第2話 手の早い上司

 まぶたに刺さる陽射しを感じてセフィーナは目が覚めた。

 なんだか少し頭が重い。おまけに喉がからからで、今すぐ水が飲みたい。

 上体を起こしたそこは紛れもなくセフィーナの自室、ベッドの上だった。主に領地が遠方となる貴族の子女が住んでいる、官舎の一室。セフィーナの実家は王都にあるが、宮廷勤めが決まってからはずっとここに住んでいる。


「う〜〜〜ん……」


 どうしてこんなに調子が悪いのだろうと昨夜の出来事を反芻してようやく、セフィーナは覚醒した。


「…………いや、夢だな」


 まさか、そんな。

 上司であるリデッドが契約とはいえ結婚を迫ってくるだなんて、都合の良い夢にしても出来すぎている。


 そう片付けて、セフィーナはううんと伸びをした。

 めくったカーテンの先、裸眼で見つめる窓の外はよく晴れていて、雲ひとつない青空が広がっている。朝早くなだけにまばらな人通りをセフィーナはじっと見下ろした。


(……うん。今日もよく視える)


 行き交う人々のすぐそばに、色や形は様々ななにか・・・が寄り添っている。


 ――視えないはずのものが視える。


 それは人知れずずっと胸に抱えて生きていくと決めた、セフィーナの秘密だ。

 そして母から疎まれるようになったきっかけでもある。

 うまく話せないうちは理由もなしに泣くばかりで、話せるようになればありもしないものが視えるというセフィーナを母は持て余し、頭のおかしい子だと判断したのだろう。妹を偏愛するようになったのも無理のないことだと大人になった今では理解できる。

 世迷い言をと鼻で笑わず、唯一理解してくれたのは祖母だけだった。


『あまり口外するものではないよ。悪い人が寄ってくるからね』


 そう言って幼いセフィーナに魔法をかけてくれた。


『この眼鏡があれば、悪いものが視えなくなるから』


 成長するにつれてあらわになる綻びを何度も繕うように、最後に魔法をかけてもらったのはもう随分と前になる。


(大丈夫。眼鏡があれば視えないから)


 そう自分に暗示をかけて、セフィーナは枕元に置いてある眼鏡をかけた。




 出勤してみると薬務室の面々はいつも通りだった。

 リデッドと顔を合わせた時はさすがに気まずかったが、リデッドの態度は昨日までとなんら変わりがなくて。

 やはり夢だったのだと胸を撫でおろしたのはつかの間、それではまだ見合い問題は解決していないじゃないかと空腹の胃がきりりと痛む。

 今日もまた、セフィーナの表情は冴えない。

 ため息をつきつつ仕事に励むセフィーナにオリガから「昨日あのあとどうだった?」などと声がかかるが、生返事をすることしかできなかった。


「セフィーナ嬢。昼休みに少し、時間をもらえないかな」


 もうじきお昼休憩の時間にさしかかろうかという頃、リデッドから声をかけられた。

 朝の穏やかな態度とは一変して、どこか焦っているようにも感じられる。


(やばい、ため息つきすぎた?)


 勤務態度が褒められたものではないことに思い至るが今更だろう。

 軽い注意くらいであれば他者がいるいないは関係ないが、強めの指摘や指導は一対一で行うのがリデッドだ。

 セフィーナは二つ返事で頷き、昼休憩開始と同時にリデッドと共に薬務室を後にする。

 室長であるリデッド個人にあてがわれている部屋に向かうのかと思いきや、開口一番昼ご飯をどうするのかと尋ねられた。


「お話が終わり次第食堂で食べようかと」

「それじゃ、僕と一緒に食べるのはどうかな?」

「え」

「食堂ではなく……そうだな。天気もいいし、外で食べるのはどうだろうか。食事は僕の方で準備するから」

「構いませんが……」


 叱責されるわけではないのであれば、どうして呼ばれたのだろう。

 頭に疑問符が浮かぶセフィーナをよそに、侯爵家の使用人らしき人たちが数人、手際よく準備をしていた。ちょうどいい感じの木陰にシートを広げ、その上にクッションが並べられる。用意された食事はサンドイッチのようで、数は充分、二人でも多いくらいだ。

