物書きと小さい犬
増田朋美
物書きと小さい犬
その日も特に暑い日で、なんだか頭から冷たい水でも被って体を冷やしたいと考えてしまうほど暑い日であった。なんだか北海道で35度を超えるなど、どうも変な日が続いているのである。それではおかしいと警告する人も居るが、普通の人達は自分の生活で精一杯で、何も気をつけることはできないというのが実情だろう。そういうことができないことによって、心とか体とか病んでしまう人も少なくない。もう本当にメチャクチャな世の中というのが、平気で現れている様な気がする。
そんな中、犬の散歩というものは、まず初めにしなければならないのである。犬もあつそうだなと思うけど、いかないといけないので、杉ちゃんと市子さんは、バラ公園でたまの散歩をしていた。
たまも足が悪いので、後ろ足を引きずり引きずり、ノロノロと歩く散歩ではあったけれど、一応、市子さんが引っ張って歩けるほどちゃんと歩いて居るので、やっぱりいかなくちゃならないね、なんて杉ちゃんたちが話していた所、反対方向から、一匹の犬を連れた女性が歩いてきた。
「あら、珍しいね。狆を飼っているなんて。」
と、杉ちゃんが言うと、
「この子のことわかりますか?よくペキニーズとか、キャバリアに間違われて、困っていたんですよ。」
と、女性はにこやかに笑った。
「ええ、わかりますよ。日本原産のワンちゃんですけど、最近はあまり飼育されてないですよね。かえって西洋で人気になっちゃって、逆に珍しがられるくらい。可愛いですね。」
市子さんは、そういった。
「ちなみに、狆と言うのは、小さい犬というのが略されてつけられた名前だそうですね。」
「よく知ってらっしゃいますね。あたしがこの子を飼い始めて、まだ一年程度なんですけど、すっかり家族の一員になって、あたしもこの子の世話係として、役目を与えられました。まあ、どうせ仕事をしていない、役に立たないって、家族にも言われてるから、この子を飼ってみたことで、それを免れてます。」
と女性は恥ずかしそうに言った。
「そうなんですか。それでは、今は何もしないでお家に居るのですか?」
市子さんがそう聞いてみると、
「ええ。そうなんです。この子の世話をしています。あとは、ちょっとしたエッセイとか、そういうものをインターネットに掲載したりとか。そういうことばかりなので、もうすっかり私は何の取りえもない、地球のゴミと言われてます。」
と、彼女はそう答えるのであった。
「つまり、居場所がなかったということですか?」
市子さんが聞くと、
「ええ。そういうことです。居場所もないし、そこへ行く手段もない。自転車も乗れないから、歩いていくしかなくて。だから、もう人生すべて終わってしまったかなと思っているんです。」
と、彼女は答えた。
「そうなんですね、じゃあ、僕たちもお前さんの仲間になるから、お前さんの仲間が大勢いるところへ行ってみない?」
と、杉ちゃんが言うと、
「でも宗教関係とか、そういうものは、私はちょっと。」
彼女は嫌そうに言った。
「うーんそうだねえ。そういうところじゃないんだよな。それよりも、お前さんが居場所がなくてつらいことを、話したり、語り合ったりできる場所だ。もし、そういうところに来てみたければ、ぜひ、こっちへ来いよ。うちでぼんやりしているより、どっか他のところに言ってたほうが、ご両親も喜ばれるよ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうですよ。良ければそのワンちゃんも一緒に連れてきてくれたっていいんです。ときにペットを連れて来る人もいますからね。それにこの製鉄所の看板犬のたまも、穏やかで優しい子ですから。」
市子さんが、その黒と白の斑犬をながめながら言った。たまはもうその黒白のワンちゃんとすっかりなれてしまったようで、そのワンちゃんの隣に座っている。ちなみにイングリッシュ・グレイハウンドのたまは、狆のさん倍くらいの大きさがあった。
「そうなんですか。うちの五郎ちゃんが、他の子と仲良くできたとは思いませんでした。そういうことなら私、その施設に行ってみようかな。確かに家の中にいても、つまらないなって思うときありますし。」
女性が何かを決めたように言った。
「そうか。じゃあお前さんの名前を教えてくれ。そういうことなら、施設はここから5分もかからないよ。ちょっと見学してみない?お家の方には、買い物に行ったとでも言えばいいのさ。ちょっと覗いて見るだけでいいんだ。行ってみよう。」
