詩の銀幕

藤和

詩の銀幕

 俺は映画が嫌いだ。

 もっと言えば、映画だけでなくドラマも演劇もアニメも嫌いだ。

 小さい時にひとりで見ていた児童向け番組も、着ぐるみがテレビの中で動き回るのを見ていられなくて、でも、その時はテレビを見て黙ってないと母さんに怒られるから仕方なく見ていた。

 そう、仕方なく。という理由でしか見られない。

 別に内容が気に入らないわけじゃない。内容を噂で聞くだけだとなんとなくおもしろそうだなとは思うのだけれど、いざ見ようとすると見られない。見はじめて五分も経たないうちに耐えられなくなるのだ。

 そんなことだから、小学生のうちはみんなが見ているアニメの話に入ることはできなかったし、中学生になってからもみんなが見ているドラマの話に入れなかった。

 高校に入ってからは、友人達とドラマやアニメや映画の話をほとんどしないから気楽なものだけれども、それでも時々頭の隅で、なんで俺は映画が苦手なんだろうという疑問がうずくまっていることがある。

 休み時間中に教室にいると、同じクラスの女子から話し掛けられることがよくあるのだけれど、その時に映画の話を出されると困ってしまう。なんせ俺は映画が見られないのだから。

 毎週金曜の夜にテレビで映画を放映していると言われても、見られない。どんな有名作だと言われても、どんな名作だと言われても、なんとかテレビの前を確保してチャンネルを合わせると、五分も経たずに部屋に戻ってしまう。

 そう、そもそも俺の家はそんな気軽に映画を見られないのだ。映画をやっている時間帯……正確には、父さんが会社から帰ってきてからお風呂に入って寝るまで、ほとんどテレビを父さんが占領していて俺が見たい番組なんて選べない。気がつけば、どんな番組を見たいかなんてこともわからなくなっていた。

 そんな状況の中、映画をやっている時間にたまたま父さんがお風呂に入っていたりすると、チャンネルを変えて映画をテレビに映すことはできる。でも、できるだけなのだ。

 父さんがテレビを占領しているという事実は、クラスの他のやつから映画の話を持ちかけられた時に、見ていない言い訳には使えた。 俺が映画を見られない本当の理由がわからないままに、父さんを言い訳に映画から距離を取っていたある日のこと。授業をサボって校舎裏で友人達とたむろしている時に、無料動画サイトで見られるファスト映画というものを友人から教わった。

 興味がないままに一応どんなものか訊ねると、全部見ようと思うと何時間も掛かる映画を、十分から十五分くらいでまとめてくれているものなんだそうだ。

 何時間もかけてまで映画を見なくても、それくらいの時間で色々な映画のおいしいところを見られる便利なものだと友人は言った。

 それなら俺でも見られるだろうとのことだったけれども、友人から聞いたファスト映画の説明に、なんだかぼんやりとした不快感のようなものが胸にわだかまった。

 どんなに短くされても俺は映画は見たくないし、そもそもそんなふうに切り貼りされた映画はもう元のものとは変わってしまっているはずだ。それはもう、本来の映画ってやつじゃない気がした。

 ファスト映画でも映画は見たくないと友人に言うと、友人は明らかに不満そうな顔をして、付き合いが悪いなと言う。

 ファスト映画なら手軽に無料で見られるのに。というのが友人の言い分だったけれども、映画そのものに対する苦手意識以外にも、ファスト映画というものの存在に対する表現しがたい不快感と、それをよろこんで見る友人に不信感を覚えた。

 なんとなくその場の空気が悪くなったところでチャイムが鳴った。

 これから昼休みだから、購買に行ってパンを買わないと。友人達が誰ともなしに購買に行こうと言って立ち上がる。

 なぜだか購買に向かう足取りが重く感じた。


 購買でパンを買って、教室で詰め込むようにして食べる。一番安い菓子パン一個じゃお腹いっぱいにはならないけれど、これ以上パンを買うと他に買いたいものがなにも買えなくなってしまう。だからいつもこれだけでがまんしている。