 二人分のグラスを手渡されながら、リデッドが使用人たちに告げる。


「ご苦労さま。落ち着いて話がしたいから、少し離れていてもらえるかな」

「かしこまりました」


 頭を下げ、使用人たちは去っていった。去り際、ちらりとセフィーナを見ていたような気がするのは気のせいだろうか。


「君の口に合えばいいのだけど」

「い、いただきます」


 どうぞ、と促されるままにサンドイッチにかぶりつく。

 パンは水分を吸うことなく柔らかいままで、中の野菜はシャキシャキで新鮮そのもの。この感じは作りたてだ。リデッドを食堂で見かけたことはなかったが、なるほどこうして毎日出来立てを侯爵家の使用人が持ってきているのだろう。


「美味しい……」


 昨日の食事も美味しかったが、こういう素朴なものの方が食べ慣れている。

 朝は水を飲むだけで済ませていたためにお腹が空いていた。セフィーナは無心でひとつ食べきり、グラスに注がれた紅茶を一口。舌にまろやかな甘みが広がる。茶葉の香りが鼻に抜けてようやく、一息つけた気がした。


「ようやく笑ってくれたね」

「え……」

「今朝からずっと浮かない顔をしていたから。その、昨日の話になにか気に食わないところでもあった?」


 問いかけてくるリデッドの表情は真剣そのものだ。


「結婚するにあたり、なにか問題があるなら聞かせてほしい」

「えっ、結婚? ……って、ちょっと待ってください。あれ、夢じゃなかったんですか?」

「え? 夢?」

「はい。都合が良すぎるのでてっきり夢だと……」

「……なるほど、それで」


 リデッドは頷くと同時に明らかにほっとした顔をした。


「お酒の場で話すのは卑怯だったかな。それじゃ改めて。僕と結婚してほしいんだ」


 まるで天気の話をしているかのように、さらりと求婚された。

 お昼下がりに外で。周囲に人影は見えないとはいえ、職場の休憩中にする話ではないと思う。


「…………契約結婚、ですよね」

「そうだね。条件は昨日言った通り、なにか不都合があるなら善処するよ」


 不都合も何も、セフィーナに都合の良い条件ばかりだった。

 難があるとすれば、都合が良すぎること。


「……その、社交に関してなのですが」

「ん? あぁ、仕事に専念したいだろうしやらなくても問題はないよ。僕が出れば大体かたはつくから」

「いえ、その逆です。さすがに何もしないというわけにはいきません。最低限になるかとは思いますが、できる範囲でさせてください」


 名ばかりの貴族とは言っても、社交の大切さは知っている。

 夫人の振る舞いひとつで評判は変わるものだ。確固たる地位を持つ侯爵家ともなればそう簡単に落ちることはないだろうが、それでも付け入る隙はないに越したことはないだろう。


「それは助かるな。ありがとう、セフィーナ嬢。……いや、セフィ、と呼んでも?」

「は、はい。構いません」

「では僕のことはリディと」

「えっ」


 いきなり愛称呼びはハードル高くないですか?


 目をぱちくりさせるセフィーナにリデッドは苦笑を返す。


「結婚するのだし、まずは形からと思ったのだけど」

「そう言われましても、室長は室長ですし……」

「まぁ、職場では今まで通りでもいいよ。でもそうでない時は名前で呼んでほしい」


 思いのほか強く主張されたらセフィーナは頷くしかない。

 けれどいざ口に出すとなると、無難に敬称付きの呼び名となってしまった。


「わ、分かりました。……リデッド様」

「……セフィ」

「…………」


 ああ、視線が痛い。

 ため息をつかれてしまっていたたまれなさも半端なかった。


「……お名前には変わりないですよね?」

「それはそうなんだけど」

「しがない子爵令嬢ですので、愛称呼びは恐れ多いです」

「それもそうなんだけど……いや、うーん。なんて言ったらいいのかな」


 今度は悩ませてしまった。

 恐縮するセフィーナとリデッドの間をさわさわと春の風が吹き抜ける。爽やかな陽気の中、風に乗って若葉が舞い、リデッドの頭に鮮やかな緑の葉が着地した。


(あ、髪に葉が……)


 腰を浮かせ、手を伸ばして触れた白金の髪は見た目通り美しかった。細くて、さらさらで、手触りからなにからセフィーナの髪とはまるで違う。

 手入れのされた髪から葉を取り、ふと視線を感じて目線を下ろせば目の前にリデッドの顔があった。

 驚いたように見開かれた紺碧の瞳には眼鏡をかけた地味な女の姿が映っていて。

 あまりの距離の近さにセフィーナは勢いよく後ずさった。


「す、すみません。髪に葉がついていたので」

「あ、あぁ、そう……」


 問題ないよと告げるリデッドはどこか焦っているような、照れているような、そんな表情をしていた。

 頼りになる室長とはまた違った顔に、もしや見かけに反して女性には不慣れなのだろうかと頭をよぎる。


「……そうだね、少しずつ慣れていこうか」

「え……」


 リデッドはセフィーナとの距離を詰め、その手をおもむろに取った。


「改めてよろしく。セフィ」


 端正な顔にセフィーナの手が吸い寄せられ、そのまま手の甲に唇が落とされる。


 ――前言撤回。

 女性慣れしていないなんてことはない、それを実感したところでセフィーナの思考は完全に停止した。



***



 それからは怒涛のように日々が過ぎ去っていく。

 なんだか様子がおかしい上に勢いに流された気がしないでもないが、リデッドとの契約結婚は願ってもない助けだった。


 それでもいざ結婚するとなるとやらなければいけないことは山程ある。

 まずはセフィーナの実家、アルゴー子爵家への報告だ。

 実家へ行くことを考えただけでも足が重い。そんなセフィーナの内心をリデッドは十分以上に汲み取ってくれた。事前に侯爵家から使いを出して見合いの話を止めると同時に、結婚の挨拶がてら共に実家へ行ってくれることになったのだ。

 侯爵家から連絡が来た時の泡を食った家族の顔を想像しただけで少し気が晴れたのはここだけの話。


 リデッドに釣り合うようなまともなドレスを一着も持っていなかったセフィーナを助けてくれたのはオリガで、おしゃれは武装なんだからとリンクス伯爵邸でめかしこまれてしまった。


「うん。やっぱりセフィは美人ですね。元がいいから化粧のしがいがあります」

「ありがとう、オリガ様。お世辞でも嬉しいです」


 伯爵邸にいる時は令嬢モードのオリガに、同じく子爵令嬢として返す。

 職場とのギャップに当初は驚いたものだが、世渡り上手なオリガらしいとも思った。


「……ドレスを一着も持っていないとか。これは報告案件キタわ」

「? 何かおっしゃりました?」

「いえ別に。あ、シグニス侯爵家からの使いが来たようですよ」


 リデッドに引き渡され、侯爵家の馬車に同乗して実家へ向かった。


 馬車から降りるリデッドを見た妹の表情の変化は忘れられない。

 丸い目を更にまんまるに見開き、口もぽかんと開いている。リデッドが挨拶とともに社交の笑みを浮かべると我に返ったのか、慌てて淑女の礼を取った。顔を上げたナターシャの頬は赤らみ、これまで見たことがないようなとろけた笑みを浮かべている。

 父に案内されたリデッドが玄関をくぐったところで、隣にいたセフィーナの存在に気付いたようだ。分かりやすくうろんな目で見つめられ、セフィーナは苦笑するしかない。


(なんでお姉様おまえが、って? うん、気持ちは分かる。どう見ても不釣り合いだもんね)


 不要な争いは避けるべしと視線を受け流して、セフィーナもまた久しぶりに実家の扉をくぐった。

 挨拶は滞りなく済み、結婚の話も快く受け入れられた。というより、一介の子爵であるアルゴー家に侯爵であるシグニス家からの依頼を断れるわけがなかった。本来の見合い相手だったセルペンス子爵家との話もシグニス侯爵家から付けてくれるというのだから父は涙ながらに感謝していたくらいだ。


 唯一、リデッドに君の部屋を見てみたいと言われたのには困ってしまった。

 部屋は高等学校の寮に入った時点で半分ナターシャの物置となり、宮廷勤めが決まり官舎に入った時に「使わないのならいらないでしょ」となくなっていたためだ。

 さあと青ざめた父母を見てとり、セフィーナは小さな嘘をつく。


「学生時代から家を出ていたので、部屋に思い入れがないんです。思い出の品を持って帰るので、そちらを見ていただけますか?」


 実家に残していたわずかなもの。父に頼んで置いてもらっていた祖母との思い出の品をカバンに詰め、セフィーナはアルゴー家を後にした。


 次にリデッドの実家、セフィーナの嫁ぎ先でもあるシグニス侯爵家への挨拶。

 こちらは両親である現侯爵夫妻が領地にいるということで後回しにされた。手紙は送っており、何の問題もないとリデッドに言われては従うことしかできない。

 一回り年の離れた弟妹もいるが、揃って今は隣国へ留学中ですぐには戻ってこれないのだという。


「みんな結婚式には来てくれるって」

「そうですか……ん? 結婚式?」


 そう、最後に残されたのは結婚式だ。

 正確には式と披露宴。こればかりはパスすることはできないとリデッドにおおいに頭を下げられた。

 なんでも希望は叶えるよと言われたが結婚すること自体頭になかったセフィーナに希望があるわけもなく、ほぼほぼシグニス侯爵家が準備してくれた通りの式となることになった。

 セフィーナが要求したのはお色直しの回数を減らすことのみ。


(だって五回って何。五回って。拷問かな?)


 お色直しそのものが不要、せめて一回……と難色を示したセフィーナにそれでも二回は譲れないと何故かリデッドが強く推してきた。

 もしやリデッド本人がお色直しを複数回希望なのだろうか。


 ……リデッドの礼装であれば何種類でも見てみたいかもしれない。


「あの、室長がお色直し希望なのであればわたしのことはお気になさらず、何回でもしていただければ」

「僕はどうだっていいんだけど」

「えっ」


 違うのか。それでは何故だ。

 戸惑いのままリデッドを見上げるとはあとため息をつかれてしまった。


「……いや、すまないね。セフィに合わせると言ったのは僕なのに」

「す、すみません」

「セフィが謝ることじゃないよ。……そうだな、それじゃドレスを選ぶ際に付き添ってもいいかな?」

「それは……正直、助かります」


 リデッドから出てきた妥協案は願ってもないことで。

 恥ずかしながら、セフィーナはこれまでろくにドレスを着たことがなかった。

 名ばかりの子爵家に来る社交のお誘いは微々たるものな上に、来たとしても母が連れて行くのは決まってナターシャだけで、セフィーナはお留守番。色々あってデビュタントの機会も逃してしまったこともあり、ドレスを着ること自体に気後れしてしまっていた。

 流行り廃りもさっぱりで、またオリガに相談しなければと思っていたくらいだ。リデッド本人がいてくれるのであれば、仮に何か言われたとしても「夫が選んでくれたので」と受け流すことができる。


「そうか。それじゃ決まりだね」


 式の日取りは三ヶ月後に決まった。

 急すぎやしないかと思ったがちょうど夏休みにかぶる時期で、南方に領地を持つシグニス侯爵夫妻が避暑を兼ねて王都に来て、留学中の弟妹が戻ってくる絶好のタイミングだと気付いてしまっては異論は出せない。


 まとまってしまえば話は早く、契約結婚をすると決めた翌週には諸々の届け出を済ませ、その週末にはセフィーナはシグニス侯爵邸へ引っ越していた。

 長らく寮生活をしていたこともあって元々荷物は少ない方だ。

 子爵令嬢ではあるがお付きの侍女がいるわけもなく、セフィーナは名実ともに身一つで嫁ぐことになった。


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