第一話 にぶんのいち

4月、桜が景色を彩る季節に、僕は一年ぶりに彼と会っていた。

ちょうど東京で桜の開花宣言がされた頃だった。


「ここで3三銀だ」

しばはプラスチック製の将棋駒をつまんで盤の上に叩きつけた。

先ほど100均で買ってきたばかりの、打ちつけた衝撃で割れてしまうのではないかと心配になるほどの薄っぺらい盤と駒だ。


時間は午前3時頃とあって、ファーストフードの店内には僕たち二人の他に学生の四人組がいるだけだった。

ちょうど店の対角線上に位置するテーブルで談笑している。


「この辺で変化の余地もあったみたいだけどな。どっちにしても不利だから複雑な方を選んだんだろうが、少し長引かせただけになったな」

彼は高揚した様子で語りながら、よどみなく指を動かす。

「俺がこの手を指した時の顔は分かりやすかったな。名人も人の子だね」


小学校からの幼馴染である柴が将棋のプロ棋士になったことを知ったのは、二年ほど前のことだった。

彼の方から、実家を出て上京することになったから一度会おうと誘ってきたのだ。


高校を卒業してから会っていなかったので7年ぶりの再会だったことになるが、その時に印象的だったのは彼の表情だった。


高校生の頃、普段一緒に登校していた頃の僕は彼の顔が日に日にやつれていくことに気付いていた。

元々学校を休みがちだった上に、どこか殺伐とした雰囲気を醸し出していた彼にはほとんど友達がいなかった。

後から聞いたところでは、『プロ棋士を目指すとは、そういうこと』らしい。

その頃に比べたら、憑き物が落ちたようにスッキリした顔をしていた。


「お前、今日の夕方くらいまで対局してたんだろ?」

僕はあくびを噛み殺しながら、うんざりした気分を思い切り込めて話しかけた。

「終局は19時過ぎだな。その後、インタビューやら何やらで22時頃まで拘束されて」

「それで、何でそんなに元気なんだよ」

「対局の後は目も頭も冴えてるものなんだよ。布団に入ってもどうせ眠れない」

「だからって素人相手に試合の自慢するほど暇なのか?プロ棋士は」

「ずっと盤と向き合って大河みたいに壮大なドラマがあったのに、誰とも共有できない気持ちを想像してみろよ」

「他の棋士とやればいいだろ」

一戦交えてきた彼は、一通り吐き出さなければ落ち着かないようだった。


僕がなんとなく調べた限り、彼の業界での評判は芳しくないようだった。

と言っても、それは柴大輔しばだいすけという人格に対してのものであって、将棋の実力とは別個のものばかりだった。

「生意気だ」

「素行が悪い」

「人間として尊敬できない」

彼の将棋に対する評価を探すのに一苦労する程度には、そういう批評が湧いているようだ。

しかし、それらの批判の言葉には

「将来、この業界の上に立つ者でありながら」

という言葉が隠されているような気がしてならなかった。


そういう評判を知っていた僕の目には、ファーストフード店で素人相手に対局について自慢気に話す彼の姿は哀れに映った。


僕はといえば、数十分前から意識を手放すことに躍起になっている。

もちろん彼の『ご指導』からいち早く逃れるために、だ。

しかし、その度にジャンクフード特有の嫌な油の匂いが鼻を刺激し、胃の内容物がせり上がってきていた。


「この分だと、七番勝負の一局目にして勝負アリって感じだな。何回やっても勝つぜ、俺」

完全に無視を決め込んでいた僕はテーブルに突っ伏したまま、何とかシャットアウトを試る。

その甲斐あってか、いつものベッドで眠る時のような浮遊感を得始めていた。


あと少し、もう少し。


環境音や話し声が浮かび上がり、そして遠ざかっていく中、柴の声がやけに明瞭に響いた。


「なあ、カイ」

「俺、名人になるわ」


***


缶コーヒーが欲しい、と念じてみる。

ここが夢の中ならば、それくらいの望みは叶うような、そんな空間であってもよいだろう。

しかし、周りをしばらく見回してみても、眼前にあるのは酔いそうになるほどの大量の本だけだった。


最近、ここに来る頻度が増していることは、この夢がある程度は意識的にコントロールできることを示していた。


