第5話 なぜ伊庭ん家に頼まなかったのか?
〈1〉
いくら朝が苦手でも、アラームセットした時刻は、何の容赦もなくやってくる。
冬の夜明けは遅いんだから、少しくらい待っていてくれても良くない? 全国の高校生と同じように、行橋まどかもそう思うのだが、学校の始業時間というものはどうしようもない。
トーストとミルクだけの朝食を、何とか胃袋に流し込んで家を飛び出した。だが、電車で座れなかったのは、痛恨の一撃にも等しかった。
駅の階段を下りて交差点の舗道に出ると、もう青信号が点滅している。
「よし可能だ!」
点滅の回数と残り秒数を把握した。そして考えるより先に、脊髄で強引に駆け抜けていた。商店街のアーケードを抜けて、いつもの道を曲がると、はるか前に松崎静佳の後姿が見えた。
まちがいない。あのツインテールを忘れるものか。幼稚園のときから、ずっと脳裏に灼きついている後頭部。すべての特徴が彼女に合致する。こういう場合、まどかの目は生体認識キーなんかよりも、数倍は確かなのだ。
「しぃちゃん、お早よ!」
まどかが、幼なじみの背中を調子よくタッチしたのは、ちょうど校舎に入って一分後。
通称「塔の階段」を半分登りかけたときだ。
「あーお早よ、ずいぶんと元気いいのね。今日もチャイムぎりぎりじゃない?」
「しかたないのよ、今朝もちょっとしたトラブルがありまして」
「……ってことは、また例の話?」
そこまで二人の会話が進んだところで、日本中の学校でおなじみの、あのウェストミンスターの鐘(と同じメロディ)が、校内いっぱいに鳴り響いた。あれはいくら聞き飽きても、有無を言わさない説得力がある。
階段下から、生徒会室の扉がバタンと閉められた音がしたかと思うと、生徒会長の神郷が「よぉ!」と二人に呼びかけ、あわてて追い抜いて四階へ上がっていった。
ここが「塔の階段」と呼ばれているのは、この階段部分が時計塔になっているからだ。時計塔などと言うと、さぞかし立派で、年季の入った風格のある校舎のように聞こえるが、全くそうではなくて、完全な名前負けをしている。
単純な、カステラそっくりな形のコンクリート。かつては時計の設備もあったらしいが、とっくの昔に取り壊されて、代わりに外壁の、校門に向いた側の四階に、雨ざらしの電気時計が掛けられている。教室の時計を二周りほど大型にしただけの、何の飾り気もない時計だ。鐘もここからではなくて、職員室のアンプから放送される。これまたありふれた仕掛けである。
三階まで登ると、この寒いのに、まだ何人か教室に入らずにダベっている生徒が見えた。
(そうか……やっぱり)
やっばり、とまどかが思ったのは、その集団の中に祐介の姿が見えなかったからだ。ここにいないのは、単に遅いだけの話だが、遅くなった理由に問題があった。
吉見祐介もまどかと同じ電車で通学している。ところが昨日、とんでもない光景に出くわした。
ゴーン!
「す、すいませーんっ!」
「くっ!……また吉見か」
早朝から二人の男がおたがいのカバンを落としてひっくり返った。
遅刻しそうなので、あわてた祐介が、〈老数学者〉西澤先生にぶつかったのである。これが校内のことなら、珍しくもない見慣れた風景であるが、都合の悪いことに、現場が駅のプラットホームだった。西澤先生も電車から降りたところで、文字通りかち合ってしまったわけだ。
それが今朝も、しつこいデジャヴュのように、飽きもせずに繰り返されたので、まどかも、その他大勢の顔をして、通り過ぎるしかなかったというわけだ。
一時間目の数学。
いつものように西澤先生が、箱ファイルをかかえて入ってきた。ふだんとみんなの反応が違った。西澤先生が、どこかのアニメキャラみたいに、救急バンドを鼻に貼っていたからだ。
―― どうかしたんですか、先生?
―― 何でもない。ちょっと転んだんだ。
見え透いたウソから、三角形の重心の話が始まった。
転んだだけで鼻だけをケガするなんて、そんな器用なことは不可能だ。いっそ、三角関数でも使って証明するか? クラスの半分はざわざわしているが、それを西澤先生は朝一番の授業なのに活気があるぞ、と勘違いしている様子だ。人が良すぎる。
で、祐介が現れない。
まどかが心の思い至らなさに気がついたのは、次の時間だった。
祐介が包帯を巻いた右手を、三角巾につつんで現れたからである。
「いったい、どうしたっていうのよ!」
まどかが声をあげて、祐介に詰め寄ったのも無理はないだろう。
「面目ない。俺としたことがほんの出来心、うんにゃ、ミスなんだよ、ミス」
「数学者にぶつかっただけで、こんなにケガするぅ?」
「違うんだよ。あれから階段で落っこちた」
「えーっ!?」
「改札を出て、階段で足を踏み外しちゃって、思わず手をついたら……」
「骨折?」
「そういうことさ」
「なんで、足なんか踏み外すのよ。いつも通っている階段だっていうのに」
「ちょっと考え事をしていたんだ」
「何を?」
「それをショックで忘れた」
ノートを取るのもかなり不自由そうで、痛々しい姿だったが、別にそれ以外はどうということもなく、ふだん通りだったので、とりあえず安心した。西澤先生も「俺のせいか?」と心配して、祐介に尋ねたが、無関係と聞くと、いたわりの言葉をかけて引き上げていった。
一階の図書館では年度末の蔵書整理が始まっていた。
学校の図書館は、基本的には本の保存は役目ではない。だから定期的に本を入れ替える。そうしないと、読まない本、使われない本が溜まっていくことになる。そもそも新しい本を入れるスペースが作れない。貴重な本や他にない資料を例外として、バランスを考えながら、除籍する本を探していくことになる。
「入れ替える本を、地下倉庫に運んでもらえないかしら?」
昼休みに川村先生から頼まれてしまった。図書委員長、ぜひお願い。というわけだ。
「どれだけあるんですか?」
「取りあえずは二個。まだ少しは出てくると思うんだけど」
二冊という意味ではない。ロープでくくった十数冊のぶあつい本の束が二つである。
中身はハードカバーがほとんどだ。図書委員の努力と、地球の重力は甘く見てはいけない。
「あたしだけじゃ無理ですよ。んーと……月島さんも呼んできます」
「あ、もちろん放課後でいいのよ。まだ追加の本が出てくると思うから」
まどかひとりでは無理なので、副委員長の名前を出した。ふだんなら気軽に吉見祐介の手を借りればいいが、まさかケガ人にやらせるわけにはいかない。
放課後になってみると、まどかの他に3人も集まったので、これなら十分運べそうだ。
「月島さんも、悪いわね」
「大丈夫、これでも屈強の女子だからね。それこそ、あっという間に終わるわよ」
「じゃ、行こ! これは……鹿沼さん、こっちは向坂さんで」
一年生が二人も手伝いに来てくれたのは、月島のおかげだ。ひとりは図書委員だけど、もうひとりは部活動の後輩というわけ。校舎の裏側にある地下倉庫まで歩くことを考えたら、途中でぜったいに休憩を入れるべきだろう。でもこのメンバーなら、何とかなる。
「あー、本って重いわ!」
「世間の人は知らないよね。図書委員が重労働なんて」
「そーだろーね。ポケットに文庫を入れて走るのとは訳がちがう」
「あわっ!」
声がするのが早いか、二人のうしろで、本を抱えていた鹿沼が倒れた。
ロープから外れた本が、廊下のプラスチックタイルに散乱した。
「あいたた……」
「大丈夫、ケガなかった?」
「ごめんなさい。靴ひもを踏んづけちゃって……」
「おーい、何の音だ。一体?」
目の前の生徒会室のドアが、ガラガラと開いて、生徒会長の神郷が出てきた。
「ごめん、本を落としちゃって」
「そうか。オレも拾うよ。行橋」
後期の会長になった神郷は、ものものしい姓と対照的に、なぜか名前が伸吾という。
続けて読むと、えらくユーモラスな名前に聞こえてしまう。この名前のおかげで知名度が上がって、生徒会長になれたのだという評判だ。
「ありがと」
「そうだ、ちょうどいいところで会った。行橋に渡すものがあるんだ。はい、これ」
神郷が差し出したのは、一通の封筒だ。
ええっ、ひょっとして!