 菓子パンを食べ終わって、教室を出る。なるべく足音を立てないように、目立たないようにして、他の教室の前を通り過ぎる。できれば友人達に見つかりたくなかった。

 並ぶ教室を通り過ぎて、静かな廊下を歩いて、向かった先は図書館。

 図書館で本を読むようになったのは、割と最近のことだ。それより前から、授業をサボったり友人から距離を置きたい時なんかには、本を読まずに図書館でスマホをいじったりしていたのだけれども、俺を気にかけてくれている先生から本の借り方を教えて貰って以来、この図書館の中に所狭しと並べられた本にも触れるようになった。

 まだ本の扱いは慣れていないけれども、司書に訊いて読みたい本を探してもらうという作業も、だいぶ抵抗がなくなってきた。

 図書館の本に慣れてきて、映画を無理に見なくても、本を読めればいいか……みたいな気持ちも最近出てきて、すこし楽になった。嫌なことを無理にやるくらいなら、他のできることをやった方がいい。

 それはわかってるのに、映画を見られないという事実は頭の隅にうずくまって燻り続ける。これをなんとかしたいところだ。

 気分を変えようと、現代詩の本を司書に探して貰って席について黙って読む。詩を読んでいると、頭の中に色々な映像が浮かんでは消えていく。音声こそ付いていないけれども、時に静かに、時に激しく場面が移り変わっていく。

 そこでふと気がついた。今俺が想像しているこの映像は、映画的なんじゃないか?

 本を閉じて考え込む。映画そのものを見られなくても、映画について書かれた本なら読めるんじゃないだろうか。

 そう思いついて、詩の本を元の場所に戻してから司書に映画の本はないかと訊ねた。

 司書はすぐに受付カウンターの中にあるパソコンで検索をして、本棚の前に俺を案内してくれる。それから、本を何冊か本棚から出して中身を確認している。

 映画のどんなことについて読みたいかと訊かれたので、映画のおもしろい部分が書かれた本が読みたいと伝えると、二冊ほどピックアップして俺に差し出した。

 司書にお礼を言ってから席について、映画のワンシーンとおぼしき写真が表紙になっている雑誌を捲る。目次には新作映画の見どころ特集と書かれていた。

 とりあえずその特集のページを開いて読んでみると、たしかにおもしろそうなシーンの紹介や、どんなところに注目するといいとか、そんなことが書いてあってなんだか新鮮だった。

 もう一冊のハードカバーの本も、ぱらぱらとめくってみると映画の名台詞とその解説が載っていて、言い回しの面白さが目に付いた。

 その二冊を見ているうちに、なんとなく、映画を見てみてもいいかもという気になった。

 そこでチャイムが鳴る。午後の授業がはじまる前の予鈴だ。俺は司書に本を返して図書館を出る。それから、普段使われていない地学室へと向かった。

 地学室に入ると、誰もいない。多分掃除もされていないのだろう、机の上にはほこりがすこし積もっている。

 適当な席に腰掛けて、スマホで動画アプリを開いてショートムービーとか言うのを検索して見る。三十分くらいの短いものなら見られるかもしれない。

 そう思って見つけたショートムービーを再生したけれども、一分も耐えられずにスマホを投げ出してしまった。

 なんでこんなにだめなんだろう。音楽のMVとかは大丈夫なのに。

 床の上に転がったスマホを拾い上げて、もう一度ショートムービーを見る。役者のセリフを聞いた瞬間、二の腕に鳥肌が立った。

 アプリを閉じて、どうしてこんなに映画がだめなのかを考える。なんとなく嫌だ。それはわかる。その『なんとなく』の原因がなんなのか。それを探ろうとした。

 しばらく考えて、ショートムービーのセリフを聞いた瞬間の感覚を思い出す。もしかしたら俺は、人が演技をしている声が苦手なのかもしれない。

 それなら、セリフの無い映画なら見られるのだろうか。でも、そんなもの存在するのか?