少し前までは、むしろここに来るのは気が進まなかった。

その気持ちが少しずつ変わっていったキッカケは、数ヶ月前に読んだ祖父の言葉だ。


「お前には大切な人がいるはずだ」


相変わらず雑然と積み上がった本の山に目をやる。

大切な人?僕に?この中に。


頭の中に嫌なモノがよぎった気がして、慌てて目的の本を手に取る。柴の本だ。


***


むかしむかし、あるところに走るのが得意なカメがいました。


仲間たちでかけっこをするといつも一着。

カメさんはそれをすごく誇らしいと思っていました。


ある日、カメさんの住処をウサギさんが訪ねてきました。

ウサギさんを初めて見たカメさんは、とてもカッコいいと思いました。

細くて長い脚に、柔らかい毛並、見た目に違わない俊敏な動きはカメの憧れでした。


ウサギさんと友達になったカメさんは、走り方を教えてもらうようになりました。

毎日毎日、ウサギさんと一緒に野山を走りました。


そんなある日、カメさんは奇妙なことに気づきました。

いつも置いて行かれていたカメさんが、いつの間にかウサギさんと並んで走っていたのです。そのことに気づいた時、カメさんは「怖い」と思いました。


自分でもなぜそんな気持ちになったのか分かりませんでしたが、それ以来ウサギさんと一緒に走ることをやめました。


また別の日、久しぶりに訪ねてきたウサギさんがこう言いました。

「カメさん、山のふもとまでかけっこで勝負してみないか?」

カメさんは驚きましたが、とても興奮しました。ウサギさんと勝負できるなんて、こんなに嬉しいことはありません。仲間のカメたちもとても喜んでくれました。


かけっこ勝負の前日、カメさんは友達のネズミさんと会いました。

いよいよウサギさんと勝負する。その気持ちを分け合いたかったのです。


しかし、カメさんは本当の気持ちを打ち明けることはできませんでした。

それは、勝つことへの恐怖だったからです。


その夜、カメさんは夜空に向かって尋ねました。


「神様、あなたはカメがウサギに勝つことをお許しになるでしょうか」


***


ある土曜日の朝、僕は均一に冷やされたアパートの自室で目を覚ました。

今年、初めて冷房のスイッチを入れたのだ。

懐かしい倦怠感を覚えながら今日が燃えるゴミの日であることを思い出し、体を起こす。


サンダルを履いてドアノブを回すと同時に、「ジジジジジ」という不気味な音が僕の耳を貫く。その音量に驚いて思わずゴミ袋を手放し後ろに飛びのいた。

跳ねる心臓を落ち着けながら、事態を少しずつ飲み込む。


蝉だ。


ドアの前に横たわっていた蝉を引きずってしまったのだろう。

このアパートに住み始めてから、何度か経験していた。


今度はゆっくりとドアを押すと、何事もなく開いた。先ほどの蝉はすでに飛び立ったのだろう。

ホッとしてゴミ袋を握り直し体を入れ替えると、ドア横に座り込んでいる人間が見えた。

今度は驚くよりも先に、その人物を認識した。


柴だ。


ゴミ袋を道路を挟んで向かいの電柱脇に置いた後、部屋に招き入れた彼とテーブルを挟んで向かい合う。くたびれたスーツを着た彼は、黙って俯いている。

「こんなところで何してんだよ」

言葉を選んだ末にドラマのようなセリフを発した僕に向けられた彼の目は、助けを求めるようだった。

「今日、対局だろ」

確か、都内郊外にある旅館で9時からのはずだ。


柴は黙ったままだった。

僕が次にかける言葉を模索している時、彼は突然口を開いた。


「呼び鈴が……」


「旅館の呼び鈴が、押しても鳴らなくて。誰も出てこないから、だから」


彼の様子は、喋り方こそ淡々としているが錯乱していると言ってもよかった。

彼の心中は、あの時に僕が読んだ本のように整頓された状態ではないのだろう。

そんな彼の強がりを嘘だと指摘することは、何の意味もない。


「勝つのが怖い」


棋士がそんなことを言えるはずがない。

自分の気持ちを必死に否定した結果が、今の彼の姿なのだ。


そこから、僕は自分の決意を固めるための時間を空けた後、努めて明るい声で言った。

「小学生の頃、僕と指してたのを覚えてるか?」

柴が顔を上げて僕と目を合わせる。