その場の女子全員が、突然始まったシーンに瞬きも忘れて、まどかの手元に注目した。
「残念だけど、オレからではないんだよ。昔の生徒会長からの遺言」
こらこら、期待させるな。
第一、その生徒会長が生きてたらどうすんだ。勝手に殺すなよ。
何の飾りもない、クラフト紙の事務用封筒だ。触ってみた感じが、いかにも長い間しまい込んでおきました、というふうに、少しざらついていた。なるほど裏には、「生徒会長 棚倉晃世」とインクで書かれていたが、表にはただ「図書委員長様」とだけしか書いていなかった。
「こんな手紙を、どうして神郷君が持ってるの?」
「生徒会室のロッカーに入っていたんだ。昔の記録を見ようかな、と思ってさ。そうしたら、こんな手紙がはさんであった、というわけ」
「でもねぇ」
この封筒の古さからいって、この「図書委員長」は絶対にまどかのことではない。
何年前、いや何十年前だか知らないが、今はここの生徒ではない誰かだ。
「これは……あたしじゃないわ」
「うーん。そりゃあ、そんなことはわかっているけどね。だけど今現在、この学校の図書委員長は行橋なんだ。手紙を受け取れる資格のある人間は、他にはいないさ」
強引に言えば、当てはまるのは確かに自分だけだろうけどね。
「まどか、開けなよ。手紙を読もうよ」月島がつっつく。
「たとえ昔の生徒会長からの伝言でも、まどかにはそれを読む権利があるってば」
あんたが読みたいだけじゃないの?
「早くしないと、あたしもバスケ部の練習があるんよ」
月島にせかされて、まどかは封を切った。
古びた便箋は、歳月の長さをそのまま物語っているようだった。
文面にはこう書かれていた。
「時計塔に隠された秘密を探してください」
たったこれだけ? いったい何をせよと言うのだろう。
秘密。そんなものが、この学校にあるのか?
謎解きドラマの開幕のように、あのウェストミンスターのチャイムが鳴り始めた。
時計塔への階段が、まるで大きな口を開けたように、はるかな上の階に続いていた。
そして放課後の陽差に色づく廊下で、手紙を取り囲んで、五人の生徒がインクの文字を見つめていた。
〈2〉
神郷が、「廊下じゃ何だから、まぁ入れよ」と言うので、とりあえず五人は生徒会室に足を踏み入れた。あーでもない、こーでもないと、寒い廊下で何やかんや議論をしているよりは、よっぽど落ち着くだろう。と、そう思っていたのに、みごとに期待を裏切られた。
「ひど~い。生徒会室って、ちゃんと掃除してるのぉ?」
月島が思わず正直に、何のフィルターも通さない感想を吐き出した。
「すまんなぁ。絶対そう思うだろうとは思っていたけど。これでも生徒会のイベントとして、大掃除に取りかかったんだ。つまりはだな、掃除中に例の手紙を発見したってわけ」
「……てことは、まだ終わってないんだ?」
「これでも三日目になるんだぜ。執行委員がほとんど参加して、手分けしながら少しでも綺麗にしようと、取り組んだんだけどな」
そう言っている割には、床にちらばった紙くず、シャーペンの部品、スチール棚の上で埃をかぶったセロテープ台などなど、知らない人が見たら「掃除はしたのか?」と言われてしまうに違いない。何も踏んづけないで歩くなんて、とうてい不可能な部屋だ。
古い段ボール箱が、今にも倒れそうに積まれている。何とか人間ひとりは通れそうな隙間をぬけて、奥の空間に出た。中央にデンと置かれた、脚の折れたままのスチール机が、どうも生徒会新聞の編集用らしい。書けそうにないペンや刃を出したままのカッター、木工用ボンドの乾いた塊なんかがテーブル面にくっついている。天井は、おそらく前世紀のものに違いない、レトロな貼紙の痕跡とおぼしい紙片が、謄写インクにまみれている。
鹿沼と向坂は一年生なので、ほぼ初めて生徒会室というお部屋、もとい汚部屋に入ることになるのだが、
「生徒会室って、こーんな穴蔵だったんだぁ」
「来年、執行委員になろうかって思ったんだけど、やっぱ、やめようかしら」
「こらこら一年生、そういう身もふたもないことを言うな。そのうち生徒会の良さが見えてくるからさ」
「だったら神郷先輩が、身とふたのサンプルを見せてください」
「えーっと。ま、その辺の話はあとだ。塔の秘密の話をしようや」
まどかは尋ねる。
「手紙はどこにあったの?」
「ここだよ」
神郷が、壁ぎわのスチールロッカーを開けた。観音開きにされた六、七段の棚の全部が全部、生徒会新聞のバックナンバーとか、古い記録ノート、くちゃくちゃのインクチューブなどの印刷用品で溢れかえっていた。
「生徒会のためにと思って、古い記録ノートを見ていたんだ。そしたら、ノートのあいだに挟まっていたんだ」
「どのノートのあいだ?」
「忘れた」
月島がため息をついた。「神郷君は考古学者には向いていないかもね」
「は? 何のことだ」
つまり「層序」ということだ。
考古学では、遺物が地下のどの層から出土したかを厳密に記録する。もちろん遺物の年代を決定するのに、重要な手がかりになるからである。地質学でも似たような考え方をする。
「だからね、どこにあったかが、手紙の年代を知るための、手がかりになるってことよ」
「そうか、しまった……だけど手がかりがなくなったわけではないぞ。封筒の名前だ」
しかし、この場の誰も、棚倉晃世という生徒会長を知らないのだ。
「一体、いつ頃の人なんだろね。まどか、わかる?」
「あたしも知らない」
「何か手がかり……そこにあるじゃないの。生徒会の記録ノート」
灯台もと暗し。ロッカーの中には、積まれたノートが山のように盛り上がっていた。
「鹿沼さんはそっち半分、向坂さんはこっち半分ね。それじゃレッツゴー」
月島が、ノートの山を二つに分けて、カッターマットの上にドンと載せた。
「このノートの中から、棚倉って名前を見つけるのよ」
「えーっ、それってすごく大変!」
「でも、これが一番の手がかりなのよ。年代だけじゃなくて、ひょっとしたら時計塔の秘密について、何かヒントになることが、書いてあるかもしれないでしょ」
「それはそうですけど」
二人の一年生が、しぶしぶノートの埃を払いながら、古いページをめくり始めた。
まどかも一冊を取り上げて、過去の匂いのあるノートをひも解く。「生徒会記録」という、マジックインクのタイトルの横に、ボールペンで吹き出しが書かれて、「なんだってさ」と書いてあった。
アニメのキャラらしい女の子の落書きがしてあったが、作品名の見当がつかない。
「このノートはハズレみたいよねぇ」
「どして?」
「マンガの落書きばっかりなのよ。生徒会記録、のはずよね。これ?」
「どれどれ。へぇー、結構うまいじゃないの」
月島が身体ごと、ノートに身を乗り出してきた。これじゃ読めない。
「……向坂さん、そっちはどう?」まどかが一年生に話を振った。
「なかなか見つかりません……えっと、たな、たなくら……あきよ、と」
「行橋先輩、あたしもまだ見つかりません」
あれ? 気がついたら、神郷も含めて、全員がノートを読んでいる。
しかし、一体だれが、塔の秘密を探すことに決めたんだ? いつのまにか、成り行きで巻き込まれてしまったのだから、勢いというものは恐ろしい。
そこへ。
「ちょっと、本は運んでくれたの?」
わっ、窓から川村先生だ。すっかり忘れてた。
生徒会室を脱出したまどかたちは、最初の目的どおり、地下倉庫まで廃棄する本を運んだ。ミッション終了。そして風に吹かれる木の葉のように解散した。もちろん鹿沼さんと月島は部活動の練習があるんだし、向坂さんも、本の運び出しが終わったら帰宅予定だったらしく、「あたし帰ります」と言って分かれた。
「じゃ、まどかにお願いね」
「何が」
「時計塔の秘密。どんな秘密だか知らないけど、きっと探し出してね。あんたなら見つけられると思ってるから。それじゃ!」
月島はきびすを返して、グランドの方へ駆けていった。
まだ引き受けるなんて、何も言ってないよぉ。
あーあ、行っちまった。これからどうしよう。これから、行けるところといえば。
「図書館ってわけね」
カウンターで川村先生が、まどかの帰りを待っていた。
「ここなら手がかりがあると思いまして」
「そうなの? だったら、生徒会室に戻った方がいいんじゃないかしら」
その通り。だけど、あの迷宮というか、巣窟というか、生徒会室には行く気がしなかった。
「時計塔に秘密があるんだって?」
ドアが開いたかと思うと、うすら寒い風といっしょに、いつもの騒々しい声が乱入してきた。スポーツバッグを叩いた砂埃が煙のようだ。唯一いつもと違うのは、右手を三角巾で吊っていることだったが、吉見祐介はそんなケガなど関係なさそうに、カウンターに返却本を投げ出した。
「ちょっと、本を投げないでくれる。反則その一!」
「あ、ごめん。そんなつもりじゃないんだ。ほら。この通り、まともに手が動かないから」
「それにしたって、もう少し丁寧にあつかってほしいんだけど……」
ピッ。バーコード・リーダーが音を立てて、手続き終了を知らせた。
次の瞬間、祐介の姿が消えていた。
えっ、と思って館内を見渡したら、日本文学の棚の前で、背表紙をチェックしているのが見えた。いつも考えてしまうのだが、あいつはどうやって瞬間移動するんだろう。
「これに決めた。ミステリ・ワールド第6巻」
早々と祐介がカウンターに持ってきた本は、シリーズ中、最新の巻だ。
「こんなの、よく見つけてきたね」
「なにしろネットがしっかりしているからね」
ネット?
