火星と月と万有引力

坂口青

Ⅰ 火星

 今日、俺の将来の夢が決まった。いや、夢というよりも運命に近い。そうなることが俺の一生の使命なんだ。間違いない。自分の将来の姿を思い浮かべる度ににやついて溜め息をついてしまう。

 物理学者。なんという素晴らしい響きだ。物の理を学ぶ者。最高じゃないか。空を見上げる。田舎の田園風景に広がる夜空は広い。六等星まで見える星空の中でも一際輝く星があった。赤。地球と最も近い惑星、火星。水金地火木土天海の火だ。地球と火星とあと六つの星が、太陽の周囲を楕円軌道で回る姿を想像する。その星はまるで、神様が引いたガイドに忠実に従うかのように調和した軌道を描く。俺の頭上の火星にも、一瞬そのガイドが見えた気がした。この調和に、俺は挑む。空を見上げる度に決意を固めた。

 胸を張って帰路を急いだ。地面を踏みしめる音だけが響く。五月の風は頬に心地良い。春と夏の隙間にある、季節に属さない快晴の夜空。学問を始めるには、これ以上ない舞台だ。今日は新月、星は一層明るい。その中にあって唯一無二の存在感を放つ火星の赤い光は、俺を物理学という世界へ歓迎していた。

 

「では、続きはまた次回」

 教員は素早く荷物をまとめ、早歩きで去っていった。俺はまだ自分のプリントを睨んでいる。そこに広がるのは黒インクでも数式でもなく、宇宙そのものだった。万有引力の法則。これが地上と宇宙を繋いでいる。ニュートンは、惑星について知られていた法則を地上で落下する物体にも適用しようとした。この試みの鍵は、数学だ。そのために新たな数学まで創り出し、遂に厳密な力の法則の世界観を構築した。これが今、ニュートン力学と呼ばれるものだ。太陽の周りを回る火星も、机から落ちる消しゴムも、同じたった一つの法則に従っている。この不思議、驚愕、疑問のせいで、俺はまだプリントから目を離せない。とっくに教室を出てしまった教員は、そういえばこう言っていた。

「はい、これが万有引力の法則です。皆さんが習う力学で最も重要な法則ですよ。しっかり理解してください。ちなみに、この式が少しでも異なると、宇宙は私たちの生きる『この』宇宙とは全く違うものになってしまうらしいです。我々人間どころか、原子も生まれない宇宙だそうですよ。なぜ、この法則は厳密に成り立つんでしょうか。なぜ、私たちはこの宇宙の中に存在しているんでしょうか。不思議。あれ、そんなことないかな。──物理学で最も重要なのは、不思議さに素直に感動する姿勢、センス・オブ・ワンダーです。ぜひ覚えておいてくださいね」

 まだ、この言葉の意味は分からない。だが、とにかくこの日は、俺が人生の目的を決めた記念すべき一日になった。


 物理学との運命的邂逅から数ヶ月、俺はすっかり虜になっていた。図書館で本を読み漁り、数式を齧りつくように見つめる。はあ、と溜め息が漏れた。この瞬間のために、俺は物理をやっている。この世界の現象と理論が数学で結びつく瞬間、その秩序の美しさに嘆息せずにはいられない。宇宙は美しさで満ちている。その真理を追求する。至高に辿り着く。そんな物理学者という職業は、やはり俺のためにあるみたいだ。

「じゃあ日常生活は問題なさそうですね。次、まあ三年生だから分かっていると思うんだけど、卒業後の進路について考えていることはありますか」

 待ちに待った質問だ。これに答えるために今日の面談をサボらなかったと言っても過言ではない。自分の夢を噛み締めるようにゆっくり、しかしはっきり答える。

「大学では物理学を学びたいと思っています。大学院まで行って将来は研究者になりたいです。物理学って、この宇宙の真理を──」

「とてもいいですね。成績も申し分ないし、特に理系科目は毎回他の子を圧倒して一位で、模範のような生徒ですから。ぜひ、自分のしたいことを追求してくださいね。将来が楽しみです。応援しています」

