第三話 やぶれづき

馴染みのない背中の痛みで目が覚めたとき、段ボールで作られた狭苦しい空間に朝日が差し込んでいた。

地面の硬さに身悶えしながら起き上がる。


覚醒を待つ間にも自身の五感が新鮮な情報を次々と受け取っていた。

鮮明に聞こえる鳩の鳴き声。

10月下旬の冷たい空気。

泥と草の匂い。


不思議なことに、僕はそれら全てが自分の味方であるという確信めいた感覚を抱いていた。

少なくとも、あのアパートのあの部屋で接していた生温い空気や冷たい静寂よりは。


「コギさん」

前日の雨でぬかるんだ地面を歩きながら、川岸に腰かけて水の流れを眺めている男に声をかける。

「ん?」

顔を少しだけこちらに傾けた彼の横顔は、汚い服装に似つかわしくないほど涼し気に見えた。

尋ねたことはないが、年齢はおそらく僕とそれほど変わらないだろう。


隣に腰かけて彼のまねをして川の水面を見つめてみる。

「朝早いんですね」

「そうか?」

「何してたんですか?」

「何かしてるように見えたのか?」

視線を合わせないまま話す彼の声は、明瞭だが抑揚が無かった。


「あ、コギさん見ました?これ」

僕は段ボールに敷いてあった新聞紙の内の一枚を広げて見せる。

一週間前に発生したホームレス襲撃事件の記事だった。

「またホームレスが襲われたみたいですよ」

一年ほど前から不定期に起きている一連の傷害事件のようだ。

黒い覆面を被った男に鈍器で殴られた、という被害者の証言が載っている。


「そういえば警官がその辺うろうろしてるの見ましたし、場所も近いみたいですよ」

「コギさんも気を付けないと」

「死んだのか?」

「え?」

「そのホームレス、死んだのか?」

わずかな熱を帯びたような彼の言葉に、僕は戸惑いを隠せなかった。

てっきり、大きなお世話だと呆れられるものだと思っていた。

「いや、重症だけどとりあえずは大丈夫らしいです」

そう答えると、彼の表情は目の前の水面と同化するように穏やかに戻った。


彼と初めて会ったのは、僕が就職と同時に上京してすぐのことだった。

その日はこの河川敷で花火大会が行われており、同僚たち三人とともに訪れていた。


僕が配属された部署は三人と異なっていたため、全員が僕とほぼ初対面だった。

集合してから30分ほどで、僕は彼らの無味乾燥な雑談に辟易していた。

耐えかねた僕は人混みの密集度がピークになった頃に彼らから離れ、会場から一人で遠ざかり始めていた。


とりあえず人混みが途切れるところまで川沿いを歩いてきた僕は、河川敷に降りたところでコギさんの家を見つけたのだ。

河川敷の中でも一際背の高い草が生えそろった中にぽっかりと空いた空間があり、地面には段ボールが敷かれている。

そこに魅入られたように足を踏み入れた僕が次に見たものは、黄色い牙をむき出しにして襲ってくる四足獣だった。


***


「お前、なんでまだここにいるんだ?」

過去の記憶をたどるのに夢中になっていた僕は、彼の一言でハッと我に返る。

「昨日、言ったじゃないですか。仕事辞めて暇だからしばらくここにいるって」

「しばらくってのは2、3時間のことだろう」

「見解の相違ですね」


コギさんと出会ってからは不定期にここを訪れていたが、一晩を過ごしたのは初めてだ。

一日半ほどを過ごしたことで、僕はすっかりこの場所を気に入っていた。

ここには、砂と石と水と泥と草と段ボールと新聞紙とビニールシートしかない。

僕の嫌いなものは何もなかった。


冷たい風が体を突き抜けていき思わず身を縮ませる。

それと同時に足に柔らかい温もりを感じた。

優しい顔をした茶色い犬が足元に座り込んでいる。

「こいつ、僕のこと憶えてないんですかね?」

「さあな」

「だって、初対面の時は思い切り飛び掛かってきたのに」

「あの時は花火の音に興奮してただけだ」

彼の口調は、まるで自分の失態について弁明するかのようだった。


