5章(7)
「お前がカイリエンと城を出ようとしていると聞いた時……安堵した。ようやく、お前を自由にしてやれると思ったんだ」
長い話になるから、といってアウストルが淹れてくれた紅茶はすっかり冷めきっている。
メルフェリーゼは冷えた紅茶を啜って、アウストルの話を頭の中で反芻した。
アウストルは決して、メルフェリーゼを愛していないわけではなかった。むしろ誰よりもメルフェリーゼのことを思い、メルフェリーゼのために自身が醜聞に塗れることもいとわなかった。
愛と呼ぶには不器用で、目に見える形ではなかったかもしれない。その形が分からずに、メルフェリーゼは幾度もアウストルに傷つけられたと思っていた。けれども、たしかにアウストルはメルフェリーゼを愛していたのだ。十年前からずっと、アウストルはメルフェリーゼのためだけに生きていた。
そして、今も――。
「日に日に、お前のいない生活に耐えられなくなった。あんなにお前の幸せを願っていたのに、俺は……お前が他の男のものになることが、許せなかった」
向かいに座っているアウストルが、思い詰めたような目でメルフェリーゼを見る。その視線の鋭さに、メルフェリーゼは身震いを抑えられなかった。
アウストルの愛情は、いつしか執着に形を変えていた。メルフェリーゼを手放すことなど、考えられなくなっていた。
十年の歳月を経た重すぎる愛に、メルフェリーゼは狼狽える。そして同時に、言いようのない悲しみに襲われた。
「どうしてもっと、早くに言ってくださらなかったのですか……」
アウストルの心を知っていれば、メルフェリーゼもこんなに傷つくことはなかっただろう。せめて自分を遠ざける理由を話して欲しかった。世継ぎを望まない本当の理由を、話して欲しかった。
言葉が足りないばかりに、メルフェリーゼはアウストルを殺して自由になりたいなどと思ってしまったのだ。すべてを知っていれば、メルフェリーゼがアウストルに毒を盛るようなことはなかったはずだ。
アウストルが冷え切った紅茶のカップを取り上げる。
「なにを言っても、お前を傷つけると思ったんだ。結婚してすぐに妻としての役目は果たさなくていいなんて言ったら、どんなにお前を傷つけるかと思って、言えなかった」
なにもかも、メルフェリーゼのためだったのだ。今となってはそれが手に取るように分かる。
それでも、メルフェリーゼは思った。はじめから知っていれば。こんな未来にはたどり着かなかったはずなのだ。
ユルハ王国内において、第二王子のアウストルはすでに亡き者として扱われている。メルフェリーゼも行方不明ということにはなっているが、実質死んだも同然の身だ。
「なぜ、アウストル様は自分が生きていることを主張しなかったのですか? 国葬までされてしまって――」
「これでいいんだ」
席を立ったアウストルがメルフェリーゼに歩み寄り、そっと抱きすくめた。壊れものを扱うかのような優しい手つきでメルフェリーゼのブロンドの髪を梳く。
「ユルハ王国の第二王子は死んだ。第二王子の妻も、死んだ。ここにいるのは、ただの男と女だ」
「それは、どういう……」
身体を離したアウストルがまっすぐな目で、メルフェリーゼを見つめる。真摯なまなざしに、メルフェリーゼの心臓がどきりと跳ねる。
「これは王族としての命令ではない。王族としての俺は死んだ。強制力もない。一人の男の言うこととして、聞いて欲しい」
アウストルはメルフェリーゼの前に跪くと、彼女の痩せた手を取った。すらりとした手の甲に口づけ、メルフェリーゼの顔を見上げる。
「俺と、結婚して欲しい」
アウストルの偽りない言葉が、メルフェリーゼの胸を深く抉る。
「もう……」
答えようとしたメルフェリーゼの声が震える。
「もう、結婚して二年になりますよ」
メルフェリーゼの頬を伝う涙を、アウストルはそっと指先で拭った。結婚式の時は黙ってメルフェリーゼを泣かせるままにしていたアウストルが、今は手を伸ばして彼女に触れている。
メルフェリーゼはソファーから崩れるようにして、アウストルに抱きついた。がっちりとした胸に顔を埋め、大きな手のひらに背中を撫でられながら、子どものように声を上げて泣く。
ずっとせき止めていたものが決壊したように、メルフェリーゼは心に溜まった澱をすべて吐き出すように泣き続けた。アウストルも彼女を自分の膝に座らせて、自分は冷たく固い床に座っているというのに文句のひとつも言わずに受け止めてくれる。
ひとしきり泣いた後、メルフェリーゼはぐずぐずと鼻を鳴らしながら顔を上げた。手のひらで優しく涙を拭われて、やわらかな翡翠色の瞳に泣き腫らした顔のメルフェリーゼが映る。
「返事は決まったか?」
優しく問われて、メルフェリーゼはうなずいた。
「まずは二年分、ちゃんと愛してください」
アウストルがメルフェリーゼの額に口づける。彫像のように美しい端正な顔に、あどけない笑みが浮かんだ。
「言われなくても。お前が嫌というほど、愛してやる」
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