 しばらく考え込んで、ひとりで考えていてもなにも解決しないと気づく。

 それなら、他の人に相談してみよう。あの先生なら俺の悩みを聞いてくれるかもしれない。


 それから、六限目は素直に授業に出て、ホームルームも終わった後の放課後、俺は慣れた足取りで職員室へと向かった。

 職員室のドアを開けて、いつも話を聞いてもらっている先生の所へと行く。先生はいつも通りににこりと笑って俺を迎え入れてくれた。

 どんな用件かと聞かれたので、俺はどうしても映画が苦手で見られなくて悩んでいると先生に話した。すると先生は、苦手なら無理に見なくてもいいとやさしく言う。

 それはわかってる。映画なんて無理に見る必要はない。でも、映画を見られないというのがずっと消えないコンプレックスになって、しんどくなることがあると先生に話すと、先生は頷いて少しずつ俺から話を聞き出してくれた。

 先生に訊かれるままに、映画を見はじめると五分と耐えられないこと、特にセリフが付くと聞いていられなくて発狂しそうになること、それでも映画を見られるようになりたいことを話した。

 先生は俺の言っていることを否定したりせず、もちろんバカにしたりもせず、丁寧に聞いてくれた。

 それから、先生は自分のスマホを取り出して動画アプリを開いて、白黒の動画を再生する。すぐに一時停止して、その画面を俺に見せながら、その動画の説明をしてくれた。

 この白黒の動画は昔の無声映画という、セリフの入っていない映画で、これなら俺でも見られるんじゃないかとのことだった。

 無料で見られると言うことと、なによりセリフがないのならと思う。

 動画のタイトルのメモを貰って先生にお礼を言って職員室を出る。

 セリフの無い映画が存在するということに驚いたけれども、先生から貰ったこのメモは、ほんの小さな希望のように見えた。


 バイトが終わって家に帰った後。父さんとも母さんと、いつものようにほとんど話さず夕飯を食べて部屋に戻る。それから、ベッドの上に転がってスマホを手に取った。

 動画アプリを開いて、先生から貰ったメモに書かれた動画を探す。再生時間を見ると九十分ほどと長めだけれども、とりあえず再生してみることにした。

 音楽が流れて、映像が流れていく。女優が映し出されてタイトルが入って、そこからすこし見ているとまだセリフはなかった。

 それなのに、やっぱり五分くらいでスマホを伏せて置いてしまった。なんとなく、映像を見ているのを気怠く感じたのだ。

 やっぱり、俺が映画を見るなんて無理なんじゃないか。そう思ったけれども、もう一度スマホを手に取って無声映画を見る。

 音楽は流れるし、女優や俳優が演技をしている。けれどもやっぱりセリフはない。

 どんなことを話しているんだろうと想像すると、頭の中に映像に合わせた詩が浮かんだ。

 思わず食い入るように映像に見入る。

 一度スイッチが入ってしまうと、映像と一緒に、頭の中に次々と詩が浮かんで流れていく。これがこの映画を作った人の意図と合っているかはわからないけれども、映像と頭に浮かぶ詩の組み合わせについ夢中になった。 そして気がつけば、俺は九十分ある映画を観ることができていた。

 はじめての経験に落ち着かなくなって、他にも無声映画がないか動画アプリで探す。そうすると見るからに古い、白黒の映画がいくつか見つかった。

 一時間以上ある白黒の映画を夢中で観る。一本目、二本目、三本目と、数をこなすごとに映像に合った詩がたくさん頭の中に浮かぶようになっていった。

 これが、映画を観るってことなんだ。うまく表現できないよろこびで胸がいっぱいになった。


 数日後、バイト先で仕事が終わった後、退勤前に手のひらサイズのノートを買った。そのノートをポケットに入れて家に帰って、また無声映画を観る。

 映画のタイトルをノートに書いて、観ていて頭に浮かんだ詩をノートに書き付けていく。書くスピードよりも映像が進む方が早いので、時々動画を止めながら書いている。

 それで映画一本分の詩を書き留めたノートを、改めてじっくりと見返すと、さっき観たばかりのはずの映画の他の顔が見えた気がした。

 きっと、こういう映画の見方は普通じゃないんだと思う。でもそれでもいいと思った。

 映画を観られなくて抱えていたコンプレックスも見つからなくなったし、なにより楽しい。

 もっと早く気づけばよかった。映画は動く詩なんだ。

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