ビルの屋上は銀河

十余一

望郷房総

 地球温暖化やら何やらで海面が上昇した結果、千葉県は水没した。千葉県だけが水没した。

 千葉県は四七都道府県の中で唯一、五〇〇メートルを超える山が無かった。国土地理院の資料「旧版・都道府県の最高地点」を見てもらえばわかるが、北海道大雪山たいせつざん二二九一メートル、青森県岩木山いわきさん一六二五メートルなどと続き、千葉県は、なんと愛宕山あたごやま四〇八メートル。文字通り桁違いの低さだ。更に読み進めると富山県立山たてやま三〇一五メートルなんて文字が目に入る。なんだそれ。もうほぼほぼ富士山じゃん。

 そんなわけで、海面が四〇〇メートル以上も上昇した現在、千葉県だけが水没して姿を消した。

 低地なうえに水けが悪いせいで雨が降るたびに冠水し、水の都ヴェネなんて揶揄されていた県都も今や無人の海底遺跡。冠水した線路を爆走しスプラッシュマウンテンみたいになっていた新京成しんけいせい電鉄も永久に運転見合わせだ。さすがに鉄道で海底二万マイルはできない。火山が噴火し新しい土地でも作ってくれないかと期待したが、それも流石に無理だったみたいだ。千葉県に火山なんか存在しないって? あっただろう、ネズミが支配する夢の国にプロメテウス火山が。ランドじゃなくてシーのほう。

 まあ最高地点というのは山の話で、大抵の場合、人々はもっと低いところで暮らしていた。東京都心や大阪平野だって標高はせいぜい十数メートル程度。台地でも五〇メートルにも満たない。そんな場所は真っ先に沈んだ。まさか江戸川区の直球すぎる水害ハザードマップが活用される日が来るとは思わなかった。「ここにいてはダメです。浸水のおそれがないその他の地域へ」って本当にその通りすぎる。でも、そもそも大都市圏はほとんど沈んだ。大都市圏どころか日本の七割近くが沈んだ。県全域が水没したのは千葉県だけだが。

 ちなみに現在の首都は松本市だ。長野県の県都にすらなれなかった松本市が、今や日本の首都である。それから諏訪すわ佐久さく小諸こもろなど、元より海抜の高い位置にあった都市が栄えている。大都会長野だ。西では大阪に代わり熊本県阿蘇あそ市が主要都市の地位を得た。東の松本に西の阿蘇。こうなることを誰が想像しただろう。

 日本は細々とした島に分断され、あるいは山谷に隔てられ、移動はもっぱら空路に頼りきりだ。そうして人々の関心は上へ上へと向けられ、期待はそらに届こうとしている。軌道エレベーター建設計画だの月面都市構想だの、いかにも未来的な響きを持つものたちが実現するのもそう遠くはないらしい。だから誰も彼もが、以前より宇宙に少しだけ近くなったビルの屋上で、星空を眺めているのだろう。減少したとはいえ国民は八千万人を超え、僅かな土地にひしめいている。人々が住まうには、海に追われた国土は狭すぎた。

 けれども俺は上を向く気になんてなれなくて、移住先の日光から遥々一三〇キロも南下して、今に至る。定員一名の小ぢんまりとした潜水艇はゆっくりと海へ潜っていく。操縦席である透明な球体は、背後以外が青色に塗りつぶされた。目指すは海底都市ヴェネチバだ。

 途中、太陽の光を反射してきらめく魚が悠々と潜水艇の前を横切った。元千葉県の領空を我が物顔で泳ぐ魚め。今すぐさばいて食ってやろうか。郷土料理のにしてやろうか。ネギや生姜と一緒に刻んで叩くぞ。挙句の果てには紫蘇しその葉を貼って焼いてサンガ焼きだ。

 そうこう考えているうちに、足元には青くけぶるビル群が広がる。潜水艇は一際ひときわ高い建物の天辺へ降り立った。確かここはホテル&リゾート東京ベイとかいう宿泊施設だったはずだ。それにしても千葉県には東京と名のつくものが多すぎる。このホテルや、ららぽーと東京ベイは旧東京湾のほとりにあるからまだ理解できる。だが東京ディズ二ーランド、東京ディズ二ーシー、東京ドイツ村、新東京国際空港、他諸々。千葉としての自我を失いすぎだ。もっとも今となっては県域全土を失ったが。

 海底に沈んだ懐かしの我が故郷。俺は千葉県だった場所の、水深およそ二〇〇メートルに居る。ここから先は光の届かない深海だ。俺が生活していた街は仄暗い海の底で沈黙している。

 海上ではそろそろ日が暮れる頃だろうか。潜水艇の周りも徐々に暗闇に包まれていく。が、そこで不意に光るものが現れた。青白く光る無数の点が漂っている。潮の流れに左右されているのか、それとも泳いでいるのか。寄せては引き、集まっては散じ、夜空を埋め尽くす星のように輝く。

 俺の脳裏に、小さな水槽の中で光るウミホタルが蘇った。千葉県と神奈川県を結ぶ東京湾アクアライン。そのパーキングエリア“海ほたる”で展示されていた、あの輝きだ。本来ならこの水深に生息しているはずがない。別種の何か、あるいは海中で大きな変化でもあったのだろう。たぶん。知らんけど。だが今はそんな事どうでもいい。地上で見るのがまたたく星なら、海中で見えるのは揺らめく星だ。今はこの幻想的な瑠璃るりの銀河を目に焼き付けたい。


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