強引な杉ちゃんは、にこやかな顔で言った。たまも、小さな犬の隣で、静かに座ってくれている。
「ええ。私は塩川と申します。名前は塩川秀美。それで、この子は先程も言いました通り、塩川五郎です。」
と、彼女は自分の名前を名乗ってくれた。
「はい、ありがとうございます。塩川秀美さんね。じゃあ、ちょっと製鉄所を覗いてみよう。こっちへ来てくれ。」
杉ちゃんは、車椅子を方向転換させると、どんどん移動して行ってしまった。市子さんも、一緒に来てくださいと言って、彼女を連れて行った。
「ただいまあ。今日は新入会員を連れてきたぞ。なんとも、ものを書く女の子だ。一緒に過ごしてかわいがってやろう。」
杉ちゃんは製鉄所の玄関の引き戸をガラッと開けて、彼女を製鉄所の中に入れた。応答したジョチさんは、
「はじめまして、こちらの施設の管理人を任されています、曾我正輝です。よろしくお願いします。」
とにこやかに笑って言った。
「すごいですね、こんな暑いのに、皆さん着物を着ているんだ。」
秀美さんは、思わず言ってしまった。
「いやあ、意外に着物の方が涼しいものです。正直に言ってしまうと足が悪いので、洋服はなかなか着られないということもあるんですけどね。でも、着物ですと体にまとわりつく面積が少ないのでたしかに涼しいんですよね。」
とジョチさんが言うと、
「そうなんですか。男性の着物というと、なんかおっかない人に見えちゃうけど。」
秀美さんは驚いて言った。
「いえいえ、そんな事ありません。元々着物は日本で定着していたものですから、日本の暑さに対する工夫がしてあるんですよ。その代わり冬は寒いですけどね。でも、絽とか紗とか、そういう夏の生地もたくさんありますし、夏に対していろんな工夫をしてあるんだなと思われる着物も多いんですよね。」
ジョチさんがそう言うと、秀美さんはそうなんですか、ととても面白そうな顔をした。
「こちらを利用する人達は、みんな着物の方が多いのですか?私も、なんだかそんな事を言われたら、着てみたくなりました。着物ってすごいお高いイメージあるけど。」
「ああそれは大丈夫。数百円で買えることもあるから心配しないで。一式着るものを用意したとしても、一万円で揃っちゃうよ。」
杉ちゃんがそう言うと、
「そうなんですか!へえ、みんな着物を着ていらっしゃるから、なんだか着物を着てみたいと思いました。」
秀美さんはとてもうれしそうに言った。
「もし、着物屋さんにいってみたいんだったら私が付き添うわ。それが面倒だなと思ったら、インターネットで買ってしまうのも一つの手よ。」
市子さんが、タブレットを取り出して、リサイクル着物と書かれた画面を見せると、
「そ、そうなんですか!それならわたしも着物を着てみたいです。そんなことならぜひ。よろしくお願いしますよ。」
秀美さんはそういった。
「だって、着物を着ていたら、ぜんぜん違う自分になれるじゃないですか。そうなれたら、私も何もしていないだめな人間というレッテルから、解放されるわけですし。」
「着物を着られる方は皆同じこといいますね。中には通信制の高校へ着物で行ったという人もいました。なんか昔の女学生かと人に笑われたようですが、それでも彼女は着物で高校に通っていました。」
ジョチさんは、彼女に言った。
「いいじゃないか。早速着物一枚買ってさ。楽しい生活をここで過ごしてみなよ。少なくともここではおまえさんの事を、働いていないだめな人間と言ってバカにするやつはいないよ。」
杉ちゃんがそう言うと彼女は、文句なくそうさせていただきますといった。そういうことなら、と言って、市子さんが、リサイクル着物の通販サイトを彼女に見せた。
「初めて着物を買うんだったら、女性は小紋がいいよ。普段着として着るんだったらね。」
市子さんが見せた画面は、小紋を通信販売で売っているサイトだった。小紋は全体に小さな柄を入れた着物のことである。主として普段着とか、気軽な外出着に用いられる着物である。
「これがいいわ。なんか可愛い感じだもの。」
秀美さんは、市子さんの見せてくれたタブレットの画面を指さした。赤に小さな菊の花を全体に入れた着物で、可愛い感じのする着物である。値段は一枚1000円で、安すぎるのではないかと思われた。その着物と、いわゆる作り帯を呼ばれる結び目を形作った帯を買っても2000円。そして、長襦袢や腰紐などを買っても、一万円を超えることはなかった。足袋や草履のほうが、着物とか帯より高いなと思わせたくらいである。
