ふたりにはあとがなくて

君足巳足@kimiterary

AA

 エニについて考えると、しなかったことばかりを思い出す。エニはAAエーニで、あるいはAnyエニィで、AAはAny Aprilの略で、Any Aprilは彼女のプレイヤーネームで、彼女とおれはゲームを通じて出会い、そのゲームはチームを組んで銃撃戦で生き残りを争うよくあるゲームの、当時の最大手のそれで、そして思い出すという以上はこれはすべて回想シーンで、漫画だったらコマの周りはベタ塗りで、そのときのおれは今よりなお子供ガキで、吹き出しの中は「おれ」だけど吹き出しの外モノローグではまだだいぶ「ぼく」寄りで、遅い変声期の通過途中で、具体的には十五歳で、中学生で、そしてエニも同じ歳の中学生だった。ここにはもちろん「彼女の言葉を信じるならば」との但書きが必要だが、それはもう、この先はずっとついていると思ってくれていい。おれにはエニを疑う理由も、そうして得することも別にない。あのときも今も。



 ◆



「わたし、行きたいとこがあってさ」とエニの声がイヤホン越しに響くのを、おれはろくに聞いていなかった。日付は変わりそうで、ポイントも盛れて、エニはランクも上がって、じゃあ適当に話したら寝るか、とそんな空気だったからだ。

「ふうん、どこ?」

「ラブホ」

「は?」

 思わず上ずったような声を出してすぐ、あ、ミスったなと後悔が襲う。エニはおれと行くつもりで言ったわけではなく、だからここから少なくとも数分はからかわれるのが容易に予測できた。けれど、実際にエニが続けたのは「嫌?」との疑問文で、おれはしばらく言葉に詰まったのち「……情けない話していい?」と切り出す。

「何?」

「カネがない」

「え、そうなんだ。聞いた感じPCスペック良かったからボンボンかと思ってた」

「あー……中学受験チュージュの合格祝いだよ、コレ。六年使えっていうからめちゃくちゃ吟味したの。ちなみに中高六年分のお年玉の前借り分込み」

 あまり興味はなかったようで、ふーん、あっそ、と流すエニ。

「ていうか、行きたいのわたしだし、その分は出すけどね普通に」

「普通に、じゃないが」

「だって別にお金目当てじゃないし」

「一応確認するけどさ……するわけ?」

「そりゃするよ。他にわざわざ何すんの」

「ふーん……なんでおれ?」

 あれ、なんだかメチャクチャな質問をした気がする。嫌とかじゃなく、と付け足したほうがいいか?そんなことを迷っているおれより、

「後腐れなそうだから。あと、そんなに家遠くなさそうだったし」

 との、エニの返事のほうが早かった。

 後腐れ。

 何を指しているのかは、なんとなくわかる。エニも中高一貫校通いだと知っていたからだ。中学卒業も高校入学もなんでもない通過地点で、脱落するものはほとんどなく、代わり映えしない面子との残り三年が始まるだけで、だから――

 何かあっても、面倒ではない相手。

 実際、おれはゲームを介してエニと出会いこそしたが、一緒に特定のグループに属していたわけではなかった。そもそもそういうのが苦手だったし、下手ではないとはいえ結局ガキが好まれるような環境ではないし、エニにしてもたまたまあっちから声をかけられたときになんとなく話が合っただけで、共通の知り合いはSNSにもあまりいない。後腐れは、たしかに無いのかも知れなかった。しかし――

「……後腐れを『後腐れる』で活用させてるの、初めて聞いたな」

「あ、そういうとこ」

「は?」

 本日二度目。今度はいくぶん低めのおれの声に、エニは笑いながら「いや、だって君、もう活用がどうとかにしかまじで興味無いんでしょ。ぜんぜん行くつもりで。だから、ほら『そういうとこ』。後腐れなさそう」と『が』を強調気味に返す。ぜんぜん行くつもり。たしかに、それはその通りか、と納得し、おれはエニに会うことについて、まあいいかとあっさり決めた。



