第6話 早春よりも遠い鍵
〈1〉
カラスと言えば、夏の夕焼けを連想する。
これはあまりに安直な発想だし、間違ってもいる。
もうすぐ二月も終わりという寒々しい空気の朝、元気いっぱいな一羽が、通学路の上空を、すっかり自分の領域にして飛んでいる。もちろんあの鳴き声で。
「やだなぁ」
「そんなに気になるの? あれでも案外かわいいじゃない?」
「しぃちゃんのその感性って、あたしにはわかんないなぁ」
幼なじみのしぃちゃん、こと松崎静佳が、年が明けて校内に住みついてしまったカラスを、かわいいと形容するのが、まどかにはとても信じられない。
「まどかは、動物がかわいくないの?」
「カラスは別。だってでかいし、怖いもん」
童謡に歌われている、かわいいカラスはヒナ。成鳥ではない。
「全然平気よ。カースケって一度も人間を襲ったことなんかないよ」
「名前をつけたの?」
「そ!」
どんな根拠とセンスで名付けたんだろう。校門が見え始める交差点を折れたところで、前方にいつものあいつが歩いていた。
「つまり、あいつよ」
「なるほどね……」
早春の、まだ頼りなげな水色の空。吉見祐介は朝から「片手運転」をして歩いていた。
自転車の話ではない。いつもまどかと同じ時間の電車に乗っているのだから。左手で文庫本を持って、指で器用にページを操りながら歩き読むことを、そのように言うのである。通学服がやや黒っぽいから、静佳が名前を着想する理由は十分ある。それに祐介の後ろ姿は、タカでもワシでもなく、確かにカラスっぽい。
「あの本って、また新しいミステリかもよ」
「それって、こないだ図書館に届いたばっかりだよ。あいついつの間に?」
図書委員長のまどかの目をかすめて、新着図書を真っ先に借りてしまうのは、もう見飽きたパターンだが、どんな手口でそれを実行したのかは、依然として謎だ。
まどかは、その謎を探るべく、祐介に追いつこうとした。
「お早う!」
「おっ、行橋か。もうすぐ〈読者への挑戦〉まで読めそうなんだぜ」
「そんなこと聞いてない。いつの間にその本を借りたのよ」
まどかは、祐介の持っている、『真空館の秘密』を指さして問い詰めた。
「それはね……えーっと、教えられない」
「抜け駆けは許さないからね!」
「そう怒るなよ。次は行橋に回すからさ……えっ。あれっ!」
祐介が、空いている右手を頭にやりながら、複雑な表情で「やられたぁ~」と叫んだ。
広げた右手と、頭にしっかり白く、鳥の落下物が付着していた。
「わぁ!」まどかとしぃちゃんが一瞬引いた。
バサバサする音の方を見上げながら、六つの瞳は、校舎に向かって逃げる黒い影を追った。
屋上には、ちらほらと地学部員の姿があった。
前期の図書委員をしてくれた、三年の横井ふたばが、観測塔の百葉箱を調べているのが見えた。こんな寒い早朝の観測は大変なはずだけど、そんなことには気にも止めずに、カラスはその向こうに隠れてしまった。そして何事もなかったかのように、凜とした朝の空があった。
「くそーぉ、やられた!」
天然ギャグを叫んで、祐介は空に向かって身構えていた。全面対決を望んでいるのかもしれないが、そんなことをしても飛んだ鳥が帰ってくるなんて、とうてい期待できない。
「行橋、ハンカチ持ってないか?」
「やだ! 何であたしのを使うのよ」
「オレのハンカチ、今朝うっかり洗濯機に放り込んじゃったんだよ」
全然理由になっていない。
「ウンが悪かったんだから、学校で頭を洗ったら?」
断っておくが、まどかもオヤジギャグは嫌いだ。
そのままで校舎に入る以外に方法はなかった。まどかと静佳を置いてけぼりにして、祐介は、一目散に階段を駆けのぼっていった。かわいそうに、祐介はまだ寒い朝の手洗い場で、しびれるような水で頭を洗うはめになった。いくらスポーツタオルでこすっても、そんなに簡単に乾くはずもなく、生乾きの頭のまま、一時間目のチャイムが鳴った。
授業はいつもの通りの数学だ。
「おっ吉見。朝シャンか? お前さんも清潔に気を使うようになったんだな」
あちこちで笑いが出た本当の理由を知らないのは、西澤先生だけだった。
午後、昼休みの放送がまだ続いていた。廊下にいつものように明るめの、それでいて微妙にサビのある曲が流れている。まどかが早めに図書館にたどりついてみたら、本が乱雑にカウンターに積まれていた。
へぇ? いつも、もっと整理できているのに?
川村先生が積んだのだろうか。でも先生が図書をこんなにしておいたことは、今まで一度もない。非常にざっくばらんに、生徒の輪に入ってくれる人だけど、司書の仕事はきっちりとしている。それはこの一年間で保証済みだ。
カウンターに入って、まどかは本を取り上げてみた。
カバーのない専門書っぽい本や、青空と雲の写真が鮮やかな写真集もあった。
「先生、この本どうします?」
まどかは準備室のドアに向かって呼びかけた。
「えっ? 何のこと」川村先生が湯気の立ったカップを手にして現れた。ジャスミンティーの香りが一瞬鼻をくすぐった。
「ここにあった本なんですけど」
「変ねえ、さっきまで、そんなのはここに置いてなかったわよ。行橋さん、とりあえず書架に戻して置いてもらえる?」
「さっきって?」
「四時間目の途中までは、私がここにいたから、きっとそのあとね……ところで吉見君は?」
「吉見君がどうかしましたか?」
「最近趣味が変わったのかと思って」
「どういうことですか」
「今まで吉見君の興味は、ほぼ推理小説オンリーだったでしょ? ところが最近、サイエンスにも興味が出てきたらしいのね。ちょっとばかり不思議だと思うけど」
「さいえんすぅ?」
まどかの中では、どうしても祐介と科学は結びつきそうにない。二年で文系のクラスを選択したんだし、成績も、理数系の方はそこそこ、いや、さっぱりだという噂だ。
「どこからそんな話が?」
「それがねぇ……三時間目だったかな。彼が自然科学の書架の方で、何か熱心に図書を漁っていたのよ」
ちょうど現代文が休講になった時間だ。まどかが自習課題を片付けている間に、そんなことをしていたのか。
「自然科学って、どのあたりの?」
「ちょうど今、行橋さんが図書を戻してくれた場所と同じ棚。少し下の段だった」
カウンターからは書架の側面しか見えない。川村先生は祐介の探していた場所を、真横からしか見ることができないのだ。それでも本の位置を確信をもって言うことができるのだから、並外れた距離感。それとも単に図書の場所を知り抜いているのか。
ということは、そこの本は。
動物学。うーん、わかるような気がするぞ。
「行橋さん、何かおもしろいことでもあったの?」
「えーっと、実はですね……」
今朝のできごとについて、川村先生が「そりゃ、災難よねえ」と言ったところで、祐介がドアを騒々しく開けて入ってきた。噂をすれば影がさす。だから誰かを呼び寄せるのに有効だな。
「よぉ、どうしたの?」
「ううん、何でもない」
まどかが川村先生が顔を見合わせている間に、祐介はすべるように書架の方へ行って、例の場所にかがみこんで、本を手に取っていた。速い。
『都市に住む鳥類』やっぱりそうか。
もうあんな目に遭わないように、対策を練っておこうというのか。それとも、何とか「カースケ」に一泡吹かせたいとでも考えているのかもしれない。たかがカラス一羽に、人間がそんなにカリカリになるのも、どうかとは思うけど。
ドアのガラス越しに、放送部員が、弁当箱の音もやかましく、競歩のように去っていくのが見えた。祐介はあれからずっと書架の間に居座って、鳥類の本を食い入るように読んだままだ。立ち去る様子もない。午後の授業に遅刻しなければいいんだけど。
のどかだった館内に、動きが始まった。生徒がパラパラと教室に戻っていく。笑いながら帰っていく集団もいる。貸出しの手続きを急いですませようと、カウンターに駆け込む一年生。
切羽つまったこの時期になると、三年生の姿はほとんどないが、少数の生徒は自習のためにやってくる。昼休みの利用時間も終わった。そろそろ帰ろう。
「ありがと。行橋さん」
川村先生の目は、まだ動かない祐介に視線の向きを変えていた。
「まぁ、大丈夫よ」
何もあたしに言わなくても。図書館を出ようと、まどかはロッカーの並びを通り抜けた。
ん?
