第3話 結婚したはいいけれど

 シグニス侯爵邸は王都から馬車で三十分もかからない郊外にある。

 大きな湖のほとりにあり、白壁に青い屋根の建物は遠目からでもよく目を引いた。敷地は広く、使用人が住んでいるという離れですでにセフィーナの実家くらいの大きさがある。整えられた植栽、隅々まで磨かれた室内、所々に飾られている芸術品にセフィーナはすっかり圧倒されてしまった。


 使用人の数もさぞ多いのかと思いきや、今は住んでいるのがリデッドだけのため住み込みの執事と侍女や料理人といった使用人が合わせて十人ほど、あとは通いの使用人で事足りるらしい。

 そんな中からステファンという執事とカミラという使用人を引っ越してきて早々に紹介された。グレイヘアのいかにも好々爺といった風貌のステファンは古くから侯爵家に仕えており、何かあれば遠慮なくお申し付けくださいと手を胸に当てた。

 セフィーナと同年代と思しきカミラはセフィーナ付きの侍女になるという。にこりともせずに会釈をするカミラにどこか見覚えがと記憶をなぞって、先日、サンドイッチを届けに来てくれたうちの一人だったことを思い出した。


「それじゃステファン、あとは任せたよ」

「かしこまりました」

「悪いねセフィ、僕がゆっくり案内したいところなんだけど、急ぎ行かないといけない用件があって」


 リデッドは申し訳なさそうに眉を下げる。

 家でくつろぐにしてはきっちりとした格好をしている理由に納得がいった。


「そんなに遅くはならないと思うから。夜は一緒に食べようか」

「はい。いってらっしゃいませ」


 慌ただしく出かけていくリデッドを見送って、セフィーナは改めてステファンとカミラに向き直り、ぺこりと頭を下げた。


「アルゴー子爵家より参りました、セフィーナと申します。本日よりお世話になります」

「セフィーナ様、ようこそおいでくださいました。まずはお部屋へご案内いたします」


 こちらですと案内された先は当然のようにリデッドとは別室が用意されていて、セフィーナはほっと胸を撫で下ろした。


 同室である方が契約結婚を疑われないで済むとは思うがそれとこれとは話が別だ。

 身も蓋もなく言うのであれば、この契約結婚での一番の気がかりは後継ぎ問題だろう。

 貴族は血を繋ぐもの。セフィーナも貴族の端くれとしてそれくらいは理解している。夜伽が責務だと言われたらやむを得ないものとして受け入れるだけの心構えはしていた。

 ――が、そのことをセフィーナの口からリデッドに問う勇気は出なかった。


 子はいらない主義かもしれない。養子を取るという選択肢もある。リデッドの弟妹もリデッド同様に優秀だと聞くし、そちらに後継ぎができればいいと考えているのかもしれない。


(契約結婚なのだし、必ずしも……というわけじゃない、よね?)


 ぐるぐると思考を繰り返した結果、やぶ蛇になってはいけないとセフィーナは口をつぐむことにした。


 あてがわれた部屋はこれまでいた官舎の部屋がいくつ入るだろうかというくらい広く、室内はどこを見ても立派だった。ただ色合いは白からアイボリーが基調で、豪奢というよりは質実剛健といった雰囲気が勝る。所々にあしらわれたシグニス侯爵家の紋様である白鳥が清廉さを際立たせているようだ。


 持ってきた両手鞄とやや大ぶりのトランクケースはカミラとステファンが運んでくれた。


「あとから来るお荷物もここへお運びいたしますので」

「あ、いえ。荷物はそれだけです」


 端的に事実を告げると二人の動きが一瞬止まったような気がした。


「……そう、ですか。では、お疲れでなければ敷地内をご案内いたしますがいかがなさいますか」

「助かります。ぜひお願いします」


 いつまでかは分からないがしばらく世話になるところだ。不用意に立ち入ってはいけないところもあるだろうし、知っておいて損はない。

 流れるように案内される中、セフィーナが足をとめたのは中庭の一角だった。周囲は色とりどりの花々が植えられているのに、そこの区画だけ青々としている。


「あれは……薬草?」


 近くまで足を運んで疑いが確信に変わった。

 宮廷の薬草園にもある薬草がいくつも植えられている。生育状況はまずまずといったところで、普段職務のひとつとして薬草園の管理を任されているセフィーナからするともどかしい箇所もあった。

 特に目についたのは雑草だ。ある薬草とその周囲に生える雑草は見た目が非常によく似ていて、ぱっと見では判別が難しい。間違って収穫してしまうだけならいいが、そのまま調合してしまえば薬効が変わることにも繋がってしまう。

 今のうちに抜いてしまおうと手を伸ばしたセフィーナをカミラが制止した。


「お待ちください。こちらはリデッド様がお育てになられているものです」

「しつ……リデッド様が?」

「はい。職務に関することですので我々使用人は手出しを許されていません」


 そしてセフィーナが触っていいという許可は出ていない。そう暗に告げられてセフィーナは伸ばした手を引っ込めた。


「……出過ぎた真似をしてすみません。でも、どうしても見過ごせないところがあるので、リデッド様に直接相談してみますね」

「そうですか。では、次はこちらにどうぞ」


 後ろ髪を引かれながら中庭を後にして、侯爵邸の案内は続く。




「つ、疲れた……」


 思っていた以上に侯爵邸は広く、端から端まで見て回るだけで午後が潰れてしまった。

 セフィーナはあてがわれた部屋に戻り、ソファに座ってようやく一息つく。そのタイミングでお茶が運ばれてきて、そうだ侍女カミラがいるんだったと背筋を正した。


「ありがとう」


 カップを指先でつまみ、そっと口に含む。

 口内に広がる甘い風味から砂糖入りで、疲れた身体に染み渡っていくようだ。鼻に抜ける茶葉の香りが心地良い。熱すぎずぬるすぎない温度といい、さすが侯爵家の使用人はお茶の入れ方も完璧だ。

 音を立てずにカップを戻したセフィーナを見届けて、カミラがおもむろに口を開いた。


「セフィーナ様。ご夕食前に一度着替えになられてはいかがでしょうか」

「着替え?」

「はい。こちらに、ご用意したお洋服がありまして」


 カミラが合図をすると室内にがらがらとワゴンが運ばれてくる。

 洋服と言うが何着もかけられた中にはドレスとしか言いようのないものもあり、セフィーナは圧倒されてしまった。


「えぇ、と……?」

「リデッド様がセフィーナ様にとご用意したものです。リデッド様の隣に並ぶのにふさわしい格好に着替えていただきたく思います」

「…………」


 暗にどころから直球でリデッドにふさわしくないと言われたようなものだが、その通りすぎてセフィーナは反論できなかった。

 セフィーナが持っている服は制服と白衣の他は普段着が数着しかない。買いかえることも少なく、今着ているワンピースも何年も前に買ったもので、家と職場の往復しかしてこなかった人生が透けて見えるようだ。


 貴族の令嬢とは到底思えない身なりの、ただ職場が同じだというぽっと出の女。


 そう思われているのだろうことが十二分に感じとれてしまった。

 仕える相手に対する態度としてはどうかと思うが、それだけリデッドへの忠誠心があるということなのだろう。


「……そうね。わざわざ用意してくださったのなら、そうします」


 セフィーナはにこりと微笑む。

 これくらいは予想の範疇だ。波風を立てる必要はなく、ただ受け流せばいい。

 端から諸手を挙げて歓迎されるとは思っていなかった。契約結婚という半ば騙しているということも負い目に感じて、使用人の態度については目をつぶることにした。



***



 結婚を報告した際にはそれはもう緊張したものだが、第一支部の面々は平然とその事実を受け入れてくれた。


 きっかけは? どこに惹かれたのか? どちらからプロポーズしたのか。


 そんなことを聞かれた時にはどう切り抜ければいいか冷や冷やしていた。けれど蓋を開けてみればあのオリガですらただ喜んでくれるだけで、祝福ムードも一瞬のこと。その後は拍子抜けするくらい変わらない態度にセフィーナの方が面食らってしまった。

 とはいえ変わらないでいてくれるのが一番嬉しくもある。

 肩書が重視される貴族社会で、子爵令嬢から一足飛びに侯爵令息夫人となったセフィーナを妬むような人は第一支部にはいない。

 ――仕事、辞めないで良かった。

 優秀ではあるが一癖も二癖もある変わり者ばかりの中、馴染めるか不安だった新人時代に思いを馳せつつ、セフィーナは今日も粛々と業務に励んでいた。


「ふぅ……これで最後、かな」


 ここは大小並んだ薬務室の建物の小さい方、薬草園。

 ガラス張りの天井から射し込む陽の光を浴びながら、セフィーナは雑草抜きに勤しんでいた。雑用にも思える作業だが薬草園の管理をする以上、雑草との戦いは切っても切れない関係だ。オリガを筆頭に肉体労働を伴うこの業務を嫌う同僚は多く、主に新人の役目となっていたがセフィーナが勤めだしてからは一手に任されるようになった。

 セフィーナはこの一見地味に思える作業が嫌いじゃない。

 手をかけたらかけた分だけ、薬草の生育状況が変わるためだ。薬草が何を必要としているのかがなんとなく『視える』――厭うことが多かったこの『眼』が役に立つこともある。それが嬉しくてセフィーナは薬草園にいる時間が好きだった。

 ずっと下を向いていたために凝った首と肩をほぐすように上を向く。ううんと伸びをしたところで、嘲るような声音が耳に届いた。


「――あら、侯爵令息夫人ともあろう方が草むしりだなんて」

「ベ、ベロニカさん……」


 視線を入り口の方へ向けると高等学校時代の旧友――ベロニカがいた。

 ベロニカは入学式で隣に座っていたという縁で知り合った。学科どころかコースまで同じということが判明して距離が縮まり、それからずっと一緒だった。

 同じ目線で物を見て、一緒に笑って時に泣いてと良き友人関係を築けていたと思っていたのはセフィーナだけだったのかもしれない。


 転機は宮廷薬剤師としての勤務が決まり、名ばかりとはいえ貴族のセフィーナが第一支部、庶民のベロニカが第二支部と配属先が分かれたこと。環境が変わり、思ったように評価されないというベロニカの苛立ちを受け止めているうちに、関係も変わっていく。気付けば修復不可能なまでに距離が開いてしまった。

 そんなベロニカの斜め後ろには焦ったような顔をした小柄な女性がいる。


「なによガリーナ。あなたが薬草園に行くって言うからついてきてあげたのに。セフィーナが第一室長と結婚して、肩書が変わってどうしようって困っていたじゃないの」

「そ、そんなことは……」

「ベロニカ、仕事中は職位以外の肩書は無用のはずよ」


 呆れたように諭すセフィーナに、ベロニカは嘲笑を返した。


「いやだ綺麗事言っちゃって。名ばかりの子爵令嬢サマが玉の輿に乗っただけでしょうに」

「そう、ちゃんと分かってるじゃない」


 セフィーナはベロニカの言葉を繰り返す。


「玉の輿に乗っただけで、わたしはなにも変わっちゃいないわ。今までもこれからも、宮廷薬剤師として職務に励むのは変わらない」


 だからこれまでと同じように接してね、と二人に向けて微笑みかける。

 ほっとしたような顔を見せたガリーナとは対照的に、ベロニカはツンと顔を逸らす。その口の端がわずかに上がっていることをセフィーナは見逃さなかった。


(やっぱり、あれはわざとね)


 肩書き云々を気にするだなんて、ベロニカらしくない。

 おそらくあの言葉は些事にこだわり気後れしてしまうガリーナを気遣ってのことだ。

 プライドの高さの奥に見え隠れする不器用な優しさをセフィーナは身を持って知っている。


(……わたしに向けられることはもうないだろうけど)


 ちくりとした胸の痛みに気付かなかった振りをして、セフィーナは薬草に向き直った。


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