5章(6)
八年の月日は、アウストルを変えるのに十分すぎる長さだった。
メルフェリーゼが十八歳になるまでにアウストルはユルハ王国軍の指揮官となり、一年の大半を戦場か軍部で過ごすようになった。
重税を取り立てられている村から、さらに男手を徴兵している現状に嫌気が差すこともある。いっそ、なにもかも投げ出してしまおうと思うことさえあった。
思い浮かぶのはメルフェリーゼの顔。記録によれば、彼女の父親もまた徴兵されたことがあるらしいが、後方支援だけで無事に家に帰り着いている。徴兵が原因ではないことには胸を撫で下ろしたが、メルフェリーゼが貧民窟に住んでいることには変わりない。
心が冷えて固まりそうになった時、必ずメルフェリーゼの勇敢な姿を思い起こした。彼女を嫁に迎えることだけが、アウストルの生きている理由だった。
マーリンドとロワディナの間にも、二人目の子どもが産まれた。二人目も、女児である。アウストルはまたしても姪の顔を見ることもできず、産まれた子が公爵家の養子になったことを知った。
もし自分とメルフェリーゼの間に子が産まれて、それが女児であったら――アウストルはなに不自由のない生活をさせてやりたいと思う。きっとその子は、メルフェリーゼに似て可愛らしく、強さを兼ね備えているはずだ。
十八歳になったメルフェリーゼはとても美しかった。着慣れないドレスに戸惑っているようではあるが、貧民の出にも関わらず、第二王子の花嫁としてふさわしい品を備えていた。
アウストルの心も浮足立つ。形ばかりの結婚式を終えたら、いよいよ彼女を――。
式の最中。ぽろり、と彼女の頬を伝い落ちた涙に、アウストルは伸ばしかけていた手を止めた。
なぜ泣いている? 王族になれたことが泣くほど嬉しいのか? それとも……。
薄いベールに覆われた彼女の顔を見て、ぎょっとする。そこに嬉しさや喜びといった感情はなにひとつ見い出せなかった。
あるのは緊張と、不安と、そして悲しみだった。声も上げずに涙を流すメルフェリーゼの顔を、アウストルは式の最中だということも忘れて食い入るように見つめる。二人を置いて、時間だけが流れていく。
気づいた時には、華々しい結婚式は終わりを告げていた。アウストルは一度もメルフェリーゼに触れることも、声をかけることもできないまま、侍女にメルフェリーゼの世話を押しつけてその場を後にする。
自分がひどい勘違いをしていたことを、アウストルは自覚せずにはいられなかった。
◇ ◇ ◇
着替えを済ませ、自室から中庭を見下ろしていたアウストルは、足音と扉の開く音を聞きつけて振り返った。
見ると、憎たらしい笑みを浮かべたマーリンドが立っている。彼の言いたいことを、アウストルは半ば察していた。
「どうだ? 八年も待って、国王を怒らせてまで手に入れた女は」
マーリンドの戯言など、聞く必要もない。彼はアウストルの心を抉りに来ただけだ。分かっているのに、マーリンドが次になにを言い出すのか待ち構えている自分がいる。
黙って宙を見つめるアウストルに歩み寄り、マーリンドが親しげに肩を叩く。
「お前も結局、私と同じなのだ。なあ、アウストル?」
「黙れ……っ」
「黙れときたか。同じ女に惚れた者同士、仲良く――」
「黙れ! 今すぐ、俺の前から消えろ!」
アウストルは手近にあった花瓶を払い落とすと、割れた破片を拾い上げ、その切っ先をマーリンドの首に向けた。
彼は面白いものを見た、というように手を叩く。しかし、それは称賛の拍手ではない。滑るように足音もなく兵士が現れ、あっという間に花瓶の破片をアウストルから取り上げる。
マーリンドの勝ち誇ったような笑みが、脳裏に張りつく。
「お前が死ねば、あの女は私の妾にしようと思っているのだがな」
マーリンドが部屋を去る。呆然と座り込むアウストルの周りで、侍女が気遣わしげな視線を投げかけながら花瓶の破片を片づけていく。マーリンドの呼んだ兵士も、いつの間にか姿を消していた。
マーリンドに言われなくとも、わかっていた。自分は、あの時メルフェリーゼを手籠めにしようとしたマーリンドと同じことをしている。王族という権力でもって、第二王子の妻という立場に縛りつけて、彼女を自分のものにしようとした自分のどこが、マーリンドと違うというのだ。
アウストルはただ、メルフェリーゼに幸せになって欲しかった。他人のためにいとも容易く自分の命を投げ出せてしまう彼女を、自分の手で幸せにしたかった。あんな肥溜めのような貧民窟ではなく、城で不自由のない生活を送らせてあげたかった。
すべてはアウストルの自己満足でしかなかったのだ。彼女から住み慣れた家を奪い、家族を奪い、友達を奪い、貧しくも幸せな日常を奪い、無理やり城に連れてきて叔父ほども歳の離れた男との結婚を強要した。
結婚式の時のメルフェリーゼの顔を思い出せ。少しも幸せそうではなかった。あの目は、八年前にマーリンドに向けた目と同じだったじゃないか。
こみ上げる嫌悪に、アウストルは床を殴りつけた。
結婚式を挙げてしまった以上、もう取り返しはつかない。今さら結婚を取り止めて家に帰すなど、彼女を無為に傷つけることになってしまう。娘と引き換えに大金を手にした母親は、メルフェリーゼが帰って来るとなると、彼女を虐げるかもしれない。
アウストルの思考を断ち切るように控えめなノック音がして、侍女が扉の隙間から顔を覗かせる。
「なんだ?」
侍女はアウストルの荒れ具合にぎょっとしたようだが、すぐに気を取り直して表情を戻す。
「初夜の準備ができたことを、お伝えしに参りました」
結婚式の後にすることといえば決まっている。メルフェリーゼはもう少女ではない。十八歳の立派な女性だ。世継ぎを産むことだってできる。
もし、自分との間に世継ぎが産まれなかったら。マーリンドが次の国王に即位して、ロワディナが男児を産み、アウストルは用なしになったら。
彼女を、無垢なまま解放することができるのではないか?
メルフェリーゼに求められているのは、王位継承者を産むことだけだ。マーリンドが即位し、ロワディナが王位継承者を産めば、メルフェリーゼの役目はなくなる。制度上は彼女のほうから、アウストルに離縁を切り出すこともできる。
ドゥアオロ王も高齢だ。上手くいけば、彼女が三十歳になるまでには解放してあげられるかもしれない。
アウストルが手を出さなければ、彼女は男を知らないまま城を出られる。城を出たら、同い年くらいの男と結婚すればいい。本当に心から愛した男との間に子をもうけて、幸せに暮らしたらいい。
メルフェリーゼに触れてはいけない。言葉を交わすのも、最低限にしたほうがいいだろう。夫婦仲が冷え切っているように見えたほうが、離縁の話も進みやすいし、いつまで待っても世継ぎが産まれる可能性がないことを周りに知らしめられる。
「初夜はいい」
アウストルの言葉に侍女が戸惑いの表情を浮かべる。
「世継ぎに興味はない。分かったら、さっさと寝室を片づけてこい」
侍女はなにか言いたげに口を開いたが、アウストルに睨まれて怯えながら部屋を後にした。
それでいい。世継ぎなど望まない。メルフェリーゼに愛されることなど、望まない。
彼女の幸せのために、俺はこの茨の道を選ぶ。
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