紙切れが落ちている。
切符みたいな大きさだけど、もちろん違う。のりのない付箋のようなメモ用紙。
誰が落としたのか知らないけど、拾っておこうと思った。
無地のレモンイエローの紙を裏返すと、そこに、
451F
と書いてあった。まどかがその意味に気がつくまでに数秒間かかった。
「へぇ、レイ・ブラッドベリかぁ」
わぁっ! いつの間に近づいてきたのか、祐介が横からのぞき込んでいた。
「びっくりしたじゃないの!」
「ごめんよ。驚かすつもりじゃなかったんだ」
「吉見君、これって、どう思う?」
「ブラッドベリの作品タイトルみたいだね。『華氏451度』っていう有名な作品」
「本当にそれだけ?」
「?」
「何か思いつくことはない?」まどかの声が、かすかに動揺していた。
「まさか……」
祐介がその意味に気がついた。二人はそっと後ろを振り返った。
毎日、まるで背景のように、ほとんど空気のように存在していたはずの、図書館のありとあらゆる本が、急に重さを増して、こちらを見ているかのように感じた。
午後の始まりを告げる予鈴が、ドアの向こうの廊下で、本物の鐘のように反響していた。
〈2〉
放課後の図書館は、思ったより空いていた。
どちらが誘ったわけでもなく、準備室のストーブに手をかざしながら、まどかと祐介は、議論を始めていた。当然、川村先生の黙認ずみで。
「ただの思い過ごしだと思う?」
「まず、確認しよう。『華氏451度』とは、どんな作品か」
「今さらなんだけどね。これはファイヤーマンの物語」
〈ファイヤーマン〉とは、もちろん普通は、英語の時間に習った通り「消防士」のことだ。
しかし、SF作家のブラッドベリは、これを「焚書士」という意味に使った。消火器ではなく火炎放射器を持ち、本や図書館を焼き払う任務の男を主人公にして、徹底した情報管理のもと、紙の本の存在が許されない未来社会を描いたのである。
タイトルの華氏451度とは、紙の燃え上がる温度のことである。
「あたしはとっさに想像したのよ。何者かは知らないけど、この学校の図書館を、って」
「警告、それとも予告? まさかね。行橋は考えすぎだよ」
「それじゃぁ、他にどんなことが考えられる?」
「そうだな。まずあの紙は、やっぱり小説のタイトルを書いただけのメモなんだと思う」
うん。そういうことだったら、何も気にする必要はない。
「だから、誰かが、読みたい本としてメモに書いたのを、うっかり落としたとか」
果たしてそうだろうか。
「川村先生、図書館に『華氏451度』はありますか?」
「あるわよ。当然」
直接に科学・技術をテーマにしたSFは少なくなったものの、ブラッドベリのような傾向の作品は読みやすいので、今でもファンが多い。高校生あたりだと、熱心な読者も決して少なくはないのだ。高校図書館としては、基本的にこれを置かない手はない、というのが川村先生の方針らしい。
「ここには、その本がある。つまり、今さら図書館に入れてもらう必要もない」
「ということは?」
「入れてほしい本のリクエストとして、書く必要もないし、わざわざメモしておく必要も、そんなにあるとは思えない」
「そうかなぁ? 次に借りようと思って、とりあえずタイトルだけをメモした、とか」
「英語で?」
「そうか」
何もわざわざ、英語で書く必然性は思いつかない。『華氏451度』と書けばすむ。
祐介はそれでも「英語の勉強用に、元々のタイトルをメモしておいた、というのはどうだ」と言って、何でもない可能性を残そうとした。
「まぁ、いいわ」
まどかにしたところで、ただの捨てられたメモにすぎない方がいい。
図書委員長として、また本好きとして、他のどんな生徒よりも、この図書館に愛着がある。思い出の深いなつかしい本が、ひと握りの灰と化してしまう可能性など、絶対に認めたくない。
「他の可能性は、何かある?」
「何かの暗号だというのは、どうだろう」
「また暗号?」
ホームズの〈踊る人形〉もどきの暗号をついこの前解いたばかりだ。今回はたった四文字。
「何もがっかりしなくてもいいよ」
「がっかりしてるわけじゃなくて。これだけじゃ何もわからない」
「そんなことはないよ。たとえばこれは、コードかもしれない」
「コード?」
「文字ひとつずつの暗号じゃなくて、何かの番号かもしれない」
三桁の数字で、まどかがとっさに思いつくものはNDC。日本十進分類だ。
「451、ということは?」
気象学。もしも本に関係があるとしたら、「F」とは、著者名を表す記号ということになる。
「本を探せるかも!」
まどかは準備室を出ようとした。だが、ちょっと待て。それは違うぞ。
ドアノブに一旦手をかけたところで、振り返って川村先生に尋ねる。
「先生、ここの本の著者名はどんな書き方をしてますか?」
「姓名の五十音で並べているわよ。行橋さんなら〈ユ〉」
川村先生は、すっかり冷めたお茶のコップを持ち上げながら言った。
「つまり、カタカナでラベルを貼ってあるんですよね。ABCではなくて」
「そうよ」
「外国の著者でもですか?」祐介が念を押す。
「それはそうよ。クリスティでもクイーンでも〈ク〉」
「洋書でも?」
「さすがにABC順にはしているわよ、でも、ここは別置扱い。NDCと同じ分類はしていないし、そんな必要もない。でも、気象学の本はなかったように思うわ」
それが普通なのかもしれない。おそらく英語学習のための、初歩的な小説や児童文学がほとんどなのだろう。あの記号が特定の本を表しているとしても、それは少なくともここの蔵書ではなさそうだ、ということか。
この線も消えた。となると依然として話が先に進まない。
「さっぱりわからない。ただの思い過ごしなのかなぁ」
まどかは、謎解きをやめてしまいたくなった。あれは単なるメモだ。大多数の人間ならきっとそう思うだろう。
「だってさぁ、学校の本を燃やしてどうするのさ? だいたいこの学校の生徒で、そんな悪質で大それたことを起こそうという人間がいるとは思えないよ」
祐介はそう言うけれど、そりゃあんたが善人なだけでしょ。ん、待てよ。
「ちょっと行ってみる」
まどかはふと、昼休みにカウンターに放置されていた本のことを思い出した。
あるいはそうかもしれない。いや、なぜか確信がある。
準備室を出ると、空いていたはずの館内は、それでも少しは生徒の数が増えていた。塾の始まる時間まで、暖かい部屋で待っていようと、ちゃっかり構えているような態度が見え見えなのもいるが、それでもそれなりにテーブルが埋まっていた。
まどかは迷わず、ほんの3時間ほど前に、祐介がしゃがんでいた書架の谷間にたどり着いた。
やっぱりそうだ。NDC451。
表紙の鮮やかな雲の写真が、まだ目に残っていた。その周囲に自分が戻した何冊かの本もまだそのまま、全部で4冊。そのすべてが同じNDC451。残念だけど、著者名はどれも「F」というイニシャルには無関係。著者が日本人ばかりで、記号はカタカナで書かれていた。
まどかは本を抱えてふたたび準備室に戻った。
「というわけよ。これが無関係だと思う?」
「そうだな。偶然の一致にしては、できすぎているとは思うなぁ」
まどかの目に、川村先生のトレードマークのカチュームが、蛍光灯で一瞬光った。
「先生、どう思います?」
「私? そりゃ本が燃やされるなんてこと、絶対に阻止したい。だけど行橋さんの想像は、やっぱり飛躍がありすぎると思う」
「そうですか……」
「例えばの話だけど、あのメモが、その本に挟んであったものだとしたら? 今、行橋さんが持ってきた本が、昼休みに積んであったわけね。それが全部NDC451だった。同じ分野の本を探すために、メモとして挟んであった、ということは、十分ありそうに思うんだけど」
なるほど。それは穏健な解釈としてありうるだろう。
「しばらく考える時間がほしいよな。それじゃオレはこの辺で……」
「ちょっと待って」
「何だ?」
「シリーズ第六巻『真空館の秘密』を返却すること」
「わかった。返しますってば」
祐介があっさりと本を差し出したので、かえって拍子抜けした。
準備室から祐介が館内に出ていったあと、まどかは川村先生に尋ねてみた。
「話は変わりますけど、第七巻の『機関車探偵EF』ってどこに置いてます?」
「あぁ、あの本だったら、昼休みに登録を済ませておいたから、そこのテーブルの上」
ところが川村先生の指さした先には、何もなかった。
えっ?