 ◆



 待ち合わせの日まで、色々なことがまともに手につかなかった。手につかなすぎて、なんなら何日か予定を早められないかと相談しようか真面目に検討したのだが、流石に格好つけたい気持ちぐらいは人並みにあり、頭の内に留めた。同じ理由で、誰かに相談する気もさらさらなかった。ゲームをしていてもプレイングがフワフワしたし、それが一番困った。エニの方は少なくとも表面上はいつも通りで、喋りも、ゲームプレイもブレているとは感じなかった。そもそも、エニはおれよりゲームが上手い。ランク帯は同じだし、1VS1ワンブイワン撃ち合いフィジカルでは大差ないかおれのほうがギリ上手いくらいだが、ゲーム全体で見たときの立ち回り、視野の広さではエニが圧倒的に上だ。そしてその「おれのほうがギリ上手い」部分でも、そのときのおれは完全に負けていた。エニは別に何も言わなかったが、多分気づいていたはずだ。スコアにそのまま反映されるのだから。それは他のことで動揺を悟られる以上に格好がつかなくて、だから待ち合わせの日を迎えるに当たり、おれはようやくまともなメンタルに戻れると、少し解放されるような気持ちにさえなっていた。

 お互いの顔はすでに知っていたし、事前に服装は共有していたから、待ち合わせ場所にエニが来たことはすぐわかった。「おまたせ」と手をひらひらさせて近づいてくるエニとおれはだいたい目線の高さが一緒で、おれの第一声は「背、高いね?」で、エニは応じて「んー、低くはない。一六〇ちょい。でもほら、厚底だから」と片膝を曲げてスニーカーを示す。「そっちは?」「一七〇……は、いったん無いね」「え、気にするタイプ?もっと低い方がよかった?」「いやいや、まだ伸びてるところだから。大体さ、よかったっつったら縮むわけ?」「底が厚くない靴、買ってくれるなら縮むよ?」「金ねえっつってんじゃん」「そうだったね。それじゃ……」

 行こうか、さっそく、とエニは笑って。

 あー、うん、そうね、と曖昧に返事をして、二人で歩き出す。ちょっと遠回りなんだけどさ、ドンキあるみたいだから寄るね、とエニがスマホの画面を示し、おれはそれを覗き込む。横顔もマスク姿も新鮮だな、と思うおれの目にも頭にも地図はろくに入っていかなかった。エニの半歩後ろを歩くようにして、道がわかっていないのを誤魔化していると、ドンキにはすぐ到着した。

「まあ水は買っとくか。高いらしいよ」「ふうん、普通のホテルと変わらないんだな」「お腹減ってる?」「わりと昼食べたばっかだけど」「あっそ、ガリガリだもんね」「お互い様だろ……」「うわ、ドンキのほうが安い。今日さ、アイメイクはしたほうがいいなと思ってさー、マスクあるけどちょい歳誤魔化したいじゃん、それで、最近ちょっと買ったんだけど、失敗したー……」「そんな違うもん?」「多分違うって感じると思うよ、金欠の君には」「それは、多分そう」「てかさー最悪ここで君の服買うかもくらいの気持ちでいたんだよね、ぶっちゃけ」「は?」「いやあまりにガキっぽかったらどうしよっかなーって」「ふうん、セーフ?」「ギリ」「ギリか……」「嘘嘘、そこそこ」「下げて上げるならもうちょい上げろよ」「やっぱさー、小腹は減るって。お菓子ほしくない?あとさ」「何」「……ゴム、要ると思う?」「……わかんないな。そういうのって、あっちにもあるんじゃないの」「んー、たぶん」「じゃあいいんじゃない」「ほんとー?じゃあ、必要になったら君がダッシュでここまで買いに来てね」「はいはい」

 ぽいぽいとカゴに放り込まれる商品を見て、宙に放たれる言葉を聞いて。そうしながら、エニの顔をはじめて見たときのことをおれは思い出していた。それはこんなことになるよりぜんぜん前のことだった。いつものように通話していたら突然カメラが起動されて、エニの顔が写って、慌てた声が重なり、そのままばたばたと画角がスライドし、伸ばされる手、胸元を写して、それも一瞬で、ぷつりと切られて。ねえ、ミスったって、ずるいって、そっちも見せて、としつこく押し切られて、まあいいか、とおれの方もカメラを起動して、すぐ切って……今思い返すとあのやり取りは何だったんだろう。それについて、エニに訊くことは今も結局できていない。



 ◆



 そして、しなかったことばかりを思い出す。

 ホテルの正面入り口は通らなかった。駐車場側の別な入り口から入って、からっぽの待合の席を抜けて、拍子抜けするほどあっさりと諸々の手続きを済ませ、部屋に入った。

 いっしょに風呂には入らなかった。お互い順番に、首から下だけシャワーを浴びて、バスローブ姿でベッドに入って、布団の中で、初めて体に触れた。身を寄せる。互いの背や腹に指を這わせる。段々とそれが下に降りる。華奢なのにどこか柔らかいエニのからだを撫でていると、ただただ細くて固いだけの自分のそれと何がこうも違うのかと不思議だった。