「で、結局お前はいつまで居座るつもりだ?」

「そう邪険にしないでくださいよ。手土産もありますから」

彼は無言のまま立ち上がって段ボールと木の板で出来た小さな家に入っていく。

「缶コーヒーですよ。ほら」

僕はコンビニのビニール袋を持って追いかける。

「何してるんですか?それ」

彼は、組み立てられた段ボール箱に周りにあるものを片っ端から詰め込み始めた。

鍋やカセットコンロ、パンの耳などが入っている。

「明日の引越しの準備だよ」

「え?ここ出るんですか?」

「ああ」

「どこに?」

「ここじゃないところ、だ」

すぐに背を向ける彼の声には、わずかな期待や興奮が混じっているように感じた。

それは、僕が初めて見る彼の一面だった。


実際のところ、僕が彼について知っていることはほとんど無かった。

彼は、何も欲しがらない。何も大切にしない。

それくらいだ。

というのも、僕の夢でも彼の心が本棚に並ぶことは現在までなかったのだ。

それは、僕の知り合いの中で彼が唯一のケースとなる特例だった。


知りたい、と思ったのだーー。


人の心を推し量るということは、僕以外の人間にとって当たり前の習慣だろう。

しかし、僕はその愉悦を彼から知ったのだ。

できることなら、もう少し一緒にいたい。

僕にとっての彼は何者か。それを知るために。


***


「犬って缶コーヒー飲むんですね」

「他の犬は知らないけどな。こいつは飲む」

缶を傾けて犬の口元に当てるコギさんの目はどこか寂し気だった。

犬は一心不乱に飲み口を舐めている。


「こいつは連れて行かないんですか?引っ越し先に」

「無理だろうな」

「無理?ペット禁止のマンションとかなんですか?」

コギさんは僕の質問に答えず、缶が空になったのを確認してビニール袋に入れる。

「僕は」

引っ越し先の話になると口をつぐむ彼の意図をはかりかねていた僕は、こらえていた気持ちが口をついて出てしまった。

「僕のことは連れていけますか?」

そこまで口に出して、ようやく僕は彼に惹かれる理由の一端を見た気がした。

僕は、彼になりたかったのだ。

何にもなびかず、ただその目に世を映すだけの水たまりのような彼に。

「……無理だ」

5秒ほどの沈黙の後に短く答えた彼は、段ボールのベッドに横になった。


草むらの外側から人の気配を感じたのは、コギさんが寝てから一時間ほどたった頃だった。

草が擦れる音のリズムに、わずかな違和感を感じたのだ。

上半身を少しだけ起こしてみると、段ボールハウスの入り口に立つ黒いシルエットが目に入る。


月光を浴びて佇むその男の顔は逆光でよく見えなかった。

先ほどまで寝落ちしかけていた僕はしばらくその光景を眺めていたが、次第にコトの重大さに気づく。

その男が手袋を両手にはめてニットキャップのようなものを頭から被り始めたところで、僕の脳は急激に回転し始めた。

黒い覆面。手には金属製のバット。ホームレス狩りの男。


男が段ボールハウスに一歩踏み入れた瞬間、僕は飛び掛かっていた。

無我夢中で男にしがみついて羽交い絞めの体勢をとる。

「おい!誰だお前!」

憤然と叫び暴れる男にすぐに振り払われた僕は、泥だらけの地面に突っ伏した。

すぐにコギさんの方向に向き直る男を見て、今度は足にしがみつく。

「ふざけんなお前!殺すぞ!」

「コギさん!逃げて!逃げてください!」

怒号が交錯する中、衝撃とともに目の前が真っ白に光った。

地面に倒れてから、男が振り回したバットに側頭部を殴られたことに気づく。

意識が朦朧とする中で目の端にとらえたのは、男に襲い掛かる犬の姿だった。


犬の鳴き声がしばらく響いた後、夜空を見上げる僕の視界にコギさんの顔が覗いた。

「生きてるか?」

彼の声は僕に呼びかけるというよりは、独り言のようだった。

「……はい」

何とか酸素をかき集めて声を出す。