「注文した時間が早かったから、明日にはつくそうだわ。早いわね。今の通信販売は。」
市子さんがにこやかに笑うと、塩川秀美さんは嬉しそうな顔をした。
「じゃあ、明日ここに届くそうだから、楽しみに待っていて。」
「はい!」
塩川さんは、とてもうれしそうに言った。
そして翌日、塩川秀美さんが五郎くんを連れて製鉄所にやってきた。市子さんがお届け時間を午前中と指定してくれたため、お昼食の直前に着物が宅配便で届いた。市子さんに着物の着方を教えてもらうと、塩川さんは意外に簡単なのねという感想を漏らした。そして、市子三さんと一緒に長襦袢を着付けてみて、そして着物を着て作り帯をつける。そして鏡を見た塩川さんは、
「まあすごい!自分じゃないみたい!」
と言ってしまった。
「ほら、五郎ちゃんがお前さんのこと惚れ直したと言ってるように見えるぞ。」
と、杉ちゃんが言った。
「あのすみません。原稿を書いてもいいですか?」
「原稿ってなんだよ。」
塩川さんがそういう事を言いだしたので杉ちゃんがすぐそれを聞く。
「ええ、もちろん小説の原稿です。今着物を着ることで一つ小説が思い浮かびました。もう書かずにはいられない性分なので、書かせてもらえないでしょうか?原稿を描くためのレポート用紙をいつも持ち歩いているんです。そんな老けたことよりも、タブレットやスマートフォンに書いてしまう人が多いんですけど、私はちゃんと手書きで描くようにしているんです。」
塩川さんはとてもうれしそうに言った。
「今書かずにはいられないとおっしゃいましたね。それはずっとあるんですか。あなたが急にひらめいてしまうような。」
と、ジョチさんが聞くと、
「ええ、そうなんですよ。思いついたらすぐに書いてしまうんです。どこでもかけますよ。図書館でも、喫茶店でも、風呂屋のくつろぐスペースでも。」
と塩川さんは言った。
「じゃあ、一度書いてみてください。そういう性分を持っていることは、それは小説家として向いていることが伺えます。」
ジョチさんがそう言うと、
「ありがとうございます。テーブルと椅子を貸していただけませんか?」
と、塩川さんが言うので、市子さんが彼女を食堂へ案内した。製鉄所の食堂は、利用者が合同で勉強したりすることがある。塩川さんはそこのテーブルに座ると、レポート用紙を取り出して、一生懸命なにか書き始めた。その書く速さはとても速かった。文字はきれいな字では無いけれど、でも一生懸命書いている。
一時間ほど経って塩川さんは椅子から立ち上がって、
「はい、かけましたよ。レポート用紙七枚の短いお話ですが、今日は着物を着せてもらってとても嬉しかったので、すぐに書いてしまいました。そうやってすぐに書けるときもあるし、できないときもあるんですけど、今日はすごい嬉しかったのですぐに書かせていただきました。でも、下手の横好きで、あんまり上手では無いですけどね。」
と、レポート用紙を、ジョチさんに渡した。ジョチさんはそれをすぐに読んでくれて、
「いや、これは下手の横好きではありませんね。起承転結もちゃんとあり、読みやすい文体なので、小説として成り立ちますよ。どうでしょう、これを何処かに公開してみるということはできませんか?」
と彼女に言った。
「出版ですか?でもすごいお金もかかるんでしょう?」
塩川さんはそう言うと、
「はい。出版という形でなくても、今は電子書籍として出す例もあります。例えばインターネットには説明文がすごくたくさん掲載されているじゃないですか。それを書いてみるとかして、文章を書くのを仕事としてやってみたらどうでしょう。なんだか、こんな文章がかけるというのは、もったいない気がするんですよ。何かの役にたてると思うんですよね。」
ジョチさんがそういった。
「つまり、クラウドソーシングとかですか?」
市子さんがそう言うと、
「そうですね。それでも良いですし、文学賞とかに出したことはありますか?」
と、ジョチさんは聞いた。
「いえありません。自信がなくて。」
塩川さんはそう答える。
「それなら、一度クラウドソーシングで仕事としてやってみたら良いと思いますよ。書くことは何でも良いのです。インターネットには文章を書く人を求めているサイトが一杯ありますからね。それを探してみて、それで、やってみるのも悪くないと思います。」