 部屋を真っ暗にはしなかった。少し揉めたのだが、真っ暗な中でゴムを着けることもそれを挿れることもお互いうまくこなす自信がない、との結論に落ち着いた。実際、それを実行する段になると余計、エニのからだの薄さも、それを抱く自分の腕の細さも、彼女の中に入っていくそれも、すべてが頼りないと思った。否応なく、子供がふたりここにいるなと感じさせられた。ふたりともどこまでもぎこちなく、お互いの肉付きの足りないからだのせいで何をどうしても骨盤同士をぶつけてしまい、それを誤魔化すように、ふたりでばかみたいに笑った。

 エニは血を流すことはなかった。本人曰く「だってわざわざ呼びつけて痛くてできませんでしたじゃ悪いし。ていうかわたしがイライラしちゃうし。それは嫌だし」だそうで、おれもそれ以上、追求する気にはなれなかった。別にぜんぶ嘘だったにしても、おれが困ることじゃない。「お気遣いどうも」と返したら、笑いながら蹴りを入れられた。そのときも、エニは裸のままだった。

 そうして、全て終わって、

 時間が余って、

 二人並んで、

 ぼんやりと天井を眺めて。

「ぼーっとして、何考えてるの?」と声がして、おれは返事をする。

「……子供ガキ二人でもちゃんとこういうときはこういう空気になるんだな―って」

「……君は本当にさあ」

 顔は見なかったが、苦笑いされているのがわかる。

「しかし、何の話するのがいいんだろうな」

「んー、恋バナする?初恋の相手とかさ」

「修学旅行かよ」

「まあいいじゃん。君からね」

「小六。優等生で学級委員」

「似合わな」

「わかる。そっちは」

「中一。サッカー部で、今はキャプテンになったのかなあいつ」

「それでよくおれに似合わないって言ったな……」

「うるっさいな。でもこれってキャラピックみたいなもんじゃない?」

「あー、役割ロール被り避けてんのかおれら……」

「そうじゃない?」

「まじでそうかも。逆張りオタクだから……あ」

「何」

「いや、頭撫でちゃった。ごめん、無意識」

「それは……今更すぎない?」

「そうかも」

 馬鹿だねえ、とエニが笑う。

 そうやって笑うと、まじで子供みたいだよね、とはおれは言わなかった。



 ◆



 おれが漫画家や小説家なら、エニとはそれっきり会うことはなかった、とでもしたいところなのだけど、別にそんなことにはならなかった。だからといってお互い好きだの嫌いだの付き合うだの別れるだのと言い出すこともなく、ほぼほぼホテル以外には行くこともなく、行ったら行ったでぱっぱとすることを済ませて他愛無い話、自分から告白しといて三日で別れるみたいなことばかりの友だちが今はなんと半年続いてるとか、eスポーツ専門のVTuberとランクでマッチングしてからすっかり箱推しになったとか、オンライン授業が頭入ってこなくてどんどん馬鹿になってくし今から大学受験が怖いとか、ゲームなんて上手くなっても何になるのかわかんないのに結局台パンしてるときが人生で一番感情動いてるとか、そんな話ばかりをして。

 お互いとっくに高校生になっていて、

 更に一年、二年と過ぎていって。

 その間、エニは「後腐れて」いいと思える相手ができたのか、あるいはだんだん残りの学校生活が少なくなったからか、彼氏ができたり別れたり、またできたりと楽しげで、おれはおれで、エニにはかなり出遅れる形ではあるが、なんだかうっかり「まあいいか」と彼女ができたりした。

 いまさっき。



 ◆



 そしていま、彼女とはじめてキスをしていて。

 そういえば、エニとは結局キスはしなかったな、と思った。

 いつもそうだ。

 エニについて考えるときは、しなかったことばかりを思い出す。

 多分それはエニが「する」と決めたら絶対にするし「しない」と決めたら絶対にしないプレイヤーだからだし、そこがおれには一番真似ができないところだったからだ。

 唇を離す。

「ねえ、ずっと一緒にいようね」と彼女が言う。

 おれは少し間をおいて、「そうだね」と返したが、ほんとうはそんなこと、ちっとも信じていなかった。この先、高校を卒業した後のことなんてぜんぜんわからないと思っていたし、そんなに長く関係が続くとは思えなかった。しかし、だからといって彼女の言うことをわざわざ否定する気にもなれないし、仮にずっと一緒にいることになったとしても、それもまあいいか、と思う。

 彼女のことを抱き寄せながら、おれはエニの言葉を思い出す。

「君はさ、たまに『まあいいか』で致命的なプレイするよね」

 この反論は、未だにできていない。

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