最終話 あぽとーしす
「じいちゃん、久しぶり」
「そうだよ。一年って早いよね」
「ん?」
「確かに。何と比べて早いんだろうね」
「そうだ。一年前、じいちゃんが僕に言ったこと覚えてる?」
「うん。そう」
「僕が見失ってる大切な人って」
「分かったんだ、僕」
「うん。ホントだよ」
「それは、きっと」
***
パキっと爪が割れる感触がした。
ビリビリとしびれるような感覚はあったが、不思議なほど痛みを感じない。
なおも指に力を込めて本に印字された文字を引っ搔くと、開いているページに血の筋が走る。
既に紙には無数の皺が入り、文字は剥がれて判読不能となっていた。
それを確認すると、自分が胸の内に抱えていた重りがスッと消えていくのが分かる。
僕はその感覚を逃すまいとしている。
「よう」
狭い空間に響いた声に振り返ると、どこか見覚えのある容姿の男が立っていた。
「はじめまして、だな。意外と」
彼の言葉には答えず目の前で起きていることを必死で整理し、限界まで高鳴った心臓を落ちつけにかかる。
息を深く吸って、吐く。吸って、吐く。
この空間を満たす気体は、なんだか粘度が高いような気がした。
「なんだ、得意の見て見ぬか?」
その言葉にまた心臓が小さく跳ねる。
「ずっと会いたかったって、泣きつけよ」
「感動の初対面だろ」
僕は感じたことのない種類の苛立ちを噛みしめ、彼の方に向き直る。
「もっとドラマチックな出会いだと思ったか?」
彼は座ったままの僕を見下ろしながら話した。
「……別に」
「相変わらず凄いな」
彼はこの空間の大半を占める大量の本を見回してつぶやく。
「俺なら一生かけても読めそうにない」
「お前はこの本の数だけ人の心を読んできた」
「で、それがお前のってわけだ」
彼が僕の持っている本を指さす。
僕は無意識に本を抱え、うつむいた。
「いつも引っ掻いてるから、さすがにボロボロだな」
「いつから僕を見てた?」
僕は頭の中を駆け巡るいくつもの疑問の中から一つを選んで口にする。
「いつから?」
彼は、きょとんとした顔で僕を見た。
「俺はずっとここにいたんだ。お前が見ようとしなかっただけで」
彼は手近にある誰かの本を手に取り、パラパラとめくる。
「便利なもんだよな。本から消せば自分の気持ちを消せるなんて」
「でも、跡は残るんだ。爪で擦った跡も文字の残滓もページに走る皺も」
彼は持っていた本を閉じて本棚に戻す。
「嫌な思い出が形のないもやもやに代わるだけなのに」
「それで心をすり減らして戻れなくなって」
「……分かってるよ」
もう戻れない。
そうやって正気を保ってきたのだ。
「分かっててやってたんだ」
「寂しいと思ったら、それを消して」
「悲しいと思ったら、それを消して」
「何が本当の気持ちか分からなくなって、全部消して」
「だから、もう」
僕はハッとして抱えていた本を開きなおす。
うっすらと浮かび上がる文字を、爪の剥がれた指先でなぞる。
「もういいんだ。もう……」
「おい」
僕が話している間、ずっと黙っていた彼が突然僕に声を掛ける。
彼の方を向いたとき、彼は自分の懐から本を取り出していた。
「お前の本だ」
僕は意味が分からず、呆然と彼が持つ本を見つめる。
「美品だぜ」
彼は笑いながらそう言って、こちらに向けてページをめくって見せた。
僕は思わず目を背ける。
「嘘だ」
自分の持っているボロボロの本に視線を落とす。
「僕の本はこれだ」
「世界に一冊しかない本の方が珍しいと思うぜ、俺は」
彼が浮かべる冷笑は、生きた蟻で遊ぶ子供のように見えた。
「コギさんがさ」
彼の口から突然知った名前を聞いて、体がびくんと跳ねる。
「コギさんが死ぬとき、お前はなんで見送った?」
その瞬間、僕は胃からせり上がってくる強烈な吐き気を感じてうずくまった。
あの日の痛みや目まい、不快感が鮮明によみがえってくる。
「答えろよ」
僕はその質問に対して抗えない何かを感じ、答えを探す。
「……僕が助けられる状態じゃなかった」
「へえ。自分についた嘘をまた俺につくのか」
「嘘じゃない」
「お前、ホントに何も分かってないのな」
彼の口調に初めて哀れみのようなものが混じる。
「お前は見送ったんだ。わざと」
「……なんで?」
「あの人の大切さをはかるためだ」
「そのためには絶好のシチュエーションだよな。死ぬところを見られるなんて」
「……違う」
僕は動悸を抑えるのに必死で、彼の言葉に集中できなかった。
「まあ、いいや。俺にとってはどうでもいいことだ」
「お前は、お前は誰なんだ?」
「今更だな」
「夢の中に出てくる奴に身元を聞いて、どれだけの意味がある?」
「俺はお前なんだよ。持ってる本の数が違うだけだ」
「これ、欲しいか?」