ドアの向こうのカウンターから、「ピッ」というバーコード・リーダーの音が聞こえた。
「吉見君、抜け駆けは……こらーっ!」
まどかが急いで館内に入ったときには、もう祐介の姿がスポーツバッグごと消えていた。
しかし悪いことはできない。まもなく廊下から「バーン」という音とともに、「すみませーん」という声が聞こえてきた。
「吉見っ! これで何回目だ」
やっぱり、あの西澤先生の声だった。全然懲りないんだな。あいつは。
しかし、まどかの心配は、果たして杞憂だったと言えるだろうか。
抜け駆けと西澤先生激突事件を別にすれば、何ごともなく終わった放課後だったが、その夜、思いもかけない出来事が発生した。それを二人が知ったのは、翌朝になってからだったのである。
〈3〉
「放火!?」
「うん。そうかもしれないって」
「冗談じゃない!」
ロングシートでつながるガラス窓の外を、架線の柱が次々に現れては後ろに消えていく。
次の朝、あたしはいつものように、電車の中でしぃちゃんと話していた。そういえば、もう日付が変わった真夜中に、夢の中で遠くのサイレンを聞いていたような気がする。あれはやっぱり本物の火事だったのか。
妙にあたしが気にするせいだろう。しぃちゃんが不思議そうに横顔をのぞき込んだ。
「まどか、どうしたのよ?」
彼女には、昨日の図書館のことを何も言ってないのだから、一応は説明しておかなくては。
「実はね……」
まだ低めの太陽が、アンダースローで黄色い光を投げかけていた。
「でも、考えすぎよ」
「そうかなぁ」
駅を降りて、商店街の交差点から、バス通りの舗道に差しかかっても、まだ話は続いていた。
「予告状でもないし、明らかに火事を匂わせるような言葉も何もないわけでしょ? だから、やっぱり偶然よ」
「だといいんだけど」
今日は同じ電車を降りているはずの祐介の姿が見えない。
単に遅れているのか、それとも抜け駆けで借りた本を見つかると、バツが悪いとでも思っているのか。
あれ? 水だ。
目の先の道路が濡れている。昨夜は雨も雪も降っていないのに。
「まどか、夜中の火事って、ここじゃないの?」
バスが二人の横を通り過ぎたのと同時に、静佳が指さした。
その家の前には、黒と黄色のバーをはめた通行止めのコーンが置いてあった。足を止めないで、一瞬のぞいてみたが、家の方は別段何ともなかった。そのかわり、植え込みの木が黒く焦げ、生け垣が台無しになっていた。これでは通りすがりに、バスから家の中が見えてしまうだろう。
「そうだね。どうやら家は燃えなくてすんだみたい」
「小火だから、まだ不幸中の幸いだったのかも」
もちろん生け垣を燃やされたのだから、その家にとっては全然穏やかでは済まない。あるいは建物にまで延焼したかもしれないのだ。
「ここ、姉島5丁目……ってことは、学校も近いよね」
「もうすぐ沼沢のバス停だからね。あれ?」
二人が驚き、あきれたのは、前方のバス停で下りた乗客の中に混じって、祐介の姿があったからだ。たとえ後姿でも「片手運転」で歩きだすのは、やつに決まっている。さては、見つかるのがいやなものだから、ワープしたのか。
まどかは駆けだした。「こらー!」
その声に反応して、祐介が「うわーっ!」と走り出した。
最後の曲がり角で、姿を見失ったものの、校門を入って祐介が諦めたのか、ついに追いついた。
「何考えてんのよ!」
「す、すまない。次は行橋に……」
「あたしが借りられるから、どうのこうの、という問題なんかじゃないっ!」
「ふぇーぃ……」
そのときバサッという音とともに、例の黒い影がまどかの頭上をかすめたが、今回は無事に過ぎていった。危ないところだった。カースケはまだ玄関の庇に止まっていたから油断はできない。しぃちゃんが追いついたとき、頭の上から、今度は人間の声がした。
「行橋ぃ~」
「えっ。何ですかぁ、先輩」
屋上からこの時間に声をかけられるとしたら、観測中の地学部しかない。
想像通り、横井ふたばが手を振っていた。
「そこに鍵が落ちてないかしら?」
「鍵、ですか?」
玄関付近には植え込みもない。コンクリートの階段のほかは、ただ土色の地面が広がっているだけである。鍵が落ちていたら、すぐにわかるだろう。
「ないですよぉ。鍵って、何の鍵ですかぁ?」
「百葉箱のキーなの。赤いキーホルダーがついているはずだけど」
鍵本体だけでも、落ちていたら光るだろう。まして赤いキーホルダーなら、すごく目立つ。
「やっぱりありませーん」
「ごめんね。どうしよう」
「先生に連絡してきまーす」
「まどか、あたしが行ってくるわ」
静佳が急いで職員室に走っていった。鍵がなくなっては、いくら出入りの少ない屋上でも地学部としては困るだろう。
「失礼します」ノックのあと、ドアの近くにいた教頭先生に鍵の件を話した。
「屋上の百葉箱?」教頭先生が不思議そうな顔をした。
「鍵なら、そこに掛かっているよ」
入口のキーボックス、いや、単なる鍵掛け板には、確かに赤いキーホルダーのついた鍵が掛けられていた。
「はぁ?」わけがわからないが、とにかく鍵を借りた。いつもソフトテニス部で鍛えている駿足で、静佳が屋上まで一気に駆け上がると、横井を囲んでまどかと祐介が来ていた。
「鍵を落としたわけじゃないんですね?」
「そう。鍵は出口の横の出っぱりに、いつも置くことにしてあったから」
話が聞こえてきたので、静佳もその場所を見た。
屋上への出口の横の壁には、幅10センチほどのコンクリートの出っぱりがあって、鍵を置くのにちょうどよい場所になっていた。出口はちょうど校舎の幅方向の中央なので、屋上の柵や金網から少し距離がある。
「どう考えても、地面に落ちるとは思えませんよね」
そこへ静佳が鍵を出してきたので、横井はひどく驚いた。
「これよ、これ。一体どこにあったの?」
「職員室なんですけど」
「キーボックス?」
「そうです」
まさか、そんなこと信じられない、という顔で、横井が鍵を取り上げた。
「どうして職員室に……」
祐介が続きを聞こうとした。
「先輩が持ってきたのは、この鍵で間違いないんですか?」
「そう、これよ」
「同じ鍵が二つある、ということはないんですか?」
「それはない。このキーホルダーなんだけど、久米さんが持ってきたものよ。同じキーホルダーが二つあるはずがない。ほら、ここに書いてある〈百葉箱〉という字は、いつも私が見ている久米さんが書いた字だしね」
「久米さん?」
「私のクラスの人。地学部だったけど、今は引退している」
