相想相慈の2人

鈴ノ木 鈴ノ子

そうしそうじのふたり


 小学5年生の夏休みのことだった。

 中学2年生の姉の部屋から異音が聞こえてきた、物が落ちてくるような音と、微かながら姉が苦しんでいるような声のようなものだ。


「どうしたんだろう」


 いつも静かに生活している姉のことなので、小さな物音も今まで立てたことなどない。

 ここまで明瞭に聞こえてくる音など本来はありえないことだなと不振に思った僕は、少し思案をした末に、部屋を見に行くことを決意した。

 若干の思案と決意が必要であったことは、思春期に入った姉のために気を使ったのだ。


 2階の自室のドアを音を立てずに開くと直線のフローリングの廊下が見える。その突き当たりにはトイレへ続く扉があり、その両端に2つの扉があった。片方は母の部屋で、もう片方の可愛らしいキャラクターのプレートがドアに吊り下がっているのが姉の部屋だ。

 音が消えて静まり返った廊下を、いわゆる、抜き足、差し足、忍び足、で音を消しながら静かに歩いてゆく。

 ふと、廊下に目をやると不気味な違和感が転がっていた。ブラウン色のフローリングの上に白い砂でできた靴跡があった。ちょうど先週に小学校で避難訓練があった際に上履きのまま外へと非難し、運動場から教室へ戻るときの足を拭き忘れた同級生の廊下にできた跡にそれはよく似ていた。もちろん、大きさは大人の男の人ほどの大きさだったけれど、その足跡が姉の部屋の前まで続いている。 

 扉の前までくると僕は強烈な違和感を感じた。

 いつもは性格がにじみ出るくらいに几帳面に閉じられている扉が、ほんの少し、ほんの少しだけ、開いていて中で何かが動いているように見える。

 近寄りこっそりと覗き見た途端、いきなり目の前に姉の顔が現れて視線が合う。

 怒られるかと一瞬目を瞑ったが、なかなか声が来ずに目を開くと苦痛と快楽を混ぜ込んだような、普段見せることのないだろう、異質に歪む表情で涙を流している姉がいた。視線が再度交わった途端、驚愕した表情へと顔を変えた姉が、赤い線のような血が垂れている口元、今考えれば殴られていたのだと思うが、その痛々しい裂傷のある唇から、「部屋に隠れて、お願い」と必死の形相で呟いた。

 直後、姉の顔が扉に2、3回ほどぶつかりながら前後した直後、激しく痙攣をした姉がぐるりと白目をむいてその場に崩れ落ちた。それを見て呆然とした意識の底から溢れるように恐怖が湧き上がると、僕は逃げる様に自室へと戻りベッドの下へと体を震わせながら隠れたのだった。

 

 どれくらい経ったのだろうか、やがて音が響いてきて、それが僕には廊下を歩く靴音であることが、はっきりと理解できる。必死に息を堪えながら震える体を必死に隠している僕の耳に、足音とは別の、何かを大きなものを引きずる音が混じりこんでいることに気づいた。

 途端、大切な姉のことが頭いっぱいに浮かぶ。

 姉を助けなければきっといなくなってしまうと別の恐怖が思考を支配してしまうと、直ぐに体の震え収まりを見せベッドから這い出た僕は武器となるものを探してあたりを見渡した。やがて、両親に頼み込んで買って貰ったばかりの模造刀を手に取った。

 切れ味などはないことは理解している、だが、刃先は鋭利であり、依然に見た動画投稿サイトで肉を刃先で突き刺す実験を行っており、それは見事にしっかりと貫通していた。

 柄のひんやりとした感触は今でもしっかりと覚えていて、鞘からゆっくりと身を抜き払うと、模造刀ながらに立派な波刃を持った刃が金属の光沢を放っていた。

 勢いのままにドアを開く、今まさに目の前に下卑た笑みを見せる小太りの男が階段を降りていくところであった。その右手に流れるように美しい髪の毛を乱暴に鷲掴みにされ、引き締まって運動神経抜群の陶器のように綺麗でしなやかな裸体の至る所に痣や傷を負わされて、苦悶の表情を浮かべる姉がぐったりとして床を引き摺られているところであった。

 

 見た途端、頭に血がすべて昇った。

 瞬間的に意識の全てが白で塗りつぶされていく。覚えているのは大人のような雄たけびを上げたくらいだろうか。

 

 怒りに身を任せ、憎しみを力に変えて、柄を両手でしっかりと握りしめると、刃先を子供とは思えぬ速度で相手の心臓のあたりとへ向け、そのまま相手に突き刺さすように真っ直ぐに床を蹴った。

