたいしたことじゃないのよ。先週、祖父母の古希のお祝いで親戚が集まったのだけれど、その時撮影した写真のデータをダウンロードするためのQRコードなの」
それを聞いて、驚いたのは頼兼さんだった。つぶらな瞳をパチパチ瞬かせ、疑問が浮かぶままに首を傾げて言った。
「え。せんせー、もしかしてそのQRコード……従姉弟さんが手書きで……?」
「そんなわけないでしょ。付箋専用の印刷機が販売されているんだよ。確か、スマホからBluetooth接続したプリンターに画像データを送り込めるガジェットが販売されていたはず」
「ヒナ君、物知り!」
「……そういうガジェット、好きだから」
思いも寄らず頼兼さんに褒められる形となったぼくは、しどろもどろになって視線を床方向へと落とし込む。心なしか頬が熱い。
「面白いところで照れるんだ、ヒナ君」
コロコロと転がる鈴のような笑い声。照れてしまったことが恥のように感じて、耳を両手で塞ぎたくなってしまう。
もう、頬どころじゃなくて全身が熱い。冷房が効いてないんじゃないかな。だなんて思いながら、頼兼さんの存在から意識を剥がすために窓の外を見る。
夏の日の夕方だからか、十七時を回っても外は明るい。その明るさは、まるで頼兼さんみたいだ。ほんの少しオレンジ色が混じる青空が、心に響いて切なくなるから。
気がつけば胸の内側で何度も何度も脱線しているぼくを他所に、頼兼さんが探偵みたいに話を進めていた。
「えっと、東城せんせー、とても聞きにくいことなんですけど……その古希のお祝いのときに、なにか事件みたいなことって起きませんでしたか?」
「推理小説かドラマの影響を受けすぎよ、頼兼さん。古希のお祝いはいたって普通のお祝いでした。お寺の叔父さんたちがお酒を飲みすぎて愉快なことにはなっていたけれど、それだけよ」
「そっかー、そうですよね。……あれ、もしかして東城せんせーって、
なんでもない風を装った頼兼さんの目がキラリと光った。
「そうよ、どうしてわかったの?」
頼兼さんの推理はどうやら当たったらしい。東城先生が眼鏡のレンズの向こうで目を白黒させている。そんな東城先生の様子に満足したのか、頼兼さんが満ち足りた表情で解説する。
「名霧市にはいくつかお寺がありますけど、この辺りの
「凄い! 頼兼さん、それだけでわかっちゃうの? それじゃあ探偵さん。付箋はどこへ消えたかわかりましたか?」
「せんせー、情報もないのにわかりっこないですよ!」
すっかり探偵気取りの頼兼さんは、両頬をぷっくり膨らませてそう言った。
確かに、東城先生から聞いた情報だけではわからない。ぼくは無言で頷いて頼兼さんを支持すると、彼女はぼくに向かってニコリと笑うと、すぐに東城先生に向き直る。
「とりあえず講師待機室のせんせーの机、見せてもらってもいいですか? 付箋が最初に待機室にあった教材に貼り付けられていたなら、第一の現場になるので」
その発言も探偵らしい内容だったのだけれど、頼兼さんの微笑みを浴びてしまったぼくの耳にはまったく届かずに、ただ可愛らしい声だけが耳の中を素通りしていった。
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