 担任は軽快に言った。こいつは何も分かっていない。真理を追い求める俺の志の本当の意味を知らない。まあいいよ、俺を止めないでくれるならもうどうでもいい。実際、周囲に俺を止める人などいないだろう。物理を志してから勉強に一層力を入れた俺は、理系科目の試験はほぼ毎回満点、点数を落とすことの方が少ない。何の心配もないはずだ。誰よりも物理を愛し、物理に長けている自信がある。頭の中には常に数式があり、新しく学んだ理論を検討する。自分の中で新たな発見をするたびに喜びの溜め息をつく。この俺でなく、誰が物理をやるというんだ。もっと知りたい。全てを知りたい。この意志に比べれば、進路面談など取るに足らないな。俺は、余裕の笑みを浮かべて言った。

「ありがとうございます。いえいえ、自分の力で頑張りますので、どうぞご心配なく」

 帰り道、それほど長く面談していたわけではないのにもう夕暮れ時だった。日の長さは随分短くなった。風は少し冷たい。ふと空を見ると、今日もあの赤い星、火星がいた。紫色の空を切り裂くように光を放っている。


「ねぇ、ちょっと聞いてもいいかな」

 参考書から顔を上げる。こいつは、まあまあ勉強ができて愛想もいい女子だ。名前が出てこない。それに俺に何の用事だろう。せっかく今式変形が良い感じだったのに。

「何」

 意識せずとも無愛想になってしまう返事。だが今回は好都合だ。

「いつもめっちゃ物理勉強しててすごいよね。私も今物理好きで、何か勉強したいんだけど、おすすめの本とかあったりしないかな」

 なるほどな。だから俺な訳だ。お前の学力だと数学先にやった方がいい。数学ができないなら物理もできない。というか好きって、どこまで真面目に思ってるんだろう。

「どういう感じの物理が好きなの」

「え、何か、最近先生の話めっちゃ面白くて。宇宙とかそういう感じが好きだなって」

 宇宙ね。物理の中では特に一般人にウケる部類だ。だが本気で宇宙物理学を勉強しようとすれば、非常に高度な理論が必要になる。一体こいつにそんな覚悟はあるのだろうか。

「宇宙はさ、ちゃんとやろうとするとすごくムズい。高校範囲とか余裕で超えるけど」

「ちょっと難しいのは無理かも。簡単なのとか知ってたりしないかな」

 思った通りだ。何かを得ようとすれば何かが代償になる。散歩のついでに富士山に登ることはできない。そんなことも分からないのか。そんな奴が物理好きを自称しないでくれよ。

「俺、宇宙分野はそんなに詳しくなくて。普通に書店で面白そうなのを買うのが一番だと思う」

 嘘をついた。少なくともお前よりは宇宙に詳しい。こいつの軽さが嫌になった。なるべく表情を平静に保とうとする。

「うん、ごめんね、ありがとう。物理のことはマジで頼りにしてるから、今後もよろしくね」

 こっちから願い下げだ。返事の代わりに、参考書に視線を落とした。落ち着かないのは、きっと女子から話しかけられる機会があまりに稀だからだろう。さあ、式変形の続きだ。


 そろそろ寝ないと。明日普通に学校だし。分厚い本を閉じた。表紙は劣化しているが、辛うじて英字の題であることが分かる。これは勉強ではなく趣味だ。大学受験が迫り、教員から理系科目に時間を割きすぎるなと言われた。苦手な英語や国語をやる方が効果的らしい。だからこの本は、俺にとっては数少ない息抜きだ。流石に中身は日本語だが、一般的には大学初年度に使うものらしい。確かに難しいが、それ以上に面白い。一ページごとに法則同士の思いもしなかった繋がりと、深い数学が広がる。俺が知っていることなんてまだまだだと思い知らされる。もっと知りたい。全てを知りたい。思いが募る。

 原付バイクの音が聞こえる。新聞配達だ。この町で一番早い朝の知らせが、俺を寝床へ急かす。あともう一ページ、あともう一行、そんなことを言っていたら夜明けも近くなってしまった。いい加減、これで終わりにしよう。本を鞄に乱雑に突っ込む。すぐさま明かりを消し、数式を脳内で回しながら布団に入る。夜も長くなってきた。少しは眠れるだろう。それで足りなかったら授業中に居眠りしてしまうだけだ。素行不良。笑ってしまう。

 でも、俺は今の物理だけしかない生活の方が好きだ。いつだって、世界が輝いて見える方を選んでいたい。強烈な眠気に俺は考えるのをやめた。午前三時半、火星は真っ黒い大洋で船路を導く灯台のようだ。


「お前、最近よく寝てるよな、どうした、大丈夫か」

 友人に尋ねられて気がつく。確かにそうだ。以前は特に寝るような理由も見当たらず、授業は聞いてメモに精を出していた。教員からの評価も上がる。定期試験も対策しやすい。優等生っぽい。全く不都合はなかった。