そこまでで一時間目の前の予鈴が聞こえてきた。スピーカが屋上のすぐ下の壁面にあるので、うるさいほどの大音量が響いてきた。
「行橋さん、ありがとう。教室に行かなくちゃ」
全員、屋上から出ようとした。横井がさっきのキーで扉を施錠すると、階段を下りかけた。
「そうだ」歩みを止めて、まどかが言った。
「先輩。できたら昼休みに話の続きができません?」
「いいけど」
「それじゃ、三のBへ行きますから」
まどかたちも自分のフロアへ下りた。
「おい、どうするつもり?」祐介が心配そうに聞いてきた。
「鍵がどうして消え失せて、また出現したのか、気にならない?」
静佳が後に続いた。
「だからと言って、そこまで首を突っ込まなくてもいいでしょ? 地学部でもないのに」
うん。
「だけど、横井さんは、図書委員としてがんばってくれたんだもの」
「そうなの?……あんたがそう言うんなら、しかたないわね」
まどかが仲間意識にこだわるのも無理はないだろう。だけど何だか、また探偵の虫を起こしてしまったのではないだろうか。三月初旬の「啓蟄」には、まだ時期が早いのだが。
昼休み。まどかが横井を訪ねて行くと、彼女は今から図書館に行くから、と言ったので、まどかも一階まで下りることにした。三年のフロアや教室では、何かと話しにくいし、そのほうが都合がいい。
「鍵は先輩が置いたわけではないんですか」
「うん。毎朝の観測は少なくとも二人以上でやっているから。今朝はD組の松下さんと組んで屋上に登った」
準備室のストーブが、ガスの通る音を風のように鳴らしている。
オレンジ色が、室内に落ち着いた時間を作りだしていた。
「屋上のキーを借りて、教室に行ってカバンを置いてから、屋上の扉を開けに行った。それから観測を始めたの。松下さんが早めに教室に戻りたいと言ったので、百葉箱の鍵を置いてもらって、私がひとりで観測していた」
「出口の横の出っぱりなんですね」
「そう、そこにいつも置いてもらってる。鍵を置く音もしたし、赤いキーホルダーも見えていたし、キーもね。私はちょっと近眼だけど、離れていても、色と光でわかるから」
実物を見たけれど、あれなら目立つだろう。地面に落ちてもすぐにわかる。
「それが、なくなったというんですね」
「そう」
「何か物音がしましたか」
「何も。風の音もしなかった。朝は風が弱いのよ。風力もせいぜい一か二」
「いえ、あたしは金属の音がしなかったかと。つまりキーが落ちるような」
「それこそ、すぐに気がつくわよ。そんな音はしなかった」
不思議だ。
「では、ちょっと考えを変えます。松下さんがキーを持っていったとは考えられませんか」
「えーと。彼女はキーを置いて、屋上の扉を閉めて出ていった。私が出っぱりのキーを見たのはそれからよ」
「扉を閉めてから、戻ってきてキーを持っていったとか」
「それも無理。扉を開け閉めしたら、結構大きな音がするよ。だけど何も聞こえなかった」
ふーむ。ますます謎だ。
「とにかく、鍵が歩いて職員室に戻るはずもないし、何だか化かされたみたいで」
「不思議ですね」
「行橋は、この謎が解ける?」
「えっ、まぁ。少し考えさせてください。……ところで、先輩はどうして今ごろまで部活をしているんですか?」
「研究よ。言ってみれば宿題みたいなものね。地学部では、学校周辺の気象について長い間研究を続けているんだけど、学校の屋上もその観測地点なのよ。三年生は原則として部活は引退するんだけど、地学部って部員が少ないでしょ。二年生だけではとても研究が進まないから、私もやっているってわけ」
「そうなんですか」
「と、言うより進路の問題でもあるけど。実は大学の理学部に進むことが決まったので、もう遠慮なく部活を再開したってわけ。専攻するんなら絶対、気象学にしたいと思っているの。だから……」
「先輩、おめでとうございます!」
まどかは思わず横井を祝いたい気分になった。
ピッ。
何よ今の! さてはまた。
まどかは準備室のドアに駆け寄った。
「吉見君!」
ところが祐介は逃げなかった。本はいつも書架で見かけるもので、抜け駆けには当たらない。
「なーんだ。驚かさないでくれる」
「行橋、ちょっといいか?」
祐介は指の合図で、図書館を出ようとまどかを促していた。
廊下には偶然誰もいなかった。昼の放送がそろそろ終わろうとしていた。
「話は聞いた」
やっぱりそうか。立ち聞きしていたな。
「あの先輩、名前は何て言うんだ?」
「横井さんが、どうかしたの?」
「下の方の名前は?」
「ふーちゃんって、呼んでって言ってたから……思い出した。ふたば。横井ふたば」
「何だって?」
祐介の目が真剣になった。
「吉見君、どうしたって言うの?」
「オレたちのまわりで、これから何かすごいことが起こるんじゃないだろうか?」
「一体何なのよ。教えてよ!」
そして、二日後の夜、それは起こった。
〈4〉
まどかは眠っていた。
時計のアラームをセットして、明かりを消してからまもなく、自分を見失った。
妙な影像が数え切れないほど自動的に湧いてきて、なのになぜか違和感を感じることもなく、出てくるままに任せて、とうとう世界に包みこまれた。それと同時に、そこを歩いている自分がいた。
いや? かすかに何かが聞こえる。あれは何?
あたしはそれを知っている。なのにあたしの今いるところは……
そこで世界が、シャボン玉がはじけるように消え失せた。
時計を見る。あれからほとんど時間は経っていない。まだかろうじて今日だった。
あの音。サイレン!
だんだんそれは近づいてきた。そして家の前の道を通って、そして通り過ぎて、まさかと思ったけど止まった。
えっ。それって近くだよ。ということは。
起きた。窓を開けた。信じられない人の姿がまどかの目を釘付けにした。
「先輩!」
とっさに二階から叫んだ。
二日前。
放課後の図書館に、祐介は現れなかった。
まどかは図書館のカウンターに出て、一年の図書委員とミステリの話をしたり、川村先生に、こっそり読みたい本のリクエストを試みたりして、祐介を待っていた。
約束をしたわけではなかったが、昼休みに思わせぶりな発言をしておきながら、なぜ来なかったのだろう。それがなくっても目新しい本を見つけるために、現れてもいいはずだった。ここしばらくの一連の出来事、いや出来事とさえ言えないような、妙に何かを暗示していそうな符合について、何かの説明をしてくれても良さそうに思ったのだ。
あたしの勝手な希望的観測だったのか?
