第二話

 今日が自分の三十歳の誕生日だと気づいたのは、最寄り駅に着いたときだった。 

 ふいに猛烈なさみしさが襲って来た。


 由香利は「結婚しても、遊ぼうね」と言ってくれた。でもそれが難しいことは、由香利自身が一番分かっているはずだった。結婚して自分の家族が出来ると、独身のころのようには出かけられない。まして、子どもが出来たらなおさらだ。それでも、あたしのことを思って、「結婚しても、遊ぼうね」と言ってくれたんだ、と思うと、さっきちゃんと笑顔でいられただろうかと心配になった。


 三十歳。

 ――不思議だ。

 昨日と変わらないはずのあたしなのに、なんだか全然違うような気持ちになる。


 気づけば、一人だった。

 由香利が結婚することで、あたしは気軽に誘える友だちがいなくなってしまった。

 彼氏はいない。二十代の半ばで、そのときつきあっていた人となんとなく別れてしまって以来、ずっと恋人がいないままだった。


 あたし、このまま一人でいるのかなあ。

 初夏のじわりとした熱気があたしを包み込んだ。

 その湿気を含んだ暑さはさみしさを閉じ込めて、あたしにまとわりついた。


 会社とマンションの往復の日々。

 仕事にも特にやりがいはなかった。あたしじゃなくてもいい仕事ばかり。

 あたしの特技は、字がきれいに書けること。特に筆文字には自信があった。小さいころから祖母に書を教えてもらっていて、文字を書くことが大好きだった。祖母は日本文化全般に精通していて、書以外にもいろいろなことを教えてもらった。和歌とか着付けとか。


 でも、そんなもの、今では特技とも言えない。役立つ場面はないから。

 会社でも手書きをすることはほとんどなかった。

 それに、忙しかった両親に代わってあたしを育ててくれた大好きな祖母も、数年前に亡くなってしまっていた。



 花嫁姿、見せたかったな。

 普段なら全然思わない後悔が襲ってきた。

 祖母が亡くなる前に戻れたらいいのに。そうしたら、花嫁姿を見せられたかもしれない。


 ……ううん。

 それじゃ、だめ。間に合わない。

 いつがいいかなあ。やり直すの。

 大学生? 二十歳くらい?


 だめだめ。

 それじゃ、仕事も恋愛も、あたしならでは! ってものが出来ない気がする。それより、もっと前。……でも、中学生とかには戻りたくないなあ。


 ――十六歳?

 十六歳ってどうだろう?

 高校生で、自由も増えて、でも大学生のときみたいに就職とかそこまで意識しなくてよくて。


 ああ、今思えばあたし、高校生のとき、なんでもっといろいろなことにチャレンジしなかったんだろう! 今のあたしの意識のまま十六歳に戻ったら、楽しいだろうなあ。いろんなこと、やりたい! 書を究めてもいい。そう言えば、おばあちゃん、「書道家になったら?」って言ってくれていたなあ。なんで目指さなかったんだろう? みんなといっしょがいいと思って、なんとなく大学に行って、なんとなく就職して。そうじゃなくて、あたしらしい道を行けばよかった!



 あたし、十六歳に戻りたい!

 それで、自分の特技をもっと磨いたりするの。書道家を目指してもいい。恋愛も、もっとしたい!


「ほんとうに、十六歳に戻れたらいいのに」

 あたしがそう、口に出したときだった。



「その願い、叶えよう」



 群青色の空から、心の奥まで届く、なんとも耳に心地良い声が降って来た。 

 同時に、光る筆が現れ、空中に何か文字を書いた。

 筆の光と月の光が合わさって、きらきらとあたしを包み込んだ。

 これは、夢?




 きらきらした光にふわりと包まれて、あたしの意識は途絶えた――



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