「情報源だよ」
さては……開いたドアの向こうに、新着図書をフィルムでくるんでいる川村先生が。
「吉見君のネットって、つまり人脈ってわけ?」
「ま、そういうこと」
「それにしても、その包帯。いったい何を考えて階段落ちしたの?」
「うん、行橋にはそれを言わなくちゃ。やっと思い出したんだよ。パズルなんだ」
「えっ?」
「難攻不落のアリバイを解くパズルなんだよ」
ちょっとだけ同情して損した気分。
「ごめんよ。だけどさ、パズルの本よりも、ひとつ上を行くトリックを考えたんだよ」
「どんな?」
「今はないしょだよ。それじゃこの本借りるから」
まどかは、ほとんど無意識に貸出手続きをした。そして騒がしい男が図書館を出てしまってから、気がついた。
祐介は、何かを忘れている。
〈3〉
まどかは気になった。
祐介は部活に出ていったのではないだろう。きっと時計塔の秘密を探りに行ったのだ。どうしてもそんな気がする。
先を越されてしまう。そんな思いが、ふいに頭を占拠し始めた。
あいつのことだ、絶対に謎を解こうと行動を始めるにちがいない。もちろん、解決したら必ずその解答を教えてくれるのだが、シャクなことに、それは祐介の自慢に変わってしまうのだ。
いや?
祐介が自慢など、したことがあったか?
これまでのあいつの態度を見る限り、決してまどかたちを鼻で笑うような態度を取ったことはなかった。少なくとも、あたしを仲間だと考えてくれているような気がする。
あーいやだ。自分で自分がすごく浅ましい。
どうして祐介の自慢だなんて思ってしまったんだろう?
結局はあたしが自分で謎を解きたいから、祐介に勝ちたいと思っているからだ。
まどかは恥ずかしくなった。
「川村先生、ちょっとカウンター離れていいですか?」
まどかはドアの向こうにいるはずの川村先生に言って、同時に図書館を走り出た。先生の「いいわよ」という返事は、ドアを閉めるのと同時に聞こえてきた。
競争なんかじゃなく、いっしょに謎を解くんだ。
あたしたちは「探偵局」なんだ。
図書館から廊下をまっすぐに玄関の方へ行く。生徒会室の入口ドアの角を過ぎたところに、「塔の階段」はある。もう生徒会室も閉まっていた。ガラスが暗く、神郷も帰ったらしい。
いつも漂っている校舎中のざわめきは、もう鏡のように静まり返っていて、遠くからいくつかの靴の音がしているだけだった。
まどかは階段を登った。
こんな場所に何かがあるとは、とても思えない。いつもこの階段からわがクラス――二年A組に行くからだ。何百回も上り下りして、すっかり日常そのものである道順にすぎないのだ。放課後の弱々しい陽差しが、それでもまどかが登っていく道を、わずかに元気づけるかのように、踊り場の窓から射し込んでいる。こんな季節のことだから、いずれあっと言う間に、日が暮れてしまうのは目に見えているのだけど。
四階へ行く途中の踊り場が、吹き抜けになっていて、天井までの高さが解放感を与えてくれる。 窓がずらりと縦に並んでいるので、なおさら明るくなっている空間は、まるで空に近づいているような感覚にとらわれる。すっかり土ぼこりに汚れていて、美しさには、まるで欠けているのが残念だ。
踊り場から時計が見える。
窓の外に設置されているので、文字盤は見えない。校門の方に顔を向けた時計の、丸い筺体の一部が、斜め後ろ下からやっと確かめることができる。
やってきたのはいいが、どうやって時計の秘密を探ったらいいのだろう。
もし窓を開けられたら、時計に直接触れることもできるだろう。しかし、それはできそうにない。吹き抜けの高さのために、窓側の壁は絶壁そのものだ。もし簡単にできるのなら、あんなには窓は汚れていないだろう。掃除が行き届いていないことが困難を何より物語っている。
窓枠にはクレセントがついているから、一応は開けられそうに見えるが、どうやったらそこまで手を届かせることができるか?
まどかは手を伸ばしてみた。まるで意味がない。脚立でも借りないと無理だ。
ん?
何かが見える。
時計の縁に何かがあるのだ。もう少しで見えそうなのに見えない。ちょうど日蔭になっているので、窓の外が明るい分、よけいに見にくくなっている。
何かが貼り付いているようだ。何だろう。まどかはその正体を見たくなった。脚立でなくてもいい。代わりにできるようなものは、どこから借りたら?
そうか。あそこにある! まどかは急いで階段を一階まで駆け下りた。
図書館へ戻るために。
「あぁ、それならまだ返していないから、ここにあるわよ。はいこれ」
「ありがとうございます」
川村先生から借りたのは、地下倉庫の鍵だ。さっき地下のドライエリアに梯子が架けられているのを、意識のどこかで覚えていたのだ。
「でも、本に用なんかないでしょ?」
「ええ、でも気になるものですから」
「さすがは図書委員長。あんな本、絶対だれも開こうともしないわよ」
まずい。あまり話すと本当のことを言わないといけなくなってしまう。
「すぐ帰ってきます」
廃棄する本をもう一度見ておきたい、などと、たとえ川村先生であっても、変な出まかせは言うものではない。
絶壁に梯子を立てた。いよいよ登る時がやってきた。
管楽器の内部のように、金属の音が階段に反響して、いやがうえにも緊張してしまう。
梯子は重かった。地下から両手のふさがった状態で、階段を登って歩くのはすごく大変だった。こんなときこそ祐介に手伝ってもらったら、と一瞬思った。鹿沼と月島の姿は見かけたけれど、もちろん関係のない図書委員に頼むわけにはいかない。
窓ガラスの高さまで登ると、足元が壁ではなくなるので、空中に立っているように感じられるのだ。
急に足に震えが走った。下を見ちゃだめだ。怖さから逃げようと上を見ると、……見えた!
「危ない。何をしている!」
わぁっ。
足元がぐらついた。ここで落ちたら大ケガをしてしまう!