ジョチさんがそう言うと、塩川さんはわかりましたといった。市子さんがすぐにクラウドソーシングのサイトを開いてみて、これではどうでしょうかとか、塩川秀美さんに見せた。初心者大歓迎とか、着物にまつわる記事の執筆というクラウドソーシングの求人要件は結構たくさんあるものであった。文書一作に500円とかそのくらいの安い値段であっても、塩川さんは仕事ができるならやってみたいといった。市子さんにアカウントの作り方を教えてもらってクラウドソーシングに登録し、早速、着物にまつわる記事を募集している案件へ問い合わせてみた。詳しい事情も聞かれることはなく、塩川さんはすぐに採用された。それは、着物にまつわる短い物語を書いてくれという募集案件で、着物屋の宣伝文句にするために、文章を募集しているという。
「仕事ができるんだったら何でも良いんです。とにかく私は、仕事がほしいんです。仕事何もしていないで、家に居るのは本当につらいので。」
と塩川さんはタブレットを動かしながら言った。
それから数時間、塩川さんは着物にまつわる小説を執筆した。確かに書くのは速く、5000文字など、一時間程度でかけてしまった。もちろん、手書きのレポート用紙に書いて、それをタブレットに内蔵されているグーグルドキュメントで文章を打ち出すのである。パソコンが無くてもそういうアプリで文章をかけるツールがあるのは嬉しいことであった。もちろん相手のクライエントさんからの返事も待たなくては行けないのであるが、塩川さんは、とりあえず提出できて嬉しいと言った。
その次の日。塩川さんは、予定通り製鉄所に来訪するはずだったが、いつまでも製鉄所に現れない。タブレットで連絡を取ってみたが、それにも出ない。何をしているんだろうと杉ちゃんたちが心配していると、玄関先に白に黒の斑がついた小さな犬がやってきたので、
「あれ?このワンコちゃんは、確か彼女の犬だよな?」
と、杉ちゃんは思わず言った。すると五郎くんは、こっちへ来てくれといいたげな顔をして道路を歩き始めた。杉ちゃんと市子は、すぐにそれを追いかけた。
塩川さんは、ばら公園のベンチに座っていたが、なんだか偉くぐったりしているみたいだった。市子さんが塩川さんと声をかけると、呂律が回らない口調で、はいと返事をする。つまり熱中症になったのだろう。市子さんはすぐに彼女を背中に背負って、近くの病院まで運んでいった。そんな力自慢の市子さんが、この製鉄所にいてくれてよかったものであった。幸い、市子さんが運んでくれたので、大事には至らず、点滴を打ってもらって買えることになった。塩川さんはまた市子さんに背負われて製鉄所に戻りながら、
「ごめんなさいね。仕事がやっともらえると思って、着物屋へ取材に行こうとした途中だったのよ。」
と、市子さんに恥ずかしそうに言った。
「いやあいいのよ塩川さん。誰だって張り切りすぎて最初は体調壊したりするわよ。」
市子さんは、そう言ってあげた。製鉄所の人達は決して人に迷惑を掛けてとか、そういう嫌味を言わないことが、良いところだった。市子さんに背負われて、製鉄所に戻ると、とりあえず、居室に運んでもらって、そこでよく休むといいわよと市子さんはやさしくいった。杉ちゃんが後でおかゆさんを食べさせてやるぞと張り切っていた。数時間経って、杉ちゃんがおかゆを持ってきたときは、塩川さんはとても恥ずかしそうにしていたが、
「まあ、恥ずかしがらないで食べろや。食べないと力が出ないからな。」
と、杉ちゃんはカラカラと笑った。塩川さんは嬉しそうにおかゆを口にした。
「良くなったら、必ず物書きのしごとに戻れよ。お前さんは、本当に書く才能を持ってるんだからな。きっとこれに懲りずに仕事を探していけば、なんとかなれると思うよ。僕、読めないけどさ、お前さんがそういう才能あるんだなってことは、よくわかったから。」
と、杉ちゃんが言うと、
「そうですか。今までくだらないことばっかりやって、なんて、家族には言われてましたけど。」
塩川さんは恥ずかしそうに言った。
「いやあ、やめろと言われてもやめられないのは才能でもあるんだな。」
と杉ちゃんはカラカラと笑う。塩川さんは、おかゆをガツガツと食べて、
「ありがとうございます。あたしはこれからも、書いていかなくちゃ、行けない性分だと思うわ。それを自分の悪いことにしないで、なにかに役立てられる日がやっと来たってことですかね。それは、着物に出会わなければ、起こらなかったわ。」
と、照れ笑いを浮かべて言うのだった。
物書きと小さい犬 増田朋美 @masubuchi4996
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