とうとう閉館時刻の五時まで、あと10分に迫った。
特にすることがなかったので、バインダーに綴じられた新聞をめくってみた。
目的は最後から二ページ目。広告のすぐ上の欄に小さく書かれていた。
〈あいつぐ不審火 放火か?〉
朝にしぃちゃんと通った、通学路に面したあの家の記事が載っていた。
火事といえば、いやでも思い出すのが、あの紙片。451F。
想像はしたくないが、あれが図書館への放火の予告でないと、確実に言い切れるだろうか?
わからない。わからない。手がかりが何もない。
川村先生が、まるで取り憑かれているような顔色を見て、心配して声をかけてくれたが、結局は、そのまま帰るしかなかった。
次の朝も進展はゼロだった。
せっかく同じ電車に乗っているというのに、祐介はあいかわらず何も教えてくれない。全然話にならないので、自然にしぃちゃんとだけ話す日になった。
静かと言えば静かだ。西澤先生にぶつかることもない。
本当の平穏そのものなのかもしれないが、嵐の前の何とかのように、妙に落ち着かない。
放課後まで、とうとう何もなかった。
今日は当番では全然ないのだけれど、とりあえず図書館に行ってみた。
やっぱり祐介は来ていなかった。まどかにとっては、ほとんど日課だから、カウンターにいることも、別に草臥れるわけではなかったが、肩すかしを食った感は否めなかった。
こんなとき、本物の探偵ならどうするんだろう?
現場へ行ってみる。それが基本なんだろうと思う。
まどかは、屋上への扉がある四階の廊下へ行ってみた。昼間は決して点灯されることがない、長い直管の蛍光灯が頭の上を続いている。生徒会室の横から塔の階段を上り始めた頃はまだ明るかったが、こんな季節のことだ、すぐに日没になって、あわてることになるかもしれない。
三年生がほとんど帰ってしまったので、四階は静けさのヴェールで覆われていた。たいていの校舎の廊下がそうであるように、大きなガラス窓がどこまでも続くかのように並んでいる。見ていくうちに、消失点という言葉も浮かんできた。まるで列車の歩廊のようにさえ見えるのは、高校生活そのものがひとつの旅でもあるからだろう。ひどく陳腐な比喩でしかないのに、妙に納得してしまった。
では!
その窓は、どこから始まっているか。
階段の左横はトイレ。そしてその正面に手洗い場がある。その前にも当然窓はある。そして三のA、三のB、三のC……の教室が続いている。そして右側、校舎の端の特別教室の手前にも窓。
屋上への出口は、きっとあたしのいる、この真上あたりなのだろう。
そのとき、窓の外に何かが動いた。
視野の周縁なので、それが何なのかわからなかった。何のことはない。非常に見えにくいが、小さなクモが一匹いたのだ。
そうか!
まどかの中ですべてがつながった。そうなんだ。そういうことだったんだ。
「ガー」
校舎の外をカースケが、斜面を滑っていくように、バス停に向かって飛んでいた。
「ここが開いてくれさえすれば……」
屋上へ出れば謎は解決する。なのに鍵がかかっている
よく、アニメや小説で、何かと言えば高校生が校舎の屋上で感傷にふけった話をしたり、緊迫したアクション・シーンまで展開したりするが、あれこそフィクションだ。本物の学校という所は、安全確保のために、生徒をめったなことで屋上に行かせたりしない。
地学部が屋上に行くのは、あくまでも部活動の気象研究が目的だから、部員以外の生徒をいっしょに屋上に連れていくようなことはしない。それを条件として活動しているのだと、図書委員だったときに、横井が直接聞かせてくれた。
だからまどかも、屋上の詳しい様子は知らない。他の生徒も似たようなものだろう。
あの朝、百葉箱のキーを届けたときに、屋上をもっとよく見ておけばよかった。
ギィ……
「わっ!」まどかはびっくりして、ドアから飛び退いた。
急に開けられた扉の向こうから、ふたばが顔を出して、まどかを不思議そうに見た。
「あれ? 行橋だったの? ごめん、驚かせちゃったかな」
「いえ、いいんです……先輩は、そのぉ、終わったんですか?」
「うん終わったよ。この前みたいに、屋上に来てもらうわけにはいかないんだけどね」
「いいんです。あのぅ、それより」
「何?」
「話があります。鍵のことで」
「……ここじゃ寒いよね。落ち着ける場所へ行こうか?」
ふたばが指定したのは、図書館の準備室。要するに川村先生の仕事場だ。
「行橋も物好きなのね。鍵が消えてしまったことぐらい、あたしには何でもないんだけど」
「えぇ、それでもいいんです。あたしが気になるだけですから」
「それで、何を聞きたいの?」
川村先生自身は、仕事をしながら聞き耳を立てているという構図になっていた。
室内にはジャスミンティーの香りが、浅い春の空気を彩っている。
「まず、気になることがひとつあるんです」
まどかは、ふたばに尋ねる。
「松下さんは早く教室に戻るために、先輩よりも先に屋上を後にしました。しかしそれならば、鍵はどうしたのか。
地学部は顧問の先生との約束で、屋上に行くときは、他の生徒がいっしょに屋上に上がらないように、扉を施錠しなければならないことになっていましたよね? ということは、百葉箱のキーの消えた朝、松下さんはすでにかかっている屋上の扉を開けないと、校舎に戻れないんです。だから屋上のキーを持って行かなければならない。だけど、それだと今度は屋上に残された横井さんが下りられなくなってしまう。
当然、横井さんは、松下さんが下りるときに、キーを置いていってもらう必要があるんです。松下さんが下りた後、再び鍵をかけておくため、そして自分が下りるために必要だから」
ふたばは黙ってうなずいて、まどかの話をじっくり聞いていた。
「ところが、百葉箱のキーが紛失したのは、松下さんが下りてしまった後です。だからまだグラウンドにいた、あたしたちに声をかけたんですよね。ところがそうすると、百葉箱のキーは当然ドアのそばにあるんだから、横井さんもそれを見ていたはず。その後は屋上には横井さんしかいない。だからキーを持ち出したり、動かしたりすることが、誰にもできないはずなんです」
「うーん。確かにそうね」
ふたばが感心したように答える。
「ところが、実際にはキーが消えてなくなり、なぜか職員室に出現した。これは何かが間違っているんじゃないかって、あたしはそう思ったんです。横井さんが、キーがなくなっていることに気がつくのが後になった、ということは、横井さんは扉に近づかなかった、ということになります。なぜそうなったのか。うっかりしているのでなければ、可能性は二つあります」
「そ、そうなの?」
「ひとつは屋上のキーが二つあったという場合です。松下さんと横井さんがそれぞれ持っていたら、何の不自由もないんです。でも二つとも持っていく必要はないし、不自然ですよね」
「それは……そうかもしれない」
「もうひとつは、別にキーがなくても不自由はしない、という場合です。つまり屋上から校舎の中に入ることは、自由にできるんじゃないかと」
ふたばの目がちょっとだけ大きく見開いた。
「へぇ、すごいじゃないの。その推理」
「こう考える方が自然なんです。これなら松下さんは鍵を開けて、そのまま行ってしまえばいい。その後はキーを持った横井さんに任せておける。もっとも、すぐに施錠しておくという約束にはなっていますが、別に誰も上がってくる様子がないのなら、ちょっとの時間差は許されるのではないか、ほんの少しの時間なら余裕だとも思えます。観測が終わってからでも遅くはないと、そう思ったのかも」
「その通り。行橋は屋上に行かないで、そこまで考えついたわけ?」
「そうです」
「行橋って、すごいなぁ。理系向きかも」
「いぇ、そんな」
「屋上の鍵は、校舎からはキーがないと開けられない。だけど屋上からだと、ひねれば開けられる。ちょっと珍しいでしょうね」
「そう思います」