かすかな音量の自分の声が、頭に響いてうるさかった。


「そりゃよかった」

相変わらず抑揚のない声でつぶやきながら、彼は首にかけていたタオルを外す。

それをそのまま僕の首に巻き付けた。

「何ですかこれ?」

そう喉を震わせようとしたとき、自分の首が既にかなりの力で圧迫されていることに気づいた。

徐々に視界が狭くなり、景色が遠ざかっていく。

「じゃあな、カイ」


***


ここは、とある王さまの住むお城。

一人の王子さまが暮らしていました。

王さまはとても裕福で、とてもやさしい王さまでした。


「王子、何か欲しいものはあるかい?」

王さまはいつも王子さまに問いかけます。

「ううん、何もいらないよ」

王子さまはいつもそう答えました。

それは、王子さまの本当の気持ちでした。


ある日のこと、王さまはいつものように王子さまに問いかけました。

「王子、何か欲しいものはあるかい?」

「ううん、何もいらないよ」

そのとき、王さまは初めて悲しい顔になりました。

そんな王さまを見た王子さまも、なんだか悲しくなってしまいました。


次の日、また王さまが王子さまに問いかけます。

「王子、何か欲しいものはあるかい?」

王子さまは少し考えてこう答えます。

「ジグソーパズルが欲しい」

王子さまはうそをつきました。


王さまは大喜び。

すぐに、ありとあらゆるジグソーパズルをお城に集めました。

その日から、王子さまは来る日も来る日もジグソーパズルを組み立てました。

王さまはそんな王子さまを見て、とてもうれしく思いました。


ある月夜、その日も王子さまはパズルを組み立てていました。

ふと、窓から射す月光が目に入り窓から夜空を見上げます。

そのとき、王子さまはとてもつらい気持ちになりました。

「これは僕の欲しいものじゃない」

「ここには僕の欲しいものがない」

王子さまの目からは自然とナミダがこぼれ、その夜は泣き疲れて眠ってしまいました。


翌朝、王子さまはバラバラになったパズルのピースの上で目を覚ましました。

そのとき、彼の目に飛び込んできたのは窓の外の広い世界でした。

このお城の外なら、あんな広い世界のどこかには、僕の欲しいものがあるかもしれない。


その夜、お城の人たちが寝しずまったころに王子さまは自分の部屋をこっそりと出ました。

ろうかをゆっくりと歩き、お城の裏口にたどり着きます。

外に出るトビラに手をかけて、手に力を入れます。

王子さまは、このトビラから外に出たらもう帰れないと思い怖くなりました。


そのとき、わずかに開いたトビラのすき間から、水が室内に入ってきました。

足元の水が王子さまのクツにしみ込みます。

王子さまにとって初めてのその冷たさは、一歩目をふみ出す勇気を王子さまにくれたのでした。


***


意識を取り戻すと同時に、一気に頭に血が昇っていく。

急いで体を起こして、状況を整理しようと懸命に思考を巡らせる。

泥にまみれた服、慣れ親しんだ自室の光景、頭に響く鈍痛。


夢で読んだ本。

そうだ、あれはコギさんの本だ。

行かなくては。


床を這うように玄関に向かう途中、テーブルの上に置かれている玄関の鍵が目に入る。

やはりーー。

僕は河原で気絶した後、コギさんにここに運ばれたのだ。

僕が以前に話したアパートの情報を頼りに探して、僕のポケットから鍵を抜き取って。


何とかアパートの階段を降りて道に出た時には、少しずつ頭がさえ始めていた。

ハッと時刻が気になり携帯電話を取り出す。

0時53分。

気を失っていたのは1時間ほどのようだ。

まだ間に合うだろうか。

意識の覚醒とともに大きくなる頭の痛みに耐え、壁に寄りかかりながら角を曲がる。

ここから河原までは一直線だ。


その時、街灯の光を背にした見覚えのあるシルエットが見えた。

まとまらない思考の中、目を凝らして必死に記憶をたどる。

そうだ、あの男。


「やっぱりな」

5メートルほどの距離に立つその男がつぶやくように声を発した。

「お前、見たよな俺の顔。あの河原で」

「今のお前の表情で確信できたよ」

男は手に持っているバットを肩に乗せた。

「殺すのは俺の趣味じゃないんだけどな。しょうがないよな、見たんだから」

男は心底気だるそうに話した。

僕はと言えば、自分でも不思議なくらい恐怖を感じていなかった。


「ところであの犬はなんなんだ?お前のペットか?」

「俺、犬ダメなんだよ」

次の瞬間には、目の前に地面が迫っていた。

額を思い切りマンホールの蓋に打ち付ける。

頭部の衝撃とともに腹部に熱と痛みを感じ、初めて腹をバットで突かれたことに気づいた。

「人間殴る時はな、振り回しちゃダメなんだってさ。予備動作が大きくて避けやすいからな」

「両手でしっかり握って突くんだ。勉強してきたんだぜ、俺」

体が全く動かず意識も飛びかけているはずなのに、男の声は鮮明に響いた。

直後に、僕の右足首にバットの先が振り下ろされる。

衝撃から1秒ほど遅れて激痛が走る。声も出ない。

シャツの後ろ首の位置を掴まれて引っ張られる。

「一応、裏道でやるぞ」


その直後、怒号とも悲鳴ともとれる音が聞こえた。

数秒間の叫び声が重なり合って響いた後、突然顔に光が当てられて思わず目を閉じる。

「おい!大丈夫か?」

呼びかけられたのが認識して目を開けると、特徴的な形の帽子が見えた。

警察だ。

その後ろに目を向けると、男が別の警官に組み伏せられて暴れていた。

意識がチカチカと点滅する中、僕の思考は一方向に定まっていった。

行かなければならない。コギさんのところへ。


「動くな!すぐ救急車が来るから!」

僕が上半身に力を込めたのが分かったのか、目の前の警官が体を地面に押し付けてくる。

「ああああ!」

別の警官に抑えられていた男が奇声を発する。

目の前の警官がそちらに気を取られて振り向いた瞬間に、必死で立ち上がり走り出した。

そこから、僕の意識はさらにブツ切りになっていった。


気が付いたときには、泥の地面にうつ伏せになっていた。

今日何度目かの、断片的な記憶をかき集めて繋げる作業を必死に繰り返す。

背中から地面に叩きつけられたときの衝撃。

土手の上から降りようと下り坂で足を滑らせた瞬間の浮遊感。

必死に地面を蹴るたびに右脚に走る激痛。

追いかけてきた警官の腹に、拾ったバットを突き刺した時の不思議な感触。


コギさんの顔。

そうだ。僕は、彼に会いに、ここまで。


顔を上げた時僕の目に飛び込んできたのは、水面から上半身を出して月明かりに照らされているコギさんの後ろ姿だった。


***


「コギさん!」

僕は反射的に叫んだが、かすれてほとんど声にならない。

必死に呼吸を整える。

思い切り息を吸い込んだつもりでも、すぐに吐き出してしまう。


その間にも、彼の影は水面に少しずつ沈んで行った。

酸素をかき集めている何秒かの間、思い出していたのはいつかのコギさんとの会話だった。


「なあ、カイ。あそこに月が見えるだろ?」

「月?」

「すごく綺麗だろ」

「まあ。そうですね」

「で、この川にも月があるだろ?」

「……ああ、この水面に映ってるやつですか?」

「どっちが好きだ?」

「分かりませんね。考えたこともないです」

「俺は川に映った方が好きだ。このボロボロの月が」

「今度行くところは、月がこんなだったらいいな」


「コギさん!」

今度はしっかりと空気を震わせたはずだった。

その瞬間、ずっと僕の頭にくすぶっていた疑念が突然形を持ち、弾けた。


例えば、この声が届いて、彼が振り向いたら、僕は。

僕はどうするのだろう。


僕の中で膨らんでいくおぞましい疑惑とは裏腹に、彼が振り向くことは無かった。

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