 だが今は違う。心の底から眠い。夜遅くまで物理の本を読んだり計算したりすることが増えたからだ。朝方までかかることもあった。でもそれは、学問のつまみ食いのような高校の授業よりもずっと魅力的だ。

「おい、やっぱり心ここにあらずだな。勉強できるからって余裕なのか。ほんとなあ」

 深く広い物理の世界に浸る代償は、教員や友人からの小言だった。ここ最近、注意や指摘は枚挙に暇がない。受験も近いしそれは正しことだ。だが、と思う。こいつの言う勉強とは一体何を指すのか。受験勉強か、学校の勉強か、自分の好きな勉強か。おそらくこいつには、俺が授業を犠牲にして物理をやっている理由なんて分からないだろう。

 こいつは既に実家の工場を継ぐことを決めている。既に就職先を決めている生徒は多い。大学受験、それも東京の大学なんて、おそらく学年でも数人だ。俺が受ける大学を担任に伝えたら、そんなの十年に一人だと目を丸くしていた。教員だってこんな田舎の学校に来るような奴だから、本物の学問を分かってはいない。いや、あの物理の教員、あいつはどうなんだろう。未知数だ。とにかく、俺のことなんか分からないでも構わない。俺は俺の道を進むだけだ。心の内がバレないように、精一杯おどけた表情で返した。

「マジやべぇわ、ほんと眠い」


 静かに鉛筆を置く。高校生活の最後を飾る大学受験も、残り二十分らしい。最後の科目は、物理だ。すべての回答欄を埋め、すべての大問を見直し、すべての計算を確認した俺にできることはもうない。異常に鋭い鉛筆の音が教室中に響いている。ぼんやりと問題用紙の図を眺める。万有引力の問題だった。

 いや待て、この図見覚えがある。何だろう。なるほど、太陽系の問題だ。問題文にはただ「物体P」としか書かれていないが、これはきっと惑星のことだ。俺が最後に出した答えは、6.4×10^23kg。そうか、火星なのか。突然、紙面上の物体Pは活き活きと楕円軌道を描き始めた。思わず顔を上に向けてしまう。目に映るのは、色褪せて少し剥げた大学の教室の天井だけだ。しかし俺には、その上にある青空のさらに奥、火星があのガイド線に従って動くのが確かに分かる。受験最中であることを忘れ、小さく溜め息を漏らした。

「試験やめ。筆記用具を置いてください」

 試験監督の声で現実に引き戻される。終わりだ。だが同時に、これが新しい人生の始まりでもあってほしいと思った。密かに合格を祈願し、解答用紙が回収されるのを待つ。

 暖房の効いた部屋の中を刺すような冷気が通り抜ける。これだけ寒ければ、外は鮮やかな夕暮れに違いない。今夜、火星は輝いているだろうか。


 三、二、一、十二時だ。とうとうこの時が来てしまった。何日も前から記憶していた受験番号を確認し入力する。結果を表示しますか、という最終確認。もちろんだ。さあ、どうか。いつの間にか閉じていた目を開く。赤い文字で、合格。良かった。これで物理を続けられる。正直、俺はこの大学に受からなければ物理をやる資格はないと思っている。研究者の登竜門で、仮にもこの国で最上位の大学だ。俺こそが、この大学に、この学部に、いや、物理という学問に、最も相応しい。だから、受かって良かった。

「心からおめでとう。改めて、本当にすごいね。私たちの誇りだよ。東京に行っても好きなことを自由に頑張ってね。お母さんはそれでだけで十分だから」

「あ、ありがと。いや、うん」

 母の大袈裟な褒め言葉への正しい答え方はずっと分からないままだった。いつも適当な返事をしてしまう。毎年合格者が四桁出る学部だから、正直そこまで優秀という訳ではない。母は昔からそうだ。高校の試験も、母自身は内容を理解してないのに、点が少し良いだけで褒めてきたものだ。やり過ぎ。でも、こういう会話をするのも、あと数週間らしい。こんな片田舎とは何もかもが違う正真正銘の大都市、東京に出る。そこにあるものは人も、建物も、何より学問も、全てが本物に違いない。やっと俺は本物の物理に出会えるんだ。

 窓の外にはいつもと変わらない火星が煌めく。この星空も見られなくなると思うと、ほんの少しだけ名残惜しい。


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