第二話 わたしのあなた
「あ、カイ!
乱暴な口調に似つかわしくない甘ったるい声が、座り込んでいる僕の頭上から降ってきた。
顔を上げると、濃い化粧をした見慣れた顔と目が合う。
どう見ても10代後半にしか見えない作りの顔と厚化粧が、非常にアンバランスに見えた。
「金なんて持ってないよ」
見上げた彼女の後ろで光る月に視線を移しながら、言葉を返す。
今日はやけに大きく見える。
「何?また、冷やかしに来たの?」
彼女と知り合ったのは、僕がこの公園に通うようになってすぐの頃だった。
ここは半年ほど前から娼婦の客引きスポットとして有名になっていたが、本人の談によれば彼女はここの主のようなものだそうだ。
最初こそ、この公園に足繁く通いながら一向に誘いに乗らない僕を煙たがっていたが、いつの間にか客が捕まらない時間の話し相手になっていた。
「ってか、何で買わないくせにここ来んの?」
「市民が公園を使うのに理由がいるのか?」
「あ!質問に質問で返したら失礼なんだよ!」
僕の目的を教えたら、彼女が邪魔になることは明白だった。
彼女たちの横のつながりというか、情報網の強さは傍から見ているだけでなんとなく分かっているつもりだ。
特定の娼婦を探している男がいるなどという噂が流れれば、理由はどうあれ警戒されてコトが難しくなる。
「ねえカイ、最近この辺で変な噂が広まってるの知ってる?」
突然顔を近づけて小声で話し始める彼女から、香水とタバコが入り混じった匂いが舞った。
真夏の湿気た空気が、その嫌悪感を増大させる。
「ホテルに幽霊が出るって話でね」
「へえ」
僕は周りの人間に注意を払いながら、話半分に相槌を打つ。
「葉月の友達が噂のホテルに偶然泊まっちゃって見ちゃったらしくて」
「地べたを這いながら『助けてー』って叫びながら追ってくるんだって」
「で、その幽霊をよーく見るとね……」
「左耳が無かったんだって!」
心底恐ろしいというような、芝居がかった調子で彼女が言う。
「琵琶でも弾くのか?その幽霊は」
「ビワ?何それ?どういうこと?」
葉月は、不思議なものを見る目で僕を見た。
「質問に質問で返すのは失礼にあたるらしいぞ」
「どうでもいいけどさー、怖いから今日一緒に寝てよ」
「金が無いって言ってるだろ」
「えーつまんない」
顔を逸らした葉月の目の色が、何かを見つけてガラッと変わる。
「あ、常連さん来てる。またね!」
公園の入り口方向に駆け出したところで、葉月が振り返ってこちらに人差し指を向けた。
「あんたなら2万でいいからね」
***
その女を見つけたのは、午前二時を回ったところだった。
そろそろ帰ろうかと腰を伸ばしていたところで、偶然目に入ってきたのだ。
セミロングで栗色の髪の毛。白のサマーニットに、チェック柄の膝上スカートを身につけている。
そして、耳には大きな八角形のフープピアス。
内山
急いでポケットから取り出したマスクで顔を覆い、駆け寄る。
「すいません」
僕の声に反応してこちらを振り向いた彼女と目が合った。
吸い込まれそうな瞳に見惚れてしまいそうになり、急いで目を逸らす。
やはりと言うべきか、僕の知っている彼女の面影はどこにもなかった。
涼しげな二重まぶたに色白の肌、キレイに通った鼻筋も僕の持つ彼女の記憶と合致しなかった。
「あの、なんですか?」
その声に懐かしい響きを感じて、一度気持ちを落ち着ける。
彼女の方は、こちらの正体に気づいていないようだ。
肩に掛けていたバッグの内側のポケットから5・6枚の一万円札を取り出して、周りに見えない角度で彼女に手渡す。
「明日、同じ時間にここに来て欲しいんです。これの倍払うんで」
彼女の恐怖と期待の割合を表情から確認した後、僕は背を向けて早歩きで駅に向かった。
右手には異様に冷たい彼女の手の温度と感触が残っていた。
***
ここはとある山村。
一匹の黒猫がのんきに暮らしておりました。
ネコはお散歩に日向ぼっこ、それに人間と触れ合うことが好きでした。
ある日のこと、ネコは自分の背中から一輪の花が咲いていることに気づきます。
小さな、鮮やかな黄色の花です。
ネコはそれを特に気にしていませんでした。
しかし、ネコは人間がそれをとても欲しがることに気づきます。
ネコがお花を人間にあげると、人間からお魚がもらえました。
お魚をもらうと、狩りの時間が減ります。
狩りの時間が減ると、お散歩と日向ぼっこの時間が増えます。
お腹がいっぱいの時には、お魚の代わりに素敵な八角形のピアスをもらいました。
ネコは幸せでした。
ある日、一人の人間がネコに生えたお花を摘み取っていきました。
お魚はもらえませんでした。
ネコはとても怒って仕返しをすることに決めました。
あの人間が大切にしているモノを奪うことにしたのです。
***
最近はすっかり慣れてしまった手首の痛みで目を覚ました。
血と膿でこびり付いた包帯を、顔をしかめながら手首から引き剥がす。
あの夢を見ている間、僕は自分の手首を掻きむしっているらしかった。
それ自体は人の心を読む対価としては安いと受け入れていた。
しかし、それと同時に僕が記憶の底に沈めていた澱が舞い上がっているような、どうしようもない不安も感じていた。
新しい包帯を巻き直していると、テレビの電源が入っていることに気づく。
そうだ、映画を見ながら寝てしまっていたのだ。
高校生の男の子が巫女の女の子と精神が入れ替わるシーンまでは覚えている。
僕の嫌いなストーリーの典型だ。
服を着替えたり歯を磨いている間、僕は彼女との思い出の回想に耽っていた。
先ほど寝ぼけたままの頭に浮かんだ恐ろしい可能性をかき消すために、だ。
内山知羽は、僕が中学二年生の時に同じクラスになった。
前髪が長く垂れており、無表情であまり喋らない子。
正直な第一印象は『地味な女の子』だった。
隣の席というありふれた縁で話すようになった僕は、ある日の放課後に美術室で彼女と二人きりになった。
その時の記憶で残っているのは、彼女のたった一言だった。
「でも知羽、カイ君のこと好きだよ」
前後の文脈は全く思い出せなかったが、その言葉を聞いた時の気持ちは覚えていた。
顔が熱くなり、心臓がうるさい。
体全体に浮遊感が満ちて、なぜか手に残るバレンの感触だけが浮かび上がっていた。
僕は怖くなって逃げた。
文字通り、その場から立ち去ったのだ。
それ以来、一度も話さないまま彼女は転校した。
僕は恋愛ができなかった。
いわゆる恋心というものが、自分の内側で生まれる他の感情とは異質なモノに思えてならない。
何か大きな外の力によって動かされているような強烈な感情。
それは僕にとって、心を埋め尽くすガン細胞のような恐怖の対象だった。
しかし、僕は今それを追い求めている。
僕にとって彼女がどんな存在なのか、それを確かめたい。
彼女の本を読んだ時、そんな想いに駆られたのだ。
一通り出かける準備を整えた僕は、窓を開けて手を伸ばしてみる。
今日一日中振り続けていた雨は止んでいるようだった。
折り畳み傘を手に取ったが、なんとなく思い直して靴箱にしまい直し、玄関のドアを開ける。
***
ホテルを利用する時の勝手が分からずにただ後ろを着いてきた僕は、そのまま彼女に続いて客室に入った。
初めて入るラブホテルの室内は、想像していたものと大した違いは無い。
僕は、マスクを外してすぐに声を掛ける。
「久しぶり、内山」
「え?」
彼女は驚きの表情を浮かべた後、眉根をひそめたり右上を見上げたりくるくると表情を変えた。
あらためて見ても、僕の知っている内山とは思えなかった。
そして、突然力が抜けたかのようにベッドに座り小さくため息をついた。
「なんで分かったの?」
彼女は俯いてつぶやくように僕に問いかける。
「顔変えてから私のことが分かったの、カイ君が初めてだよ」
僕はそれに答える気は起きなかった。
「覚えててくれて良かったよ、僕のこと」
「中学以来だよね」
僕は努めて明るい声色で話した。
彼女は反応せず、俯いたままだった。
「元気だった?」
「内山も東京来てたんだね」
「中学の時は転校先とかも聞いてなかったけどさ」
「もしかしてあの時からこっちに来てたの?」
「私のこと」
内山がつぶやくように声を出した。
「私のこと、誰かに言った?」
「いや、誰にも」
「……そう」
僕は次の言葉を待ったが、彼女はまた何かを熟考するように黙った。
彼女の考えていることを図りかねていた僕は、とりあえず自分の気持ちを打ち明けることにする。
「中学の美術室でさ、二人で居残りしたことって覚えてる?」
「あれ以来、内山と喋ってなかったよね」
「あの時、内山の気持ちをちゃんと聞けなかったのが心残りで」
「私は!あの時の女じゃないから!」
僕の言葉を遮るように、彼女が叫んだ。
「あんな女のこと、見ないでよ」
絞り出すような彼女の声は、哀願という言葉がぴったりだった。
「ごめん、シャワー浴びたいんだった。行ってくるね」
「ああ、うん」
先ほど突然の大雨に降られ二人とも濡れていたが、僕はシャワーを浴びる気分にはなれなかった。
彼女が上の空の状態でフラフラとシャワーへ向かう。
話す順番を間違えただろうか、と僕は一人で反省し始める。
この日のために、何本かの恋愛映画やドラマを見てきていたが、やはり付け焼き刃にしかならなかったようだ。
部屋に残された僕は、自分が置かれている状況に居心地の悪さを感じていた。
やはり、恋愛は嫌いだ。
相手の気持ちはもちろんのこと、自分の気持ちさえ容易に見失ってしまう。
僕は何しにここへ来たのだろうか。
窓を叩く雨の音だけが古い友人のように、昔と変わらない顔で見守ってくれているようだった。
***
目を開けて飛び込んで来た見知らぬ部屋の風景に、戸惑いながら体を起こす。
ああ、そうか。
少し眠ってしまったらしい。
無意識のうちに手首を確認した僕は、真っ白なままの包帯に気づいた。
あの部屋に行かないまま目覚めたのは久しぶりだ。
そう思うと、心の中に爽やかな風が通り抜けた気がした。
帰ろう、と思った。
彼女が戻ってきたら、謝って金を渡して、それで終わりだ。
ふと、傍らに置かれた二つのポーチが気になった。
ピンクの方が化粧ポーチであることは、女性経験のない僕でもなんとなく分かった。
もう一つのレザー生地の方を手に取ってみる。
ジッパーを開いて広げると、中のそれはあまりにもあっさりと姿を見せた。
そして、僕もまた目の前の異常な光景をあっさりと受け止めていた。
恐らく、心の奥底ではこの可能性を確信していたのだろう。
「あ、見た?」
顔を上げると、バスタオルを体に巻いた内山が立っていた。
「それね、知羽とやって金払わなかった奴の耳なんだよ」
「そいつ、ミュージシャンになりたいって言ってたから。妥当な対価でしょ」
そう言いながら僕の隣に座る。
体から湯気を発する彼女から、ローズ系のボディソープの香りが舞う。
「ね、そんなことより早くやろうよ」
「カイ君もそのつもりで来たんでしょ?」
彼女がベッドに座り、身を寄せてくる。
放心状態の僕は取り繕うようなことができるはずもなく、ただ首を横に振るだけだった。
「何それ?」
彼女はなぜか心底うれしそうに笑った。
「あいつは知羽を奪って、カイ君は知羽を受け入れないって言うの?」
「わけわかんない!」
「そんなの許すわけないでしょ?」
「あいつみたいにしてやる」
彼女が僕の胸ぐらを掴んで思い切り引っ張る。
「言えよあんたの大切なもの!」
「奪ってやるから!」
それはーー。
それは僕が聞きたいんだ。
僕の『大切なもの』って何だ?
「分かった」
暫しの静寂の後、彼女の言葉でハッと我に返る。
「私でしょ?あんたの大切なものって」
彼女が化粧ポーチからハサミを取り出す。
「知羽がぐちゃぐちゃにしてやる!」
そう言って、自分の胸元にハサミを突き立てた。
「あああ!」
流れ出した血を見て声にならない叫び声をあげながら、何度もハサミを突き刺す。
僕はそれをへたり込んで見ていることしかできない。
雨の音は、いつの間にか止んでいた。
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