彼は、そこで初めてしゃがみ込み僕と目線を合わせた。
「お前、みんなみたいになりたいんだろ?」
「見たいものが、やりたいことが、会いたい人がいる生き方ができなくて狂いそうなんだろ?」
「これに全部書いてある」
「だからさ、ここにある本全部と交換しようぜ」
彼は突然声を弾ませ笑みを見せた。
「俺もお前の本はもう読み飽きた」
「悪い条件じゃないだろう」
「まあ、お前が今更これを読んでまともでいられるわけないけどな」
「自分の気持ちと向き合ってこなかったお前が」
彼は楽しそうに笑いながら本をバサバサと揺らし、僕の顔を覗き込む。
「なあ、どういう風に狂いたい?」
***
「おはようございます」
「先生、おはようございます」
丸椅子に腰掛ける青年は丁寧に頭を下げた。
落ち着いた態度と抑揚のないドライな声も相まって、かえって印象の良くないお辞儀だ。
「何か飲むかい?」
私は椅子に座る前に電気ポットに向かう。
「はい。では、コーヒーをお願いします」
私はその答えに満足して、インスタントコーヒーの粉を棚から取り出す。
「結構です」と「なんでもないです」を言わないことは、私が彼に与えた課題の一つだ。
それはすでに彼の習慣として溶け込みつつある。
習慣は体に染み込み、心の形を整えてくれる。
彼が睡眠薬の過剰摂取で病院に運ばれたのは、2か月ほど前のことだった。
最近では、病院で処方されるような薬を多量に摂取しても命に関わるようなことは少ない。
しかし、それでも薬で長時間眠り続ければ危険性は高まる。
彼の祖母による救急への通報が無ければ、何が起きてもおかしくなかっただろう。
一月前にこちらに転院してきた頃には症状はかなり改善していたようだったが、彼の心は眠ったままのようだった。
「ええと、昨日はどこまで話したでしょうか?」
私がコーヒーカップをテーブルに置くのとほぼ同時に、彼は話し出した。
私はゆっくりと椅子に腰掛け、自分の分のカップに口を付ける。
「そうだ、私が彼と出会ったところまででしたね」
彼は手を叩いて、流暢に話し始める。
「一目見て僕は気づいたのですよ。彼が僕の探し求めていた人だって」
「僕はそのとき心底失望したのです」
「彼はまぎれもなく僕その人だったのです。奇妙に思われるかもしれませんが」
「がっかりでしょう。お前かよって感じで」
彼は苦笑いを浮かべて、両手を広げて見せる。
彼のこの話を聞くのは今回で8回目になる。
どこまでが本当なのか、はたまた全てがでたらめな妄想なのか、私には判断しかねるが。
とにかく、彼の心がその体験の中に幽閉されていることは間違いなかった。
消化しきれない後悔や心残りが枷となり、彼の精神をその時間に縛り付けているのだ。
しかし、その呪いは順調に解かれつつある。
回数を重ねるにつれ、本人の心情描写が増えていることがその証左だった。
「彼との本の交換については、とても迷いました」
「それに応じることは、この先僕は人の心を読めなくなるということを意味するからです」
「もちろん祖父も例外ではありません。僕が心を読めなくなることは、祖父と永遠に別れることと同じなのです」
「しかし、これは祖父が僕に示してくれた道です」
「僕が祖父と別れ、自分の気持ちと向き合うように導いてくれた」
「たとえ、寝たきりのまま唯一の話し相手を失って暗い孤独に落ちたとしても」
彼は目に涙を滲ませて、しばらくうつ向いていた。
「結果として僕は自分の心を手に入れたわけです」
「ここにね」
そう言って、彼は一冊の本を懐から取り出す。
隣の待合室の小さな棚に置いていた児童書の一冊だった。
マントとシルクハットを身に着けた狐とイノシシが表紙に描かれている。
それが彼の精神の依り代のようなものなのか、はたまたこの児童書が彼の言うところの「自分の本」に実際に見えているのか、私には分からなかった。
「先生、僕は今夜この本を読もうと思うのです」
「そのとき、僕がどうなってしまうのか僕自身にも分かりません」
「今日までありがとうございました」
彼は深々と頭を下げた。
「きっと、また会えますよ」
私がそう言うと、彼は寂し気に笑い椅子から立ち上がった。
その日の夜、彼は病室から姿を消した。
油性ペンで隙間なく真っ黒に塗りつぶされ、乾いた血の筋がいくつも入ったあの本を残して。
***
あるところに、小さな小さな子どものキツネがおりました。
キツネはお父さんやお母さんのキツネに大切に育てられ、ついに独り立ちの日を迎えます。
最初は寂しがっていたキツネでしたが、虫を食べ穴を掘り懸命に生きるうちにどんどんたくましくなっていきます。
そんなある日、キツネは森の中にぶどうの実がたくさんなっている場所を見つけます。