「その理由は何となくわかるように思うのよ。つまり過去に誰かが屋上に取り残されるような出来事が起こったから、結局戸締まりを今の方法に換えたんだと思う。つまりね。普通に考えれば、屋上から開けられるのなら不用心でしょ? しかし屋上に取り残されるケースを考えたら、めったなことで発生しない不法侵入よりは、普段のトラブルを避けたのだと思うのよ」
まどかはそこまでは考えていなかったが。
「けど、その時間差が、どんなふうに影響するのかしら。わかんないよねぇ」
「えぇ、もうちょっとで、考えがまとまりそうなんですけど」
「たとえば?」
「昨日は、どんなふうに観測を始めたんですか?」
「どんなって。まず早い目に教室に行ってカバンを置いて、屋上のキーと百葉箱のキーを、職員室のキーボックスから持って行って……」
「そのときも、地学部のみんなと一緒でしたか?」
「ううん。あたしだけ。松下さんは先に隣の教室から来てた」
「一緒には登校していないんですか?」
「彼女とは方面が別だから。松下さんはバス通学だからね。沼沢のバス停から来るのよ」
「その後は?」
「松下さんが先に屋上に行って、あたしはあとから。もちろん鍵は開けたままにしてもらって。そのあとは前にも話した通り。松下さんは先に教室に行くと言って、百葉箱のキーをでっぱりに置いて、下りていった。キーも見えたし、キーを置く音もした」
「そのあとは?」
「もう一度あたしが百葉箱を確かめて、風速の記録も取って、それから戻ろうとしたらキーが消えていたってわけ」
ピッ。
まただ。何の音だろうと、か考えるまでもない。
まどかは準備室のドアを開けて、こっそり貸出手続きをしている祐介を発見した。
「こら!」
「うひゃ。見つかったか」祐介の手にはしっかりと、バーコードリーダーが握られていた。
「また立ち聞きしてたんだね」
「うん……行橋、ちょっと来てくれないか?」
「またなの? あたしは先輩と話があるのに」
「その横井さんには聞かれたくないんだ。だから」
だから、わざとバーコードリーダーを使ったと言うのか。
「で?」まどかもひそひそ声になった。
「この前の火事だけど……先輩が怪しくないか?」
「どういう根拠で! そんな理屈になるのよ」
「行橋はあのメモを覚えているだろ? オレは勘違いをしていた。あれはブラッドベリの小説なんかじゃないんだ」
「?」
「気がつかないか?〈451F〉とは、〈451Fたば〉という意味じゃないのか、って?」
そんな……
〈5〉
消防車は、各方面から何台もやってきた。
物騒なことだが、まどかの部屋のほとんど正面に、夜目にも鮮やかな赤色に染まって、点滅する光の中に止まっている。
道をこちらにやってきたのは、パジャマに一枚羽織っただけの横井だった。
「先輩!」
「あ、行橋。あんたの家ってここだったの?」
点滅する赤い視野の中で、彼女もまどかのいる窓に気がついたようだ。
「大丈夫ですかぁ!」
「あたしん家は大丈夫。でもお向かいの家が……」
それではさっきのサイレンは、先輩の向かいの家だったのか。へたをすると延焼だってありうる近さだ。街灯の下からまどかと対面しているふたばの背後、消防車の横を、近所の人が、まだ現場の方へ歩いていく。
まどかは、一階に降りて表のドアを開け、ふたばを玄関に呼び寄せた。
「お向かいって、今どうなっているんですか?」
「何とか玄関を焼いただけで済んだみたい。早めに消火できてよかったわ」
「怖いですね。早く犯人が捕まらないと、いつ自分の家が狙われるかって」
「あたしもそう思う」
ふたばの瞳は、本気で怖がっていると、まどかには見えた。
夕方の、図書館での祐介の言葉が甦ってくる。信じられないとは思うけど、もしも祐介の想像が当たっているとしたら、あたしは今、その犯人と対峙していることになるのだ。
そんなことがあるだろうか。この先輩が。
とまどいの中で、まどかはもう一度ふたばの目を見た。そして確信した。この人は犯人じゃない。だけど、それをどうやったら証明できるだろう。せめて祐介にだけでも、納得して信じてもらえるような事実、そして論理はないのだろうか。
火事の騒ぎが収まって、ようやくふたばも帰っていったが、その後ベッドに戻っても、まどかはどうしても眠れなかった。考えるんだ。考えるしかないじゃないの!
「それで、授業中に居眠りを?」
「はぃ……」
一夜明けた昼休み、まどかはふたばと図書準備室で顔を合わせていた。
数学の時間に、西澤先生に指名されて、いきなり夢の世界から引き戻されたものの、返答の焦点がズレまくっていて、必死でフォローすればするほど、笑いを拡大するばかりだったのである。
「行橋、もういいの。キーが消えてしまったのも、本当にささいな問題なんだから」
「でも、それって、理系を選んだ先輩らしくないです」
「え?」
「質量保存の法則」
まどかの口から出るとは思わなかった言葉に、ふたばは一瞬考えた。
「あぁなるほど。そうよね。ラボアジェに申し訳ないもんね」
「先輩、もう一度チャンスをください」
「チャンス?」
「あたしに考えがあるんです。実験する必要があるので、屋上へ行く許可がほしいんです」
「どんな実験を?」
「本当はここで話すだけでも済んでしまうことなのかもしれません。でも実際に屋上に行って試してみたいんです」
一瞬、準備室に沈黙の時間が支配した。
「他ならぬ行橋がそう言うのなら、頼んでみるわ」
「本当ですか?」
「たったの半年だったけど、一緒に図書委員をしたんだもの。あたしが伊根先生に聞いてくる。断りはしないと思う」
もちろん伊根とは地学部の顧問で、B高に長く勤めているベテラン教師でもある。生徒からは理科教室の鵺、もとい、主と呼ばれている。
ふたばが出ていって数分後。
「何か、おもしろい実験をしてくれると聞いたものでね」
白衣で現れた伊根先生は、さながらコミックから抜け出したマッドサイエンティストのようだ。
「キーを貸すついでに、実験とやらを見せてもらおうかな」
「ありがとうございます。ついでにと言っては何ですが、お借りしたいものがあります」
「何だね?」
まどかは必要な物品をメモに書いて見せた。伊根先生の顔色がちょっと難しくなった。
「いいけど、少し高くつくな」
「あとで必ずお返ししますから」
「よかろう。用意しておこう」
「横井先輩にもお願いがあります」
「何?」
「屋上でやっている気象観測の記録を見せてもらえませんか?」
そして放課後になった。
帰宅部の生徒がバタバタと、いっせいに階段を下り始めていた。まどかは、横井を呼びに、四階の教室に行こうとした。
「あれ? 図書館に行かないのか?」祐介が言った。
「うん、今日は屋上」
「何?」
「ちょっとした実験をするためよ」
「実験って、何の?」
「探偵としては、キーが消えたという謎を解きたいわけ。横井さんも呼んである」
「ええっ、どうして。危険だ!」
「どうしてって、こっちが言いたいわよ。高いところが危険なわけ?」
「そうじゃない。先輩のことだ」
「横井さんなら心配しなくていいわ。祐介が考えているような人じゃない。やっぱりキーが消えてしまった理由の説明が必要だと思うのよ」
「えっ、そんなのすごく簡単だよ。なぜオレに聞かなかったんだ」
「吉見君が言わなかったんじゃないの!」
そんなわけで、四階の踊り場まで、祐介がいっしょについて来た。
「だけど実験の必要なんかないよ。犯人はわかっている」
「何ですって?」
「カースケに決まっているだろ。カラスは光るものが大好きなんだ。キーをくわえて持っていったんだよ」
その言葉への返答は、ふたばの声で返ってきた。
「それはありえないわ」
「先輩!」二人の前には、横井ふたばが立っていた。
「どうしてです? ありえないって、なぜ横井さんは断言できるんですか?」
食い下がる祐介に、ふたばが言った。
「カーコがそんなことをするはずがないからよ」
「カーコ?」
まどかと祐介が同時に叫んだ。
「あの……カーコって?」
「知ってるでしょ? いつも学校に来ているカラス」
えーっ?