まどかは必死で梯子に取りついた。おかげで落ちることだけは免れた。
「行橋。何をしている!」
ふたたび西澤先生の声で呼びかけられた。
「先生、急に脅かしたりして危ないじゃないですか!」
「そうか。すまんすまん。しかし何をしていた?」
「それは……」
詳しい理由は言えるわけがない。しかしこれだけは言える。
「時計に貼ってあるものを、なんとか見ようとしたんです」
そんな理由が通用するもんか。しかし西澤先生なら、なぜか話が通るような気がした。
「なるほど。それなら、ぼくに相談してくれればよかったのに」
「は?」
西澤先生は、ポケットからメガネを二つ取りだした。そして、まどかに手渡した。
「こちらのメガネを、手いっぱいに伸ばして持って……そうそう。じゃ、次はこちらのメガネを掛けて、手に持った方のメガネを見るんだ。どうだ?」
いったい何をさせる気だろう?
まどかは、先生の意図が読めないまま、西澤先生のメガネを掛けた。そしてもうひとつのメガネを通して窓の方を見た。
「あっ!」
遠くてはっきりしなかった、時計に貼り付いているものの正体が拡大されて、しっかりと見えるのだ。
「どうだ。こうすれば梯子なんかに登る必要はない。さっさと倉庫に戻してきなさい」
まどかが感心していると、「あとでメガネを返しに来なさい」とだけ言って、西澤先生は階段を降りて行った。
なるほどうまいことを考えたものだ。レンズが二組あれば、筒などなくても望遠鏡になるというわけだ。しかし先生。あたしが今見たものが、ぜんぜん見た目そのままで、逆さにもならないで見えたということは、この場合の望遠鏡は、タワーの展望台によくあるガリレオ式だということだ。つまり、ひとつは凹レンズのふつうの近眼用メガネだけど、もうひとつは凸レンズ。
「先生……」
老眼鏡が必要になったんですね。
西澤先生っていくつなんだろう? あんなふうに見えて、実は何でも知っている学校の「賢者」なのかもしれない。確かここの卒業生だとは聞いたことがあるけれど。まどかは、階段を降りていく足音が小さくなっていくのを聞きながら思った。
だがそれより、時計に貼り付いていた物の正体がわかった。そこに書かれていたことについて、頭を巡らせる方が先だ。急がなくてもいい。まずは梯子を戻して、鍵を川村先生に返すことだ。いや西澤先生のメガネの方が先かも。
「気がすんだ?」
一瞬、何のことなのかと。とっさに「はい充分でした」と答えてごまかした。廃棄図書を見に行くために鍵を借りたのだ、という口実をすっかり忘れていた。答えてから記憶が戻っても話にならない。
幸い川村先生は、何も気に留めていないようだ。
地下から駆けつけて、息切れした程度に思ってくれたのだろう。
「おもしろい本はなかったでしょ?」
「はぁ、思っていたよりは」
「図書を捨てるのって本当に難しいわね。自分の本ならもっと大変よ」
「そうなんですか」
まどかは自分の本を捨てたことがない。それが大変なんだと言われても、ちっとも実感がない。つまり川村先生は捨てるほど本を持っているということなんだろう。
まずは鍵を返した。それから例の探索。
まどかの頭の中には、さっき見た数字が焼きついている。テストの時でさえ使わない記憶力をフル回転させて、口の中で数字を反芻していた。
「297ハ2」
これだけを言われても、何の予備知識もなければ途方に暮れるだけだろう。
しかし、まどかにはわかる。この数字が書かれていたのは、図書ラベルだったのだ。
時計には、どういう経緯でなのかはさっぱり見当もつかないが、この数字と記号が書かれた図書ラベルが貼ってあったのだ。長年の紫外線と風雨にさらされたせいか、かろうじて読める程度でしかなかったが、例の望遠鏡のおかげで、読むことができたのだ。これはNDC(日本十進分類)を示しているにちがいない。図書ラベルに書かれていたということが、何よりの手がかりなのだ。
その記号に該当する本を探せ、ということだろう。
まどかは200番台の末尾を探した。297とは、オセアニア・北極・南極の地理について書いた本に与えられる記号である。
しかし。
該当する本はなかった。
296・南アメリカから、いきなり300に飛んでいた。そちらはもう分野が違う。
ここにない? どういうことだろうか。
学校の図書館でないとすると、まさか他の図書館? もしも他の学校の図書館なんだとしたら、どうやって探せばいいのか。市内に高校は……いや、小学校・中学校まで含めたら、どれだけの数になるのだろう。そもそもこの記号が、実はNDCではないという可能性だって……。
おっと、早まってはいけない。
あたしはだいたい今日は何をしていたんだ! 気を取り直すと準備室に声をかけた。
「川村先生、今日廃棄した本の中に、地理の本ってあったんですか?」
まどかが尋ねると、トレードマークのカチュームをいじりながら先生が出てきた。
「あったわよ。行橋さんなら、そんなことなら早くにチェックしていると思ったけど」
「そうでした。すみません」
しまった。見落としていた。今さらどうやって地下倉庫に行こうか。
うまい口実はない。だけど手段は他にはないのだ。しかたがない。
「あのう、先生」
「はい?」
もう、何と言ったのか覚えていない。
三度目は喜劇とは、まさにこのことだろう。川村先生から半ば強引に、また鍵を借りて、倉庫へ向かった。完全に頭に血が上っていた。まわりの状況なんか、目に入れている余裕もない。
こうなったら一刻も早く、本を見つけだして調べなければ。
そろそろ日没が近づいている。
外から降りる階段には格子の扉があり、そこに南京錠がかかっていた。
地下のドライエリアに降りていく。空が見えるとはいえ、ここは学校の中の異空間だ。ここも風の通る格子扉だが暗い。奥の方まで光が入ってこない。まるで牢獄のように見える。怖がっている暇はない。さっき自分たちが運び入れた本の束から、目的の本を探し出さなければ。タイトルさえも見ずに、図書ラベルの番号を点検していく。
「あった」
紐を解き、その本を取りだした。297ハ2。
典型的な南極のイメージにぴったりした写真が、コーティングで光る表紙にレイアウトされていた。ただでさえ寒い日なのに、青い氷とペンギンの写真なんか見たら、よけいに背中が震えてしまう。橋本隆則著『氷の南極圏を行く(下)』。
知らない著者だし、読んだことがない本。もちろんまどかは開けてみたことがない。
「ハ1」があるとしたら、おそらく同じ本の上巻だろう。まどかは本をパラパラと繰ってみた。
真ん中あたりから、はらりと一枚の紙が落ちた。
まどかは、思わず拾い上げた。これが「時計塔の秘密」なんだろうか?
南極の本はもうどうでもいい。まどかは紙片に見入った。
読めない記号で書かれた、文章らしきものが数行、ペンで書かれていた。
(これは暗号……?)
「暗号なんだろうな!」
「わあっ!」
いつからそこにいたのか、祐介が横からのぞき込んでいた。
「何よっ! びっくりさせないで!」
「ごめんよ。だって倉庫への階段が開いていたから」
「だからと言って、驚かすなんてこと、なしにしてちょうだい!」
「……わかったよぉ。で、その紙が時計塔の秘密?」
「どうやら、そうらしいわ」
「チャチな暗号だなぁ、それって『踊る人形』だろ?」
確かに、それはシャーロック・ホームズでおなじみの、『踊る人形』の暗号とそっくりだった。
(近況ノートにある画像を参照してください)
「それなら、簡単に解けるよ。最もよく出てくる文字がE、なんだから」
果たしてそうか? 祐介の言うことは日本語でも通用するんだろうか。まどかは読めない人形の記号の列に見入った。そしてはっと気がついた。
「その方法は通用しないわ」
「何だって!」
祐介は、まどかから紙片を受け取って、じっと文章を見つめた。
「この文章、同じ記号がひとつもない。だからホームズの推理法は使えないわ」
祐介は目を丸くした。
二人は読めないままの数十個の記号の羅列を、ただ見つめているしかなかった。
〈4〉
「何か手がかりはないのかなぁ」
ポケットに暗号の紙片を入れると、閉館時間の近づいた図書館を出て、まどかは塔の階段へ行ってみた。
本物の探偵ならどうするだろうか。現場に立ち返るのではないだろうか、と考えながら、寒さのせいで空気までが青く染まりかけた階段を登っていった。
四階の途中にある踊り場。
さっき西澤先生と梯子の下で、ガリレオ式望遠鏡のやりとりをした空間は、前にもましてひっそりとしている。連続した大きな窓からの展望があるおかげで、閉塞されている感じはほとんどない。ここが「現場」と言ってしまっていいのかどうかは、微妙なところだ。さっき梯子を立てかけた窓の正面から、B高の校門がほとんど真下に見える。ぽつりぽつりと下校していく生徒の姿が、まるで自分を置いていくように思えてしまう。
学校のすぐ外には、屋根にNをデザインしたマークが描かれた幼稚園がある。もちろんこんな時間だから、園児はひとりもいないが、さっきの踊る人形の姿が、園庭で遊んでいる園児の姿に見えてしまう。その幼稚園の向かいは、園児たちがウィンドウをのぞいていく、ケーキ店の「カリヨン」、アクセサリーの「IBA」、そばの「満月亭」が軒を並べて続いている。そば屋の隣にはコンビニ。大きなエアコンの室外機が乗った陸屋根が見下ろせる。ちょうどその前の沼沢二丁目のバス停に、駅から来たバスが着いたところだ。
夕焼けとは対照的に、青ざめていく街路を眺めていると、高校生になってからの時間までを鳥瞰しているような気分だ。この校舎とも、もう二年間お世話になっているから、すっかり学校のことはわかったつもりになっている。それでも、学校について知らないことは山ほどあるのだ。後から後から、泉のように謎は湧いて出る。
なぜだろう?
探偵の真似事をしているからなのか。だから謎が目につくのだろうか。
事件のあるところに探偵が行くのではなく、探偵がいるから事件が舞い込むのだという説もある。あるいは本当にそうなのかもしれない。
(何だろう?)
幼稚園のこちら側、視線のすぐ手前にある、青い屋根の体育倉庫の前を誰かが通っていった。昼間でもそんなに生徒が通るところではないので、視界を横切った人影に目が止まったのだが、見失ってしまった。
なんだか怪しい。いや考え過ぎだ。
まどかは、ポケットから暗号の紙片を出した。
確かに「踊る人形」そっくりではある。だがドイルの作品を参考にしただけでは解読できない。これを解くカギが何かあるはずなのだ。この暗号が、時計の謎を解くカギなのに、読むためには、暗号という新しく出現した謎を解かなければならないのだ。
「こんなに手の込んだことを、生徒会長の棚倉さんは、なぜ考えたんだろう?」
まどかは思わずつぶやいた。
祐介はどうしたのだろう。
例の暗号を書いた紙を、川村先生にコピーしてもらい、それを持って図書館をいち早く出ていったのだった。もう謎は解けたのだろうか。いいや、勝負じゃないんだと自分に言い聞かせて、紙片をなんとなく眺めた。
そして、あっと気がついた。
二行目の真ん中の人形が持っているのは、幼稚園のマークそのものではないのか。そして行の最初の人形が持っているものは……バス停だ。
沼沢2丁目のバス停。その前の幼稚園の名前は……。だとすると、この行は「ぬまさわようちえん×」と読むのではないだろうか。そういうパターンだとすると、暗号文の最初の人形の持ち物は、時計にしか見えない。だとすると、次にある、「?」マークは「ひみつ」ではないのか。
つまり、「とけいのひみつ×」ということではないだろうか?
最初からあたしたちは、時計塔の秘密を探していたのだ、この紙に書かれているのがそれだとすると、どこかにその言葉が書かれているのは、むしろ当然ということになりはしないか。
暗号文の最初の二行は次のようになる。
とけいのひみつ×
ぬまさわようちえん×
時計塔の秘密が、あの幼稚園にある? そういう意味なのだろうか。
×の部分は一字だから、きっと「は」とか「が」などの助詞にちがいない。
三行目の終わりごろに書いてあるのは、きっと屋根にちがいない。
まどかは目の前に広がっている、窓からの風景を見直した。どこまでも重なり合いながら続いていく屋根の山脈。暗号を書いた誰かは、この窓からの風景を元にして、時計塔の秘密を知らせようとしたのではないだろうか。
秘密はここから見える範囲に存在するのでは? だけど幼稚園と高校では、ほとんど何の関係もないような気がする。もし幼稚園が出てくるとしたら、その意味は何だろう。
「おーい、行橋」
祐介が三階の廊下から呼んでいた。
「降りてこいよ。ヒントが見つかったぞ!」
「本当に? 実はあたしも見つけた」
まどかが階段を降りると、祐介は、紙片のコピーを持った左手を高く上げながら、もどかしそうに、あわてるような早口で言った。
「ヒントは字数なんだ」
「字数?」
「この人形の数はいくつだと思う?」
数えたことがなかったので、まどかが「さぁ?」と言うと、祐介は答えた。
「46。この暗号は46文字でできている」
「……だから、それがどうしたの?」
「46の文字、それぞれが全部違っている文字と言われて、何か思いつくものはないか」
「あっ、そうなんだ!」
「この暗号は、ひらがな全部をひとつずつ使って作られているんだと思う。つまり五十音のアナグラムなんだよ。ぼくらは「五十音」と言っているけど、現代かなづかいだと、「ん」を含めて46字あるんだ。だから、これは〈いろは〉みたいに、46字全部を使って、意味が通るようにした文章じゃないか、と思うんだ」
「そんなことが、できるの?」
「できるよ。出現頻度の少ない文字をどう使うかが難しいけど、過去にいくらでも作られている。何も〈いろは〉だけではないんだ」
祐介によれば、〈あめつち〉を始め、源為憲の〈大為尓〉とか、本居宣長の〈雨降れ歌〉のような、国文学でよく知られた例があるらしい。明治時代にも新聞紙上で「国音の歌」作品を募集した例があるというから、努力すれば作れるものらしい。
それを聞いて、まどかは自分も暗号の紙片を取りだして、祐介の顔をうかがった。
「でも、この文章は、どうしたらいいと思う?」
「確かに単純に考えれば、かなの組み合わせは46の階乗にもなるんだ。あらゆる組み合わせを検討していたら、天文学的な年数がかかっても終われそうにないだろうな」
実際のところ、46!=1×2×3×……×45×46、は58桁もの数になる。
「だったら?」
「さらにヒントになるのが、この人形についている奇妙な記号だと思うんだ。これが文字を解いていくための手がかりなんじゃないかなぁ」
「やっぱりそうかぁ……」
「やっぱり、とは?」
まどかは、四階の階段の窓からの風景を見て、気がついたことを祐介に言った。
「そうか、きっとそれだよ!」
まどかが気がついた点を、祐介の説にあてはめれば、全体の18字が確定したことになる。
残りは28字。
「だけど、28字を組み合わせて、意味の通る文にするのは、まだまだ途方もなさそうね」
「まだ、機械的に当てはめない方がいいな。もっともっと範囲を狭めなきゃ」
「あとの記号は……」
暗号文を見ていくうちに、まどかは四行目の矢印が気になった。
「これは〈ひだり〉でいいよね」
「いや、そうはいかないよ。「ひみつ」で「ひ」を使ってしまったから」
「じゃ、これは〈やじるし〉?」
「すでに「や」を「やね」で使ったからね。それに〈やじるし〉だと、「し」を二回使うよね? それに三行目の三字目に打たれているのは、濁点じゃないだろうか。だとすると〈やじるし〉の二字目にあたる人形には濁点がないんだから、当てはめられないんじゃないかな」
「うーん、左を表す言葉で、何かないかなぁ……」
「そうだ、やっぱり図書館に行こう。川村先生に頼み込むんだ」
閉館時間まで、残り時間はほとんどなかった。
祐介といっしょに、準備室にお邪魔するしかなかった。川村先生も暗号文に興味があるらしく、二人の解読を傍からじっと眺めていた。国語辞典を引いてみると、「ゆんで(弓手)」という言葉があった。弓を引く手という意味らしい。だが、これも濁点が必要だ。
「惜しいなぁ、「ゆんで」って、江戸川乱歩の少年探偵シリーズにも出てくるんだけど」
などと言っていた祐介が「あった!」と叫んだ。
「これじゃないかな。〈下手〉」
ステージの左側を下手というのだ。「しもて」なら、確かに当てはめても差し支えない。
祐介はコピーに書き込んだ。ただし、間違っていたときのために「?」も書いておいた。
残り25字。
「三行目の最初は何だろう」
「これは、プレッツェルに似てるわね」
「何だ、それ?」
「お菓子。こんな形をしてるんだけど」
「オレ、食べたことないよ。プレッツェル? うーん、だとすると濁点がじゃまだな。それにマル(。 )がない」
たしかに半濁点は書かれていない。「つ」が二回必要だし、すでに「ひみつ」で使用ずみだ。
「これは単純に、〈むすび〉とか〈むすぶ〉じゃないかな」
「そうしておこうか」
コピー用紙には「むす」まで書いて、次は「び」と「ぶ」の両方を書いた。
「あっ! 〈ひみつ〉で「ひ」を使っているじゃない」
「それなら、〈むすぶ〉の方だな」
祐介が「び」に線を引いて消した。残りは22字。
「最後の行なんだけど、これ何に見える?」
「この人形は何をしているんだろう」
「あたしには、これはラグビーをしているところに見えるんだけど」
「ラグビー?」
それでは四字必要だ。だが三字しかない。
「すると、これは……そうだ、〈トライ〉だ!」
「でも、「と」と「い」はもう使ってしまってるよね」
「トライ、ではないとしたら、これは、日本語で〈試す〉ってことだろうか」
「「す」は「むすぶ」で使ったよ」
「じゃ、「ためせ」では、どうだろう。例えば、ポーの『黄金虫』みたいに、宝のありかを示すなら、最後は命令形にするのが、いかにも暗号文書にありがちなことじゃないかな」
本当にそうなのかはわからない。でもとりあえず、そのようにしておこう。
「四行目の工事中みたいなマークは、どう読もう?」
「工事中、じゃないだろうし、〈ツルハシ〉でもないだろう。たった二字だし……」
「ね、吉見君、これは「掘れ」っていう指示じゃないかしら?」
ますます宝探しみたい。まさか、幼稚園に宝が埋まっているのか?
とけいの ひみつ×
ぬまさわ ようちえん×
むすぶ ××× やね
×××× しもて ×××
××××× ほれ ためせ (残り19字)
残った文字から、空白に埋まりそうな言葉は作れないだろうか。
「一行目の終わりだけど、これは「は」しかないと思うの。他のどの文字を当てはめても文章としておかしい」
確かに「へ」では、「幼稚園」と「むすぶ」につながらない。「に」「を」も同じ。「から」も二字なので無理。助詞にならない他の字もだめである。二行目の「ようちえん」の後の一字は、「に」「へ」「を」のどれかであろう。
「もし、「ほれ」が正しいとしたら、その前は「を」でしょうね、きっと」
「から」でもいいような気がするが、「を」の方が直接、掘る対象を指すのに自然な言葉だろう。 三行目のまだ埋まらない三字は、屋根を形容する言葉ではないだろうか。
残ったのは16字だ。この中から何を選べばいいのだろう。まどかも祐介も、図書館から幼稚園の方向を見た。幼稚園はすぐ学校の外にある。すると幼稚園と時計塔の間にある屋根はひとつしかなかった。体育倉庫。
倉庫の屋根は?「ゆるい」?「からい」?「おそい」?
残った文字から、いろんな形容詞を考えてみた。いや、やっぱり見た通り「青い」のではないか。しかし「い」は使ってしまった。
「ここは「青き」と、文語みたいにしてみようか?」
「校歌みたい」
「B高の校歌って、そんな言葉があったかなぁ」
「あたしの小学校」
「そんなの、オレがわかるわけないじゃん!」
「三行目を何とか読みたいわね。〈しもて〉かぁ、倉庫の下手になると……」
まどかが体育倉庫の左側に何があるのかと、窓の方を見たとき、
「下手になる? きっとそれだよ。きっと!」
「何のこと?」
「「になる」そのものだよ。残った字から当てはめられるし」
「すると、〈ようちえん〉のあとは、「へ」で確定よね」
とけいの ひみつは
ぬまさわ ようちえんへ
むすぶ あおきやね
×××× しもて になる
××××をほれ ためせ (残り8字)
残った八字から、どんな言葉ができるのだろうか。
「ゆか」「そら」「ろく」「りら」「ゆかり」「そかく」「ゆらり」……どれも適当には思えない。
二人は焦った。しかし、まどかが偶然気がついたのは「そこから」。
これを当てはめられるのは三行目。
とけいの ひみつは
ぬまさわ ようちえんへ
むすぶ あおきやね
そこから しもて になる
××××をほれ ためせ (残り4字)
「もう、間違いないよね」
「オレもそう思う……だけど、そこは最終確認しなきゃ」
「どうするの?」
「行くんだよ。体育倉庫へ!」
もうほとんど日没が迫っていた。二人は校舎を出て、体育倉庫へ向かった。
川村先生がなかば心配そうに、残り半分は興味津々で、二人に続いてついてきた。
体育倉庫の左側にあるものは、植え込みの花壇だった。冬のさなか、とうに枯れてしまった草花は、もう地上には痕跡しか残っていなかった。だが、それでもまどかは、風雨にさらされて消えかかっている、植物の名前を書いた札を見つけることができた。
過ぎた夏の間に、そう言われてみれば、今も印象に残っている鮮やかな花。球根草。
残った四文字は「くろゆり」。
とけいの ひみつは
ぬまさわ ようちえんへ
むすぶ あおきやね
そこから しもて になる
くろゆりをほれ ためせ
これがアナグラムの解答だった。他の可能性なんかより、何よりも花の名前が、それが正解だと雄弁に語っていた。だとすると、シャーロック・ホームズを連想させた人形の絵は、眩惑させることだけが目的で、結局は何でもよかったのだ。ただすべてが異なる記号でありさえすれば。
「掘ろう」
「どうやって?」
「花壇なんだからさ、この近くにスコップとかが置いてないだろうか?」
川村先生も混じってあたりを探してみると、体育倉庫の横にスコップが木箱にしまわれていた。さっそく3人が「くろゆり」の札の近くを掘り進めて、穴がほとんど30センチくらいの深さになったとき、何かがスコップに触れた。
「あったわ!」
「何だ、これは」
「もっと穴を広げてみて。何かの缶のように見えるわよ」
川村先生の言う通り、急いで穴を広げると、菓子折りの缶が出てきた。ビスケットの絵と「カリヨン」という店名が描いてあった。
(これが、時計塔の秘密?)
「よし、開けてみよう」
「中から煙が出てきたらどうすんの?」
「心配ないよ。オレは亀を助けた覚えはないんだから」
祐介は、そうは言ってもおそるおそる、缶の蓋を開けた。すると!
〈5〉
「思ったよりは早かったな。さすがだね。いやいや感心したよ」
聞き慣れた声がした。まどかがふり向くと、いつからそこにいたのか、体育倉庫の前から、あの老数学者が懐中電灯で地面を照らしていた。
「西澤先生!」
「正解だ。Q.E.D.(証明終わり)だよ」
「それは、どういう意味ですか?」
「君たちの掘り当てたのが、間違いなく、時計塔の秘密だってことだよ」
洋菓子の「カリオン」のビスケット缶の中に入っていたのは、確かに「時計塔の秘密」に違いなかった。すっかり湿気のために膨らんで汚れていたが、その本には、名探偵・明智小五郎の顔とともに『時計塔の秘密』というタイトルが書かれていた。著者はもちろん江戸川乱歩。
「先生、まさか、あたしたちを……」
「待った! 決して騙そうとしたわけじゃない。これには訳がある。君たちにもし時間があるのなら、私の話を聞いてもらえないだろうか……ところで、川村先生」
「何ですか」
「図書館を、ちょっとの時間だけ、借りてもいいかな」
川村先生はしぶしぶ了解した。といはいえ、きっと体裁をつけたかっただけなんだろう。「私にもその話を聞かせてもらえるのが条件です」と言ったからだ。
話をするのなら、先にスコップを片付けなければならないだろう。
「このスコップはどこへ……?」
「あぁ、それならそこの花壇用の物置だ。これで開けられるだろう」
西澤先生は、ポケットをまさぐると、まどかにキーを貸してくれた。
小さな物置には南京錠が下りていた。キーを差し込むと、割と簡単に外れたが、錠前が裏向きで少し手間取った。
スコップの箱を入れて元通りに錠を下ろすと、四人は図書館に向かった。
冬の夜は黒いカーテンを投げ落としたように暗くなる。
準備室のストーブを囲んで、西澤先生の話が始まった。
「何から話そうか。まずは時計塔の秘密そのものだな」
「この本が〈秘密〉なんですか?」
祐介が本を見せながら、念を押すように聞いた。
缶の中から出てきた本は、もうぼろぼろで、何の価値もなさそうに見える。
「その通り。実は土の中にあったから、こんなにひどい状態になった、というわけではないんだ。ぼくが最初にこれを発見したとき、すでに水をかなり吸ったせいか、ひどく崩れた状態だったんだ。きれいな本なら、今の時代なら結構な値打ちがあるだろう」
「これでも、ですか?」
「昭和34年というから1959年の発行だ。きれいに残っていたら万単位の価値があるだろう」
「えーっ!」
たかが子どもの本に、そんな高い値段がつくものなんだろうか。
「児童書は、成長したらほとんど捨てられるから数が少ない。それに子どもは本の扱いが荒っぽいから、きれいに残る本も少ないんだ。そこへもって、子どものころに読んだ懐かしさで、欲しがる大人は多い。というわけだ」
「そうなんですか」
まどかは、話の途中に出てきた疑問点を聞かなければ、と思った。
「今、〈発見した〉って言いませんでした? 先生は、この本をどこで見つけたんですか?」
「時計塔の中」
「……どこですか。それは」
「今はない。塔の時計が新しくなったとき、跡形もなくなってしまったからな……」
「私がここの卒業生だってことは、もう知っているだろう。在学中はもちろん君たちと同じように若かったし……こら吉見。疑いの眼で見るな。誰でも一度はそんな時代があるもんだ。
当時の校舎は今と同じこの建物なんだが、当時と大きく違ってしまったのは、時計の部分だな。かつてはクラシックな学校建築によくあるように、時計は建物に据え付けられて一体化していた文字通りの時計塔だったんだな。それが歳月が過ぎて、時計が故障して役に立たなくなった。古い時計塔が今でも現役で動いている例はあるから、施設管理が悪かったんだろうな。大きな時計はやはりそれなりに、技術を持った専門家が定期的に手入れをしないとダメなんだろう。ちょうど私が在学していたころが、時計がいよいよ撤去されようとするころだったんだ。
大時計が撤去されるかわりに、何か他のものを、と学校側も考えていたんだろうな。当時のPTAに相談すると、そのPTA会長というのが太っ腹なことに、時計なら寄付すると言いだした。会長の親戚が時計店をやっているからちょうどいい機会だというわけだ。とは言っても、結局は大きな電気時計を掛けただけだった。今も使っているあれだな。さすがに塔に据え付けられた機械時計を更新することは、費用的にも難しかったんだろう。時計の機械室は屋上にあったんだが、これが雨漏りしていて、時計の寿命を縮めたということだ。
私の同級生で、この時計がすごく好きなやつがいてね。
元来、校舎が建築されるときに、大時計を据え付けたのは彼の家だったんだよ。
だから時計がなくなることをすごく惜しいと思っていたようだ。彼の家は時計店。宝飾店を兼ねていたんだが、大時計を更新するなら、当然自分の家に相談があるだろうと思いこんでいた。
しかし会長の一存で寄付も発注も決まっていたから、彼の家には一銭も入らなかった。それだけじゃなくて、自分の学校の仕事を引き受けられなかったことで、何だか傷つけられたように思ったんだろうね。やつがすごく悔しがっていたのを今でも覚えているよ。
なぜ伊庭ん家に頼まなかったのか、って。私も思ったなぁ。
「は?」
西澤先生、今何と言ったんですか?
それって、アガサ・クリスティの「Why Didn't They Ask Evans?」(なぜエヴァンズに頼まなかったのか)っていう作品のタイトルとそっくりなんですけど?
そこの沼沢2丁目の伊庭宝飾店だよ。3階あたりからよく見えるだろう。看板はローマ字書きだけどね。
え、びっくりした? そうだろうな。
彼はあそこの息子だったんだ。学校の時計が自分と関係がある、という思いが強いのも無理はないだろうな。昼休みに伊庭の姿が見えないことがちょいちょいあって、私が問いつめたら、何と屋上の時計の中に時々入っているというんだ。伊庭といっしょに入ってみたら、驚いたことに、時計の機械室の中は、大きな歯車や仕掛けですごく狭いんだな。よく入れたもんだ。ただでさえ体格の大きな男子高校生二人なのに。
で、ある日伊庭がこう言ったんだ。
「西澤。この時計はもうなくなってしまうけど、オレはこの学校に立派な大時計があったという伝説を残したいんだ」
卒業式を前に、いよいよ時計の工事が始まり、屋上が立ち入り禁止になる寸前のことだったんだ。伊庭が学校を休んだ。まさかと思って、よく昼休みに伊庭と隠れていた時計、室に最後の機会だと思って行ってみたんだ。
実はカギはなかった。羽目板の一部が壊れていて、そこから内部に入れたんだ。伊庭の姿はなくて、ただその本、『時計塔の秘密』が落ちていた。長年、雨が吹き込んだせいなのか、すっかり膨らんだまま乾燥していて、読むに耐えない状態になっていたんだ。
私は、それが伊庭の作った伝説なんだと思った。やつの考えたシャレなんだろうが、いつからこんな本を時計室に置いていたものか、全然知らなかった。本の年代から言うと、ぼくらの世代の本ではないから、もともと古本だったのかもしれない。
で、ぼくはそれっきり伊庭に会うことはなかった。
「ちょっと待ってください」
まどかが話を止めた。
「生徒会長の棚倉さんは、どういうかかわりがあるんですか?」
「彼女とは何の関係もない。なぜなら手紙はぼくが書いたものだからさ。古い便箋を使ってね。もうバレていると思うけど、今回の謎は、ぼくが出題したというわけだ」
出題? それはどういう意味?
「申し訳ないが、決して騙そうと思ったわけじゃない。この春からの君たちの探偵ぶりを見ていて、すごく気に入ってね。もし謎が現れたらどこまで解いてくれるか、拝見しようと思ったわけだ。思いがけず早く謎を解いてくれたから、さすがだな、と思ったね」
「そんなことだったんですか!」
「まぁ、怒らないでくれ。伊庭の残した思いを実現させたかったこともあるんだ」
「ところで今、棚倉さんのことを〈彼女〉と呼びましたよね。それってつまり……」
「伊庭と同じだ。ぼくの同級生なんだよ」
そういうことだったのか。どうりで今の在校生が誰も知らないはずだ。
「とにかく伊庭の思っていたことは、大時計にかかわる伝説を何とか残しておきたい、ということだった。大時計と自分の家との関係や伊庭自身の存在を知ってほしかったのだろうな。君たちがそこまでたどり着くことができたら、私から種明かしはしようとは思っていた」
「本は時計室にあった、とおっしゃいましたよね。すると缶に入れて埋めたのは誰ですか?」
「ぼくだよ」
暗号には黒ユリについて書かれていた。ところがまどかも黒ユリの花を、この夏に見ている。だとしたら、暗号文が書かれたり、缶が埋められた時期は最近のことではない。
それに、暗号文は五十音の46文字を並べ替えたアナグラムでできている。
簡単には作れない文章なのに、たまたまそこに黒ユリが咲いていた、などという偶然が、どうしてありうるのだろう。
「考えてごらんよ」
西澤先生は、まどかと祐介に、パズルを出題するように問いかけた。
「私からいいですか?」
川村先生が間に入るように言いだした。
「写真を撮影するとき、後からコンピュータで補正して、建物や物体の傷を消す処理をするということが、ときどき行われることがあるんです。いわゆる修正ですね。では西澤先生、きれいな写真を作るために、他にどんな方法があるでしょう?」
「いきなり何の話を……パズルですか? うーん、わかりません」
「あらかじめ被写体にペンキを塗ったり、修理をしてから撮影すればいいんです」
「そうか!」祐介がつぶやいた。
「黒ユリが咲いていたのは偶然じゃないんだ。あれは先生が植えたのでしょう?」
「その通り」西澤先生はバレてはしかたがないという顔をして言った。
「暗号文はアナグラムだから言葉を入れ替える自由はきかない。だから現実の方を暗号に合わせたわけだ」
「それじゃあ……」
ユリの球根を植える季節は秋だ。すると先生は、今日のこの日を予見して、少なくとも前の年からその「仕込み」をやっていたことになる。ということは?
「ただ、正確じゃないことは白状しないといけないだろうな。あの花は本当はクロユリなんかじゃなくて、ただの黒いユリなんだから」
「え?」
「本物のクロユリは寒冷地の植物だ。うまく栽培できても花が咲くのは春だし、あっと言う間に花の時期は終わってしまう。高山植物というのはそういうものなんだ。短い夏に一生懸命に咲く。だから植えてあったのは、単に黒い品種だ」
まどかは、それなら体育倉庫の屋根も西澤先生が青く塗り直したのではないか、と疑ってみたくなったが、いくらなんでもそれはやりすぎだろう。
「先生、それじゃ以前から今日のために仕掛けておいたわけですか?」
「そうだね。暗号……というより元の文はずいぶん苦労して作った思い出があるな」
西澤先生は、手帳を左手で支えながら、右手にシャープペンを持って、驚くような速さで踊る人形を書いていった。
「ドイルの作ったものだけでは足りないから自分で作って、暗記してしまったくらいだよ」
「時計に貼ってあったラベルも先生なんですか」
「もちろん。図書委員長なら、あれが図書ラベルであることはすぐにわかるだろう。そして十進分類の数字から、暗号文をはさんだ手紙を発見してくれるだろうと期待していた」
「でも、誰にでも見える場所に貼ってあるんですよ」
「時計塔の秘密を探れ、と言われなければ、わざわざほんの一角しか見えない時計に注目したりはしないさ。それに望遠鏡がないとほとんど見えない大きさで書いてある」
西澤先生は、わざわざポケットのメガネを出して、レンズを拭いた。
「先生は」
まどかは、そこで言葉を切った。
「謎を解くのは誰でもよかったのでしょう? 何もあたしたちじゃなくても」
やや沈黙。
「そういうことだな。仕掛けは何年も前にやっておいたから。しかし今年こそ、ようやく謎にチャレンジしてくれそうな〈探偵〉が出現したということだ」
「だから、神郷が生徒会長になったのを見計らって、生徒会室のロッカーに手紙を入れた」
西澤先生がお茶を吹いた。
「吉見、そこまでわかったのか」
「わかります。ロッカーはいつも生徒会が使っている。神郷が今日掃除をしたように、ロッカーを使っていれば手紙は簡単に見つかる。発見が困難なように隠してしまえば、今度は誰にも読まれない。めざす相手の在学しているときに、都合よく読んでもらうためには、手紙は最近になって入れたものでなければならない」
「まさにその通り。どうして思いついた?」
「難攻不落のアリバイ・トリックを考えていたんです。ポストに入った手紙の消印は数日前なのに、手紙の中身は今朝の朝刊だというやつです」
「あぁ、それなら有名なトリックだから、ぼくも知っているよ」
「では、これならどうでしょう。手紙の中身は沖縄の地方紙の切り抜きなんですが、それを今の条件で、受取地は札幌だということで。しかも当の差出人は沖縄から離れず、飛行機にも乗っていないという条件で」
「そんなことが可能なのか」
「可能です」
「そういうことを考えていて、駅で先生とぶつかったわけ?」まどかがあきれる。
「え、うん。そう……」 祐介は照れ笑いを始めた。図書館に来たとき、祐介はそれをまどかに説明しないで、忘れていたのだ。
「あっきれた~。おまけに階段から落っこちるんだから」
「ごめんよ!……って、オレ、誰にあやまってるんだっけ?」
準備室は爆笑に包まれた。
早く図書館を出なければならない。話を切り上げて、まどかと祐介はカバンを持って帰る準備を始めた。川村先生もストーブを消して、戸締まり体勢に入った。
「西澤先生」
「ん、行橋さん、何かな?」
まどかは、例の「図書委員長様」の封筒を取りだした。
「どうして棚倉さんからのこの封筒があったんですか? まさかこのために何十年も残しておいたとか」
「さぁね。ただこれだけは言っておこう。ぼくも図書委員長だったんだ」
トリックの好きな数学者は、それだけを言って笑った。
「もうひとつだけ。先生、本当にこれで良かったんですか?」
「何が?」
「伊庭さんの遺志が、これで果たされたことになるんでしょうか。あたしたちの謎解き程度では、とうてい浮かばれないように思うんです」
「おいおい……大丈夫。充分に伝説は完成したさ。それに伊庭君を勝手に殺しちゃ困るな」
「?」
「やつは元気で生きてるよ。今も学校前の実家で宝飾店を経営している」
「えっ、だってさっき……それっきり会うことはなかった。って」
「そうか! すまんすまん。あの話は高三の終わりのことなんだ。だから伊庭は、遠くの大学に合格して、現地に行ってしまったんだ。それだけのことだよ」
「何ですって。騙された~」
なんだかくやしい。これからは西澤先生の言葉をそのまま信じ込むのは止めよう。
すっかり暗くなった駅までの道を、二人は急いだ。
商店街のアーケードを抜けて、横断歩道で信号が変わるのを待ちながら、まどかが切り出した。
「吉見君」
「うん」
「とぼけないで教えてくれない?」
「何を」
「西澤先生と、どこまで打ち合わせていたの?」
「……」
「気がつかないと思っていた? じゃあ言ってあげる。スコップを花壇のそばに置いたのは吉見君だよね?」
「どうしてそれがわかった」
「こんな寒い季節に、花壇の道具を使うことはない。なのにスコップの箱が外に出ていた。通常はしまい込んであることは、西澤先生があたしに片付けるように言ったことからわかる。箱をわざわざ外に出した目的は、もちろん花壇をすぐ掘れるようにしたかったから」
「だったら西澤先生本人かもしれないじゃないか」
「あたしが開けようとしたとき、物置の南京錠は裏返しにかかっていた。南京錠は右手でかけたとき、表向きになるようにできている。先生は右利き。さっき人形の絵を手帳に書いていたからそれは確か。それにあたしも授業でいつも板書を見ている。つまり犯人は」
「犯人って、物置を開けただけだよ」
「スコップを外に出したのは左利きの人か、さもなくば右手が不自由な人物ということになる」
三角巾で吊っている、痛々しい祐介の右手を、まどかは見つめた。
「本当は、部活中に頼まれただけなんだ」
「なんて?」
「物置を開けてスコップを出しておいてほしいって」
「本当にそれだけなの?」
「『暗号文が何文字あるかを数えてみろ』と、先生からは言われたけど」
あっ、こいつ。重大なヒントを!
「こらー!」
「ごめんよ~、隠すつもりはなかったんだ。さっそく教えに行ったじゃないか~」
「許さないっ!」
青信号に変わった横断歩道を、まどかは祐介の後を追って走った。
その勢いのまま、二人はオレンジ色に照らされた駅の階段を、笑いながら駆け登っていった。
ちょうどプラットホームに電車が滑り込んで、改札から発車のアナウンスが聞こえていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます