Ⅱ 月
今日は、有休だった。ずっと寝ている。たまに開く携帯で見るニュースも数分で疲れてしまう。そろそろ夕食考えないと。だが体が重くて起き上がれない。こんな姿、生徒には見せられないな。自嘲の笑みが浮かぶ。
こんなはずじゃなかった。毎日思う。きっかけは何だろう。東京に出てからか。一体何年前の話だ。あれほどの希望を抱いて来た東京の空は、今夜も排気ガスで濁って星の一つすら見えない。月光が塵で何重もの輪を作ってどんより私を照らす。やめてくれよ。カーテンを締め切った。そこは、閉鎖された私だけの世界。あちこちにノートや本が乱雑に積まれているだけの狭い部屋だ。
うめき声を立てて体を起こす。今日は駄目な日だ。休日に疲労と倦怠感でほとんど動けなくなったのはいつからだろう。明日は仕事なのだから早く寝よう。布団を放置し、狭い台所へ向かう。正面の棚からカップ麺を取り出す。どうもここ最近減りが早い。無気力の証拠だ。お湯を注いで三分待つ。
私はこの三分が苦手だ。携帯を見るにも本を読むにも短すぎて手持ち無沙汰になってしまう。現代文明の味が完成する頃には思考は巡り、自分に自分で傷ついている。美味しく食べられない。立ち昇る湯気を見ながらそんなことを思った。今日のカップ麺も、きっと自己嫌悪の味がする。
「いいですか、始めますよ」
幸いにもこの学校の生徒は人の話を聞いてくれる。いや、聞いていないかもしれないが、少なくとも授業が妨げられることはない。私は今日教える内容を先に黒板に書いた。万有引力の法則。白チョークで宇宙の法則を書き進める私の姿は、生徒にはどう見えるのだろう。
「ニュートンが発見した万有引力の法則、これの本当の意味が分かりますか。これはただの数式じゃない。宇宙の星々と私たちが住む地上が、全く同じ秩序の下にあるという事実を表しています。今でこそこれは当たり前です。でも、ニュートンの時代は、キリスト教の考え方の下で、宇宙は調和に満ちた法則があっても、地上は穢れていて法則など存在しないと考えられていました。それをニュートンは完全に覆した。分かりますか。万有引力の法則は、物理学の大発見であると同時に、世界観の転回でもあったんです」
そう。万有引力の法則は、世界の変わり目だ。ここが終わりであり始まりなのだ。生徒は、今擬似的にその価値観の変動に直面している。それが高校生の彼らに分かるかは別問題だが、何人かは黒板に白く描かれた数式に真剣な眼差しを向けている。良かった。おそらく伝わっている。
それに比べ私はどうか。きっとその何人かからすれば、高校物理に足止めされた中年はさぞかし滑稽だろう。分かったようなことを言うなという声が頭に響く。何も言えない。私に物理を語る資格などないことは知っている。だからできればその素直な目で私を見ないでくれ。瞳の輝きは私には眩しすぎる。
「では続きはまた次回。次は難しいので復習しておくと良いと思いますよ」
急いで荷物をまとめ、教壇を降りる。既に喧騒の真っ只中にある教室から飛んできた言葉が耳に刺さった。
「そうそう。結構老けてるよね。あいつ物理何年やってんだろ、よく飽きないよな」
え、何。急にふらつきそうになる。呼吸が荒くなる。待て、今は駄目だ。発作を悟られないように廊下へ急いだ。人の来ない階段の隅で大きく息を吐き出し、また吸い込む。自分の荒い呼吸音だけを聞いているのはひどく無様だ。ああ、駄目らしい。呼吸と共に鼓動も速くなって冷や汗も止まらない。このまま倒れたら生徒の笑い者だ。仕方ない。
ふらふらと歩き出す。視界が狭くなってくる。頼む、間に合え。目的地に着くと、ドアに手をかけ、マナーを無視し乱雑に引いた。
「あの──」
声が思うように出ない。養護教員と目が合った。一瞬の訝しげな表情の後、和やかな笑みを浮かべて近づいてきた。荒い呼吸で全てを察されたようだ。
「大丈夫ですか。落ち着いて。こちらに座ってください。大丈夫ですから」
倒れ込むように座る。微かな消毒液の匂いと学校とは思えない静寂に落ち着きを取り戻していく。呼吸と心臓が通常運転に戻ってきた。同時に疲れが押し寄せる。はあ、と大きく溜息をついた。
「どうしたの、先生」
突然の声に怯える。奥の方に座って勉強している女子生徒が見えた。急いで表情を取り繕う。
「いや、最近は体調も安定してきて大丈夫だと思ったんですけどね。ご迷惑おかけしてすみません、もう戻ります」
誰に話しかけるともなく、言い訳が口をついた。嘘だ。最近は特に調子が悪い。
「先生、物理の先生でしょ。ちょっと教えてほしいとこあるんだけど」
「ほらまたそんな、ちゃんと敬語使ってくださいよ」
養護教員が半分呆れた顔で言う。
「私は大丈夫ですよ、どうしたんですか」
立ち上がった。まだ少しめまいはするが、このくらいは耐えられる。
「これ、この重力加速度って何。急に出てきて意味分かんないんだけど」
何だ、基礎範囲じゃないか。彼女、まだ一年生なのか。大人びていて分からなかった。
「なるほど、良い質問ですね。──私たちが地上で見る重力っていうのは、万有引力という力の特殊な形なんです。重力加速度というのは、万有引力の大きさを決める定数のことで、これを使うと地上ではたらく重力がとても分かりやすくなります。でも本当に大事なことは、地上にはたらく重力と惑星にはたらく万有引力が同じ力だということです。この世界の力は究極的には統一されるという──」
名も知らぬ保健室登校の彼女は、予想通り不服そうな顔をしている。
「そうですよね。本当に理解するためには、もっと難しい内容を勉強しないといけません。今三年に教えているけれど、何かプリントとか要りますか」
「いや、いい。あたし、他の勉強も追いつかなきゃいけなくて忙しいから。でも、三年になったら先生から物理習いたいな」
「もう、何偉そうなこと言ってるの」
養護教員は慣れ切ったように言う。私は保健室を出ようと立ち上がった。
「ねぇ」
彼女が突然手首を掴む。怯んだ顔を見せてしまった。彼女は顔を寄せて、内緒話でもするかのように言った。
「先生が精神病んだのって、教えてる教科のせいでしょ」
「は。えっ、いや、どういうこと」
「さっき私に物理教えてくれたとき、楽しそうだったけど、目が苦しそうだった。気をつけてね」
思わず目を見開く。冷水を浴びせられた気分だ。高校一年の君に何が分かるというんだ。そんな簡単なことじゃない。一言で済まされるようなことじゃ──。
「またこの子変なこと言って、すみません先生。わざわざありがとうございます」
「こちらこそ突然すみませんでした。お世話になりました。失礼します」
発作は収まった代わりに、胸の奥が、鈍く痛んでいる。
ようやく自分の机に戻った。明日の授業の準備をまだしていない。次の内容は生徒にとっては山場になる。私も気合いを入れなければならない。難しい積分も必要だ。私の言葉でうまく伝わるだろうか。不安しかない。
「授業のご準備ですか。」
同僚の数学教員が柔らかい笑顔で聞いてきた。この学校に来たのが同じ年だから同僚だが、かなり年下だ。教育学部の数学専攻だったこいつは、持ち前の愛想の良さと教育熱心さ、時折見せるユーモアで生徒からはかなり人気だ。そうだ。こいつに頼もう。
「そうですね。あの、すみません。明日の授業で少しだけ積分を扱うのですが、それを補足できるプリントがあればいただきたくて」
「もちろんいいですよ。いやしかし、先生の授業はレベルが高いですね。微分積分なんて、いやでも、分かります。先生は物理の専門家ですから、本当の物理を生徒に伝えたいんですよね」
「そんな、お世辞は結構ですよ。ではすみません。よろしくお願いします」
専門家ね。よく言ったものだ。だが確かに、この学校の中ではそうだろう。物理には大学三年で躓いた。諦めきれずに大学院に行って、案の定研究がうまく行かず中退した。今は高校の教員として、物理の世界の末端に居座っている。物理学を始めてから何年経つのか。歴だけ見れば専門家だ。そう言ってくれるのは、教育学部卒のこの教員の精一杯の優しさだろう。お前には俺の屈辱は分からないだろうな。あれだけの大志を抱いて上京して、本物の才能たちにプライドを粉々にされ、行き着いた先がただの高校教員だなんて。分からないだろうし、別に分からなくていい。ただ言わせてくれ。俺は専門家なんかじゃない。俺のこの惨めさを説明する肩書なんかこの世に存在しない。
帰路についた。満月は住宅街のオレンジ色の街頭よりも強く明るく道を照らす。しかし、私はその光が作る黒くぼんやりした影を見ることしかできない。
そろそろ寝るべきかな。明日は月曜日だ。この前の授業は、あの数学教員のお陰で成功した。あいつの名前を出した瞬間生徒が顔を上げて真面目に話を聞くようになった。流石だよ。峠は越えたので明日の授業は気楽だ。復習と余談だけで終わらせて早く帰ろう。
PCを閉じる。見ていたのは、大学時代から使っている論文検索ポータルだ。見るのはかつての自分の専攻の論文ばかり。同じ研究室だった奴の論文も最近はよく見かける。出世したんだろう。彼らの論文も、内容自体は少しは分かる。でも俺は読む度に実感するのだ。俺は物理をやっていくのに何かが根本的に欠けている。式を追うことしかできない。その奥にあるはずの現象が、物理が観えないのだ。大学三年のときからずっとそうだ。何も見えないまま追う数式は呪文のようで、その日から物理は苦痛に変わってしまった。俺にはこれしかない、やるしかないという気持ちだけが空回りし、博士課程二年になったときにドクターストップがかかった。俺にとってそれは、死刑宣告そのものだった。実際そう言った。
「俺に死ねって言うんですか。研究は今の俺の全てなんです。それに今更もうどこも俺を雇ってなんかくれませんよ」
気の毒そうな顔をした医者は俺の目を探るように見ている。
「あなたにとって研究が大事なのは理解しています。でも、このままの生活ではそのうち研究か、あなたかどちらかが破綻する。医師としてそれは容認できない。修士まで出ているのだから、何かしら食っていく道はあるはずです。私も精一杯支援します」
こうして今も罪人のように生きている。アパートの暗い一室に、僅かに月明かりが差す。狭い部屋に薄い布団で寝る俺は、本当に囚人みたいだ。苦笑を浮かべる。月光も、俺を嘲るようにちらついていた。
三、二、一、十二時だ。カメラを覗き込む。ここは、自宅から電車で一時間ほどのところにある森林公園だ。都内でも星が見えやすいので、その界隈では有名な場所だったりする。だが、今日は特別な天体ショーがあるわけでもない。人はいなかった。シャッター音だけが空っぽの森に響く。
天体写真は、無気力な日々の中の数少ない安らぎだった。教材用というもっともらしい理由付けもある。ブレた。もう一度。今度は良いだろう。写っているのは火星と月だ。今が一番接近している時期らしい。やはり月の方が明るいが、火星の赤い光もはっきりと写っている。我ながら中々良い写真だ。
カメラから目を外す。どんなに綺麗な写真も本物の夜空には勝てない。あれ。目をこする。今一瞬、月と火星の軌道を描くガイド線が見えた気がした。普段模型ばかり生徒に見せているからか、物理教員の職業病だな。
ふと突然、月と火星の像がぼやける。白と赤の光が滲んで混ざった。私、今。なんで。いや、そうか。私が初めてあの赤い星を眺めたとき、世界は調和に満ちていた。今、もうそれは見えない。私は、理屈と数式に埋もれて宇宙の神秘を見失った。きっと、今見えたガイドは私の中の宇宙の名残だ。私は、太陽の周りを回る惑星にはなれない。月のように、惑星の小さな片割れとして辛うじてその周囲にいるだけだ。元々、私が宇宙の神秘に接近することなどできなかったのだろう。衛星である月は、決して惑星にはなれない。そういう運命だ。
夜風が頬を伝う水分を乾かす。並んだ二つの星は、無情にも私を照らし出す。この光は、かつて私を惹きつけて止まなかった。希望そのものだった。それは今、私を奈落へ突き落とす。火星の赤光は、見る度に若かった私を思い出させる。だから嫌いだ。それなのに、眺めることを止めない私は一体何なのか。どうしようもないのだ。惑星という宇宙の調和に、万有引力で引きつけられている。素直さを失った私は、しかし今でも確かに物理に恋い焦がれている。
「──あの、物理って、皆さんのほとんどはあと数年の付き合いだと思いますが、続けるのが大変な学問です。難しいからね。まあでも、物理をずっと学びたいという人がもしいたら、このことを覚えておくといいですよ」
息が詰まる。言葉をうまく継げない。この言葉は、私自身に向けているのだ。過去の私、ごめん。私はできなかった。志を無駄にした。だからこそ、言わなければならない。大きく息を吸い、一文字ずつ紡ぐように言葉を口に出す。
「物理学で最も重要なのは、不思議さに素直に感動する姿勢、センス・オブ・ワンダーです。ぜひ、初めて物理を学んだ日の純粋な気持ちを、忘れないでください」
生徒にはバレないように、溜め息を吐き出す。本当は偉そうに語る権利なんかないんだ。分かっている。だが、衛星も惑星も、この宇宙に浮かぶ星であることに変わりはない。惑星は、衛星の公転によって軌道を僅かに揺らす。万有引力の法則がそう言っているのだ。だから、きっと私の言葉だって無意味にはならない。そう信じさせてくれ。未来の惑星たちにできることはこれだけだ。素直で色とりどりの惑星たち、小さく暗く不甲斐ない私を許してくれ。
教員室の窓の外は既に暗い。退勤時刻だ。鞄を持って立ち上がる。火星と月の最接近から、もう数ヶ月が経った。火星はちょうど昇ったところだ。月は地平線の下、最早姿は見えない。
火星と月と万有引力 坂口青 @aoaiao
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
✟宇宙の真理✟/坂口青
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 2話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます