隣の君はあまりにも遠い

オーミヤビ


 ガタンガタンと車体を揺らす、単線電車。

 橙色の暖かい光が車窓から差し込んできて、眠ってしまいそうだ。


 しかしまだ寝まい。

 今日は睡眠の伝道師こと、国語の先生の授業があったからもう十分に睡眠は取ってあるのだ。


 

 光の暖かさに若干の熱さを感じて、ワイシャツの袖をグイッと捲る。

 

 そういえば、あの時もこんな時期だった。

 カラッとした真夏でもなく、梅雨のようなジメッとした暑さでもない、あの感じ。


 もう1年も経つのか。

 光陰矢の如し、とはいったものだ。



 18時の帰宅どきだというのに、この電車に乗り込んでいるのは僕以外に居ない。

 もう慣れてしまってはいるけれど、改めて田舎だなぁと感じてしまう。


 高校の最寄駅で乗る電車には袋詰めのように人がいるのに、この電車はまったくの伽藍堂だ。

 車両数も当たり前に2両だし、1駅だけの移動でも所用時間は10分以上。

 そのくせして運行数も少ないのだから、一本逃した時には軽く絶望する。


 こんなところから都内の学校に通うと、やっぱり田舎コンプレックスになってしまうのだけど………それでもいいかな、と思えてしまうことが僕にはひとつだけある。



 キイィィンと悲鳴みたいに甲高い音を出し、ガタンと車両が停止する。

 その揺れと共に、僕の鼓動も1段階大きくなる。

 シューッと音を立てて開いたドアから、新たな風と共にひとりの女の子が乗り込んできた。

 

 風に乗って甘い匂いが流れてきて、余計に心臓の音は止まらない。

 乗り込んできた女の子は、チラリと僕に一瞥を送った後、髪を揺らしながらストンと隣の座席に腰を着地させた。


 同時にまた、フシューッと蛇が威嚇するみたいな音を立ててドアは閉まり、僕ら2人だけを乗せた列車は動き出す。


 「ヤッホ」


 よく通る軽快なその声を聞くと、いっつもドキドキしてしまう。

 ただの挨拶みたいなものなのに、なんて答えようかと最初の頃は頭を巡らせたものだ。


 「うん、今日は一段と暑いね」


 「んね〜。もう夏が始まるよぉ」


 パタパタと暑がるジェスチャーを見せる彼女に、僕はつい笑みを溢れる。

 退屈な田舎の電車の中で、僕にとっては何にも変え難い時間が始まる。


 

 彼女を初めて見かけたのは、新学期が始まるであろう時期のある日だった。


 今のように空っぽな、高校からの帰りの電車。

 ほぼ人目がないみたいな状態の中で、割とくつろぎながら揺られていた。


 友人のひとりでも一緒に乗っていればマシだけれど、そこそこ長い時間を独りで過ごすのは割と耐え難い。


 寝過ごさないよう細心の注意を払いながら、うつらうつらと睡魔に身を預ける……


 そんな中のある日、彼女は散った桜の花弁と共に、僕の乗る車両に乗ってきた。



 切り揃えられた宝石みたいな黒い長髪を風に靡かせ、肌はやや小麦色。

 コロコロと愛らしい眼と、全てを透けて通すような眼差し。


 身に纏う制服は、僕の住む町のひとつ隣にある高校のものだ。

 快活な雰囲気とは反対な、落ち着いたグレーのセーラーと、チェックのプリーツスカートがよく似合っている。


 気持ち悪いくらいに見ていてしまったわけだけど、正直言って一目惚れだった。

 眠気なんて一発で吹っ飛ばすくらいに、僕にとって彼女は衝撃的だった。


 ……とはいえ、全く知らない状態でそんな気持ちを伝えることなんてできやしない。

 でも知り合おうと話しかける勇気はない。

 そもそも、僕に気づいてすらもらえていないかもしれない。


 そんな風にないないないない、と躊躇っていた。

 もともと引っ込み思案な姿勢だったのもあるけれど、一抹の希望をどうしても捨てたくなかったのだ。


 それからは月日が経って。

 遂にようやく、去年の夏の終わりの頃に、ありったけの勇気を出して彼女に話しかけた。


 もはや相手にされる希望は薄いだろう。

 でも、彼女ならあるいは……。


 僅かな期待を乗せたその声は、なんと驚くべきことに、彼女に届いた。

 なんて声をかけたのかはもう忘れてしまったけれど、彼女が振り向いてくれた瞬間は今でも鮮明に思い出せる。


 まるで信じられない、奇跡のような瞬間に感じられた。

 彼女がまんまるな眼を更に丸めるものだから、僕の方も驚いてしまった。


 最初はお互い戸惑っていて、声をかけた僕自身が久々な会話に焦っていたこともあり、会話は弾まなかった。


 それでもお互い高校生、話を聞いてみれば同級生ではないか。

 異性間ではあるものの、いやだからこそ、僕たちが打ち解けるのは思ったよりも早かった。


 心の距離を縮めた僕らは、それからいつも隣の座席に並んで座るようになり、目的地まで数十分はある長い道のりを共に過ごすようになった。


 話す内容といえば別に大したことはない。

 今日のテスト面倒だったとか、近くのカフェが良かっただとか、過去にこんなことがあっただとか。

 

 他愛もない、本当に目的のないこと……でも、僕にとってはそれでも最も大切に感じられることばかりであった。彼女の話すことはどれも、どんなに達者な芸能人よりも海外の美しい楽器よりも、心が安らぐようなものだった。


 僕はいよいよ、僕史上最大の恋に落ちてしまっていることを実感した。

 恋と自覚した恋をしたことがないから、一言で言えるわけじゃないけど……。

 でも、どう考えたって一世一代の恋だと思った。



 ……しかし、その恋路は今一歩進歩していないとも感じていた。



 「───でね、手相を占うっていうから手を見せたんだけど、その子、元気はあるけどお金はない、なんて言われちゃって!」

 

 「あはっ、なんか嫌だなーそれ」


 「でしょ?その子も嘘!?って膨れちゃってた。面白かったなぁ。

  ……あ、そうだ!君の手相も見せてよ!私ちょっとくらいなら見れるんだ!」


 「え…っ!?」


 ずいっとこちらに寄ってきて、手を見せるように煽ってくる。

 それに合わせてつい、僕は彼女の反対方向に体をのけ反らせてしまう。


 「い、やぁ〜。僕はまぁ、今度でいいかな。あんまりアテにならないしさ」


 「え〜、絶対面白いと思うんだけどなぁ。意外と生命線がめっちゃ長いとか」


 そうぼやくように言う彼女を見て、僕は苦笑するしかなかった。


 それなりに長い時間過ごしてきたわけだけど、僕は未だに彼女に触れたことがない。


 性格や普段の話を聞くに、彼女はボディタッチの多いタイプで、実際僕にも結構触ってこようとしてくる。

 ただ、僕はどうしてもそれを毎回避けてしまうのだ。


 触られたくないとか、そういうわけでは断じてない。

 しかしどうしても、精神が動揺すると言うか、勇気が出ないと言うか、そんな感じでいつも引っ込んでしまう。


 たった十数cm程度に縮まった距離だというのに、どうしても僕は触れられない。 


 こんなことを聞かれたら、誰にでも意気地なしと言われてしまうだろう。

 でももう、それが僕の特性となってしまっているのだから仕方がない。


 そうやって言い訳しながら、いつも通り会話を進める。


 「そういえば、うちの近く、海があるんだけどさ」


 「えーっと、⬛︎⬛︎⬛︎だっけ。今の時期くらいだと結構観光客来るよね」


 「そうそう。結構前に友達と一緒に行ったことあるんだけどさ。ひとりがふざけて泳いでたら、ライフガードさんが来ちゃってね。遠巻きに見てたんだけど、その友達がめちゃくちゃ怒られてて、ちょっとだけ面白───」


 そこまで喋って、僕は口をつぐむ。

 いつも明るい彼女の顔が、今ばかりは陰ってしまっていたからだ。

 晴れだって天気に、急に曇り空が広がったような、そんな感じに。


 「ごめん、私、海とかプールとか苦手でさ。前に溺れたときから………」


 ヒヤリと全身が冷えるのを感じた。

 頭の中が、ただ一番触れてはいけないことに触れてしまった、と後悔でいっぱいだった。


 「いや、違くて……。その、ごめん、そういうつもりじゃなかった、君を傷つけようとか不快にさせようとか思ったんじゃなくて」


 慌てて僕はそう言った。

 そしてできる限りに話題のハンドルを全力で切った。


 どうにかこうにか彼女の気を紛らわせようと、あれこれ話しまくる僕の姿は、側から見れば滑稽だったことだろう。

 幸い、彼女以外の目に入ることはなかったけれども。


 最終的に、その友達と手花火をして、火をつける用の蝋燭で儀式ごっこをしたという変な話をしたところで、ようやく彼女の表情の曇天が晴れた。


 「ふふ、君、めっちゃその友達好きじゃん」


 いつものように、イタズラっぽく彼女は笑ってみせる。

 それを見て心底安心すると共に、少し小っ恥ずかしいことを言われて耳が熱くなるのを感じた。


 「あぁ、いやまぁ。小学校からの付き合いだしね」


 「えー、もうそれ親友じゃん!私もそういう友達いるよぉ。あ、それでいったら前にね───」


 彼女はすっかり調子を取り戻して、彼女の親友のエピソードを語り始めた。


 ようやく僕にも笑顔が戻ってきて彼女の話を聞いていたのだけれど、その内容に僕は昔を回想した。


 僕には、親しい友と呼べる存在はさほどいない。

 先の友人以外となると、そうそう思いつかないし、相手がどう思ってるのかもわからない。

 そんな風に、変な謙遜…ともいえない卑下をして自ら遠ざかっていた。

 今思ってみれば、ずいぶんと勿体無いことをしたなぁ、と思う。


 一方、彼女の話に出てくる友人は、おそらくどれも別の人物。

 友達という定義が異なっているだけなのかもしれないけど、それでも彼女の周りにはたくさんの人がいるのだろうとわかった。

 やっぱり僕とは住む世界が違うな、と痛感してしまう。

 

 しかしそれでも、僕は良かった。

 ただ、彼女の瞳に僕が映っているということだけで十分じゃないかと、そう思ってしまうのだ。

 

 それが例え、彼女にとっては複数の内のひとりであったとしても。

 彼女との距離が、近いようで途方もなく遠く離れているとしても。

 

 それで満足してしまうのは、やっぱり僕が恋愛に向いていないからだろうか。

 ……いや、ただ意気地なしなだけかもしれないが。



 ひとしきり話をして、少しの静寂が訪れる。

 彼女との沈黙はどうしても嫌なのだけれど、この時が近づく度に、僕は言葉を失ってしまう。


 太陽は水平線に溺れ、電車内の明かりも暖かな夕陽から無機質な青白い灯が支配し始める。

 

 車窓の向こうで、深まった闇の中でぬっと浮かぶ墓石が高速で流れていく。

 まるでこの電車を迎え入れるかのように。


 徐々その流れがゆったりと遅くなっていき、遂にはヒィィィンという甲高い悲鳴みたいな音を出して電車は停車した。


 『空ヶ崎うろがさき。空ヶ崎』


 平坦で機械的なアナウンスが車内に流れる。

 それと同時に、重々しく音を立ててドアが開いた。

 

 この駅周辺には、『空ヶ崎霊園』というこの辺では大規模の霊園が構えている。

 寺院なども点在しており、はそれほど多くない町。


 それが彼女が帰り、眠る場所。


 「……じゃあ、また、明日」


 「うん……。またね」


 音もなくシートから立ち上がり、彼女は車両から降りていく。


 こう言う時に、気の利かせた一言でも言えば、僕の友好関係は広がっていたのかもしれない。

 しかしそんなことができるはずもなく、僕はそっと手を振り返しながら、その後ろ姿を見送った。


 やがて、次元を遮断するかのように、冷徹な音を立ててドアは閉まる。

 窓の向こうに、彼女の寂しそうな笑顔が見える。


 堪えきれず、それに近づこうと立ちがったところで、ギッギギッと重苦しい音を立てながら電車が動き出した。


 あっという間に加速していき、儚げに微笑む彼女が墓跡と一緒に反対方向へと呑まれていく。

 どれだけ後退方向を見ても、闇が付いてきているばかり。


 数秒経ったころには、もう彼女を視界に入れることはできない。

 目を凝らしてドアに縋り付いていたけれど、もはや意味はない。


 もう諦めてシートに戻ろうとする。

 そこで、彼女のいた跡に、季節外れの萎れた桜の花弁が寂しそうに残っているのを見つけ、僕はぐっと目元を拭った。



 僕らは、出会うことのない関係だった。

 もう、住む世界が違うのだ。

 端的に言って、あの世とこの世が交わる可能性などゼロに等しい。


 しかしなんの因果の噛み合わせか、僕らは帰りの電車内という条件下で出会うことができる。


 時間にして、18時から19時。

 逢魔時といったか。


 彼女が魔なのか、僕が魔なのか。


 いっそもうどうでもよくなるけれど、それが魔と魔でない者僕と彼女が巡り合うことのできる、唯一の条件だった。



 甘い香りも萎びた花弁もとうに何処かへ行ってしまった、伽藍堂の電車内。

 僕は、律儀に目的地を待っている。

 もう意味もないのにそうするのは、無意識に僕が僕たるために努めているからかもしれない。


 ギッギッと音を立てて、また電車が停車する。

 ぶるぶる振動して開こうとするドアから、足音も立てずホームへ降り立つ。


 トロトロと歩きながら、僕は帰路についた。



 「ただいま」


 玄関から家に入ると、返事の代わりにあたたかい空気と匂いが僕を出迎えた。

 

 リビングに入ると、台所で夕食の支度をするお母さんが見える。

 お気に入り歌手の歌を鼻歌しながら、そそくさと準備している。


 こういう機嫌が良い日は、決まって特製の肉じゃがが出てくる。

 祖母から伝わる料理法で作るらしいけど、詳しいことはわからない。

 ただ、美味しいということだけが確かだ。


 台所を除くと、すでに4人分のご飯が用意されていた。

 味噌汁、肉じゃが、焼き鮭、サラダ、ご飯。

 僕が一番好きなラインナップ。


 お母さんが三つめのお椀に白米をよそっているところで、玄関の扉が開く音がした。

 予想的中とでも言わんばかりの笑みを母が浮かべる。

 「ただいま」と言いながらリビングに入ってくるお父さんの顔にも、笑顔が溢れている。

 

 「お、今日は肉じゃがか」


 「そうよ、あの子大好きだったしね」


 テキパキ着替えや手洗いを済ませたお父さんが、食事を机に並べる。

 そこで、階段から足音が降りてきて。


 「父さん、お帰り」


 「おう。もうご飯だから手洗っとけ」


 降りてきたのは、僕の弟だ。

 二つ下で、中学3年生。

 思春期真っ只中だったけど、あれからは親孝行の良い子になっている。

 兄としても鼻が高いと言うものだ。キッカケはまぁ……、仕方がないけれど。


 「それじゃ、いただきます」


 「「いただきます」」


 母、父、その向かいに弟が座って、食事を始める。

 もちろん、そこに僕が加わることはない。


 きっと、母さんのことだし用意してくれてるんだろうけど。

 もう良いのにな。


 歓談する3人の元を離れ、上の階の自分の部屋へ向かう。

 扉を通り抜けて部屋へ入ると、ある種の違和感に気づいた。


 「また、掃除してくれたんだ」


 もう使うことはないのに、やっぱりお母さんは律儀な性格だ。

 そこが、大好きな理由でもあるんだけど。


 机に向かうと、自分でもよく笑ってると思う写真が立てられており、その横に3人と同じ食事が並べられていた。


 線香も一緒に立てられているが、先端がまだ赤らんでいて温かい。


 こういうのは火事の元になる。

 やっぱりちょっと抜けてるんだよな。


 そんなことを考えながら、ふっと種火と煙を吹き飛ばす。


 煙が影って、写真の中の僕が心なしか寂しそうに見えてくる。

 そして実際の僕もまた、寂しくそれに対して微笑を浮かべていた。


 ふと、カレンダーを見やる。

 やはりというべきか、最新の物に交換されていて。

 明日の日付に、真っ赤な字で─────。



 「もう、一周忌か」


 光陰矢の如し、とは言ったものだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

隣の君はあまりにも遠い オーミヤビ @O-miyabi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画