「僕はお前に勝てなくて辞めたけどな。将棋は好きだ」

「一回くらい名人になってみるのも悪くないと思ってる。お前と一緒にってところも目をつぶってやる」

柴は意味が分からないのか、固まったままだ。

「着物は持ってきてるのか?」

「……ああ」

今日初めてまともな会話が成立したことに、少し安堵する。

僕は立ち上がり、棚の引き出しからボールペンとメモ帳を取って彼の前に戻る。

メモ帳から空白のページを破り取り、ボールペンで書き付ける。


その紙を内側に四つ折りにして、彼に手渡す。

「これを持って、対局場に行け。中を見るのは開始直前だ」


僕はいたずらっぽく笑って見せた。

「僕に一手くれよ。柴」


長い逡巡の後、彼は縋るような目で紙を受け取った。


***


秋田あきた君」

立会人に小声で呼びかけられて視線の方向を追うと、名人が入室してくるところだった。

「おはようございます」

あわてて挨拶をして時計を見ると、8:40と表示されている。


記録係の仕事は、正直に言うと退屈なものだった。

人間が判断する要素は機械に取って代わり、1、2時間も盤面が変わらないのは普通だ。

師匠はタイトル戦の雰囲気に慣れておくことは有意義だと言うが、どこまで本気なのか私は疑っていた。

自分が将来名人戦に出場するような人間であることは自覚しているが、どんな状況でもやることは将棋ではないか。


「おはようございます」


名人に5分遅れて柴八段が入室してくる。

名人初挑戦となる柴八段は、棋界の評判に違わぬ豪快な将棋で第一局から3連勝していた。

そして、七番勝負で先に王手をかけながら第四局を不戦敗で落とした。


棄権の理由は体調不良と発表されていたが、コトはそれほど単純ではないだろうと関係者の誰もが考えていた。

何しろ、棋界の最高峰の舞台である名人戦を棄権したのだ。

やはりと言うべきか、柴八段の顔は露骨に憔悴していた。


名人が箱から駒を取り出し、両者が盤の上に並べ始める。

ここでも、柴八段の手つきはおぼつかなかった。

立会人を始め周りの人間からは一様に心配そうな視線が注がれていたが、自分だけは違っていた。

やる気がないなら早く棄権すればいい。

こちらは今すぐにでも名人に挑戦状を叩きつけたいと思っているのだ。


自分が異変に気付いたのは、ちょうど開始時刻の一分前だった。柴八段の視線の方向を何気なく追ったところ、彼の右袖からのぞく紙切れのようなものとそこに書かれた符号らしき文字が見えたのだ。

慌てて周りを見渡す。目撃したのは私だけのようだった。

混乱している間に、立会人が声を発する。


「それでは、時間になりましたので柴八段の先手番でお願いいたします」


「お願いします」


その時、全員が息を呑んだ。

発声したのは名人一人。頭を下げたのも名人だけ。柴八段は盤を見つめて微動だにしない。


呆気に取られる我々を前にさらに30秒ほど固まっていた柴八段がおもむろに右手を伸ばす。

駒を持ち上げ、打ち下ろす。


9六歩。


思わず柴八段の顔を見た時、その目は生気に満ちていた。

そして、柴八段はゆっくりと頭を下げた。


「お願いします」


***


柴を送り出した後、僕はひたすら自問していた。

「なぜ、あんなことをしたのだろう」


思い出すのは、小学校の教室での風景だった。

窓から差し込む陽光の中、二人で小さな将棋盤を挟んで向かい合っている。

「世界で一番強い人を名人っていうんだ」

「名人はたった一人なんだ。すごいだろ」

彼はいつも盤と駒の前で目を輝かせていた。

僕は、そんな彼と仲良くなるために駒の動きを覚えた。

彼とできるだけ長く一緒にいたくて、戦術を覚えた。


「僕にとって彼は何なのだろう」


答えの無い疑問が頭の中をぐるぐると駆け巡る中、ニュース番組で名人戦の映像が目に飛び込んできた。


初手、9六歩。


彼が『僕の一手』を指す様子を確認した後、僕は恐怖と充実感に体をしばらく震わせていた。


その日の夜、僕は一睡もできなかった。

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