「あなたたち、知らなかったでしょ? 学校に来ているのは巣を作っていたから。カーコは屋上の給水塔でヒナを育てていたのよ」
驚いた。だけど勘違いしていたのはこちらの方なのだ。
確かにパッと見ただけで、カラスの性別なんてわからないが、勝手に「カースケ」なんてオスの名前にしてしまったのは、明らかなミスだ。静佳が言った名前のイメージが先行して、メスだということにまるで思い至らなかった。
「いや、でも先輩。どうしてそれがカー、コが犯人でない証拠になるんですか?」
「あたしはいつも屋上で観測をしていたので、時々はカーコに食べ物をあげていたの。すっかりよく慣れてくれたから、たとえ悪戯でも、あたしのものを取っていったことなんて、一度もなかった。百葉箱のキーはいつも屋上に置いていたけど、もちろん無事だった」
そうだったのか。
「これも、おつまみ焼豚の効果ってわけ」
そんないい物を野鳥のカラスにあげていたのか。うらやましい。
「でも、先輩はあの日、カーコをじっと見ていたわけではないんでしょう?」
祐介がそれでも念を押す。しかし。
「吉見君。カーコの習性がどうのこうのじゃなくて、やばりカーコは犯人じゃないのよ。あたしたちが登校してきたときのことを覚えている?」
まどかが尋ねたものの、祐介は目が泳いでいた。よく覚えていないらしい。
「あの朝は……オレの頭の上に落とされた!」
「そうじゃなくて。キーが消えたのは、その次の日」
あっ。祐介も気がついた。
「そうだよね? 頭の上に事件の次の日も、カースケ、じゃなかったカーコはあたしたちの頭上を飛んで行ったけど、そのあとは、ずっと玄関の庇の上にいたじゃない。そしてすぐに横井さんが屋上からあたしたちを呼んだのよ。だからタイミングとして、カーコが屋上でキーをくわえていく時間はない」
「そうか、疑ってすまない」
「謝るなら、カーコに謝るべきよ。じゃ、屋上へ行きましょう」
ふたばが鍵を開け、三人が屋上に出ると、そこには校内にもかかわらず非日常的な風景が広がっている。めったに見ることがないからだ。早春の夕方が近いとはいえ、よく晴れているので、少しばかり寒くても、この見晴らしには、なんだか救われるような思いがする。
しばらく待っていると、足音が聞こえてきた。まどかは、伊根先生から紙袋を受け取った。
「これでいいのかね?」
「ありがとうございます。さすがは理科ですね。先生」
「そりゃ、こんなもの他の教科では使わないよ」
「じゃ、用意をします」
伊根先生に続いて川村先生が屋上に上ってきた。
「わぁ、B高の屋上って眺めがいいのねぇ」
「川村先生、知らなかったんですか?」
「伊根先生。これは一階からはわからない、想像もできない風景なんですよ」
川村先生がカチュームを直しながら、うれしそうに言った。
まどかが宣言した。
「それでは実験を始めます」
屋上はその高さに似合わず、ほんの微風しか吹いていない。日当たり抜群だが、それでもちょっとした緊迫感はある。
「これは想像です。本当は違うかもしれない。だけど百葉箱のキーが消え失せた謎は、これで説明がつくと思います」
まどかは、ポケットから取りだした細くて透明な糸を、テープで屋上出口の近くに貼り付け、そこから糸を伸ばしてフェンスまで行った。そしてフェンスの向こう側に糸をまとめて投げた。
「こうすると、糸の先は校舎の四階の窓に届きます。だから、校舎から糸を操作することができるわけです」
「ちょっと待った!」祐介が叫んだ。
「オレにもわかった。だけどそれは不可能だ」
「どうして?」
「行橋が言いたいのは、キーが糸に結びつけられていて、校舎から誰かか引っぱっていった。だから屋上からキーが消えたのだと、そう言いたいんだろう? でもそれは現実にはできない。フェンスのところが支点になっているから、キーが引っかかる。だからいくら引いても、キーを下に落として持ってくることができない。それに、もうひとつ理由がある」
「もうひとつ?」
「行橋のような方法なら、キーを落としたり引きずったりする音がする。金属のキーにキーホルダーまでがついているんだ。どうやっても横井さんが気づくはずだ。だから不可能だよ」
まどかは一瞬沈黙した。だが。
「実験を続けます」
「横井さんは、扉の近くの出っぱりにキーを置く音を聞き、しかも自分の目で遠くからとはいえ確かめています。でもそれがダミーだとしたら?」
「何だって?」
「横井さんが聞いたのは本物のキーの音でした。でも見たのはニセ物のキーだった」
「?」
「いいですか。やってみます。先輩、百葉箱のキーを貸してください」
キーを受け取ったまどかは、さっき出てきた屋上の扉に向かった。
「このコンクリートの出っぱりにキーを置きます」
カチャリという音がした。
「ここで、横井さんが観測をします。すると一瞬目が離れます。そこで、キーの代わりにこれを置くんです」
まどかが置いたのは、キーとキーホルダー、のように見えて、折り紙で作った赤い箱と、キーの形にアルミホイルを切ったものだった。
「これがニセ物です。遠目には本物に見えますよね? 赤い色が印象的ですから。これを糸にテープで貼り付けます」
まどかがテープを貼り付けるのに、ほんの数秒しかかからなかった。
「で、あたしは四階に行きます。何が起こるか、見ていてください」
まどかは本物のキーを持って、ドアを閉めて下りていった。
そして、ほんの少しの時間が流れた。
「あっ!」
「あっ、ああ」
校舎の下から現れたのは、水色の風船だった。
音もなく、ふわりと現れた風船の下には、糸が結んであった。そして風船は糸を長く垂らしたまま数メートル上昇すると、端に貼り付けてあった赤い折り紙を、音もなく空中に持ち上げた。そしてそのまま上空を漂いながら、校舎の裏の方向へ流れていった。
一同がその行方を見ているとき、まどかが屋上に帰ってきた。
「じっと見ていたらわかったでしょう。だけど音がしないので、観測中の横井さんは気がつかなかった。空を見ても気がつきにくいように、水色の風船を使ったんだと想像したんです」
祐介が振り返って、まどかを見た。まどかは言葉を続けた。
「上に持ち上がるのだから、フェンスを無理に乗り越えさせる必要もない。自然に上空に消えるんです。屋上の観測記録を見て、風船が町の方へは流されないこともわかりました」
「ダミーを置いたのは、本物のキーとすりかえるため? 職員室に先に返してしまうためか!」
「それと、もうひとつ」まどかは逆襲した。
「本物のキーとキーホルダーでは、ヘリウム風船程度では持ち上げられないかもしれないから」
「それじゃ、それをやったのは……」
「松下さんだった、と思います」
「わかるような気がする」
ふたばがつぶやいた。
「松下さんは、あたしと一緒に部活をやっていて、同じように理学部を目指したんだけど、残念ながら、まだ進路が決まらないでいるの。先に決まったあたしに、ちょっと悪戯を仕掛けて、一泡吹かせたかったのかもしれないわね」
「目の前でキーが飛んでいく様子を見せるだけでもよかったんでしょう。たまたま横井さんが目を離していたから、不思議が生まれたんです」
まどかは、扉のそばの出っぱりに、今度は本物のキーを置いて、ふたばに話しかけた。
「おぃ、行橋。火事のことはどうなる?」
祐介がどうしてもそれだけは解決しなければ、という真剣さでまどかに耳打ちした。
来るべきものが来たか。まどかは覚悟を決めて話し出した。
「先輩には、すごく申し訳なくて、失礼なことをしてしまいました。これはおわびしたいと思っています。でもあたしたちにも、それなりの理由はあったし、むしろ先輩の無実を証明しなければならない、と思って今までやってきました。それはわかってください」
ふたばは、黙って聞いていた。
「まず、あたしたちが横井さんを火事と結びつけた理由は、図書館に落ちていたメモでした。ブラッドベリのSFのタイトルと同じだったために、燃える本を連想してしまい、そして偶然に火事が発生したために、火事と先輩という離れていたふたつの点を、まちがった線で結んでしまいました」
「行橋、それって有名なミステリのパクリだよ。ウッ!」
祐介はヒジテツを食った。
「こう考えました。もし横井さんがわざとメモを落としたのだとします。すると、図書館にいるあたしや吉見君に拾われて、焚書と結びつけられることを意図していたことになります。でも、その後に起こった校外の火事は冗談では済みません。わざわざ放火犯として疑われるようなことをするとは思えない。危険なうえに、未然に通告されるかもしれない」
「……」
「わざとでなければ、どんなことが考えられるか? メモを書いたのが横井さんである場合、それは自分の署名というか符号にすぎないことになり、あたしたちと同じ立場でしかなく、先輩だけを疑う理由はなくなります。メモを書いたのが横井さんでなければ、メモを拾ったのが5丁目の火事以前なのですから、先輩は無関係ということです。ただ、誰かが火事を先輩のしわざとして、あたしたちに疑わせようとしたという可能性は残ります」
「つまり、あたしが放火犯かもしれないっていうのは、行橋と吉見君だけが考えていたことで、他の誰も、そんなことは思っていなかった、ということでいいわけね」
「そうです。すみませんでした」
祐介の早合点が、判断を誤らせたということになる。
「もういいのよ。そんなふうになるとは思っていなかったから。……〈451F〉はね、自分の名前がブラッドベリの作品名とゴロが合うと気づいたこともあるけど、図書館で気象の本と巡り会ったことが大きいわ。だって気象学はNDC451だから」
まどかと祐介が同時に顔を合わせた。
「自分が志した分野が、偶然、自分の名前と一致するなんて、とても考えられないでしょ? それに気がついたとき、これがあたしの進路なんだって思ったのよ。あたしが地学部に最後まで残った理由も、ひとつはそれ」
そのとき。
バサッという音がした。ガァ。
「あっ!」
「カーコ!」
出っぱりに置いてあった、本物の百葉箱のキーを、カーコがくわえて持っていった。
「しまった」ふたばの物なら持っていかないが、置いたのはまどかだ。光ったキーをかっさらってしまった。
「給水塔へ飛んで行くぞ!」
みんなが駆け寄った。だがカーコは給水塔に止まって、キーをくわえたままだった。
「お願い。カーコ、キーを返して!」
ふたばが叫んだが、カーコは知らん顔をしていた。
「どうしよう……」
「あたしが行く!」
ふたばは給水塔のハシゴを登った。震えていた。高所恐怖症らしい。
「お願い、カーコ!」
もう一段、とふたばが手を伸ばしたとき。カーコは飛び立って、滑空していった。
「ええっ?」
ガァ。カーコが鳴いた。とたんにキーはくちばしから離れた。
「ああっ」「プールだ!」
キーがプールに落ちていった。ど、どうしよう。まどかは寒空の下、プールに入ってキーを拾う自分を想像してぞっとした。みんながフェンスの金網越しに行方を追っていた。
「大丈夫よ!」
ふたばが駆け寄ってきた。
「久米さんがつけてくれたキーホルダーはね。船舶用なの」
「船舶用?」
「フロートになっていて水に浮くのよ。海に落ちても拾えるように」
その夜、夕刊を読んでいたまどかは、全身の力が抜けていくほどの安心感に包まれた。
男性の大人が放火犯人として逮捕されたというニュースが、決して小さくはない大きさの記事として、目に飛び込んできたのである。
そして。
満場の拍手に送られて、卒業生が退場していった。
祐介とまどかは、それぞれ思い出のある先輩たちに、最後のあいさつをするために校門で待っていた。時間が押して、半分以上の卒業生がすでに校門から帰って行っただろう。そのとき。
「横井さん!」
「あ、待っていてくれたの」
片手で持てないほどの花束を抱えて、横井ふたばが、まどかに手を振ってくれた。
「いよいよお別れね。行橋には最後の最後に世話になったし、ありがとう」
「世話だなんて、とんでもないです」
「いつもの吉見君は?」
「もうすぐ現れると思います。先に部活の先輩にあいさつする、って」
「そうなんだ」
「先輩よかったですね。大学生って、あたしにはまだ想像もつかないんですけど」
「あたしも一緒よ。まだまだ今からの話だもんね」
「安心したんです。昨日の新聞で……本当に先輩は事件に無関係なんだってわかって」
「……」
「放火なんて、大それたことを横井さんがするはずないって、あたし確信してました」
「……行橋」
ためらいがちに、ふたばが口を開いた。
「もしもの話、なんだけどさ、図書館に落ちていたメモが、わざと落としてあったのだったとしたら、どうする?」
「?」
「まだ高二ではわからないでしょうね。受験生の気持ちって。高三になったらプレッシャーってものすごいの。地学部だって、みんな引退するのに、あたしが研究を続けるために、松下さんまで巻き込んでしまって……きっと不満があったはずだと思う。彼女の気持ちに気がついてしまったころ、苦しくなって本を燃やしたくなる気持ちになったことが、なかったとは言わない」
「先輩……」
「だから、あなたに疑ってほしくて落としたのかもしれない。ううん、本当のところはあたしにもわからない。これは永遠の謎かもしれない。だけど、きっと行橋にもわかるときが来ると思う。来年はあなたもがんばってね!」
横井ふたばは、それだけを言い残して校門を去って行った。
祐介が駆けつけてきた。
「遅かったか……」
「横井先輩、謎を残して卒業しちゃったね」
「この謎を解くのには、あと一年はかかりそうだなぁ」
二人の前には、高校三年生という、楽しそうな苦しそうな、でもきっとあわただしいはずの未来が待っている。校門の上には、みんなを見守るようにカーコが止まっていた。
「しかたがない。謎を解こうか」
(FIN)
アヲゾラ探偵局の四季 @hectopascal
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