 ズプリ、と独特の感触と共に刺した相手が階段を転げ落ちてゆき、僕もまた共に階段を転げ落ちた。幸運だったのは姉を掴んでいた手が離れたことだ。

 階段を下った先にある廊下に背中から叩きつけられるように落ちたものの、全身に痛みは不思議となく、直ぐに立ち上がり姿勢を立て直して鋭い視線で相手を見る。目の前には小太りの男が胸に模造刀を突き立てたまま、口から血を垂らして驚愕したままの顔でつまらない天井を色彩を欠いた目で見上げて事切れている。

 怒りに任せ、生きているのかも確認するために頭を2、3度ほど、反応を探る様に軽く蹴るがピクリとも反応することは無い、息遣いも聞こえてはこない、相手が襲い掛かってこないことに安堵感を覚えると、姉のことをすぐに思い出し、死体となったソレを踏みつけるようにしてその場を離れ2階へと駆け上がった。

 

 ぐったりとしたままの姉に駆け寄り、激しくではないけれど左右に揺すって姉の名前を叫んだ。


「加奈姉!しっかりして!」


 その声にうっすらと虚ろな目を開けた姉が、震える様な声で僕の名前を呼ぶ。


「勇一…隠れて…、逃げなきゃ…だめ」


 僕を逃すためだろう、突き放す様に手を伸ばした姉の手を擦り抜けて、しっかりと姉を守るように抱きしめる。


「大丈夫、悪い奴はいなくなったよ」


 不思議だった、普段、あるがままに話している僕なのに、その時は言葉を考えて話をしていた。「悪い奴はやっつけたから」と言ってしまえば、姉が更に怯えて傷ついてしまうに違いない。姉にこれ以上の不安を与えまいと必死だった。

 

 日常には起こり得ない、もちろん、あってはならない非日常の世界が僕の頭を冷静にしたのかもしれない。


「私、汚いから、離れて」


 震える声で話す姉は、ぐったりとしていても僕の抱きしめ手をもがくように振り払おうとする。


「やだ、離れない」


 言葉と両手に更に力を込めながら応えた。

 やがて、廊下の時計がいつも通りの時報を知らせると、予定通りに仕事から帰宅した母親によって、警察と救急車が手配されるまで、永遠のような恐怖から解放され、長い長い苦痛の時間を過ごして痛々しく泣きじゃくる姉を必死に抱きしめ続けていた。

 

 それからが僕にとって地獄の幕開けとなったことは確かだろう。

 姉を救った男の子、事件の内容は伏せられたが、そう持て囃される度に、何度罪悪感に苛まれて、その度にトイレの白い便器に吐瀉物をまき散らしたか分からないほどだ。

 姉に言われるがままに逃げて、姉が陵辱されているのにベッドの下で助けを呼ばすに震えていた情けない僕、全ての苦しみを一心に受け終え事後になってようやく犯人へと立ち向かい、しかも、奇跡的な一撃で助かっただけだ。

 大切な姉は計り知れない苦痛と人としての尊厳を蹂躙されたというのに、しかも、姉は半身不随となってしまい今は車椅子生活だ。引き摺られた際に犯人から蹴り飛ばされてそれが脊髄を損傷に至らしめたらしい。

 

 その姿に、何度も、何度も、苛まれた。


「助けてくれてありがとう、勇一」


 そう言って僕の頭を撫でる姉のお礼を聞いた帰り道、僕は自ら命を絶ちたいと思えるほどに絶望した。できることなら変わってあげたかった。僕が身代わりになるから、姉を両足で立てる様にしてくださいと、通学路の行き帰りにある大きな神社で、毎日、毎日、拝んだ。それがまた誤解を生みだす、姉のために祈る良い子だと地域で話題になったらしく、母が褒めてくれたが、それを虚構の笑みで取り繕って笑いながら、夜に自らのお腹を何度か殴った。

 もちろん願いは聞き入れられることはなかったけれど…。

 姉は強い人だから、地獄以上の想像を絶する被害を受けていても、それが元で生活が一変してしまっていても、家族や心配する友人達には変わらぬ笑顔で笑っていた。それはとても自然な笑顔で不自然さも備えていて、いつも通りの姉がそこにいることにすっかり慣れてしまったが、それが誤魔化して耐え忍ぶ姿なのだと気が付くいたのは、僕の中学3年生の夏休みが終わる頃だった。


