シノ君は実在しますか?

七緒ナナオ📚2/1発売【審問官テオドア】

第1章 シノ君について

第1話 シノ君とは

「わたし、ついにシノ君を見つけたの」


 学習塾名霧学舎の狭い教室の片隅で、頼兼春佳よりかね はるかが頬を上気させて興奮した様子で耳打ちをしてきた。

 耳元で告げるには大きすぎる声に、ぼくは思わず身を捩り躱して鼓膜を守る。というのは建前で、頼兼さんがなんの配慮もなく急に距離を詰めてきたことへの照れ隠しだった。


 白い半袖部分の袖と、上品な紺色の格子模様の生地からなる珍しいワンピースタイプの制服は、清良せいりょう女学院のものだ。胸元で揺れる赤いリボンがアクセントになっていて、思いも寄らず視線を奪われる。


 季節は夏。それも夏休みに入ったばかりの七月最終週。

 明後日には名霧市が総力を上げて開催する花火大会が行われるのだけれど、ぼくらは浮かれる暇もない。今日も明日も明後日も、明けても暮れても、ぼくらは塾に通って勉強詰めだ。

 ぼくこと日向夏樹ひなた なつきは胸の内でため息を吐き、勉強以外に気を取られている頼兼さんに冷たく言い放つ。


「それ、いつものように人違いなんじゃなくて?」

「違う違う、今度こそ本当。大手台高校の校舎裏を掘り起こしている人を見たの。絶対にシノ君だよ」


 つぶらな瞳をキラキラ輝かせ、いつもより甲高い声で訴えてくる頼兼さん。彼女の背の中ほどまで伸びた癖のない艶やかな黒髪がサラリと流れる様に、ぼくの心臓が悲鳴を上げる。


 頼兼さんは、シノ君の大ファンだ。


 シノ君、という名前しか知らない実在不確かな男子高校生を追いかけていて、ぼくに塾で会うたびに無邪気にもシノ君発見報告をしてくるから、たまらない。報告をしてくるだけじゃなく、シノ君のについて議論を深めようと話しかけてくるから、なお、たまらない。

 あまりのたまらなさに、世界はそんなに簡単じゃないよ、と、ぼくの気持ちを少しも尊重しようともしない頼兼さんに意地悪を言いそうになって、どうにか唾と一緒に悪態を呑み込んだ。

 ぼくは八つ当たりをする気なんてないのだ。そんな格好悪い真似なんて、頼兼さんの前でできるわけがない。だからぼくは、クールを装ってこう返す。


「土を掘り返しているからって、シノ君とは限らないんじゃない?」

「そんなことないよ、だって枯れたススキみたいな色の髪が、学ランの下に着込んだフードの脇から見えてたもの」

「大手大高校って制服通学校でしょ。シノ君は私服通学校の生徒だよ。わざと大手大高校に侵入したとしても、わざわざ学ランを調達して発掘すると思う?」

「嘘っ、わたしその情報知らない。あーあ、またハズレかぁ」


 思い切り落胆してため息を吐く頼兼さんの肩越しに、学生たちがゾロゾロと教室へ入ってくるのが見えた。皆、思い思いの席に着き、教材とノート、それから筆記用具を机の上に並べはじめる。

 この学習塾名霧学舎の集団講義室は、自由席制だ。オプションを選べば個別指導もしてくれるのだけれど、ぼくも頼兼さんも集団学習に満足しているのだ。決して、シノ君についての理解を深める時間が惜しいから、個別指導を受けていないわけじゃない。


 ぼくらは高校二年生。来年の受験に向けてなんとなく塾に通って学力維持と、あわよくば向上することを願っているだけの高校二年生だ。今はまだ、勉強よりも青春がしたい。夏休みなのだからお祭りや花火大会に行きたい。もちろん、ひとりではなく誰かと。名霧学舎はそんな生徒が通う緩い塾だ。当然、塾講師も癖が強いひとがいたりして面白い。


 一方で、緩い塾にしてはセキュリティ意識がしっかりしていて、集団学習を受ける二つの講義室や個別指導を行うオープンスペース、自習スペースには監視カメラが設置されている。当然、受付エリアにも監視カメラが設置されているし、受付から奥の講義室や自習スペースへ行くには専用アプリを使った顔認証を通過しなければ、中へ入れないようになっている。結構ガチガチだ。


 名霧市は地方都市だけれど、地方だからといっておかしなひとがいない理由にはならないから。それに、名霧学舎はセキュリティがしっかりしている点を売りにしていて、ぼくが去年、高校にも入学したことだし塾に通いたい、と何気なく言ってみた結果、親が強く勧めてきたのがこの塾だった。


 それに、名霧学舎は名霧駅前に立地している学習塾だ。だから設備投資が行き届いているのかもしれない。それにしては学習の進め方は緩く、学校の授業内容を先取りしたって、精々、一ヶ月先までだ。模試やら共通テストも強制ではない。その緩さが気に入って通っているところもあるのだけれど。


 そういうわけで、自由席制の集団講義室でのぼくの定位置は、一番前の席だ。自由に座っていいのなら、とぼくはいつも一番前の席に座っている。

 どういうわけか、その隣には、いつも頼兼さんが座っている。頼兼さんはぼくが席に着いたあとに、決まってやってくる。ぼくより早く教室にいたことはないから、理由はわからないけれど、敢えて選んでいるんだろう。


 教室の席は後ろから埋まっていき、人が集まることで生まれるざわめきが次第に大きくなってゆく。ぼくは肩を落として頬を膨らませる頼兼さんをできるだけ視界に入れないよう、ひとつしかない教室の扉へ意識を注いだ。

 女子は苦手だ。小学生の頃は気にせず話すことができていたけれど、中学、高校へと進学するたびに苦手意識が高まってゆく。まるくて、柔らかくて、なにを考えているのかわからない。可愛い笑顔の裏側で、冷たい目をする瞬間があるのを、ぼくは知っているから。

 シノ君に夢中な頼兼さんも、時々そんな目をぼくに向けるのだし。


 早く先生、来い。と念じていると、待望の瞬間は、すぐに訪れた。

 長い髪を首の後ろでひとつに結び、光に透ける紫色をした狐目フォックスフレームの眼鏡をかけた塾講師、東城冬とうじょう とう先生が教室に入ってくるのが見えたのだ。

 教壇に着いた東城先生は、細い付箋を何枚も貼ってマークした教材を開いて講義の準備をはじめた。ほっとしながら、先生が来たことを顎で指して教えてあげると、頼兼さんはほんの一瞬、どうしようもなく真剣な眼差しでぼくを見た。


「ねえ、ヒナ君。シノ君って、実在すると思う?」


 シノ君の実在を問う頼兼さんの問いに、頼兼さんと同じだけの熱量を込めてぼくはこくりと頷く。

 ここで引いたり譲ったりしてはいけない理由が、ぼくにはあるのだ。


「実在していて欲しい、といつも願っているよ」


 なにを隠そう、ぼくだってシノ君の大ファンだ。シノ君に対する情熱は、頼兼さんに負けやしないのだから。




 シノ君という存在は、本当にそんなひと、存在するの? と囁かれるくらい実在を疑われている有名人だ。

 もし、街中で遭遇したのなら、その後一年間は幸福に見舞われるだとか、宝くじが大当たりするだとか、福の神のような噂や武勇伝が絶えないひとである。一方で、シノ君に睨まれたり、白い目で見られた場合は、その後一年間は不幸に見舞われるだとか、なにをしてもいいことがないだとか、貧乏神のような噂も絶えない都市伝説のようなひと。


 そんなシノ君は、名霧市在住で私服通学校に通う高校三年生である。性別は男で身長が高く、体格もいい。髪の色はいつも違っていて、最新の噂によると枯れススキのような色と髪型をしているらしい。受験生なのに模試を受けたことはないらしく、バイトをいくつも掛け持ちしていて忙しくしているのだそうだ。

 これくらいの情報なら、街の噂好きのおばちゃん達からいつでも入手できる基本情報で、シノ君に限らずぼくらは誰だっておばちゃん達に簡単なパーソナル情報を知られている。


 そんな噂好きで広い情報網を持つおばちゃん達でも、シノ君の実態は掴めていない。確かな実在情報があるのに、不在を疑われてしまうのがシノ君だ。揺らぐ存在はまるでシュレディンガーの猫のよう。

 実在揺らぐ存在であるシノ君を巡る武勇伝は、七つある。


 一つ、ある夏休みの日に、自分が通う高校ではない別の高校の屋上に野外映画館を設置して、仲間と一緒に映画鑑賞した、とか。

 二つ、毎日のように老人ホームを訪れて、お菓子を山ほどもらっている、とか。

 三つ、通学先の高校の図書館の本棚を一日一棚一ヶ月ですべての本を制覇した、とか。

 四つ、空を飛んだり高所から飛び降りでも怪我をしたことがない、とか。

 五つ、文化祭を他校や地域を巻き込んだ地域交流会に変えてしまった、とか。この話だけは真実で、確かに名霧市内の高校で催される文化祭は、他校や地域を巻き込んだ地域交流会の形を取っている。

 六つ、学校の地下に遺跡があるなどと言い放ち、校舎裏を掘り返したら遺物を発掘して郷土資料館に展示されている、とか。昨年、新聞の地域情報欄の片隅に小さな記事が掲載されていた。

 七つ、最後はこう締める。

 誰も彼もがシノ君をリーダーに! と望む中で、決してリーダーにはなったことがない、と。


 ちょっと頑張れば誰でもできそうなことを、シノ君はひとりですべて達成している。そこがシノ君の七つの武勇伝と言われる所以である。と、ぼくは勝手に思っている。

 シノ君は、いつも人助けをしている一方で、無理無謀な事件未満のトラブルを起こしているのだか巻き込まれているのだかしているのだ。


 塾の講義がはじまる前に、頼兼さんが、大手大高校の校舎裏を掘り起こしている人を見た、と言っていたけれど、遺物発掘の噂を根拠にしてシノ君だと誤認したんだと思う。大手台高校は制服通学校で、シノ君は私服通学校に通っているらしいから。

 よくいるのだ。シノ君に憧れるあまり、真似をしてしまう学生が。ぼくも数回、ハズレくじを引かされたことがある。


 だから、真実を知ったら項垂れるであろう頼兼さんの気持ちには寄り添おう、と決意して、ぼくは隣の席で東城先生の話に真剣に耳を傾ける。ついでに、教材にマーカーを引く頼兼さんを盗み見た。

 頼兼さんは真面目だ。講義中にも関わらず、シノ君へと思いを馳せるぼくとは違う。


 勉強の邪魔にならないよう大きなクリップで止めた前髪と、背中へ流した黒い髪。シノ君の話をしているときは表情豊かに笑うのに、講義に集中しているときはキリリとしていて格好いい。模試の成績だって、いつもぼくより上だ。

 頼兼さんは、シノ君を巡る好敵手であるけれど、真摯に東城先生を見つめる横顔にぼくはいつだって落ち着かなくなる。シノ君の話題がなければ、きっとぼくは頼兼さんと話すことはなかっただろう。


 だってぼくは、どこからどう見たって平凡で平均点な男子高校生だから。特徴がなく、可もなく不可もない顔立ち。背が高いわけでもなく、とびきり運動ができるわけでもない身体。せっかく私服通学校である名霧高校へ進学したのに、私服を活かすわけでもなく、ジーンズと適当な上着を合わせるしかないセンス。

 まったくもって、不釣り合いだ。そもそも釣り合いたいなんて思っていないけれど。


 そんな風に腐していると、講義をしていた東城先生が小さく息を呑んだ。一番前の席に座っていたぼくは、その音を聞き逃さなかった。


「あっ、嘘でしょ。どこかに落とした?」


 講義終了を告げるチャイムの音と同時に呟いた東城先生の顔は、硬くこわばっていた。



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