黒っぽい紫色をした光沢のある粒は、とてもおいしそうです。
ふと見ると、その中の一本の木の枝に一匹のカメが乗っていました。
「カメさん、何をしているの?」
キツネがカメに話しかけます。
「見たら分かるだろう。あのぶどうを食べたいんだ」
カメが乗っている枝の先には、確かに大きくて立派な実がなっています。
話している間にも、カメはゆっくりと足を前に出し枝に爪をひっかけて前進します。
「ふーん。でもそんなに遅くっちゃ凄く時間がかかるよ?」
「そうだね」
「あの実はそんなにおいしいものなのかい?」
「さあね。食べたことがないからね」
キツネと話している間にもカメは歩みを止めません。
ときどきバランスを崩しながら、必死にしがみついて登ります。
そのとき、キツネはカメの身体が傷ついていることに気づきました。
こうらにはヒビが入り、手足にもすり傷がいくつもあります。
木の枝を登るうちに何度も地面に落ちているのでしょう。
その光景に、キツネはしばらく目を離すことができませんでした。
その後、キツネが会ったのはネコでした。
全身真っ黒の毛をしたネコはひどく痩せており、ひときわ高いところになったぶどうの実をじっと見つめています。
「ネコさん、何をしているの?」
「あのぶどうが落ちてくるのを待ってるの」
ネコは高くてか細い声で答えました。
「え?でもあの実はまだ熟していないし、しばらく落ちてこないと思うよ」
「それに、君はネコなんだからあんなところはひとっ飛びで届くじゃないか」
ネコはきょとんとした顔でキツネの方を見ます。
「そんなの、意味ないじゃない」
「あのぶどうは一番おいしいときに私のところに落ちてくるの。そうに決まってる」
キツネはネコのその眼差しを見たとき、背中の毛が一斉に逆立つのを感じました。
それは、人間やクマから感じる恐怖とは全く違うものでした。
その後、会ったのは人間の子どもでした。
その子どもは、小さな体に不釣り合いに大きなリュックを背負って森の入り口に座っていました。
「人間さん、何をしているの?」
「やあ、キツネさん。僕は今この森にお別れを言っていたところさ」
「お別れ?」
「うん。僕はこれからこの森を出るんだ」
子どもはとても寂しそうな目をキツネに向けます。
「どうして?」
「僕は、僕の欲しいものが欲しくてね」
首をひねるキツネの様子を見て子どもは言葉を続けます。
「例えば、この森にはぶどうがたくさんなっているだろう?」
「うん」
「みんながそれを欲しがっている」
「うん」
「でも、僕はそれが全然欲しくない」
「ぶどうだけじゃない。この森に僕が欲しいと思うものは一つもなかった」
「それってすごく悲しいことだろう?」
キツネはがんばって子どもの気持ちになろうとしましたが、うまくいきません。
「キツネの君にはわからないことかもしれないね」
子どもは立ち上がり、森に背を向けます。
「君は君の欲しいものを大事にするんだよ」
そう言って、子どもは霧の向こうに姿を消しました。
その後、キツネは自分の気持ちについて考えました。
自分はあのぶどうが欲しいのだろうのか?
きっとそうだ。
そう思うと、なぜかキツネはとても怖くなりました。
自分の中から突き上げるような大きな気持ちが体を飲み込もうとしているような、そんな怖さでした。
それ以来、キツネは巣穴にこもるようになりました。
暗闇に包まれてミミズを食べ眠るだけの生活は波立つ心を削って平らに、そして小さくしていくようでした。
ある日のこと、穴を掘っても掘ってもミミズを見つけられなかったキツネは木の実を探すために外へ出ました。
おぼつかない足取りで歩くキツネは、なぜか吸い寄せられるように一つの方向に歩いていきます。
その先には、ぽつんと一房のぶどうが他の実からはぐれたように枝からぶら下がっていました。
我を忘れたキツネはその実に向かって走り出します。
全力で走っているにも関わらず景色がゆっくりと流れる奇妙な眺めを見ながら、キツネは飛び上がりました。
もう少しで実に届くと感じたその直後、青空の背景に自分のしっぽが映し出されます。
どんどん実が自分から遠ざかっていく中、自分が崖から落下していることに気づきました。
次に目を覚ましたとき、キツネはかすむ視界の中で鮮明にかがやくぶどうの実を見ながら、無意識に鳴いていました。
クァーン……クァーン……クァ……。
その瞬間、ぶどうの実の一粒が落ちてキツネの顔の上でつぶれます。
ぶどうから弾けた汁が彼の舌を濡らしたとき、キツネはすでにこときれていましたとさ。
針の上で天使は何日踊れるか 桐林才 @maruhito
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