針の上で天使は何日踊れるか

桐林才

プロローグ そふとそぼ

「次、停まります」

機械の音声がバスの車内に響くのと同時に、正面の電光掲示板に文字が映し出された。

隣に目を向けると、小学校低学年ほどの少年が若干高揚した目で光るボタンを見つめている。

ずっとボタンを押すタイミングを図っていたのだろう。

次の終点で降りる準備をしていた乗客の間にあたたかい空気が広がった。


父方の祖父母のもとを訪れるのは、ここ3年ほどは年末年始だけとなっていた。

祖父が寝たきりの状態で病院から戻ってきてからだ。

「あんたの顔も見えてるかどうか分からんから、来んでいい」

祖母の言葉には寂しさも強がりも気遣いも、何の意図も温度も感じなかった。

ただ、家に帰ってきてからの祖母は二人だけの生活を楽しんでいるように、僕には見えていた。


バスを降りてすぐさま吹き付けてくる冷たい風に身を縮こませながら歩きだす。

住宅地に入って5分ほど歩けば、祖父母が住む一軒家だ。

僕は、田舎の年末の風景が子供の頃から好きだった。

大人たちが呆けた顔で、いつもの半分ほどの速さで足を運んでいる。

大切なものや守るべきもの、やるべきことなんてこの世に無いように見えた。


道中で思い当たることがありハッとした僕は、最短ルートを外れて脇道に入る。

おぼろげな自分の記憶に引っかかる何かを感じ、僕はとある民家の前で立ち止まった。

そこは、僕が子供の頃に遊んでいた犬が飼われていた家だった。

ここに住んでいた薄い茶色の大きな雑種犬は幼い僕にとって恐怖と好奇心が入り混じる興味の対象であり、動物に与えてはいけないものの分別など無かった僕はお菓子のカケラなどをよく食べさせていた。


周囲に人がいないことを確認し、柵の間から庭の中を覗き込む。

しかし、柵の向こうに見えるのはキレイに手入れされた花壇だけだった。

自分の記憶違いなのか、犬はすでにいなくなってしまったのか。

判断がつかないまま、僕はそこを離れた。


***


祖父は二階のベッドの上でかすかな寝息を立てて眠っていた。

グレーの寝間着を着て口を半分だけ開けている。

髪の毛はほとんど残っておらず、袖口からのぞく手首は骨格標本のようだった。


「あ、来てたん?」

階段を上ってくる音が響いた後、祖母の声が聞こえた。

「ばあちゃん、玄関の鍵閉めろって言ったろ」

振り向いた時には、すでにこちらに背を向けて階段を降り始めていた。

祖父の方に向き直ると、目が少し開いていたので話しかけてみる。

「久しぶりだね。じいちゃん」

「全然変わってなくて安心したよ、二人もこの家も」

「寒くはない?何か不便があるなら、ばあちゃんに言っとくよ」

わずかな変化も見逃すまいと神経を尖らせたが、祖父の反応を読み取ることはできなかった。

再び上がってきた祖母が、ベッド脇の小さなテーブルにお茶の注がれたグラスを置く。

「今年は早いんね」

「休み取れたから。じいちゃんは元気?」

「たぶん」

二人とも祖父の顔を見ながら言葉を交わす。

祖母は祖父の話題について話す時、いつも他人事のような口ぶりになる。

それはおそらく、分類するとしたら照れに含まれるような、特別な存在に対する天邪鬼な感情なのだろう。


それからしばらくは祖母と他愛のない世間話をした。

玄関先にツバメの巣ができたこと、僕の幼馴染が去年結婚し離婚したこと、近くにコーヒーチェーン店ができたこと。

祖母の思い出話を時系列で並べると、いつも数ヶ月単位の空白がまばらにある。

僕は、その大きさと数こそが彼女の幸福の量を表していると思っていた。


「じいちゃんと話す?」

ひとしきり話し終えた祖母がポツリとこぼす。

「うん、そうするよ」

返事をする前に祖母は立ち上がり、階段を降りていった。


***


小学生の頃、夏休みの間は祖父母の家に寝泊まりしていた。

毎年、最初の3日くらいは興奮してなかなか寝付けなかったのを覚えている。

大人になった今でも、その時の高揚感を感じることが出来るようだ。

廊下に通じるドアに背を向けると、透明なケースに収められた日本人形と目が合う。

子供の頃は、布団に入って彼女と目を合わせて眠くなるのを待っていた。

当時はそんなことを意識したことがなかったが、確かにそうだった。

そんなことを懐かしみながら、僕は爪切りを慎重に動かしていた。

昼間に祖父に話した内容を反芻しながら、だ。


祖母の話では、いつまで生きられるかは分からないそうだ。

僕には、あの祖父が生きていると言われても、あるいはこれから死ぬと言われてもピンとこない。

タバコを吸い、祖母に愚痴をこぼし、僕と目が合えばくどくどと説教を始めるのが僕の祖父だ。

生きていないのならば、死ぬこともないのだろうに。


切り終えた爪をティッシュに包み、ゴミ箱に投げ入れて布団に潜り込む。

視界に入る人形の目に妙な生気を感じ、怖くなってすぐに目を閉じた。


***


目を開けると、うずたかく積まれた本の山が視界に飛び込んできた。

どうやら、さほど苦労もなく眠れたらしい。

体を起こし見回してみても、四方を囲む本棚と膨大な量の本の山しか部屋にはない。

どれも同じ大きさの、同じ装飾の本だ。

しかし、それだけにわずかな折り目やシワの違いが目立つ。

僕は、その中から見覚えのある一冊を手に取った。祖父の本だ。


僕が夢の中で人の心を読めるようになったのは、ちょうど二十歳になった頃だった。

人が考えていることや思想・理念・願望が活字で表される。

内容はなぜか寓話のような形態をとることが多く、表現や文体にも本人の精神性が反映される。


当初、僕は人間の心の生々しさを活字で体験することに著しい不快感を覚えた。

ある程度慣れた今でも、ここに散らばる本のほとんどは読むに耐えない内容だ。

しかし祖父の場合は、それが病気によるものなのか本人の生来の性質なのかは不明だが、本の内容が非常に淡白だった。

簡素な日記のようなもので、寝たきりになってからはその日に交わした会話だけが記されるようになっていった。


そして、それは祖父が全く話せなくなった後も続いた。

相手の呼びかけとそれに対する祖父の思念、という形で。

聞こえている。理解している。返事をしている。

それから、僕はこの夢の意義を祖父との交流に見出すようになったのだった。


ここに来た時にいつも感じる不思議な高揚感を抑えながら、僕は本を開いた。


***


「久しぶりだね。じいちゃん」

「おお、カイか?久しぶりだな」

「全然変わってなくて安心したよ、二人もこの家も」

「いやいや、ばあちゃんは老け込んどるし、じいちゃんも長くはない。お前と話すのも最後かもしれんな」

「寒くはない?何か不便があるなら、ばあちゃんに言っとくよ」

「寒い暑いはここ最近ないな。不便はあるが、ばあちゃんにとやかく言う気はないよ。ありがとう」


「ばあちゃんは相変わらずせっかちだね。昔からああなの?」

「そうだな。あれは、じいちゃんの病気よりよっぽど重症だな」

「よくあれでじいちゃんと一緒にいるよね」

「まあ、人生辛抱よ。お互いにな」

「そういえば、歯磨きは上手くなった?」

「ダメだな。あれには向かん」

「先生に散々注意されたのに全然直らなかったんだよね」

「ああ、あんな憂鬱な時間は無いな」

「絶対痛いでしょ、あれ。ブラシが歯ぐきにガンガン当たってたもんね」

「辛抱だ、辛抱」

「あ、去年久しぶりに聴きたいって言ってた金語楼の落語、後で聴かせてあげるよ。ばあちゃんにも時々流すように言っておくから」

「おお、ありがとう。最近は便利なものがあるんだな」

「今年は少し長くここにいるつもりだからさ。じいちゃんとも去年より話せると思う」

「それは嬉しいな」

「あ、ばあちゃん呼んでるから行ってくる。またね」


「変わってないのはお前の方だな、カイ」

「いつまでそんな生き方してんだ」

「お前は器用な子だ。みんなの目には見えない大事なものが見えている」

「一番大事なものから目を逸らすのか?」


「お前には大切な人がいるはずだ。会ってきなさい」


***


爪が食い込み、血が滲んだ手首の痛みで目が覚めた時、部屋にはカーテンの隙間から日が差し込んでいた。

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