 受験勉強のために必死に塾と自室で勉強をしていた僕の耳に、女の啜り泣く声が聞こえてきた。しとしとと雨が降る様に、静かに、静かに、それが聞こえてきて、僕はゆっくりと自室の扉を開けた。白色に張り替えられて壁紙も替えられたフローリングの床が見えたが、その先に姉の部屋はない。今は物置となって家族でも入るものはほとんどいなかった。階段などの配置はそのままだが、大規模なリフォームで家は改修されていて、前の建物と同じとは思えぬほどに変化していた。ゆっくりと足音を消しながら階段を下っておりていくと、バリアフリーとなって大きく間取りされた玄関近く、そこに新しい姉の部屋がある。室内にも室外にも出やすく、また、車椅子移譲が自分でしやすいようにとの配慮からだ。奥の方が良いはずなのに、自ら手入れした植物を見たいからと姉が希望してそこになったのだ。


 泣き声は、はやり、姉の声であった。


 引き戸を声も掛けることも、ましてやノックすらもすることなく、勢いのままに開け放った。

 無地の白色のワンピース姿の姉は床に腰を下ろして座り、ベッドに背中を持たれかけるようにして、姉がそこに佇んで泣いていた。鍾乳石から流れ落ちるほどの透明な悲しみの涙を滴らせ、草原の草が風に揺れるような低い泣き声を漏らしていたのだった。

 あの後から姉の服の趣味は変わった。シンプルなワンピース姿が多くなった、足を隠す様にデニム生地のスカートを履いていた。だが、今は履いておらずワンピースから出た筋肉を失った細く色白の足がそこに見えている。

 その脇に、小さなナイフがひっそりと冷たい刃を外へと出したままで床に転がっていた。


「み、見ないで!」


 突然開いた扉に振り向いた姉がそう言うか言わないかのうちに、僕の体は勝手に姉の側へと駆け寄って、両手でがっしりと姉を掴んで抱きしめていた。

 同情などではない、ただ、ただ、耐え忍んでいた姉を、ずっと、ずっと、1人で泣かせてしまっていた罪悪感と、抱え込んで今日まで耐えてきた姉の健気さと気遣いが、どうしよもなく愛おしく思えて、気がつけば姉の体温を間近に感じていた。


「バカ、なんで、なんで来たの!ほっておいてよ、私なんかほっておいていいのに!あんな…!」


 そう言って黙った姉は、ついで口を開くと、あとは今まで聞いたことがないほどの罵詈雑言を吐き連ねた。

 堰を切った川の流れのように、涙を川の濁流のように荒々しく流しながら、抱きしめる僕の背中を力一杯激しく叩いては、僕のあの時の行動を責める様に叱責し、友人達と両親を呪い殺すほどに深い深い呪詛のような恨み辛みを、その口元から吐き出していく。

 失ったものは途方もなく大きくて、それは本人でなければ理解することはできないのだと、改めて悟った。

 僕はただ抱きしめたまま、背中の痛みすら覚えることもなく、姉の言葉を一言一句聞き漏らすまいとした。いや、実際はそんな格好の良いことではない、聞くことしか出来なかったというのが正しい。昼の日差しが夕暮れの陽ざしと変化して黄金色の光が姉の部屋にも差し込んできた頃、姉の口数は減って行きすべてを吐き出し終えたのだろうか、やがて、途切れた。

 僕のシャツは月日の涙を吸い続けてじっとりと濡れている。姉が溜め込んでいたものを具現化しているかの様にも思えた。


「ごめんなさい…」


 小さな声で姉が謝った。


「謝らないで、姉さん」


 僕は姉を抱きしめたまま背中に手を回しゆっくりと、ゆっくりと、摩り続けていく。

 やがて、可愛らしい安息を得たような寝息が聞こえてきた。

 抱きしめたまま姿勢をずらして僕は床へと座り込むと、姉の体を横たえたのちに、安らかに寝息を立てている姉の頭を膝枕をするように自らの太ももへと載せた。

 綺麗な寝顔には、少しだけかもしれないけれど、どこか安堵したような雰囲気を感じたのは間違いではないだろう。

 あたりはすっかり陽が落ちて真っ暗な闇が部屋を包んでいた。

 夜目に慣れた僕の目はしっかりと姉の顔を見つめていた。やがて、少し目が震えるとその瞼がゆっくりと開かれていく。僕を見つめた姉が嬉しそうに、本当に嬉しそうに、満開の花のような笑みを浮かべた。

 

「勇一、ありがとう…」


 暫くして姉がそう声を漏らした。昔の姉のような優しい視線が僕を見つめている。


「謝らないで、姉さん…」


 ゆっくりと首が左右に触れて、僕の次の言葉を姉さんが指を唇に当てて、言わないでと制した。次の言葉をぐっと飲みこんで僕は唇とを閉じた。

 

「たくさん、たくさん、酷いことを言ってしまって…聞かせる必要のないことまで、聞かせてしまったもの…」


「いいんだ。姉さん、僕の前でなら、何を言っても構わない、いや、言ってほしい」


 真剣に視線を合わせ、互いに見つめたまま、僕はそう言い返した。


「じゃあ、一つだけ、お願いを聞いて…」


「なんだって聞くよ、きちんと叶えてあげたい」


「本当に?後悔しない?」


「しないよ」


 深く頷いた僕に、姉は嬉しそうに微笑みを浮かべ、そして僕の頬を優しく、いや、愛おしそうに柔らかな指でなぞる様に触れた。触れた温かさが心地よくて、何とも言えない気持ち良さだった。

 

「キス、して」


「いいの?怖くない?」


「他の人は怖いの、頑張ったけど、男の人は今でも怖い。でも、勇一ならいいの…、いや、誤魔化したらダメだよね。勇一がいいの…。お願い…」


 悲壮な声から最後は艶やかな声に聞こえ、僕は姉さんの柔らかな唇に自らの唇をゆっくりと合わせてゆく、初めは柔らかな口付けだったけれど、やがては絡み合うように変化し、互いに男女となって癒す様に触れ合いよりも丁寧なキスを交わした。


 その日、僕の中で大切な姉は、大切な女性へと成ったのだった。

 

 高校から大学へ、そして今は社会人として働いている僕と姉、東京に2人で引越し、そして手を取り合う様に助け合いながら暮らしている。

 姉の希望職種にも、首都の街であれば多少のハードルがあっても務めることができた。


「ただいま」


 仕事を終えて自宅マンションの扉を開けてそう言いながら帰宅すると、バリアフリーの廊下の先に室内着を着て、柔らかく愛おしい微笑みを湛えた加奈が出迎えてくれた。

 膝の上には転居してしばらくしてから拾った三毛猫の風太が心地よさそうに欠伸をしている。


「おかえり、ご飯作ったから着替えてきて、一緒に食べよう」


「ありがとう、すぐ行くね」


 靴を脱ぎ、一通り汚れを落としてから靴箱へとしまう。

 玄関脇にある自室の扉に向かおうとすると、音もを出さない様に車椅子を進め隣まで来た加奈が、僕に抱きついてきた。

 風太は抗議することもなく姉の膝の上で寝息を立てている。


「ただいま、は?」


「はい、ただいま」


 互いに近づくようにして、唇を触れさせ合う。ゆっくり見つめ合い、僕は加奈の頬をゆっくりとゆっくりと愛しむ様に撫でる。手のひらに猫のように甘える仕草で顔を寄せてくる姿に、なんとも言い表すことのできない気持ちが駆け巡ってくる。


「着替えたら、すぐにいくね」


「うん」


 部屋に入りスーツの上着を脱ぐ、ハンガーに掛けて吊るしながら、ネクタイを緩めて優しく扱いながら、シワを伸ばしてネクタイハンガーにかけた。

 何十本のうちの数本は自前だが、それ以外は加奈がプレゼントしてくれたものが大半だ。

 反対に加奈はネックレスやブレスレット、指輪のすべて僕がプレゼントしたものを律儀な性格の通り、毎日、身に着けてくれている。


 僕達の関係は世間から見れば異常と見做されるだろう。

 

 でも、僕は最後まで添い遂げる覚悟があるし、互いにももう離れることはない。


 誤解があってはいけないから付け加えておくが、加奈と肉体関係には至っていない。

 あの事件から、それに興味を失ってしまったのだ、性を失ったと言っても過言ではないだろう。

 何を見ても、聞いても、誘われても、僕の体は反応しない。

 

 同じ布団で眠り、たまに風呂に連れ立って入り、泊まりがけの旅行にも行く。

 

 でも、その行為には至ることはない。


 加奈はそれをひどく心配して誘うような仕草を何度かみせたけれど、それに触れることがあっても、加奈の心は落ち着いていたとしても、身体はそれを拒絶するかのように全身を強張らせるのが直ぐに分かる。

 

 それは恐怖の残滓と称してもいいだろう。

 

 きっと、これからも、これから先も、変わることはない。


 だが、それ以上に最愛以上となった人が身近にいてくれることが嬉しい。


「まだかな?」


 引き戸が少し開いて加奈の少し困ったような、待ちくたびれたと言ったような顔が見えた。その下には暇なのだろうか、鳴き声を上げて僕を呼ぶ風太がいる。


「はいはい」


 室内着に着替えて引き戸を開けると花のように美しい笑みを浮かべた親愛の姉がそこにいた。


 

 

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相想相慈の2人 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki

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